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■ 人間の「こころ」は一つとは限らない 「日経ブックplus(2023.10.11)」より
岡本 裕一朗/玉川大学名誉教授
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「こころ」という言葉は誰もがよく知っています。しかし、改めて「『こころ』ってどんなもの?」と尋ねられたら答えに詰まってしまいます。最初は優しいと思えた人が、長くつきあうと意地悪な面が見えてきた。その場合、どちらがその人の本当の「こころ」でしょうか。あるいは人間には「二つのこころ」があるのでしょうか。岡本裕一朗・玉川大学名誉教授の著書『「こころ」がわかる哲学』から抜粋して解説します。
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人間に「こころ」はいくつあるか
 「あなたには『こころ』はいくつありますか」――こう問われたらどう答えるでしょうか。

 奇妙なことを聞くものだ、と怪訝(けげん)な顔をするだけかもしれません。
 というのも、たいていは、「一つに決まっている」と考えているからです。太郎には太郎の「こころ」、花子には花子の「こころ」がある、というわけです。これを「人格の同一性」とか「アイデンティティ」と呼びます。

 しかし、あらためて問い直してみると、「太郎の『こころ』は、本当に一つ」なのでしょうか。
 たとえば、太郎が仕事をしているときと、ギャンブルをしているときでは、まったく違った人物に見えます。最初は優しいと思えた人も、長くつきあってみると意地悪な部分が見えてきます。

 このとき、どちらかが本当の「こころ」で、他はにせものの「こころ」なのでしょうか。
 それとも、その人には「二つのこころ」があるのでしょうか。

 とはいえ、ここで根本的な疑問が浮かぶかもしれません。
 「そもそも、『こころ』は一つとか二つというように、数えることができるのか」ということです。

 リンゴやミカンのようなモノであれば数えることもできますが、「こころ」の場合は違います。こころを「一つ」としてまとめる「アイデンティティ」なんて、あるのでしょうか。
 それとも、「こころ」にはさまざまな単位(アイデンティティ)があって、複数として数えることも可能なのでしょうか。考え始めたら疑問がつきません。

そもそも「個性」とは
 ここで、「個性」という言葉を考えてみましょう。
 実際、日常的な場面でも、他の人とは違うその人の意義が、しばしば「個性」として語られています。子どものころから、繰り返し「個性を大切にしよう」と強調されています(「個性」が他人から命じられるのは、不思議です)。

 しかし、そもそも「個性」とは、いったい何でしょうか。
 「個性」という言葉を英語で表わすとき、ドイツ語(Individualität)の英語版(Individuality)の他に、「パーソナリティ(Personality)」という語がしばしば使われます。これはすぐ分かるように、「人」を表わす「パーソン(person)」の派生形です。

 「パーソン」は辞書を見ると、「(他と違い個性ある一個人としての)人」と説明されています。つまり、他とは区別された一人の人間こそが「パーソン」であり、その人のもつかけがえのない個性が「パーソナリティ」というわけです。

 しかし、この単語の歴史的な由来を考えると、意外なことが分かります。
 じつは、「パーソン」や「パーソナリティ」は、ラテン語の「ペルソナ(persona)」(さらにはギリシア語の「πρόσωπον」を起源としたものです。この「ペルソナ」という言葉は、本来は劇で使われる「仮面」を意味する言葉でした。

 たとえば、ゼウスの役を演じるときは「ゼウスの仮面」をつけるように、役者は舞台で「役柄の仮面(ペルソナ)」をつけて登場したのです。そこから意味が転用されて、「役柄」や「役者」を指すようになりました。

 その後、「ペルソナ」は劇用語の文脈から離れ、日常で使われる言葉になるのですが、それでもなお、基本的な意味に変わりはなかったのです。

 しかし、近代になると、「ペルソナ」から「役割」という意味が次第に失われていきました。「ペルソナ」から生まれた「パーソン」は、「物」と区別された「人物」を指す言葉となり、さらには「権利主体」や「行為主体」という意味を担うようになったのです。

 今では、「パーソン」や「パーソナリティ」という言葉を聞いて、「役割」を連想する人はほとんどいません。むしろ、他とは違うその人特有の性質だと理解されています。
 そのため、日常生活では、私たちが他人に対して演技らしき行為をするとき、それは単なる外面であり、むしろそれとは区別された「本当の自分(パーソン)」がある、と考えるのです。

 つまり、現代においては、「本当の自分」と「演技された自分」は対立関係にあり、「ペルソナ」の本来の意味とはまったく逆になっているのです。

 しかし、本来の意味を考えるならば、「演技」こそがペルソナ(パーソン)なのです。
 今日、個性と仮面は対立するものとして理解されています。しかしながら、じつを言えば、仮面だけでなく、「個性」と見なされているものも含めて、すべて「他人に対する演技」と考えることができます。

 もしも、「個性」を「本当の自分」と表現するならば、「本当の自分」とは「演技された自分」のことなのです。

 たとえば、ある青年が親と話すときは「子どものペルソナ」を演じますし、電車に乗れば「乗客のペルソナ」を演じるでしょう。学校で授業に出席するときは「学生のペルソナ」を演じ、友達や恋人には、それに応じたペルソナを演じるでしょう。

 もちろん、教師の方も、役割を演じているという点では同じです。彼らが教師であるのは、学生たちが学生のペルソナを演じるからであり、そのために教師のペルソナを演じるのです。相互にペルソナを演じ合うことで、教師と学生になっているのです。

 マルクスは、『 資本論 』(今村仁司、三島憲一、鈴木直訳/筑摩書房)のある注において、この辺りを興味深く書いています。
 ある人が王であるのは、他の人たちが彼に対して臣下としてふるまうからにすぎない。ところが、逆に彼らは、彼が王であるがゆえに、自分が臣下なのだと信じるのである。

(マルクス『資本論』第一巻)
「本当の自分」と「演技」のはざま
 こうしたペルソナの考えには、根強い反発があります。
 それによると、「ペルソナ」の本来の意味が「演技」や「役割」にあったとしても、演技はしょせん演技にすぎないというのです。それは「本当の自分(=個性)」とは異なるものだし、役者が演技するのもあくまで舞台上のことで、舞台をおりれば本当の素顔があるではないか――こう反論されます。

 こうした「本当の自分」が、しばしば「人格のアイデンティティ」と呼ばれます。

 しかし、「本当の自分」と演技とを、はたして明確に区別できるのでしょうか。それを考えるために、いわゆる「多重人格症」(厳密には「解離性同一性障害」と呼ばれる)の事例を見ておきましょう。

 複数の人格が一人のなかで同居するという話は、昔から報告されていました。小説では、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』(1886年)が有名ですが、近年では1977年にアメリカで「ビリー・ミリガン事件」が起こって、「多重人格ブーム」となったのです。

 この事件の容疑者であるビリー・ミリガンは、連続レイプ・強盗事件の犯罪者として逮捕されたのですが、彼には複数の人格が存在することが分かったのです。そのため、彼は裁判で有罪にはなりませんでした。

 この事件については、アメリカの作家ダニエル・キイスの『 24人のビリー・ミリガン(上)(下) 』(堀内静子訳/ハヤカワ・ノンフィクション文庫。現在は新版を販売中)という本も出版され、いわゆる「多重人格症」がマスメディアで脚光を浴びるようになりました。

 「多重人格者」は、人格が切り替わると、他の人格の記憶がなくなったり、前の意識と断絶したりすることが多いようです。

 たとえば、自分のスマホを見ると、メールした記憶がないのに、履歴が残っている。あるいは、買った覚えのない服が、自分のクローゼットにかけてある。20歳の女性なのに、とつぜん3歳の女の子のような話し方をして、泣き出してしまう。知らない人から友人だと告げられたり、親しそうに話しかけられたりする……こんなことが何度も続けば、病的な状態かもしれません。

「しなやかな人格」が求められる
 しかし、あらためて考え直してみると、人格が切り替わるのは、日常生活でも、ごく普通に起こるのではないでしょうか。

 アルバイトで店員として働いているときは、笑顔で客に接する人が、家に帰ると親には不機嫌な言動をとることがあります。また、外では気の弱い男性が、家のなかでは妻に暴力をふるうこともあります。こうしたことは、挙げていけばキリがありません。

 私たちの生活は、他人との関係のなかで営まれ、一定の役割を演じることが必要です。
 家庭では、親として、子として、兄弟としてふるまっています。学校では、教師か学生かによって、ふるまい方が変わってきます。友人としてふるまうときと、恋人としてふるまうときでは、まったく違う行動をとるでしょう。会社では、上司か部下かの違いによって、それぞれ異なる態度が要求されます。

 一人の人でも、状況によって多様な人間関係を取り結んでいますので、その状況に応じて言動を変える必要があります。その場その場に応じて、異なる人格(あるいは異なる「こころ」)が要求されるわけです。

 とすれば、「多重人格」とまでは言わないまでも、多様な人格をそのつど演じることは、私たちにとって必須なことなのではないでしょうか。

 とりわけ、変化のめざましい現代社会では、「人格は一つ」といって「本当の自分」に固執するよりも、さまざまな状況に対応して異なる役割を演じ分ける能力が必要になります。さまざまな状況に対応できる「しなやかな人格」です。
 現代社会は、私たちに「多重人格者」になるように要求しています。













最終更新:2024年09月16日 11:55