+ ブログサーチ #blogsearch
+ ニュースサーチ






■ 安保法制の討論番組と一ノ瀬正樹教授の論考 「カディスの緑の風(2015.7.20)」より
(※mono.--前半の安保法制については、安保法制に記載)
/
さて、もう一つ、興味深かったのは、東京大学哲学研究室から

ネット公開されている、一ノ瀬正樹教授の論文である。

(追記: 一ノ瀬教授は、「ハチ公と上野英三郎博士像」の発案者である。)


「『いのちは大切』、そして『いのちは切なし』――放射能問題に

潜む欺瞞をめぐる哲学的再考」というタイトルがついている。

注釈を入れて47ページに及ぶ大作なのであるが、内容はそれほど難しくない。

簡潔に概要を説明すると、2011年3月11日の東日本大震災のあと

津波震災により起きた福島原発事故の直後、無理な避難によって

多くの方々が命を落とされた「双葉病院の悲劇」、そして長い避難生活で

健康を害したり、亡くなられたりした方々、つまり避難行動に伴う震災関連死が

すでに1600人以上現実に発生してしまっている事実にかんがみ、

放射線被ばくによらず放射線被ばくを避けることによって惹起されてしまった

被害についての哲学的考察である。

まずこの論考の根底には、福島原発事故による放射線被ばくのリスクは

結果としてかなり低い、という科学的根拠を前提としている。

リスクというのは確率や有害性の度合いという量的尺度を本質的に

含む概念であるから、リスクのあるなしで語るのではなく、「どのくらい」

リスクがあるか、という量的語りをしなければならない、というのである。

そして「多くの部外者が過剰危険視の情報を発信したことによって、

心理学でいうところの『曖昧さ耐性』が低い状態に導かれてしまった、

換言すれば、『曖昧さへの非寛容』という事態に導かれてしまった」と

分析する。

(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
/
実際、福島の被災者が受けている困難性への想像力を欠いた視点で、

福島原発事故を、「ヒロシマ、ナガサキ」のようにカタカナで

「フクシマ」と呼称することが、被災者の方々にどれだけ精神的負担を

強いているのか、われわれはよく考えてみなければならない。

また同様に、「帰宅したほうがいい、という言説にも同様に欺瞞性、

あるいは当事者視点を欠いた偽善性さえもが、漂わざるをえないのである。

この両面の欺瞞性に鋭敏でなければ、たぶん、当事者以外の人が何を言っても

空虚である。なんとしたらよいのか」と一ノ瀬教授は悩む。

(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
/
サミュエル・ジョンソンの言った言葉

『地獄への道は善意で敷きつめられている』という

善意が被害に転じていく過程、これはわたしも経験したことがある。

みな善意なのだ、悪意はない、それなのに皮肉にも被害への道へと

迷い込んでいく。


あくまで「いのちは切なし」、つまり「いのち」ははかなく、壊れやすく、、私たちの

能力ではそうした脆弱さを引き留めることはできないという、ある種の無常観や

諦観とともに語られるのでない限り、「いのちは大切」という思想は

ほとんど空虚でありむしろ虚偽である、というのである。
(※mono.--中略、詳細はブログ記事で)
/
意思決定は可能な限り全力でベストな中庸を探らなければならず、

「いのちは大切」という思想をカテゴリカルに主張するのではなく

「いのちは切なし」というはかなさ、脆弱性を、この世界の

実相だとして受け入れる高潔さが求められるのである。

最終更新:2015年07月21日 17:10