菅原文太
■ 日テレとNHKが菅原文太の反戦・脱原発発言を自主規制で封殺!? 「msnニュース[LITERA](2014.12.6)」より
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 高倉健と菅原文太。相次いでこの世を去った二人の映画スターが自分の死を伝えるテレビニュ―スを見ていたら、いったいどんな感想を抱いただろう。もしかすると健さんは自分のイメージが守られたことに安堵したかもしれない。だが、文太兄ぃのほうは対照的に、相当な不満を感じたのではないか。

 なぜなら、多くのテレビ局が故人のプロフィールについて自主規制をかけ、彼のもっとも伝えたいことを伝えなかったからだ。

 菅原文太といえば、後年は俳優というより、むしろ市民運動に精力的に取り組んでいた。メインテーマは反戦、憲法改正阻止、反原発。集団的自衛権や特定秘密保護法、原発再稼働にもきっぱりと反対の姿勢を見せ、安倍政権を徹底批判していた。その情熱は、死の1ヶ月前に病身をおして沖縄県知事選の翁長候補(新知事)の総決起集会にかけつけ、演説で戦争反対を語ったことからもうかがいしれる。

 ところが訃報当日、こうした姿勢をきちんと伝えたのは『報道ステーション』(テレビ朝日系)と『NEWS23』(TBS系)のみだった。フジ系の『ニュースJAPAN』は夫人のコメントを紹介して、反戦への思いは伝えたものの、脱原発や集団的自衛権反対など、具体的な問題にはふみこまなかった。
(※mono.--以下略、詳細はブログ記事で)

■ 菅原文太を悼む - ダンディな知識人、確かな知性と重い言葉の英雄 「世に倦む日日(2014.12.5)」より / 魚拓
(※mono.--前半略、詳細はブログ記事で)
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「わが身にどんな結果が振りかかろうとも、あくまで、筋をとおして考えることを自分の責務とする人々の意見は、これが権力の行使のされ方に関連する問題を取り上げたものである場合、もっとも価値が高くなる。権力行使のあり方こそ、日常の社会生活面で我々に影響を与える、他のすべての事柄を決定づけるからだ。言いかえれば、知識人は、政治問題を詳しく説いてもらうために最も必要とされるのである。我々の自由が無用に縮小されたり、権力を保持する者がその支配下にある万人を災難に追い込んだりしないよう取り計らううえで、知識人こそ我々の持てる最大の希望である」(「日本の知識人へ」 P.4)。このウォルフレンの知識人の定義に合格し、範疇に入ることのできる者が、この国に何人いるだろうか。菅原文太は、世の流れとは逆行して、客観的にスタンスをプロットすれば、どんどん左派(革新勢力)に寄って行った。そして、リベラルが統一するシンボルの位置に屹立した。この3年間、菅原文太に裏切られたことは一度もない。逆だ。こうあって欲しいと思うところに菅原文太は立ち、私を励ましてくれた。同時に、一言も、右だ左だリベラルだという抽象的な話はしなかった。人として最もあるべき立場に立ち、矜持を示し、言論すべき正義と良識を素朴に語ってくれた。市民として当然の態度を振る舞った。市民は菅原文太に期待し、菅原文太は期待に応えた。簡単にできるようで、こういうことができる人物はなかなかいない。知識人としての菅原文太の行動は、われわれに勇気と希望を与える。

菅原文太は、晩年になるほど人間としての完成度を増して輝いた男で、市民にとって素敵な英雄だった。3年間の菅原文太の活躍に心から感謝し、安らかに眠って下さいと別れを告げたい。

菅原文太
■ 反日:菅原文太の正体。 「スロウ忍ブログ(2014.12.2)」より
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先週金曜日(2014年11月28日)、俳優の菅原文太が死去していたとのことである。

http://mainichi.jp/select/news/20141202k0000m040133000c.html
菅原文太さん死去:在日韓国人に「故郷の家」 建設に尽力

毎日新聞 2014年12月02日 08時00分(最終更新 12月02日 08時25分)

 俳優の菅原文太さんが死去した。菅原さんは約30年前、在日韓国人のための老人ホームを大阪に建てる運動に協力した。菅原さんの呼びかけで1億円を超える寄付が集まり、1989年、堺市南区に施設「故郷の家」が建設された。

 きっかけは、施設を運営する社会福祉法人「こころの家族」理事長、尹基(ユンギ)さん(72)の新聞投稿だ。高齢の在日韓国人の孤独死を取り上げて施設の建設を呼びかけると、菅原さんから連絡があった。そして、東京のホテルで会った尹さんに「福祉の事は分からないが、難しいことをやらせてほしい」と募金の呼びかけ人を買って出た。

菅原文太といえば、あの小泉細川コンビの反原発団体に参加していた、非常に香ばしい人物の一人である。そして彼の友好関係には強烈な反日臭が漂っている。


彼が在日だというのは、ネットでは割と有名だったようである。まぁ彼の反日活動を見て普通の日本人と思う人はいないだろうが。

★ 菅原文太さん死去、81歳 映画「仁義なき戦い」【妻文子さんのコメント全文】 「The Huffington Post(2014.12.1)」より
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映画「仁義なき戦い」「トラック野郎」シリーズなどの作品で知られ、昭和の映画界の最盛期を支えた日本を代表する俳優の菅原文太(すがわら・ぶんた)さんが11月28日、転移性肝がんによる肝不全のため東京都内の病院で死去した。81歳だった。仙台市出身。東映が12月1日、発表した。

日刊スポーツは次の通り報じた。

菅原さんはファッションモデルを経て、58年に映画俳優として本格デビュー。渋い語り口と温かみある演技で愛され、任きょう映画などでいぶし銀の存在感を発揮した。12年11月に俳優業引退を宣言。山梨県で農業を営んでいた。

菅原さんは高校まで仙台で過ごし、上京。早大を中退した後は、180センチの長身を生かしてファッションモデルをしていた。58年に新東宝にスカウトされて映画俳優としてデビューした。吉田輝雄、高宮敬二、寺島達夫ら二枚目俳優たちと「ハンサムタワーズ」と呼ばれ、親しまれた。

(「仁義なき戦い」菅原文太さん死去 81歳 - 芸能ニュース : nikkansports.com 2014/12/01 14:15)
コトバンクによると、菅原さんは1961年に松竹、1967年に東映に移籍。1973年、「仁義なき戦い」に出演、その後1976年まで同シリーズ全8作に出演し、日本映画史に残る興行収入をあげた。1975~79年の「トラック野郎」シリーズも大ヒットし、日本を代表する俳優の1人となった。

同じく任侠映画の人気スターだった高倉健さんは11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で死去した。

菅原さんは1980年にはNHK大河ドラマ「獅子の時代」に主演するなど、数多くのテレビドラマでも活躍した。1998年には岐阜・飛騨地方に移住。農業政策などに関心を示し、講演活動も行った。アニメでも「千と千尋の神隠し」、「ゲド戦記」などで声優を務めていた。

2007年には膀胱がんを患うなど、体調を崩していた。東日本大震災のあとは、原発事故など、日本が置かれた現状に心を痛め、脱原発を呼びかける活動や、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対する集会に参加するなど、社会的な活動にも力を入れていた。

■妻文子さんのコメント【全文】

東映は1日、妻、菅原文子(すがわら・ふみこ)さんのコメントを発表した。

七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を開かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。
恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。











最終更新:2014年12月07日 19:03