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■ ミャンマー 軍部クーデター再び  ロヒンギャ虐殺 追訴回避が目的か? 「note:人民新聞(2021/03/16 16:31)」より
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ウン・ザーニ、『デモクラシー・ナウ』2月3日

 軍がミャンマーと改名したビルマで軍事クーデターが起こった。軍部とアウンサンスーチー政権の両者から迫害された、ロヒンギャ族の亡命学者で人権活動家のマウン・ザーニ氏が米・「デモクラシーナウ」のインタビューに応えた。一部訳出する。(訳者)

(※mono....略、詳細はサイト記事で)

 またミンアウンフライン総司令官は、ロヒンギャ虐殺に関して人道に対する犯罪者という容疑があった。軍は米国議事堂乱入事件や中国やロシアの人民弾圧など、右傾化傾向を見て決心をしたようだ。

 昔スーチーが自宅軟禁されていた頃、私は彼女を自由にする運動を行った。米国で軍政ビルマをボイコット・脱投資する運動を展開した。しかし、民政復帰で、事実上ビルマの統治者の位置についたスーチーは、ICCでロヒンギャ虐殺の事実を否定し、軍部をかばう証言をした。人権活動家、民主化運動家から、軍部擁護者・スポークスパーソンに変身するスーチーを見て、私の心は痛んだ。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)
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 軍が国政を握ったことで、我々ロヒンギャへの抑圧はいっそう苛酷になるだろう。軍のロヒンギャ虐殺は70年代から始まった。今やビルマ国内より国外に散っているロヒンギャの数の方が多い。野外刑務所のような難民キャンプ、強制収容所、密林に隠れて暮らし、その他バングラデシュで難民生活をしている人々。軍がその人々の帰国を歓迎するはずはないし、誰もアウシュビッツに戻る人はいないだろう。 (翻訳…脇浜義明)


★ ロヒンギャ難民キャンプで大規模火災=15人死亡、400人不明―バングラデシュ 「時事通信(2021/03/24 12:33)」より
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【ニューデリー時事】ミャンマーでの迫害を逃れたイスラム系少数民族ロヒンギャが暮らす、バングラデシュ南東部コックスバザールの難民キャンプで火災が発生し、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は23日、少なくとも15人が死亡、560人が負傷し、約400人が行方不明と発表した。キャンプ内には仮設住宅が密集している。

地元紙デーリー・スター(電子版)は、火災が起きたバルカリ難民キャンプで、竹とビニールシートで作られた家々が焼け落ちた様子を報じた。火災発生は22日とみられ、原因は不明。

UNHCRのバングラデシュ事務所代表は、「火災は大規模で破壊的だった。少なくとも1万戸の仮設住宅が破壊され、4万5000人が住む場所を失った」と被害状況を語った。 



近年、ミャンマーの民主化に国際的な注目が集まる一方で、ラカイン州に暮らすイスラム系少数民族ロヒンギャ族に対する迫害行為は看過されている。孤立無援の彼らが密入国を試みて危険に晒されたり、人身売買の対象となるケースは後を絶たない。そこに複数の政府が関与している疑惑もある。彼らを取り巻く現実を追った。

原題:Left For Dead: Myanmar’s Muslim Minority(2016)
※この動画は、AbemaTVのVICEチャンネルにて、2016-2017年に配信されたコンテンツです。
制作当時の社会状況に基づいた内容であり、現在とは異なる場合があります。あらかじめご了承ください。


■ ロヒンギャはアラカンへの不法移住異民族である 「魂魄の狐神(2019-04-07 11:38:31)」より
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「ロヒンギャの人々は、これまで『ビルマ人vs.少数民族』の構図の外の外に置かれていました。ロヒンギャは北西沿岸部(ラカイン州)に住む、南アジア系の民族です。推定人口80~100万人、ほとんどがイスラム教徒です。近年、この地の多数派民族アラカンとの対立が激化、船を使った脱出民が増えていることから注目されるようになりました。ロヒンギャの生活は厳しく、ミャンマー軍による虐待・人権侵害も伝えられます。しかし、彼らへの迫害はいまに始まったことではありません。これまでも軍事政権下で、財産没収、強制労働、居住・移動の制限といった弾圧が繰り返されてきました。

 なぜ、ロヒンギャの人々は迫害されるのか? 彼らの多くは、イギリスの占領下と独立の混乱期に、ベンガル地方(現在のバングラデシュ~インド北東部)から移ってきた保守的なイスラム教徒で、この地に住むうちに、独自の民族意識を持つようになったと考えられています。民族名としてのロヒンギャが文献に載るようになったのは、1950年以降という報告もあります。こうしたこともあり、ミャンマー政府はロヒンギャを自国民とは認めないのです。『土着の民』ではなく、あくまで『バングラデシュからの不法移民』というわけです。」

 バングラディシュが先ず責任を以て解決すべき問題。英国の統治下で不法移住して来たベンガル人であるのだから、ミャンマーは迫害をして居るのでし無く、侵害異民族を排除しようとしているだけである。ロヒンギャ問題の解決は、ベンガル地方にロンヒンギャを返還させることで解決すべき



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古くからミャンマー国内で生活しながらミャンマーの国籍を認められず、バングラディシュからの不法移民として差別される「ロヒンジャ(ロヒンギャ)」の人々。その背景には、仏教を信仰するミャンマー国内でイスラム教を信仰するロヒンギャの人々への宗教的な対立が背景にあると言われていますが、メルマガ『房広治の「Nothing to lose! 失う物は何も無い。」』では、今回の問題の元々の発端には「宗教問題など無かった」と断言。現地の人達から直接聞いたという「真実」を明かしています。

ロヒンジャ問題
ロヒンジャ問題は、どこの国にも存在する問題が一つ、そして、もう一つは、少女に対する婦女暴行・殺人、それに対する家族の報復、そのまた報復から始まった。

2012年8月、少女への暴行・殺人のニュースで流れた時、私はミャンマーにいた。痛ましいニュースであった。そして、少女の家族が殺人犯に対して報復をしたというニュースが流れた。それが、だんだんエスカレートして、ついに、軍が鎮圧に動いたというニュースに発展した。

2週間ぐらいの短い期間にエスカレートし、軍が村民のほとんどをそれぞれが安全な地域まで、隔離したと聞いていた。

事件から間もなく、国連の調査隊・隊長が、ヤンゴンで、イスラム系住民と仏教徒の宗教問題だと世界に向けて、発信してしまった。これには、ミャンマー人がビックリしていた。被害者の少女への婦女暴行・殺人の家族友人と加害者の家族友人の報復事件だったというのが、一言も報告されなかったのだ。

当時、ロヒンジャがいるラカイン地域に行くには、政府の許可が必要だった。私はミャンマー人の友人に頼み、許可をとって、一緒に視察に行った。村全体がもぬけの殻になっており、兵士が数百メートルおきに立っていた。一部の家屋は焼けたようなあとがあり、これが、村の住民をそれぞれ離れた場所に強制移住させたということなのかと理解した。

事件の後に、これは、宗教対立なのか、少女の殺人とその報復合戦なのか、村人に聞いてみると、村人は宗教対立などないというのだ。

それからしばらくして、ミャンマー人が恐れていた通り、ミャンマーの外からイスラム系の活動家が、本件にかかわるようになり、そしてこの国連の干渉により、本当に宗教戦争になってしまった。こうなると100年たっても解決できない問題になってしまったのだ。

この段階では、アウンサンスーチーは、まだ政権をとってなかった。

そして、ロヒンジャの人権が守られるべきだとの発言を一度した。この発言が、ミャンマー国民の反感を買い、彼女の人気が一時的に急落した。

この「事件」の後、彼女は、本件に関してはコメントを控えている。

政権をとった今、事態はより複雑になってしまった。

ミャンマーの民主化は、日本の民主化とかなりちがう。限定的なのだ。選挙により、アウンサンスーチーの党、NLDが政権をとったことにはなっているが、軍と警察、入管に関しては、NLDの統制下にないのだ。選挙で変えられるのは、軍関係以外のことだけ。文民統制ではないのだ。

軍は、また、次の選挙でNLDの邪魔をしたいと思っていると推測される。

そして、軍の蛮行は、国際的にはアウンサンスーチーの責任にされることを、軍は楽しんでいる、好都合だと思っている節まである。

このような複雑な理由から、この問題は解決できない。

ちなみに似た問題は、アメリカでもあるのだ。トランプ大統領が問題としているメキシコの不法移民の子供たちとロヒンジャの問題の根源は同じなのである。彼らにも国籍はなく(ロヒンジャにも国籍が無い)、オバマ大統領は、移民の子供たちには、罪がないので、アメリカ国籍が無くても、アメリカに居住する法律を作った。トランプ氏は、オバマ大統領の功績を、全て、なかったことにしようとしており、この移民の子供たちへの居住権も奪う方向なのである。ロヒンジャの人権は問題にし、メキシコからの不法移民の子供たちの人権は無いとするのは、矛盾である。


房広治『房広治の「Nothing to lose! 失う物は何も無い。」』


著者/房広治

世界の金融市場・投資業界で活躍する日本人投資家、房広治による、ブログには書けないお金儲けの話や資本市場に通用するビジネスマン・社長のあるべき姿などを、余すことなく書きます。



いま国際社会でミャンマーの「ロヒンギャ問題」が注目を集めている。しかしこの問題には、現地の実情とかけ離れた「誤解」があるという。問題の真相を、アジア問題専門家の石井英俊氏(NPO法人夢・大アジア理事長)が明かした。

(聞き手:ビデオブロガー ランダム・ヨーコ氏)

Q.いま話題の「ロヒンギャ問題」とはいったい何なんでしょう?

実は、「ロヒンギャ問題」という言葉自体が、すでに「アウト」なんです。

その理由を説明する前に、まずは基本的なことをお話しします。

いま報道で言われている「ロヒンギャ」とは、ミャンマーのラカイン州(バングラディッシュに近い西部の州)に住んでいるイスラム系の人々のことです。

ミャンマーは、もともと仏教の国で、国民の9割が仏教徒と言われています。少数民族の中にはキリスト教を信仰している人たちもいます。

イスラム教を信仰する「ロヒンギャ」は、100万人くらいいると言われています。「ロヒンギャ」たちはミャンマー国内に住んでいるのですが、ミャンマー国籍を持っていません。存在自体が認められていないからです。

特に軍の弾圧が激しく、村が焼き払われ、虐殺されています。その結果、100万人のうち40万人が難民として隣国のバングラディッシュに逃れています。

ただ、その100万人という数字も、はっきりしたものでありません。一説には70万人とも140万人とも言われており、「40万人の難民」という数も確実な数字ではありません。

Q.そもそもミャンマーにいるのに国籍が無いのはなぜでしょうか?

不法移民という扱いだからです。

現在のミャンマーという国は、第二次世界大戦の後、イギリスの植民地が独立してできた国です。ミャンマー、パキスタン、インド、バングラディッシュ、マレーシア、シンガポールは全部イギリスの植民地でした。

最近までミャンマーでは軍事政権が続いていたために、「悪い軍事政権がかわいそうな少数民族を弾圧している」「だからノーベル平和賞をもらったアウンサンスーチーが国の指導者になったらこの問題は解決するだろう」と期待されていました。

しかし私は「アウンサンスーチーが指導者になってもこの問題は解決しない」と見ていました。

なぜかというと、「軍事政権だからロヒンギャをいじめていた」わけではなく、ミャンマー人はみんな「ロヒンギャ」を認めていないからです。これは軍事政権だろうと、民主派だろうと、その他の少数民族も含め、みんなその存在を認めていないのです。

実はミャンマーでは「ロヒンギャ」という呼称を使うこと自体がタブーです。日本で例えるなら、安保法制を「戦争法」と呼ぶ人は安保法制反対派だとすぐわかるようなものです。

では、ロヒンギャの人たちをミャンマー人が何と呼ぶのかというと、「ベンガル人」です。ベンガル人とは、ベンガル地方に住んでいる人という意味で、ベンガル地方は今でいうバングラディッシュのことです。

ミャンマー人は「ロヒンギャ」を「バングラディッシュの人々」とみなしています。

バングラディッシュの人たちが不法移民としてミャンマーに来ているだけなので、ミャンマー人にしてみれば、「バングラディッシュに帰ったら?」という感覚です。

「ロヒンギャ」という呼称を使うこと自体が、「ミャンマー国内にロヒンギャという少数民族がいることを認める」ということを意味します。

歴史的に見ると、ラカイン州にはアラカン族という人たちが住んでいました。そこに後から移り住んで来たのが、「ロヒンギャ」と呼ばれるベンガル人たちです。「ロヒンギャ」を認めてしまうと、アラカン族の人たちの権利はどうなるんだと。

大前提の認識がずれているために、「アウンサンスーチーは自由と人権の味方の筈なのにどうなってるんだ」と批判され、「ノーベル平和賞を剥奪せよ」という話まで出ています。

実際に剥奪はできないのですが、ノーベル賞委員会は「今の彼女はノーベル平和賞にふさわしくない」と言っています。

いま国際社会は、アウンサンスーチーを含めてミャンマーが悪い、と徹底的に叩いている状態です。だから今回、アウンサンスーチーは国連総会に行っていません。「ロヒンギャ問題」はミャンマーにしてみればフェイクニュースなんです。

「国際社会は偏った情報で判断しているじゃないか」とミャンマー側は猛反発しています。

さらに、日本ではまだ報道されていませんが、イスラム過激派の問題があります。私は今年の5月から警告していたのですが、イスラム過激派によるテロが現実のものになりつつあります。

実はパキスタンのタリバンが、「ロヒンギャ」と呼ばれる人々に武器を流して、武装闘争を煽っているのです。それだけでなく、一部をパキスタンに連れて行って軍事訓練も行なっています。

先日はアルカイダが、「ミャンマーにおいてジハード(イスラムの聖戦)を行うので、イスラム教徒は結集せよ!」と声明を出しました。

さらに、ISも入り込んで来ています。彼らも仲が良くないので、イスラム過激派どうしの衝突が起きる可能性もあります。

彼らイスラム過激派から見れば、ミャンマーは良い「土壌」なのです。「ミャンマーには異教徒(仏教徒)から弾圧されている悲惨な境遇のイスラム教徒がいるので、正義のために戦おう」という大義ができるからです。

「ロヒンギャ」と呼ばれている人たちにしても、先が見えない中で追い詰められて、「もう戦うしかない」「しかも武器をもらえる」と。それで戦っているわけですが、出口は見えません。

今後、ミャンマーと「ロヒンギャ」はイスラエルとパレスチナのような関係になると思われます。パレスチナの人々も行き場がなく、ずっと貧しい暮らしをしています。そして貧しいが故に、テロの温床になっているわけです。

イスラエル政府はパレスチナのテロをある程度抑えることができていますが、ミャンマー政府は抑えることができず、イスラエル以上にテロが頻発する可能性があります。

それどころか、「ロヒンギャ」はアジアにおけるテロの供給基地になることも考えられます。イスラム過激派の一大拠点になるかも知れません。

スーチー政権ができたときに、ミャンマーは「アジア最後のフロンティア」と持て囃され、多くの企業が進出しましたが、必ず大変なことになります。

いまはラカイン州の中だけに収まっていますが、これから爆弾テロなど、ミャンマーの各都市に飛び火する可能性があります。日本企業も進出を控えた方が良いでしょう。

フィリピンのミンダナオ島にもISが入り込んで、イスラム過激派の拠点になってしまっていますが、中東で行き場がなくなった彼らイスラム過激派が、アジアの「力が弱い国」に入り込み、生き残りを図っているわけです。

東南アジアだけでなく、ウイグル(東トルキスタン)の方にも入って来ています。中央アジアに「第2イスラム国ができる」という噂もあります。アジアにイスラム過激派が勢力を伸ばしつつあり、非常に危険な状況です。

Q.マスコミの報じる構図を鵜呑みにするのではなく、このような背景を知っておく必要がありますね。

さらに、注意すべきなのが中国の動向です。

西側諸国は国連でも「民族浄化」という言葉まで使ってミャンマーを糾弾し、国際的な圧力をかけていますが、アウンサンスーチーは絶対に「ロヒンギャ」を認めることはできません。そんなことをすれば、政権が持たなくなります。

ところが中国だけが、「ミャンマーへの内政干渉はしません」と言っています。自分たちだけ良い顔をして、ミャンマーを仲間に引き入れようとしているわけです。「一帯一路で仲良くしましょう」と。

この構図は軍事政権の時代と同じです。国際社会はアウンサンスーチーにノーベル平和賞を与えて軍事政権に圧力をかけていました。その結果、軍事政権は中国と仲良くなってしまいました。

やっと、スーチー政権になって、国際社会はミャンマーへの経済制裁をやめましたが、また「ロヒンギャ問題」で圧力をかけています。実際に、スーチー政権と中国政府は結びつきを強めつつあります。

中国にして見れば、ミャンマーはインド洋への出口となります。中国はパキスタンにも「一帯一路」の連携を呼びかけていますが、同様に中国にとって地政学的に重要な地域なのです。

Q.ミャンマーと日本の関係は?

基本的に良いです。

それは軍事政権時代も同じだったのですが、欧米が経済制裁をかけてミャンマーを締め上げるので、「日本も付き合え」と、引きずられる形で距離をおいていました。いまでも「ロヒンギャ問題」が報道され、日本国内のミャンマーへの印象は悪くなっています。

中国が「ロヒンギャ問題」を批判しないのは、自分たちもチベットやウイグルで虐殺しているので他人のことを言えない、という側面もあります。「ロヒンギャ問題を言わないから、ミャンマーもチベット問題やウイグル問題を言わないでね」と。

欧米などの国際社会は「ロヒンギャ問題」でミャンマーを批判する割に、「チベット問題」などを中国に言いません。言いやすい国にだけいう、欧米の浅はかな「正義」です。

偏った情報で一方だけを断罪するのは間違いです。まずは、状況を正確に把握することが重要です。

▽このインタビューは動画でもご覧いただけます。


石井英俊(いしい・ひでとし)特定非営利活動法人夢・大アジア理事長。アジア会議事務局長。九州大学卒業後、塾講師、経済団体職員、選挙出馬を経て、現在、アジア問題専門家として情報発信している。平成29年10月、月刊「正論」に『香港にも慰安婦像が建っている理由』発表。


■ 【ロヒンギャ危機】 ロヒンギャ武装勢力の真実 「BBC-news(2017年10月13日)」より
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「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)は8月25日、指導者アタ・ウラー氏(中央)の映像を公開した

ミャンマー西部ラカイン州の少数派イスラム教徒ロヒンギャを注視してきたほぼ全員が、この1点については同意していた。つまり、あまりに苦しい毎日を送るロヒンギャの中から、いずれ国家の権威に抵抗する武装勢力が生まれるだろうと。

8月25日早朝に約30カ所の警察や軍施設への襲撃が始まった。これを機に、ミャンマー軍は容赦のない掃討作戦を開始し、50万人以上のロヒンギャがバングラデシュに避難せざるを得なくなった。そしてこの襲撃によって、「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を自称する正体不明のグループ率いる武装闘争が、ロヒンギャの間に根付いたことが、明らかになった。

一方で、バングラデシュにいる難民や武装勢力のメンバ―に話を聞くと、ARSAの戦略はまだ稚拙で、全てのロヒンギャが支持しているわけではないと分かる。

ミャンマー治安部隊の説明でも、8月25日の襲撃のほとんどは単純なもので、自殺行為にも等しい突撃がほとんどだったという。武装勢力の武器は、なたや鋭い竹の棒だった。

早い段階での最大級の襲撃は、マウンドーの南の沿岸部にある町、アレル・タン・ジョーの警察施設に対するものだった。

アウン・ジョー・モー警部補は襲撃後に現場を訪れた記者団に対し、襲撃の予告があったので、襲撃前夜に施設内に現地当局者全員をかくまったと話した。

警部補によると、午前4時に約500人の男たちからなる集団が2組、それぞれ海岸から駆け上がってきたという。

男たちは海岸付近に住んでいた移民局職員1人を殺害したが、警官たちが自動式の銃器で応戦したため、簡単に退散した。17人の遺体が残された。

これは、バングラデシュで1人のロヒンギャ難民から聞いた話と一致している。

ラカイン州をどのように追われたか話してくれた男性によると、8月25日の襲撃の数日後、武装勢力が男性の村全体を襲撃に参加させようとしたと不満をあらわにした。

男性によると、武装勢力は牛やヤギを好き勝手に奪い、ロヒンギャの独立国ができた暁には代金を払うと村人たちに告げた。新しいなたを青年たちに与え、近くの警察署を襲撃するよう命令した。

ARSAにはたくさんの武器があるので後で村の応援に戻る――。武装勢力はそう約束した。言われた通り村から約25人が攻撃に加わり、その多くが死んだ。

武装勢力からの応援はなかったという。


4年前にARSAに加わった20代の若者に会うことができた。彼は今はバングラデシュにいる。

ARSAの指導者アタ・ウラ―氏が2013年にこの若者の村を訪れ、ロヒンギャの不当な扱いに抵抗して闘うべき時だと主張したそうだ。

ウラ―氏は、それぞれのコミュニティーが5人~10人ずつ出すよう要求した。村から丘陵地帯に連れて行かれた村人たちは、そこで古い車のエンジンピストンを使って簡易爆弾を作る訓練を受けた。

若者の村はこれに勢いづき、訓練を受ける村人たちに食べ物や身の回りのものを運ぶようになった。若者も最終的に、訓練を受け始めたという。

訓練を受けた村の男たちは、とがった竹の棒で武装し、村の巡回を始め、村人全員をモスク(イスラム教の礼拝所)に行かせた。銃は全く見なかったと、若者は話した。

「世界の注目を集める」

8月25日に銃声が聞こえ、遠くの方で火が燃え上がるのが見えた。男性が「アミール」と呼ぶ地元のARSA司令官が到着し、軍が攻撃しに来ていると男たちに伝えた。

先制攻撃をしろと命令された。どうせ死ぬのだから、信念のため殉教者として死ねと言われた。

若者によると、あらゆる年齢の男たちがナイフや竹の棒で武装し、向かってくる兵士に突撃し、大勢が死傷したという。死んだ数人の名前も教えてもらった。

この襲撃の後、若者は家族と共に水田地帯に逃げ、バングラデシュを目指した。逃げる間、仏教徒ラカイン族の男たちにも襲われたという。

50万人以上のロヒンギャがバングラデシュに避難した。その多くは女性や子供だ。写真は難民キャンプで人道支援物資の支給を待つ人たち(5日、コックス・バザー)

そんな不毛な攻撃になんの意味があるのか。私は若者に尋ねた。

世界の注目を集めたかった――。若者はそう答えた。それまであまりに苦しかったので、死んでも構わないと思っていたのだと。

国際的な聖戦主義者グループとのつながりは否定した。自分たちの権利のために戦い、ミャンマー軍から銃や弾薬を奪おうとしている。それだけだと。

この若者をはじめ複数の人の話からは、戦闘にフルタイムで参加している戦闘員数百人が中核にいる集団の様子がうかがえる。中には外国人が若干名いるのかもしれない。また、訓練も受けず武器も持たないまま直前になって攻撃に参加した人たちが、何千人といただろう。

8月25日、パキスタン生まれのロヒンギャ男性、アタ・ウラー氏は、頭巾をかぶって武器を持った男性2人を携えたビデオを公表した。ウラー氏は、ラカイン州の住民衝突を機に2012年にARSAを立ち上げた人物だ。

8月の襲撃は、「ロヒンギャ大量虐殺」への防衛行動だったとウラー氏は言う。

「我々を包囲して攻撃してきた」ミャンマー軍に対抗して、機先を制するほか、自分たちARSAに選択肢はなかったと。

ウラー氏は、国際社会に支援して欲しいと訴えた。アラカン(ラカイン州の別称)は当然ながらロヒンギャの土地だと主張した。

しかしウラー氏はその後、ARSAがラカイン州の他の民族とは争っていないとたびたび発言している。

他のムスリムへの連帯を呼び掛けていない。ウラー氏は自分の闘いを、イスラム教聖戦(ジハード)と位置付けていないし、世界のイスラム教徒の闘争という文脈で語ってもいない。


アタ・ウラー氏は他のイスラム教集団に不信感を抱いていると言われる。今も、支援を求めている様子はない。

「アタ・ウラー氏と広報担当者は明確に、民族国家主義運動を自認している」。タイ・バンコクの安全保障アナリスト、アンソニー・デイビス氏はこう指摘する。

「国際的なイスラム教聖戦主義や『イスラム国』(IS)、アルカイダと、何も実質的につながっていない。自分たちの闘争の目的は、ラカイン州内のロヒンギャの権利回復だという認識だ。分離主義者でもなければ、イスラム教聖戦主義者でもない」

しかしながらミャンマー軍は、アタ・ウラー氏の組織を「外国の支援を受けた、ミャンマー国民に対する陰謀」だと巧みな印象操作に成功した。大量のロヒンギャがバングラデシュへ逃げたことは、ミャンマーではほとんど報じられていない。

ミン・アウン・フライン国軍最高司令官は9月上旬、ラカインはロヒンギャのものだというアタ・ウラー氏の発言を取り上げ、ミャンマーはいかなる領土も「ベンガル人過激主義テロリスト」(同司令官)に明け渡すことは決してない、と警告した。

ラカイン州での軍事作戦についてフライン国軍最高司令官は、「1942年以来の未決案件」と呼んだ。これは、当時の英国軍と日本軍の戦闘で、前線が移動し続けた時期への言及だ。

人口バランスの「修復」?

1942年当時、ロヒンギャとラカイン州の仏教徒はもっぱらそれぞれ、相手の敵軍を支持していた。双方で民兵による虐殺が相次ぎ、大量の人口移動もあった。

ミャンマーとラカイン州で国家主義者の多くが、ラカイン州のロヒンギャ人口はベンガルからの移民のせいで不自然に激増したと考えているのは、この当時のことがあるからだ。

そのため、今年8月末からわずか4週間でロヒンギャ人口の半分をラカイン州から追い出したのは、軍の「一掃作戦」が成功したのだとも言える。ラカイン州の人口バランスは確実に、イスラム教以外が優位な状態に戻ったので。

それだけに、ではARSAは今後どうするのかという疑問が残る。ラカイン州内には今やほとんど、もしくは全く拠点が残っていないのだ。

国境をまたいで攻撃を仕掛けるのは、今までよりずっと難しくなるだろう。それにバングラデシュがおそらく黙っていない。バングラデシュは隣国に押し付けられた難民危機に激怒してはいるものの、抜け穴だらけの長い国境沿いで衝突が起きないよう、これまで常に注意を払ってきた。

私たちに情報を提供してくれた若者は、「首長」やバングラデシュにいる他のARSA指導者とは定期的に連絡を取り合っていると話した。ただし、アタ・ウラー氏との接触はない。

ARSAが次に何をどうするつもりか、まったく見当もつかないと若者は言う。難民キャンプで私たちが取材した人のほとんどは、ARSAの存在に気づいていた。組織について小声で話すだけでも、明らかに緊張している人もいた。

8月の衝突に至るまでの数カ月間で、複数の内通者がARSAに殺されたと言われている。かなり、信ぴょう性の高い情報だ。

しかし同時に、ロヒンギャの間ではARSA称賛も広がっている。1950年代以降、ミャンマー軍に歯向かった唯一の組織なのだ。

「バングラデシュの態度が今後の展開を大きく左右する」と、アンソニー・デイビス氏は言う。

「国境を閉鎖し続けるかもしれない。あるいは、バングラデシュ系にせよ外国系にせよ、ロヒンギャがいなくなった空白にイスラム過激派が入り込んでくるくらいなら、ARSAに最低限の支援を提供するかもしれない。

「国境を越えて隣国に圧力をかけるため、軍情報部が反乱運動組織を活用する。そういう事例は、よそでも起きているので」



■ ロヒンギャ問題、スーチー氏批判は筋違いだ - 国際的な批判は状況を悪化させかねない 「東洋経済(2017/09/19 6:00
)」より
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ベンガル湾に面するミャンマー(ビルマ)西部のラカイン州。その北西部に住むイスラーム系少数民族ロヒンギャが続々と国境を越え、難民となって隣国バングラデシュにあふれ出ている。その数は40万人に達している。

発端は8月25日未明に発生した「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を自称する武装集団によるミャンマー政府軍(国軍)への襲撃だった。武装集団とはいっても、持っていた武器の大半は槍とナイフにすぎず、旧日本軍の「万歳突撃」のように政府軍の基地を襲い、自ら数百名の死者を出している。政府軍側は10数名の犠牲者にとどまった。

「ロヒンギャ」と「難民」は一体化した現象

ミャンマー政府は即座に彼らをテロリストと認定、逃走した武装グループを追って軍と警察が一般ロヒンギャ住民の住む地域に入り込み、それが過剰な捜索と弾圧を生んだ。さらに正体不明の民兵が加わり、あちこちで住民に対する乱暴狼藉と放火が発生した。家を失い、恐怖に怯えた一般住民は、大挙して国境のナフ河を超えバングラデシュ南端へと脱出したわけである。

ロヒンギャは過去にも2度、1970年代後半と1990年代前半に、それぞれ20万人から25万人規模の大規模難民となってバングラデシュに流出している。2012年には彼らの居住地のひとつラカイン州シットウェーで、多数派の仏教徒ラカイン人との間で暴動に巻き込まれ、政府によってゲットーのような場所に追い込まれて不自由な生活を強いられた。

2015年5月には、大量のボート・ピープルとなったロヒンギャが南タイの海岸沖で木造船に乗ったまま漂流するという事件が発生。そして昨年10月には、今回より小規模の集団による国境警備隊襲撃事件が起き、軍と警察の過剰捜索と報復行為によって、数万の難民がバングラデシュ側に流出している。このように「ロヒンギャ」と「難民」は一体化した現象と化している。

ロヒンギャはインドのベンガル地方を起源とする人々で、保守的なイスラームを信仰し、一般のミャンマー人と比べて顔の彫りが深く、言語もビルマ語ではなく彼らがロヒンギャ語と称するベンガル語のチッタゴン方言の一つを使用している。それだけに仏教徒が多数を占めるミャンマー国民の多数派からの差別にさらされ、独立後の14年間を除き、1960年代以降は政府も抑圧的で排斥的な対応を取り続けてきた。

ロヒンギャは国内に100万人以上住んでいると推測される。人口調査の対象から除外されているため正確な数字は不明である。ミャンマー政府は彼らの存在を認めず、国籍を付与していない。より正確にいうと、名乗りとしてのロヒンギャを拒否し、「ベンガル人」「バングラデシュ人」などの名付けを押し付けている。

「ロヒンギャ」はどこから来たのか


一方、ロヒンギャという民族名称は、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。その意味では戦後生まれた新しい民族集団とみなすことも可能である。ただ、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国の時代に、多数派の仏教徒と共に、ムスリムも一定数居住していたことが史実として知られ、そこに起源を求めることも十分できる。

アラカン王国に住むムスリムは、捕虜として連れてこられた人たちの子孫や傭兵たちで、王宮で役職に就く者もいた。アラカン王国は1785年、ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略によって滅亡する。その後、1826年に第一次イギリス―ビルマ(英緬)戦争での敗北を経て、ラカインが英国の植民地と化すと、以後ベンガル側から大量のムスリムがこの地に入り、数世代を経て定住するに至った。

いつ、なぜ「ロヒンギャ」と名乗るようになったのか

アジア・太平洋戦争期(1941-45)には、イギリス勢力を追放しビルマを占領した日本軍がラカインで仏教徒の一部を武装化し、ラカイン奪還を目指す英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化した。両者の戦闘は日英の代理戦争とは別次元と化し、ムスリムと仏教徒が殺し合う「宗教戦争」となり、ラカインにおける両教徒の対立を取り返しのつかない地点に至らせた。

大戦後、1948年1月にビルマは英国から独立する。しかし、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が及ばない地域だった。東パキスタンで食糧不足に苦しむベンガル人がラカインに大量に流入し、彼らのなかには武装反乱に走る者もいた。ラカイン北西部に住むムスリムがロヒンギャとして名乗りを挙げたのはまさにこの時期だった。

こうした歴史を整理すると、アラカン王国期からのムスリム居住者を基盤に、英領期のベンガルからの流入移民がその上に重なり、さらに旧東パキスタンからの新規流入移民の層が形成され、「三重の層」から成るムスリムがこの地域に堆積したといえる(1971年の印パ戦争時の流入移民を含めれば「四重の層」ともみなせる)。彼らが実際にどのように混ざりあい、いかなる理由で「ロヒンギャ」を名乗るようになったのかについては、いまだ明らかではない。

さて、今回の難民流出に伴うロヒンギャの苦境に関し、国際社会はメディアを含め、アウンサンスーチー国家顧問を非難している。しかし、彼女1人に責任を負わせることは前向きな結果を生まず、逆に事態を一層悪化させてしまう可能性が高いことに気付くべきである。

スーチー国家顧問は「大統領の上に立つ」国家顧問として、2016年4月からミャンマーを率いている。しかし、彼女には軍(国防)と警察(国内治安)と国境問題に対する指揮権がない。現行憲法がその3つの領域について大統領ではなく軍によるコントロールを認めているためである。

スーチー氏が「消極的」に見える理由


ロヒンギャ問題の核心はこの3つの領域と直接関わるため、彼女は自らの指揮権を用いてこの問題を解決に向かわせる法的権限を持っていない。もちろんそれでも、軍に意見は言える。彼女がそれをしているように映らないのは、そこに憲法改正に向けた彼女の長期的戦略が隠されているからである。

さまざまな軍の権限を認めた現行憲法は、かつて軍政期に15年もかけて準備されたものである。同憲法の改正のハードルは高く、上下両院議員の75%+1名以上の賛成がなければ発議できない。両院とも議席の25%が軍人に割り当てられているため、与党の国民民主連盟(NLD)は過半数という数の力だけでは改憲発議ができない。

軍は護憲にこだわり、改憲論議を拒否する。そのためスーチー国家顧問としては、軍に憲法改正の必要性と意義を納得させるために敵対を避け、信頼関係を深めていかざるを得ない。ロヒンギャを不法移民集団とみなし、今回の難民問題についても治安問題としてしか受け止めない頑なな軍に対し、彼女が強く意見を言えないのはそのせいである。

立ちはだかる多数派世論の壁

軍の頑固な姿勢だけにとどまらない。彼女はまた、反ロヒンギャに立つ多数派世論の壁も意識せざるを得ない。軍だけが壁であるならば、改憲が遠ざかるリスクを承知で国内世論に訴え、国際社会の声に迎合する態度を表明できたかもしれない。

しかし、上座仏教徒が9割近くを占める国家において、「仏教徒でビルマ語を母語とする人々だけが真のビルマ国民である」と考える排他的ナショナリズムに影響を受けた人々に対し、ロヒンギャ問題を冷静に語って理解させることは、短時間ではきわめて困難である。彼女が「この問題は歴史的に根が深く、発足一年半の政権にすぐに解決できるようなことではありません」と語ったことは、正しい現実理解として受け止めるべきである。

国際社会が仮に「何もしない」「何もできない」とスーチー国家顧問の責任を追及し、彼女を辞任に追い込んだとしたら、そのあとに何が生じるだろうか。

考えてほしいのは、彼女以外に国家顧問職(=彼女のために特別設置されたポスト)を継げる人物がミャンマーにはいないという事実である。国民のスーチー支持は非常に強く、そのかわりになれる人は見当たらない。

実はスーチー氏には秘策がある


仮にティンチョー大統領が前面に出てきたところで、あくまでスーチー国家顧問の代理という立場にすぎず、40万人の難民帰還に後ろ向きでロヒンギャを治安監視対象としてしか見ない軍を制御する力はまったく期待できない。スーチー国家顧問が姿を消せば、ミャンマーでは政治全般への軍の影響力がいっそう強まり、ロヒンギャにとって状況はさらに悪化するだけである。

また、スーチー国家顧問を支持する世論は、同時に反ロヒンギャでもあるため、そこにねじれ現象が起きて、軍と共にロヒンギャ排斥に立ちながら、スーチー国家顧問を辞任に追い込んだ国際社会に対する反発を強める可能性が高い。そうなると、この国が2011年以降歩んできた開放化への道を逆転させてしまいかねない。国際社会はこうしたことを冷静に理解する必要がある。

スーチー国家顧問肝いりの委員会

実は、スーチー国家顧問はロヒンギャ問題の前向きな解決につながりうる戦略を持っている。それは今回の襲撃事件が発生する前日、8月24日に発表されたコフィ・アナン元国連事務総長が委員長を務める「ラカイン問題検討諮問委員会」による答申を生かすという方法である。

この諮問委員会は、昨年8月にスーチー国家顧問の肝いりで結成され、9人の委員のうち3人が外国人、ロヒンギャは含まないがムスリム2名が含まれるというメンバー構成だった。その委員会が1年間にわたるラカインとバングラデシュ双方での長期調査を経て、次のような前向きの答申を示したのである。

ひとつは、土着民族として認められていないロヒンギャに関し、三世代以上ミャンマー国内で居住している場合は国籍を付与すべきであるという進言である。もうひとつは、1982年に改正施行されたミャンマー国籍法の再検討を促すということである。

同法では国籍を3分類し、土着民族(全135)には自動的に「正規国民」の地位を付与するのに対し、インド系や中国系住民らを19世紀前半の第一次英緬戦争以降に入ってきた移民とみなし、彼らに「準国民」や「帰化国民」としての地位しか与えない仕組みになっている。この不平等な法律の再検討を諮問委員会は提言した。

注目すべきは、この提言はスーチー国家顧問が以前から望んでいた内容だったことである。まだ彼女が一下院議員だった2012年、インドを外遊した際の記者会見で同じ内容を語っており、また2013年4月に来日した際も、東京の人権団体代表らが参加した会議で同じことを語っている。

国際社会が「してはいけない」こと


彼女としては、自分が先走ってこの見解を軍や国民に語っても説得は難しいと考え、アナン委員長に象徴される「国際社会の眼」もいれた第三者委員会に調査してもらい、同内容の見解を示してもらうことによって、現状の打破を狙ったものと考えられる。無論、この内容を軍や世論が受け入れるには相当な時間と工夫が必要であるが、世論を軟化させる材料とはなりえる可能性がある。

残念ながら、この前向きの答申が出された翌日未明、襲撃事件は発生した。これにより軍との協調の下、事件をテロリストによるものと断言せざるを得なくなった彼女は、アナン委員長のせっかくの提言が吹き飛んでしまうリスクを背負うことになった。しかし、彼女にとってこの提言は現段階でも大きな希望の灯であることに間違はない。

国際社会がとるべき2つの道

以上から、国際社会がとるべき道は2つに絞られる。ひとつは40万人近くにのぼる難民の保護に一致してあたることである。そこにバングラデシュ政府はもちろんのこと、ミャンマー政府も責任もって絡ませる必要がある。

ミャンマー政府は軍部を中心にこの事件をテロリズムによる主権侵害としてのみとらえる傾向があるが、それはそれとして、難民のこれ以上の流出防止と、流出難民への物質的・精神的保護にきちんと関わらせるべきだ。また、できるだけ早い段階で、帰還に向けた交渉に加わるよう促す必要がある。

もうひとつは、中長期的にアナン諮問委員会の提言を生かす方向でミャンマー政府がロヒンギャへの国籍付与に向けた政策をとることができるよう、国際社会としてスーチー国家顧問をバックアップすることである。国際社会が冷静さを取り戻し、この問題の本質的かつ現実的な解決に向けて何が必要なのかを考えれば、同顧問に対する非難のオンパレードをやめるべきことは明白だといえよう。

最後に在日ロヒンギャ人の声を紹介しておく。9月初旬の都心でデモをしたロヒンギャの一男性がテレビカメラに向かってしゃべったひとことである。

「私たちはいまでもアウンサンスーチー国家顧問を信頼しています」

ロヒンギャから信頼されているスーチー国家顧問を、国家顧問から辞任させるようなことがあってはならない。














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最終更新:2021年03月25日 13:28