● ダグラス・マッカーサー〔アンサイクロペディア〕 |
1880年、軍人である父の任地であったアーカンソー州リトルロックの兵営内の宿舎で生まれた。父のアーサー・マッカーサー・ジュニアも軍人であり、重度の中二病患者である。父の「戦争やりてえ」「人刺してえ」といった中二病発言や酋長怪獣ジェロニモとの一騎打ちの話を聞かされて育ったダグラスは、ほかの同胞たちが、程度の差はあれ、父を反面教師にしたのに対して、それらの話を真に受け、自分も軍人になろうと決意する。 |
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今年、東京裁判の判決によってA級戦犯が処刑されてから65年目の年を迎えた。
だが、今日になっても、日本の戦後体制を決定した東京裁判について論争が果てしなく繰り広げられのは、その解釈をめぐって様々な未解決の問題が横たわっているからであろう。
例えば、平成20年に航空幕僚長を解任された田母神俊雄空将が先の戦争に対する政府見解(村山談話)に異論を唱え、大きな話題を呼んだように、東京裁判を肯定するか否かによって日本の戦争責任や戦後体制の捉え方が全く異なってくるのである。
こうした中で、これまであまり議論されてこなかった、もうひとつの未解決の問題が存在する。
それは、戦後の日本で真しやかに語られてきた「東京裁判をやらせたのはマッカーサーだ」という見方であり、マッカーサーは偽善的で無責任であるという負のイメージである。
その根拠は、マッカーサーは回想録で、当時の国際法では規定されていない「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい法律を後から制定して裁くことに対して厳しく批判しているにもかかわらず、自分に与えられた「減刑権」を行使せずにA級戦犯を処刑しまったことにあるが、その理由は、マッカーサーに与えられていた「減刑権」が形式的なものに過ぎず、実際には行使できなかったことにある。
マッカーサーは戦後、マニラで行われた山下大将・本間中将の戦犯裁判も、同じ理由で有罪判決を受け入れるしかなかったが、例えば、映画『私は貝になりたい』のモデル、加藤哲太郎元陸軍中尉のC級戦犯裁判のように政治裁判ではない裁判については、自分の権限を使って減刑している。
ところで、当時の日本の新聞は、マッカーサーがA級戦犯の2名を救うために、米連邦大審院(米連邦最高裁)に対して、死刑判決を再審するための訴願提出を許可したにもかかわらず、米連邦大審院が米政府の圧力で、その訴願を却下したことを正直に報じている。
では、なぜ当時の新聞は、そのことを正直に報じることができたのであろうか。
その理由は、マッカーサーが米政府の司法への干渉を批判するために、GHQに真相を暴露するよう命じたからだと思われる。
実は、GHQによる東京裁判批判は、これだけではない。
戦後の日本では占領期間中に、「マスコミによる東京裁判批判は全くできなかった」という見方が定説となっているが、当時の新聞、雑誌および書籍を調べると、占領当初から東京裁判に対する批判は、間接的な表現をとっていれば、あるいは直接的な表現であっても、検事側の法理論もバランスよく論じていれば、自由にできたのである。
さらに昭和25年10月に行われたトルーマン大統領とのウエーク島会談で、マッカーサーは東京裁判を批判する発言を行ったが、そのことを翌年の5月4日付の新聞で公表した新聞社の数は、全国54社のうち、実に43社(79.6%)にのぼっている。
では、なぜ全国の新聞は、「東京裁判は誤り」などのタイトルで、そのことを公表できたのだろうか。その原因として考えられるのは、マッカーサーがGHQに命じて全国の新聞にリークさせたことである。
マッカーサーが東京裁判を批判したのも、経済制裁で日本を戦争に追い込んだ戦勝国アメリカが日本にだけ戦争責任を押し付けて裁けば、日本人に怨恨感情が生まれるだけで、将来の戦争の防止にはなりえないことを悟っていたからだと思われる。
確かに、戦後の日本と米国には、マッカーサーや東京裁判について書かれた書物や映画はおびただしいが、それらに対して偏見を持つことなく、その真実を正しく伝えたものはあまりにも少ないし、中には作り話が定説となっているものさえある。
その理由は、わが国の歴史教科書を見ても分かるように、戦後、東京裁判の真相が封印されていることにあると思う。
著者は、東京裁判を批判したマッカーサーの真意を再検討することで、歴史のタブーであるマッカーサーに対する負のイメージにあえて挑戦し、新たな「マッカーサー像」を作り上げたと思っているが、いずれにせよ、著者の発見した歴史的資料からも分かるように、東京裁判には、いまだに解明されていない問題がまだまだ残されていることは確かであろう。
日本人が本書を通じて、東京裁判がもたらした誤った歴史認識から脱却して、失われた自信と誇りを取り戻すための一助となれば幸いである。
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Atsuko Yamamoto🇯🇵
@piyococcochan2
シカゴ・トリビューン紙 1945年8月19日
日本、1月に和平を要請。使節団、東京へ向かう
ルーズベルト、日本の提案に関するマッカーサー報告を無視
ウォルター・トロハン
米国における検閲規制がすべて解除されたことにより、7ヶ月前の日本からの最初の講和提案がホワイトハウスに伝えられたことを報告することが可能になった。
故ルーズベルト大統領が1月の最終週、チャーチル首相、スターリン元帥とのヤルタ会談に出発する2日前、後任のハリー・S・トルーマンがその後締結した条件と同一の日本側提案を受け取っていた。
マッカーサーからF.D.へのメッセージ
マッカーサー元帥は、5つの異なる申し入れに基づく日本の提案を、40ページに及ぶ通信文書としてホワイトハウスに伝えた。バターンに凱旋したばかりのアメリカ軍司令官は、日本側の申し出に基づく交渉を促した。
マッカーサーから伝えられた申し出は、天皇の身柄以外のすべてを放棄することであった。この提案は、天皇がアメリカ軍の傀儡になることを日本側から持ちかけたものであった。
日本の5つの申し出のうち2つはアメリカ経由で、3つはイギリス経由で行われた。
これらはすべて裕仁天皇に責任を持って行動する日本人が行ったものだ。
将軍の通信は却下された
ルーズベルト大統領は、「マッカーサーは我々の最も偉大な将軍であり、最も稚拙な政治家である。」とマッカーサーを批評した。
マッカーサーの報告書はヤルタにも持ち込まれなかった。しかし、この報告書は最高司令部のファイルに大切に保存され、その後、日本の降伏を求めるトルーマンとアトリーのポツダム宣言の基礎となった。
この日本の和平提案は、マッカーサー通信がここに届いた直後、シカゴ・トリビューン紙とワシントン・タイムズ・ヘラルド紙に伝わっていたが、それは公表されなかった。
Atsuko Yamamoto🇯🇵@piyococcochan2
原爆を何としても落としたかったんやな。だからそれまで情報統制して、日本が降伏を申し出ていたことを隠し続けた。
なんとか譲歩して和平への扉を開こうとしたマッカーサーを、ルーズベルトは「稚拙な政治家」と揶揄した。
アメリカの戦争は政治だ。今も昔もそうだ。世界を見たらわかるじゃないか。
ほたて屋!店長の雑談@NoizyRadioST
ルーズベルトは生粋の差別主義者だったって言いますからね
その上、政策なんかまるでなく、なんとしても原爆実験をしたい軍と、多額の開発予算のケリを付けたい財務省の突き上げに堪えられないトルーマンが、国際法無視して投下命令を下したのが原子爆弾
マッカーサーが日本に同情するのもよく解る
Merlinax001@merlinax001
アメリカはロシアに核爆弾を見せつけるために、降参したい日本を無視して原爆を落とした。2回も。このことは、(特に政府嫌いの)20%くらいのアメリカ人が知っています。
Nakamura Shori@ShoriNakamura
イギリス経由の日本の申し出というのは、イギリス王室を通したのもですよね。
歴史は、知るほどに残酷なものであると思います。
mamesan@beanthunder
やっぱり原爆落としたかっただけの虐札者である証拠
ざいじ@ZaijiKun02
日本人の死者のほとんどは終戦前1年間に発生したと聞く。7か月あったら何人の命が救われたことか・・🥲
nekko🌒@nekkokokko
日本はもうやめようと判断してから8ヶ月も頑張ったのかと思うと悲しくて仕方ないと同時に
当時の人々の苦労と忍耐と底力を思う
栄@yoshio_v2012
当時Fルーズベルトが大統領だったことが不幸ですね。前任のフーバーさんが大統領ならば両国の衝突は回避され、多くの犠牲者が死なずにすんだかも知れない。
ゆたたん@yutatan0226_
誰が当時の大統領であれ作っちまった原爆を落とす事には変わりなかったと思いました。そしてこの時から今現在まで占領は終わってない!トランプ大統領になれば米軍撤退するか否か?独立国家になり自衛するか⁈問われます。その方が良いと思ってます。
右左あんつぁん@antsuan
昭和天皇がマッカーサー元帥に最初に会った時の御言葉はこの和平案に基づいたものだったのですね。
そして、マ元帥はその事を直ちに理解し、神の如き王と昭和天皇を認めたに違いないと思います。
佐藤伸二@19710116satou
東京や大阪、名古屋他の空襲
硫黄島の戦い、沖縄戦
広島、長崎の原爆
これらは回避できていたかも知れないと言う事なんですね…
日本側の資料はなんかあるのかな?
てずず@HsnpuRmj8Z6RAiX
ルーズベルトの行いに詳しい者ならば納得ずくだろう。彼の人格に一致する。品性と行動に一致する。良いとは言っていない、が、他国の栄誉ある大統領を非難する言葉は慎もう。代わりに事実を羅列するのみか。
Mi.Koda@MiKoda15
ルーズベルト大統領の側近はソ連のスパイだらけだった。
日米共にソ連に踊らされていたことは1995年公開されたヴェノナ文書によって明らかにされているのに日本では今だに知られず反米しか頭にないのはどういうわけか。
日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。
イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。...
中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。
あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。
戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。
東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。
徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。
私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。
「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。
日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。
これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。
日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだったのです」
アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー
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ダグラス・マッカーサー将軍:連邦議会での離任演説(1951 年) 「About the USA 」より
(前後略)
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戦後、日本国民は、近代史に記録された中では、最も大きな改革を体験してきました。見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本人は、戦後の焼け跡の中から立ち上がって、個人の自由と人間の尊厳の優位性に献身する殿堂を日本に打ち立てました。そして、その後の過程で、政治道徳、経済活動の自由、社会正義の推進を誓う、真に国民を代表する政府が作られました。
今や日本は、政治的にも、経済的にも、そして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べています。世界の信頼を裏切るようなことは2度とないでしょう。最近の戦争、社会不安、混乱などに取り巻かれながらも、これに対処し、前進する歩みをほんの少しも緩めることなく、共産主義を国内で食い止めた際の見事な態度は、日本がアジアの趨勢に非常に有益な影響を及ぼすことが期待できることを立証しています。私は占領軍の4個師団をすべて朝鮮半島の戦場に送りましたが、その結果、日本に生じる力の空白の影響について、何のためらいもありませんでした。結果はまさに、私が確信していた通りでした。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知りません。また、人類の進歩に対して将来、積極的に貢献することがこれほど大きく期待できる国もほかに知りません。
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最終更新:2024年10月13日 08:40