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■ 「自国民でも殺す」で殺された韓国大統領 「Yahoo!ニュース[プレジデントオンライン](2017.12.23)」より
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1979年、韓国の朴正熙大統領が、実質的な政権ナンバー2に射殺されました。なぜそんな事件が起きたのか。殺害現場には2人の若い女性。大統領が月に数回、若い女性を集めて催す「行事」の最中だったのです。しかも、朴大統領は死の直前、政権への反対デモを封じるため、「自国民でも殺す」と宣言していました――。

■大統領専用の秘密施設

 それは大統領官邸「青瓦台」の西側の一画、鍾路区の宮井洞にありました。レンガ造りの二階建ての建物で、高い塀に囲まれており、要人の私邸のような表構え。政府関係者さえも、多くが秘密施設の存在を知りませんでした。

 後に明らかになったことですが、この建物は当時のKCIA(韓国中央情報部)が管理運営する「安全家屋(安家)」と呼ばれる施設でした。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領はいったい、ここで何をしていたのでしょうか。

 宮井洞の安家では、大統領のための酒宴がひんぱんに行われていました。当時のKCIA(中央情報部)の朴善浩(パク・ソンホ)儀典課長の証言によると、大統領、中央情報部長、秘書室長、警護室長などの大統領側近も加わった「大行事」が月2回程度、朴正熙だけの「小行事」が月8回程度。そして朴善浩は、「行事」ごとに同席する女性を2~3名手配する任務を負っていました。(*1)

+ 続き
■KCIAの「裏の任務」

 朴正熙はタレント志望の学生やモデル、歌手や女優を好みました。また、同じ女性が再度呼ばれることはほとんどありませんでした。夕方頃に、その夜が「大行事」になるか「小行事」になるかの連絡が朴正熙から大統領警護室長にあり、警護室長はKCIAの儀典課長に指令を出し、女たちを大急ぎで確保させていました。

 諜報機関のKCIAがこのような指令に奔走したというのは驚きですが、KCIAは国民の個人情報を一手に握っており、大統領にとって安全な女を選び出すことができました。そして、KCIAは女たちに「秘密施設でのことを口外してはならぬ。お前を見張っている」と半ば脅迫し、大統領の元へ送りました。KCIAには打ってつけの任務だったのです。

 実際に、KCIAを恐れて、口外する女はいませんでした。それでも、娘が母親に告げ、母親が「娘が大統領の慰み者になった」と怒鳴り込んで来たこともありました。この母親は「娘を大統領夫人にするように」と執拗に迫ったそうです。

 朴正熙がテレビに出ている歌手や女優を見て、「一度、彼女に会いたい」と言えば、秘書がすぐにKCIAに連絡を取り、KCIAはその歌手や女優が所属するプロダクションに圧力をかけ、差し出させました。差し出しを拒めば、テレビ局からのオファーが無くなるということもあったようです。その中には、国民の誰もが知っているようなスターたちも含まれ、呼び出された女性は200人を超えたとの話もあります。(*2)

■そして起こった運命の「10・26事件」

 1979年10月26日午後7時40分頃、この秘密施設での「大行事」の最中、朴正熙は暗殺されます。KCIA部長で朴正熙の側近であった金載圭(キム・ジェギュ)が、朴を撃ち殺したのです。

 酒宴の席には、朴正熙、警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)、秘書室長の金桂元(キム・ケウォン)、タレント志望の女子大生1名と歌手1名、金載圭を入れて計6名がいました。この席で朴正熙は、当時の反朴政権活動に対するKCIAの失態について、金載圭を叱責しはじめました。車智チョルも大統領と一緒になって、金載圭をなじりました。

 すると金載圭は腰から拳銃を取り出し、車智澈に銃口を向け、朴正熙に「閣下、こんな虫けらのようなヤツと一緒に政治ができますか」と叫び、車を撃ちました。そして、「何をしている! 」と怒鳴った朴正熙に向かっても、引き金を引きました。

 朴正熙と車智澈にとどめを刺そうと、金載圭はさらに拳銃を撃とうしますが、拳銃が故障して作動しません。そこで、金載圭は外で待たせておいた部下の朴善浩から拳銃を借り、部屋に戻ります。

 車智澈は腕を撃たれていました。胸を撃たれ意識不明の大統領を置いて部屋から脱出しようとした車智澈は、戻ってきた金載圭に出くわして射殺されます。金載圭はさらに、倒れていた朴正熙に近づくと、頭部を撃ってとどめを刺しました。同席していた秘書室長の金桂元と、2人の女性は逃がされました。

■政権ナンバー2の男がなぜ

 大統領を射殺した金載圭とは、いったい何者でしょうか。金載圭は朴正熙よりも9歳年下でしたが、1946年に設立された南朝鮮国防警備隊士官学校では同期でした。日本陸軍にも従軍経験があり、日本名は金本元一です。

 朝鮮戦争では将校として活躍します。持ち前の真面目さと勤勉さで、周囲からも高く評価され、准将に昇進します。

 1961年、朴正熙が起こした5・16軍事クーデターに、金載圭は直接関わってはいませんでしたが、朴正熙と同郷の慶尚北道亀尾市出身ということもあって、後に大統領の目に止まります。実直な金載圭は朴正熙に忠誠を誓うようになり、朴正熙もそれを評価し、要職を歴任させます。旧日本陸軍出身ということもあり、金載圭と朴正熙はよく日本語で密談していたという話もあります。1976年、金載圭は遂にKCIAの部長に就任し、実質的な政権ナンバー2となります。

 朴正熙の娘である朴槿恵(パク・クネ)前大統領のスキャンダル「崔順実(チェ・スンシル)事件」も、その源流をさかのぼると金載圭の名前が出てきます。崔順実の父親である崔太敏(チェ・テミン)は新興宗教の教祖で、1974年の文世光事件で母を失い悲しみに暮れていた朴槿恵に接近したのです。朴槿恵は崔太敏を信じました。

 朴正熙は崔太敏を不審に思い、調査させます。当時、KCIAの部長であった金載圭は「崔太敏と朴槿恵が部屋に入れば、一日中出てこない」という内容の報告を大統領にしています。また、崔太敏率いる宗教団体「大韓救国宣教団」のさまざまな不正も、金載圭が調査し、大統領に書類を提出していました。

 朴正熙が崔太敏と朴槿恵の2人を呼んで直接、聞いたところ、崔太敏はこう答えます。「私たちは霊的な家族や夫婦のようなものであって、肉体に関する浅ましい話はしないでほしい」(*3)。朴槿恵の弁護もあり、大統領は納得し、金載圭を叱責しました。しかし、今から思えば、崔太敏に危険を感じていた金載圭は正しかったのです。

■「100万や200万程度殺しても心配ない」

 では、朴に忠実であった金載圭がなぜ、朴を射殺したのでしょう。事件から40年近くたった今も、その動機については韓国内で意見が別れています。

 朴大統領殺害事件の捜査指揮を執っていた保安司令官の全斗煥(チョン・ドゥファン、後に大統領)は、金載圭が自ら大統領になろうとして朴を殺したと断定し、「内乱目的殺人罪」で起訴しました。一方、金載圭本人は事件後の裁判の最終陳述で、事件は韓国の建国の理念である「自由民主主義」を回復するために起こした革命である、と主張しました。

 車智チョルと金載圭という側近同士の対立が、事件のきっかけとなったという見方もあります。傲慢不遜(ごうまんふそん)で年上の人間にも敬語を使わず、本来KCIAの領分である政治にまでしばしば口を出す車智チョルと、自分こそが朴の忠実な部下であると自認する金載圭との間には、事件のはるか以前から確執がありました。以前から仕事上2人をよく知っており、問題の宴席にも同席して生き残った秘書室長の金桂元は、大統領の面前で8歳も歳下の車智チョルにトゲのある皮肉を投げかけられ、激怒した金載圭が偶発的に事件を起こしたのではないかと、法廷で証言しています。

 しかしそれならば、朴正熙までを殺す必然性はなかったはずです。そこで浮かび上がるのが、当時の「釜馬民主抗争」に対する朴正熙の対応です。

 大統領暗殺より10日ちょっと前の1979年10月4日、韓国の国会で、最大野党の新民党総裁である金泳三(キム・ヨンサム)の除名決議案が、与党の画策により通過しました。金泳三の地元である釜山とその隣の馬山市(現昌原市)では、これに反発した学生や市民による、反朴政権の大規模デモが発生します。

■内乱を危惧する部下、流血も辞さない大統領

 この「釜馬民主抗争」の情勢を分析していた金載圭らKCIAは、「事態は深刻で、放置すれば暴動が5大都市(ソウル、釜山、仁川、テグ、光州)すべてに広がり、内乱になる」と朴正熙に報告しました。金載圭は自ら釜山を視察し、朴正熙政権の破局の可能性を感じ取っていたのです。

 しかし朴正熙は、「KCIAが手ぬるいから、こんなことになった! 」と激怒しました。報告の場にいた車智澈は大統領に同調し、「閣下、カンボジアでは(ポル・ポト政権が)300万程度殺しても問題ありませんでした。デモ隊を100万や200万程度殺しても心配ありません」と暴言を吐きます。朴正煕は「今度は大統領である私が発砲命令を下す! 」と叫んだといいます。

 金載圭は肝硬変を患っており、そう長くは生きられないことを自覚していました。流血の惨事を防ぐためにも、自国民への発砲命令をも辞さない大統領の暴走を終わらせることが自らの使命であると、覚悟を決めたとも考えられます。

 金載圭は裁判の結果、絞首刑となります。

 次回は、朴大統領暗殺後の大混乱を追っていきます。

 (*1)雑誌「新東亜」1998年11月号 「朴善浩軍法会議証言録音記録」
(*2)「新東亜」2005年12月号 「金載圭弁護人アンドンイル弁護士が打ち明けた『大統領の私生活」」
(*3)ハンギョレ新聞2016年11月5日 崔太敏の知人、チョン・ギヨン牧師インタビュー


宇山卓栄(うやま・たくえい)
著作家。1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。おもな著書に、『世界一おもしろい世界史の授業』(KADOKAWA)、『経済を読み解くための宗教史』(KADOKAWA)、『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)、『“しくじり”から学ぶ世界史』 (三笠書房) などがある。


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■ 朴正熙がテレビに出ている歌手や女優を見て、「一度、彼女に会いたい」と言えば、秘書がすぐにKCIAに連絡を取り、KCIAはその歌手や女優を差し出させました。 「株式日記と経済展望(2017.12.24)」より
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(※mono....前半はこの枠内上記記事の引用につき略、以下はブログ主のコメント。)

「株式日記」では対馬海峡の向こう側の大陸は暗黒大陸と書いてきましたが、韓国人や中国人は見た目はよく似ているが、大陸という風土は島国の風土とは全く異なるものであり、考え方も政治風土も異なっている。韓国という国も一応は民主国家なのですが、80年代までは軍事独裁国家だった。

朴正煕大統領も、アフリカの独裁者と何ら異なることはなく、残虐非道な政治風土がある。日本や戦後のアメリカ統治時代は平穏だったのに、独立するやいなや南北朝鮮は戦争を始めてしまった。金日成がスターリンに唆されたようですが、朝鮮戦争では400万人の戦死者が出てしまった。

南北朝鮮軍が自国民を殺しまくったからですが、このようなことは韓国の歴史教育では教えられていない。補導連盟事件では100万人規模で国民が殺され済州島でも数万人規模の人が殺された。韓国では軍隊が自国の国民を殺すのだ。そうしないと国家の機能が保てないといった事情もあるのでしょう。

(※mono....中略)
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朴正煕大統領が手をつけた女優は200人あまりだということですが、KCIAが監視していたとしても今までバレなかったのは何故なのだろうか。朴槿恵のセックススキャンダルも最後までバレなかった。チェスンシルの関係は父の時代からであり、朴槿恵もチェ・テミンとの関係も一日中部屋でセックスに明け暮れていた。

このような国家が民主主義国家と言えるのかどうかと思いますが、KCIAは日本にも手を伸ばして政界工作をしている。朴正煕の最後は韓国各地で起きた反政府暴動がきっかけで有りますが、大統領も腐敗してKCIAはマスコミを脅し国民は感情的になって暴発しやすい。それは今でも変わらない。

だから韓国政府は感情的になりやすい国民感情を反日に向けさせていますが、彼らは利害計算や損得では理性的にはなれない。最後は自滅的になるまで行くところまで行ってしまう。韓国は結局は中国や日本やアメリカなどに支配されないと、支離滅裂になって自滅してしまう。なんとも厄介な国だ。


■ 【iRONNA発】父・朴正煕の「反日」と娘・朴槿恵の「反日」は決定的に違う 西岡力(東京基督教大教授) 「産経ニュース(2015.12.9)」より
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 朴槿恵政権下で反日外交が展開される中、日本人の嫌韓感情はかつてなく高まっている。韓国研究者としてかの国と40年近く付き合ってきた私はこの間「現在の韓国人の反日感情の原因は日本統治時代の記憶ではない。なぜなら、反日感情は統治時代を経験していない若い世代ほど高いからだ。」と繰り返し述べてきた。(iRONNA)

 朴槿恵大統領も日本の統治時代を知らない世代だ。そしてその父、朴正煕大統領は日本統治時代を経験した世代だ。日本では父は「親日」で娘は「反日」だという誤解が広がっているが、朴正煕大統領も自分も「反日」だと明言している。朴正煕時代には日本で嫌韓感情は生まれなかったが、朝日新聞など左派メディアからは独裁者だとして激しい非難が加えられていた。

 朴正煕大統領の「反日」は朴槿恵大統領のそれとは質的に異なっていた。だから、侮蔑意識が含まれる嫌韓感情を生むことはなく、むしろ、心ある日本人の尊敬を集めた。

 一言でその違いをいうなら、甘えがなく自己の欠点を直視する勇気を備えている「反日」だった。朴正煕大統領は1965年、国内の激しい反対運動を戒厳令と衛戍令をひいて抑え付けて日韓国交正常化を断行した。そのとき、以下のような談話を発表している(1965年6月23日、韓日条約に関する韓国国民への特別談話)。

+ 続き
 去る数十年間、いや数百年間われわれは日本と深い怨恨のなかに生きてきました。彼等はわれわれの独立を抹殺しましたし、彼等はわれわれの父母兄弟を殺傷しました。そして彼等はわれわれの財産を搾取しました。過去だけに思いをいたらすならば彼等に対するわれわれの骨にしみた感情はどの面より見ても不倶戴天といわねばなりません。しかし、国民の皆さん! それだからといってわれわれはこの酷薄な国際社会の競争の中で過去の感情にのみ執着していることは出来ません。昨日の怨敵とはいえどもわれわれの今日と明日のために必要とあれば彼等ともてをとらねばならないことが国利民福を図る賢明な処置ではないでしょうか。(略)

 諸問題がわれわれの希望と主張の通り解決されたものではありません。しかし、私が自信を持っていえますことはわれわれが処しているところの諸般与件と先進諸国の外交慣例から照らしてわれわれの国家利益を確保することにおいて最善を尽くしたという事実であります。外交とは相手のあることであり、また一方的強要を意味することではありません。それは道理と条理を図り相互間に納得がいってはじめて妥結に至るのであります。(略)

 天は自ら助ける者を助けるのであります。応当な努力を払わずにただで何かが出来るだろうとか、または何かが生まれるであろうとかという考えは自信力を完全に喪失した卑屈な思考方式であります。

 今一部国民の中に韓日国交正常化が実現すればわれわれはまたもや日本の侵略を受けると主張する人々がありますが、このような劣等意識こそ捨てねばならないと同時にこれと反対に国交正常化が行われればすぐわれわれが大きな得をするという浅薄な考えはわれわれに絶対禁物であります。従って一言でいって韓日国交正常化がこれからわれわれによい結果をもたらすか、または不幸な結果をもたらすかということの鍵はわれわれの主体意識がどの程度に正しいか、われわれの覚悟がどの程度固いかということにかかっているのであります。

 韓国の「反日」がおかしくなるのは1982年、全斗煥政権が日本の左派メディアと中国共産党と野合して、歴史認識問題を外交に持ち出すという禁じ手を使ってからだ。第1次歴史教科書事件で、朝日などが文部省の検定の結果、「侵略が進出に書き換えさせられた」という大誤報をして日本政府を非難したことに、まず中国政府が公式抗議し、それに全斗煥政権が乗っかって、他国の歴史教科書の記述の修正を外交交渉の議題にするという前代未聞の「内政干渉」を行った。

 このとき、全斗煥政権は、韓国軍近代化資金を日本も負担すべきだという安保経済協力を求めていた。ところが、冷戦をともに戦っているという意識の低かった当時の鈴木善幸政権と外務省は、その要求を冷たく拒否したため、全斗煥政権が禁じ手を使ったのだ。それから、盧泰愚政権まで、韓国政府は日本から経済協力資金や技術協力を得る手段として、歴史認識問題を使った。それも朝日などの誤報をそのまま利用する事実に反する反日キャンペーンを外交に使った。まさに、「甘え」の反日だ。1992年1月、訪韓した宮沢首相に対して盧泰愚大統領が首脳会談の場に慰安婦問題を持ち出したのがその典型だ。軍人出身の盧泰愚大統領は慰安婦強制連行がなかったことを知っていたが、技術移転を求める外交カードとしてそれを使った。

 1995年、村山談話が出されたが、韓国の反日はその年からより悪化、劣化した。金泳三大統領が江沢民主席と会談して、反日外交での共闘を提唱し、統治時代の歴史だけでなく、竹島問題も「日本軍国主義による侵略」という一方的な決めつけをして、日本政府や日本国民が領有権主張をすること自体を許さない、外交常識に反する反日を展開した。このときから、反日の目的が、日本からの支援獲得でなく、韓国国内での人気獲得に変わった。韓国では1980年代以降、親北左派勢力が学界、教育界、マスコミに急速に拡散し、いわゆる韓国版自虐史観を広げていった。その鍵も「反日」だった。李栄薫ソウル大学教授は名著「大韓民国の物語」でその誤った歴史観を次のように要約した。

 「宝石にも似た美しい文化を持つ李氏朝鮮王朝が、強盗である日本の侵入を受けた。それ以後は民族の反逆者である親日派たちが大手を振った時代だった。日本からの解放はもう一つの占領軍であるアメリカが入ってきた事件だった。すると親日派はわれ先に親米事大主義にその姿を変えた。民族の分断も、悲劇の朝鮮戦争も、これら反逆者たちのせいだった。それ以後の李承晩政権も、また1960~70年代の朴正煕政権も、彼らが支配した反逆の歴史だった。経済開発を行ったとしても、肝心の心を喪ってしまった。歴史においてこのように正義は敗れ去った」

 朴槿恵大統領はこのような自虐史観に支えられた親北左派勢力と大統領選挙で戦って、51%対48%で辛勝した。本来なら彼女の役割は、自虐史観勢力を各界各層から追放する国家正常化であったはずだ。今回、歴史教科書を検定から国定に戻すことを決めたのも、まさに自虐史観一辺倒になってしまった歴史教科書を正常化するためだった。しかし、朴槿恵大統領は世論に迎合する機会主義的政治家だった。

 彼女は父親に対する支持から絶対に自分を離れない保守層約3割を固定支持勢力として持っている。また、反対側に約3割の左派固定勢力が分布している。選挙で勝つためには、中間の4割を自分の側につけるしかない。だから、彼女の政策は親北派に妥協的で、世論迎合的なものが多い。朴正煕大統領が「つばは墓に吐け」(自分の政策の評価は死後、決まる)と語り、信念を曲げなかったことと正反対だ。

 慰安婦が性奴隷だったら、彼女の父を含む戦前、日本軍(満州軍を含む)の将校だった韓国人はみな、同胞がレイプされていることを知りながらその犯人に奉仕した「売国奴」になる。事実を直視し、与えられた国際環境の中で日本を利用して韓国の安保と繁栄を実現するために全力を尽くすという、父にあった健全で尊敬できる「反日」に彼女が戻れば、日本人の多くの嫌韓感情は解消するだろう。

【プロフィル】西岡力 1956年、東京生まれ。国際基督教大学卒業、筑波大学大学院地域研究科修了。韓国・延世大学国際学科留学。1982~1984年、外務省専門調査員として在韓日本大使館勤務。1990~2002年、月刊『現代コリア』編集長。現在、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」会長、東京基督教大学教授。2015年、第30回「正論大賞」受賞。



















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最終更新:2017年12月24日 19:37