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■ 文通相手の女性が衝撃証言 宮崎勤被告“四重人格”を示す7年間の獄中書簡公開【全文公開】――「もう一度読みたい、あのスクープ」 「Yahoo!news[文春オンライン](2019.4.18)」より
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死刑を宣せられた被告を、憐れみさえ込めた複雑な思いで見つめる女性がいた。彼女は同世代を生きるものとして、被告の病んだ心情を癒そうと、7年間、文通してきた。精神鑑定の採否について様々な意見も交わされるいま、彼女が明かす被告の“四重人格”とは……。

※「週刊文春」創刊60周年企画「もう一度読みたい、あのスクープ記事60本」より、アンケート得票数の高かった記事を特別再録します。本記事は 1997年4月24日号より転載。記事中の年齢や日付、肩書き等は掲載時のものです。

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■ <平成という時代>連続幼女誘拐殺人事件 宮崎元死刑囚の部屋に衝撃 「東京新聞(2019年4月18日 朝刊)」より
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 一報が入ったのは、一九八九(平成元)年八月十日の夕刊の締め切りを過ぎたころだったか。東京都江東区の都営住宅付近で、保育園に通う五歳の女の子の行方が分からなくなった事件で、別のわいせつ事件で逮捕された男が女の子を誘拐して殺したと自供した。警視庁捜査一課担当になって三カ月。新米事件記者の私は、男の自宅がある東京都五日市町(現あきる野市)に急いだ。連続幼女誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤元死刑囚=当時(26)=の取材に明け暮れた晩夏の始まりだった。

 都心の最高気温が三三度五分。うだるような暑い日だった。今では考えられないことだが、警察による規制線はなく、敷地内に地域紙「秋川(あきがわ)新聞」を発行する印刷所がある自宅には両親がいた。先着していた本紙の福生通信局記者(当時)坂本丁次(ていじ)さん(86)が学生時代に地域紙の手伝いをしていた縁で、父親=当時(59)=と交渉し、取材に応じてもらえることになった。

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 父親は水色の半袖開襟シャツ、母親は半袖のワンピース姿。二人して扇風機が回る居間に座り、父親が汗を拭き拭き記者たちの質問に答えた。「息子がそんな大それたことをするとは思わない」。父親はそう言うと、思わぬセリフを口にした。「私も地域の報道に携わる人間だ。部屋を見てもらってもかまわない」

 許しを得て入った部屋を見て、衝撃を受けた。窓をすべて覆った薄暗さ。万年床のムッとする感じ。壁一面を埋めた五千七百本ものビデオテープ。大型テレビと四台のビデオデッキ。雑誌の山。取材ノートに「アニメディア」「レモンピープル」といった雑誌名が残っている。その時は知るよしもなかったが、彼はこの部屋で犠牲者の遺体を切断していたのだった。

 裁判担当のころ、東京地裁の法廷で彼の姿を何度か見た。たいていは居眠りしたり左手でほおづえをついて絵を描いたりしていて、心ここにあらずというふうだった。

 被害者と家族に地獄の苦しみを与え、子を持つ親たちを不安に陥れた事件は、彼の周辺の人々の人生も変えた。被害者側への賠償のため自宅は売却され、駐車場になっている。賠償にめどを付けた父親は、多摩川に身を投げた。印刷所の工場長だった森谷久米雄(もりやくめお)さん(83)は慣れ親しんだ職を突然失い、「水道業の手伝いをしたり大工の手伝いをしたり」して家族を養った。「森谷さんにとってあの事件とは?」。三十年ぶりに会って最後にそう尋ねると、五秒ほど沈黙し「何とも言いようないねえ」とつぶやいた。

 社会の防犯意識も大きく変わった。事件後、わが子に防犯ブザーを持たせる親が急増した。文部科学省の調査ではブザーを児童に配布している学校が八割に達する。一般社団法人電子情報技術産業協会に加盟する日系企業十二社だけで、監視カメラの出荷台数は年六十万台前後に及ぶ。

 殺人の減少と軌を一にするように、子どもの犠牲は減る傾向にある。二〇一七年の十三歳未満の殺人被害者は六十五人。多くは親などによる無理心中で、四人もの連続幼女誘拐殺人事件は、あれから起きていない。 (加古陽治)

<連続幼女誘拐殺人事件> 1988年から89年にかけて、埼玉県と東京都で4歳から7歳の女の子4人が誘拐されて殺された事件。警視庁が別のわいせつ事件で89年8月に逮捕した宮崎勤元死刑囚=当時(26)=が4人の殺害を自供。多重人格を含む3種類の精神鑑定が出るなどして7年に及んだ裁判の末、97年に東京地裁で死刑判決を受けた。2006年に最高裁で死刑が確定し、08年に執行された。













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最終更新:2019年04月30日 12:55