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■ ポツダム宣言が発表された時点で米英両国はソ連との戦争を始めていた 「櫻井ジャーナル(2010.7.26)」より
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 今から65年前、つまり1945年7月26日、アメリカのハリー・トルーマン大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相、そしてソ連のヨシフ・スターリン首相(人民委員会議長)は日本に対し、無条件降伏を求める宣言を発表した。「ポツダム宣言」である。

 この年の4月12日、ドイツが降伏する直前にフランクリン・ルーズベルトが急死したことにともない、副大統領のトルーマンが自動的に昇格したのだが、この交代劇は現代史に少なからぬ影響を与えている。

 ポツダム宣言が発表された時点でイギリスでは、ソ連を奇襲攻撃する目的で「アンシンカブル作戦」が練られていた。数十万人の米英軍に加え、再武装された10万人のドイツ兵を北ヨーロッパの基地からソ連に軍事侵攻させ、諸都市を攻撃するという内容だった。この作戦を推進したのはチャーチルなど「文民」で、軍幹部は非現実的だとして反対していたとされている。

 イギリス軍からの反対がなくても、ルーズベルトが生きていたなら、この計画は成り立たなかった。ルーズベルトは反ファシストであり、ソ連とは友好的な関係を結ぼうとしていたからである。こうした背景もあり、スターリンはルーズベルトがチャーチルの一派に暗殺されたと信じていたようだ。

 アメリカの場合、イギリスと違って軍の幹部がソ連との戦争に積極的だった。「(19)48年後半までに、準軍事戦の専門家であるロバート・マックルア将軍は、統合参謀本部(JCS)に働きかけ、ソ連への核攻撃に続く全面的なゲリラ戦計画を承認させていた」のだ。1949年に作成された研究報告によると、「70個の原爆が、30日間にわたって、あらかじめ決められたソ連の標的に長距離爆撃機から落とされる予定になっていた。」(クリストファー・シンプソン著、松尾弌之訳『冷戦に憑かれた亡者たち』時事通信、1994年)

(※mono....中ほど略)
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最終更新:2017年09月19日 12:43
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