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■ 今日に解明が残された天皇と明治維新の問題 「万国時事周覧(2019-05-09 15:23:44)」より
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 昨日は、新天皇が即位して初めての宮中祭祀の儀式を行ったとして、メディア各社とも大きく報じておりました。平安時代から伝わる黄櫨染御袍に身を包み古式ゆかしく拝殿に上る姿はいかにも日本国の伝統を体現しているように見えるのですが、今日、宮中祭祀とされる儀式の中にも、即位の礼に際して式場の中心に地球儀が置かれたように、明治期に創作されものも少なくないそうです。

 近代とは、チャールズ・ディケンズが指摘したように、まことに奇妙な時代であると言えます。日本国でも、明治維新に際しては王政復古のスローガンを掲げられつつ、この時期を通して国家体制は一挙に近代化さていゆくのです。こうした近代化の過程で観察される現象はメビウスの輪戦略にも見えるのですが、明治維新については、未だに謎の部分が少なくないのです。そして、今日、天皇の地位や役割について考える時、明治という時代の謎解きの作業は避けて通れないように思えます。

(※mono....中ほど略、詳細はサイト記事で)
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こうした視点から見ますと、これまで謎とされてきた歴史の表面に現れた出来事を合理的に説明することができるかもしれません。後に伊藤博文が親英路線を離れてロシアに接近し、かつ、暗殺されるのも、同国際組織との関係が拗れた結果かもしれません。また、国民からの人気が高く、純粋に日本国の将来のために命をかけた若き維新のヒーロー達が明治の時代を迎えることなく無念にも志半ばにして斃れ、薩長両藩の留学経験者のみが明治政府にあって高位高官に上り詰めたのも、あるいは、明治維新を裏から操った勢力の意向によるものであっとも推察されます。

(※mono....中ほど略、詳細はサイト記事で)
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 西欧列強が角逐する中、当時の日本国には別の選択肢やシナリオがあり得たのか、という問いに対しては、模範的な回答を見つけることは確かに難しいことかもしれません。イギリスやフランスもまた、広大な植民地を有する列強の一角を占めながら、その実、国際金融財閥の傀儡であったとしますと、日本国も植民地ではなく傀儡国家の一つに選ばれただけ、‘まし’とする見方もありましょう。しかしながら、歴史を後世の人々が書き換えることはできませんが、事実を突き止めることで今日の教訓とすることはできるのではないでしょうか。今日の天皇の血脈と役割が明治期において創設されたとしますと、明治以前に遡って、国際勢力に利用されることのない新たなる形を考えるべきなのではないかと思うのです。


■ 消された孝明天皇とでっちあげ明治維新 「AKOAKO’s diary(2019-02-10)」より
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(※mono....あちこち略しています。詳細はサイト記事で。)

 ↓ 以下の文章はあるグループにのせたものです


今日は 幕末期まで遡ります

 幕末期といえば、江戸時代
 江戸時代最期の最終期の天皇は孝明天皇 の御代でした

 終始攘夷を望むなか、尊攘派志士らの過激な討幕運動に反対し、妹和宮を将軍家茂に嫁がせるなど公武合体の立場をとった...と言われています。

 ちなみに、幕末は大河ドラマでは欠かせないほど、多くの作品で映像化されていますが。
過去の作品において特徴的なひとつとして、 長州藩が主役の作品では 出てこないことが多いのです

 なぜなのでしょう。時代背景からいったら気になりますが。
なぜなら、幕末の長州藩士は、天皇を奉じて 大政奉還にむけて動いていったのですから
彼らの崇拝対象の、天皇の姿が、、作品のなかでも出てこないのは 疑問を感じるものの

 孝明天皇の生涯、そして何がおこってきたのか その複雑な背景をみていきたいと思います

(※mono....中ほど略)
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【孝明天皇に倒幕の意志は全くなかった】という点が非常に重要で

孝明天皇は、確かに攘夷派であったものの
それは=倒幕の 図式ではなく
あくまで幕府と力を合わせて協調路線を歩むというものだった。

孝明天皇は穏健派で、譲位にかこつけた戦争や暴力を嫌っていた背景があったということです。

(※mono....中ほど略)
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 話がそれましたが、孝明天皇の崩御は、当時の発表は2月3日になっていますが、実際は、1月30日
奇しくも、このグル―プの発足日...(◎_◎;)

 チャートつくって、ちょっと驚いた。命日だったのか...
 152年前... 無念の死だったかどうか、真実はやぶの中だけれど
実際、暗殺説が昔からいわれているので、 天然痘は、ないだろう。どこかの王族じゃあるまいし
(吹き込んだのは、欧州人か...)とさえ思うくらい

(※mono....中ほど略)
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「孝明天皇暗殺説は複数あるけれど

安重根の伊藤博文殺害激文に孝明天皇暗殺者は伊藤と明記。英外交官もその噂認めた。という話もあり。 孝明天皇は天然痘ではなく ヒ素で毒殺されたというのが、いまのところ有力です。外国かぶれで、鹿鳴館時代のとあるパーティーで海外からの賓客に、明治天皇を指さしたあと、ジェスチャーを交えて、彼はマリオネット(操り人形)と言い放ったことも記録にのこっている。

そんな人物がお札を飾っていることも遺憾だが」

(※mono....中ほど略)
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 本来、天皇は直々に軍を率いない。

 軍の統帥は節刀を預けた将軍の役目でした。
 伝統的に天皇は軍事・行政・司法に口を出さない存在として

 神事に携わってきたのですから。

 本来の伝統と、薩長が、持ち出した(原案は英国のシナリオ)
 天皇統帥権とのズレ、勘違いがあののちの悲惨な戦争の惨禍を悲劇を招いた

 いまだ 根源的なズレを利用したことへの反省はなく

 日本の魂は宙ぶらりんな状態です



 平成は、これの前に元号チャートから解読しましたが

 次の御代で、元号改定で、新しい幕が明けることで

閉塞感から解き放たれていくでしょう。時代の変容も加速度的におこっていくとおもいます。


■ 明治維新とは薩長の天皇を利用した暴力クーデター以外の何ものでもない 「小坂正則の個人ブログ(2018年 10月 23日)」より
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「明治150年記念式典」に明仁陛下が不参加の思いとは?

本日23日に「明治150年」を祝う政府主催の記念式典が開催されたそうです。しかし、その式典は天皇陛下と共産党や社民党など一部の野党は参加しませんでした。朝日新聞ネット版によると、「佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇と香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。宮内庁は「政府からお声がけがなかった」(西村泰彦次長)としている。共産党は「明治150年の前半は侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史。丸ごと祝い、肯定するような行事には参加できない」(小池晃書記局長)として欠席した。」(ここまで引用)
官邸は「式典に天皇をお招きして、来てくれなかったら赤っ恥だから呼ぶまい」と考えたのか、それとも天皇を最も嫌っている安倍晋三が「天皇なんか呼ばなくていい」と菅に伝えたのか知りませんが、明仁天皇も「呼ばれたって、安倍晋三が自分の山口県を持ち上げる式典なんかに行くものか」と思っていたのかどうかは知る術もありません。でも、呼ばれなくてよかったよかった。明治100年式典では佐藤栄作首相が「日本国万歳」と唱和して昭和天皇も一緒に万歳を唱和しています。
なぜ明仁天皇が安倍の主催する式典に参加したくないのか、あの2013年4月28日の悪夢のような「主権回復の日」を再び繰り返したくはないからです。「主権回復の日」とは、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本が連合国の占領体制から抜け出して61周年をむかえた28日に初めて開催したものです。その式典が終わって天皇夫妻が退席しようとした時、安倍首相が「天皇陛下万歳」を3回唱和したのです。これに対してマスコミは「天皇の政治利用だ」という批判。中国からは「戦前回帰だ」と言う批判が出ていたのです。ですから、今回の式典に明仁天皇は「また安倍に利用されてたまるか」と考えていたことでしょう。それにしても不参加が共産党と社民党に自由党だけというのは実に寂しい限りです。政府のHP動画では「天皇陛下」の声は消して「万歳」だけが聞こえているそうです。その理由として「マイクが故障した」と答えているそうです。(「天皇陛下」のところだけマイクが故障するか?)

(※mono....以下副題のみ、詳細はサイト記事で)

江戸幕藩体制は世界一の民衆文化と地方自治が行われていた素晴らしい社会だった

明治以後の産業革命の負の歴史も忘れてはならない

明治維新の歴史を見直す必要がある

天皇を利用した薩長独裁政権は今日まで続いている













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最終更新:2019年05月09日 17:27