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警察予備隊
◆ 【阪神教育事件】GHQが『戦後唯一の非常事態宣言』を布告した在日朝鮮人と日本共産党による大規模テロ事件 「保守速報(2014年09月30日08:05)」より
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1:マンセー名無しさん:2014/08/17(日) 08:28:40.02 ID:4AJrPYLH.net
阪神教育事件(はんしんきょういくじけん)は、1948年(昭和23年)
4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と
日本共産党による民族教育闘争、大規模テロ、逮捕監禁・騒乱事件で、

GHQは、戦後唯一の非常事態宣言を布告した。

朝鮮人学校事件、大阪での事件は大阪朝鮮人騒擾事件、
また神戸での騒乱事件は神戸朝鮮人学校事件とも呼ばれる



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補足

事件の発端
1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官
ダグラス・マッカーサーは、日本政府に対して、
「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令した。

このころ在日朝鮮人の子供たちは、日本内地の教育により、
朝鮮語の読み書きが充分にできなかったため、日本各地で国語講習会が開催され、
文字と言葉を知ったものが先生となり、在日朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教えた。
教材は独自に作成された。

国語講習会は在日本朝鮮人連盟(略称は朝連)事務所や工場跡地、
地元の小学校校舎などを借りて開かれた。その後、国語講習会は朝鮮人学校に
改組され、学校は全国に500数十校、生徒数は6万余人を数えた。

1948年1月24日、文部省学校局長は各都道府県知事に対して、
「朝鮮人設立学校の取扱いについて」という通達を出し、
朝鮮人学校の閉鎖と生徒の日本人学校への編入を指示した
(朝鮮学校閉鎖令)。

同年1月27日、朝連は第13回中央委員会を開催し、朝鮮学校閉鎖令に対し
反対を表明した。さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、
彼らの主観における「民族教育を守る闘争」を全国で展開するように訴えた。

大阪府と兵庫県ではこの通達に基づき、朝鮮学校の閉鎖を命じた。
阪神地区では、朝連の宋性澈が闘争、暴力事件の指導に当たった。
在日朝鮮人・金太一が闘争中に警官に射殺されている。


事件の概要

大阪府
1948年4月23日9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、
朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。
集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。

16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府府知事との交渉を行うことになった。

12時30分、大阪府庁知事室において、副知事(知事は当日不在だった)と
朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが、合意には至らなかった。

代表者はしばしば威圧的、脅迫的な言動を行った。

15時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、
シュプレヒコールが起こった。

50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を
組織的な暴力を駆使して突破した。

15時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など
7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を暴力で占拠した。

副知事は警察官の誘導により、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。

17時ごろ、群衆は知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといったテロ活動をした。

日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、
川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、どうにもできなかった。

夜、大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人が
篝火を焚いた。朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが、
アメリカ軍や武装警官が到着した。

その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、
武装警官隊と乱闘となり、在日朝鮮人のうち1人が死亡、20人が負傷した。

警官側の負傷者は、それを上回る31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。

4月25日、朝連や日本人約300人が大阪南警察署に押しかけ、
逮捕者の釈放を要求、脅迫した。
警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い追い返した。

4月26日、朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催した。
午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われた。

15時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、
交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示した。

在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で
投石を開始する暴力行為を行った。

武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。
在日朝鮮人金太一が死亡した。

検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が
重労働4年以下の判決を受けた。阪神教育闘争の指導者の一人であった
朴柱範は逮捕・投獄され、釈放された直後に死亡した。

事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。



兵庫県
1948年4月10日、兵庫県県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して、封鎖命令を出した。

4月14日、朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。
言動はしばしば威圧的、脅迫的になった。

4月23日、警官隊とMPは、朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖した。
4月24日、朝鮮人学校灘校と東神戸校の封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が、
兵庫県県庁前に集結した。

9時30分、兵庫県庁知事室で、岸田、神戸市市長・小寺謙吉、検事正ら15人は、
朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と、在日朝鮮人の抗議集会対策を協議した。

朝連は兵庫県知事室での密談の情報を入手し、約100人の在日朝鮮人や日本人が
兵庫県庁内に突入し、知事応接室を占拠して備品などを破壊するテロ行為をした後、
壁を打ち破って知事室になだれ込み、岸田幸雄やMPを拉致監禁した。

在日朝鮮人や日本人約100人は、電話線を切断するテロ行為を行って外部との連絡を絶ち、
「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」
「逮捕された朝鮮人の釈放」などを、自由を奪った状態の岸田幸雄に強要した。

17時、岸田は、暴力的な威圧の下で「学校閉鎖令の撤回」
「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」
「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約させられた。

22時、岸田、吉川兵庫県副知事、市丸検事正、田辺次席検事、出井兵庫県警察長、
古山神戸市警察局長らは、占領軍兵庫県軍政部に集められた。

23時、兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令した。

これによって、全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入った。

兵庫県庁への乱入者の徹底検挙が命じられ、岸田幸雄が暴力的な
威圧下で誓約させられた「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」
「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などは、脅迫によるもので
あったこともありすべて無効とされた。

4月25日早朝、アメリカ軍憲兵や日本警察官は兵庫県庁への乱入する
集団テロの関係者の検挙を開始。

4月28日、非常事態宣言解除。

4月25日から4月29日までに、1590人もしくは7295人が検挙された。
日本共産党神戸市市議会議員・堀川一知も検挙された。

検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。
日本人は堀川のみで、重労働10年の判決を受けた。

在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出され、刑期終了後は
本国に強制送還されることになった。

アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞(1948年4月27日付)
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事件の決着
同年5月5日、朝連教育対策委員長と文部大臣との間で、
「教育基本法と学校教育法を遵守する」
「私立学校の自主性の範囲の中で朝鮮人独自の教育を認め、
朝鮮人学校を私立学校として認可する」との覚書が交わされた。


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関連項目にも注目!


2:マンセー名無しさん:2014/08/17(日) 10:04:49.30 ID:4AJrPYLH.net
■ハーバード大学教授エドワード・ワーグナー(朝鮮史)の言葉

「韓国のイメージ」鄭大均 1995年 中公新書
連合国総司令部(GHQ)の担当官として終戦直後の日本に駐留し、
後にハーバード大学教授となったエドワード・ワグナー(朝鮮史)は、
『日本における朝鮮少数民族』(原著1951年)という論文で次のように記している。

戦後の日本で韓国人は常に刺激的な勢力だった。
人数は激減したが、韓国人は依然として騒々しかった。感情的であった。
無駄な疲労の原因になるような集団だった。

彼らは絶対に敗戦国民の日本人に加担しなかった。
逆に戦勝国民の仲間入りをしようとした。
韓国人は「日本の法律は我々には適用されない!」と考えていた。

だからアメリカ占領軍(GHQ)の指令も日本の法律と同じように殆ど無視して行動した。
韓国人の行動は日本国内に非常な混乱を発生させた。

占領当初の数ヶ月、在日韓国人炭鉱労働者の頑強な反抗のせいで、
日本の重要産業の石炭産業の再建は損害を被った。

経済的領域での韓国人の様々な活動は、日本経済再建の努力を頻繁に妨害した。
1948年の神戸の緊急事態宣言は日本の教育改革を韓国人が妨害した結果だった。

占領当局(GHQ)が決定した韓国人帰国政策を日本政府が実施しようとすると、
これも妨害した。(中略)

こうした韓国人の犯罪性が日本人と韓国人の関係に与えた悪影響は依然として甚大だ。
韓国人の略奪行為が殆ど日本人の庶民の日常生活の重要な地域で行われた事も原因だ。

更に韓国人は日本に不法に入国しようとした。 
不法入国の時、伝染病も持ち込んだという事情もあり、日本人の不安を増幅した。

「“韓国人は悪だ”という心理が時間の経過で日本人の心から薄れていく」と
予想する事は全く出来ない。

日本における朝鮮少数民族―1904年~1950年 [単行本]
エドワード・W.ワグナー
竜渓書舎
2009-05



9:マンセー名無しさん:2014/08/26(火) 11:01:41.38 ID:0haAZjp9.net
「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)

「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、
まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。

彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で
連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。

彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんで
わが物顔に振舞いはじめた。

在日は戦後の混乱に乗じて徒党を組んで武装し、暴行・強奪・強姦・殺人・・・・
やりたい放題した

土地も焼け跡の繁華街や一等地等に一夜づくりのバラックを構え、家を建て地主が
抗議しても脅迫や暴力で我が物とした。

闇市も日本人から強奪したものを暴利で売って金儲けし、儲けた金で日本人から
奪った土地でパチンコ屋や焼き肉屋を始めた

それに一部の日本人を覚醒剤(以前はヒロポン)漬けにしてるのも朝鮮人であり
ヤクザの資金源にしてる

何かにつけ「差別だ差別だ」と叫び、現在まで様々な権利を要求し手に入れ
今では日本人以上に優遇されているが、在日の要求は止まらない。



















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最終更新:2016年07月16日 21:27