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■ 親鸞聖人を敬慕する著名人を紹介(司馬遼太郎・ハイデガー・西田幾多郎・井上靖etc)
仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太
2021/05/27 #生きる意味を親鸞に学ぶ無料メール講座はブログから登録ください
このチャンネルではいつも仏教の内容を書いています。
そして仏教といっても私が専門に学んでいるのは親鸞聖人という方です。
この親鸞という方こそ、このお一人の存在が、一国における思想宗教のあり方を変えてしまった方でした。
日本人の仏教観はこの方の出現により、大きく変貌を遂げるのです。

親鸞聖人が何を教えられたか知らない人でも、僧侶には固く禁じられていた「肉食妻帯」を断行され、山の上の仏教を山の下の仏教にされたこと、貴族の仏教を庶民の仏教に、出家出家の仏教を在家の仏教にされたというのはご存知の方も多いでしょう。

僧侶が結婚する、というのは日本の仏教の最大の特質です。
中国や韓国、東南アジアの人が日本に来て驚くことの一つに、日本の寺にいる僧侶が家庭を持っているという事実です。
「えっ、なんで坊さんが子供あやしたりしてるの?」と唖然とするそうです。
釈迦の定めた戒律では、出家の僧は女人との交わりを禁じられ、犯せば教団から追放される重罪でした。
日本以外の仏教国では、今もそれが常識です。

日本でも親鸞聖人までは、坊主の結婚など論外でした。
しかし八百年前、親鸞聖人は公然と妻帯(結婚)されたのです。
この破天荒は仏教界でも世間でも大問題でした。
「破戒僧だ」「色坊主だ」「堕落坊主だ」と一斉に非難嘲笑の的となったのは言をまちません。

明治の文豪、夏目漱石は世の非難を一身に受けられた親鸞聖人を評して「親鸞上人に初めから非常な思想が有り、非常な力が有り、非常な強い根底の有る思想を持たなければ、あれ程の大改革は出来ない」と言っています。
漱石の蔵書には、1084ページに及ぶ『真宗聖典』があり、かなり読んだ形跡もあったそうです。
肉食妻帯を断行された親鸞聖人の勇気の源はどこにあったのか、漱石も知りたかったのかもしれませんね。

かくて僧侶の結婚を認める仏教が、親鸞聖人の浄土真宗から始まりました。
それは室町時代、蓮如上人の活躍により日本最大の宗派となります。
結局、他の宗派もすべて僧職の婚姻を是認し、住職が子に寺を継がせるのが普通になっていきました。

一国の仏教をかくも変えた宗教家は、世界に例がありません。
空海といっても最澄といっても、庶民とは隔絶された環境で、肉も食べず、結婚もせず、髪をそって、仏道修行に励む生き方を本人が送り、それが悟りへの道だと他人にも勧めてます。
かたや親鸞聖人は結婚され、子供も育てられ、肉を食べ、まさに大衆の中に飛び込んで、我々庶民と同じ目線で仏法を説かれた方でした。

そのことを作家のロマン・ロランは「貴族の血を引き、京都近郊に生まれた彼は、 人間と無限との心やさしき仲介者として、師法然のあとを引き継ぎ、天と地を近づけ、仏陀の恵みを万人の手の届くものとした」と文学的に述べています。

仏陀の恵みは庶民とは遠いところにあった、それを手に届くものにした、とのロマン・ロランの親鸞聖人への評は正鵠を得ています。

なぜあなたは数ある仏教の僧侶の中でも「親鸞」なんですか、と私が問われたら、歴史に名を残す仏教の先駆者は数あれど、私の中にある醜い心や弱い心も理解して下さり「そんなあなたも本当の幸せになれるよ」と手を差し伸べてくれる人は親鸞という人だけだからだ、と答えます。

今回は夏目漱石やロマンロランのように、親鸞聖人を称える著名人の言葉を紹介し、親鸞聖人の人間像、またどんなことを教えていかれた方なのか、浮き彫りにしてまいります。


■ 【浄土真宗親鸞会】歎異抄に驚嘆した哲学者・ハイデガー
分かりやすい仏教講座・浄土真宗親鸞会
2009/05/01 #浄土真宗 #親鸞会 #歎異抄
20世紀最大の哲学者の一人、ドイツのハイデガーの晩年の日記より。
今日はじめて東洋の聖者・親鸞の歎異抄を読んだ。もし10年前にこんなすばらしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語も勉強しなかった。日本語を学び、聖者の話を聞いて、世界中に広めることを生きがいにしたであろう。だが遅かった。
松野尾潮音「生活のなかの信仰4」
(『中外日報』昭和38年8月6日)

■ なぜあなたは空海でも道元でもなく親鸞なのか
仏教に学ぶ幸福論 by 菊谷隆太
2024/03/18 #生きる意味を親鸞に学ぶ無料メール講座はブログから登録ください
20世紀を代表する哲学者の一人であるハイデガーが、晩年の日記にこう記しています。

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今日、英訳を通じてはじめて東洋の聖者親鸞の歎異鈔を読んだ。
「弥陀の五劫思惟の願を案ずるにひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄後序)とは、何んと透徹した態度だろう。
もし十年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。
日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを生きがいにしたであろう。
遅かった。
自分の側には日本の哲学者、思想家だという人が三十名近くも留学して弟子になった。
ほかのことではない。
思想・哲学の問題を随分話し合ってきたが、それらの接触を通じて、日本にこんな素晴らしい思想があろうなどという匂いすらなかった。
日本の人達は何をしているのだろう。
日本は戦いに敗けて、今後は文化国家として、世界文化に貢献するといっているが、私をして云わしむれば、立派な建物も美術品もいらない。
なんにも要らないから、聖人のみ教えの匂いのある人間になって欲しい。
商売、観光、政治家であっても日本人に触れたら、何かそこに深い教えがあるという匂いのある人間になって欲しい。
そしたら世界中の人々が、この教えの存在を知り、フランス人はフランス語を、デンマーク人はデンマーク語を通じてそれぞれこの聖者のみ教えを
わがものとするであろう。
そのとき世界の平和の問題に対する見通しがはじめてつく。
二十一世紀文明の基礎が置かれる。
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ハイデガーが、いかに『歎異抄』の内容に心を揺さぶられたか、伝わってくる述懐ですが、特に私は「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と書いていることに、彼の受けた衝撃の大きさを感じます。
ハイデガーといえば、まぎれもない世界の哲学界の巨人です。
その彼が「ギリシャ語やラテン語の勉強もしなかった」と言い切っているのはどういうことか、わかられますでしょうか。
西洋哲学を勉強する学者にとってギリシャ語やラテン語は必須であり、ギリシャ語とラテン語の文章が読めない者は、西洋哲学の学者としては「お話にならない」のが、その世界の常識です。

ということはハイデガーが「自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった」と言っているのは、「自分は西洋哲学を学ばなくてよかった」と言っているのと同じであり、取りも直さずそれは、今日も燦然と輝く彼の世界的業績を「無かったものにしてもいい」と、彼自身が言っていることと同じなのです。
これはちょうどイチローが「もしこんなスポーツがあることを子供の時に知っていたら、自分は野球をやらなかった、これをやっていた」と言ったようなものです。
今までハイデガーが生涯かけて築き上げ、揺るぎなき世界的評価を受けた哲学を、全部無しにしてもいいから、自分は日本語を学んで歎異抄を学びたいと言っているのですから、いかに『歎異抄』の内容に衝撃を受けたか、この本に書かれている内容をもっと知りたい、と彼が渇望したか、伝わってきます。

『歎異抄』は700年前に書かれた鎌倉時代の古典で、親鸞聖人の言行が、弟子の唯円により、生き生きと活写されています。
『歎異抄』を読む人は、常識を覆す親鸞聖人の言葉の数々に惹きつけられ、時に身震いさえ感じます。
きっとハイデガーもそうだったのでしょう、
「何だろう、この心の世界は。。。。」と。

しかし『歎異抄』は、母国語である日本人が読んでも、よほど深い仏教の理解がなければ誤解して大けがをしてしまうところから、「カミソリ聖教」として、長らく浄土真宗では秘本と封印されていた書です。
英訳の『歎異抄』を読んだハイデガーが、どれだけその内容を理解したか、とは思いますが、あれほどの人ですから、親鸞聖人の鮮烈な言葉の数々に「ここには自分が求め続けて果たし得なかった答えがあるのでは」と何か真実の香りのようなものを直感したのではないか、と思います。

では『歎異抄』には、何が教えられているのでしょうか。
一言で言えば「摂取不捨の利益」が明らかにされています。
『歎異抄』全十八章を総括する第一章に親鸞聖人は万人の生きる目的を「“摂取不捨の利益”にあづかることだ」と喝破されています。
「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」とは、文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」は“幸福”をいいます。
”ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を「摂取不捨の利益」と言われるのです。

考えてみれば私たちは、学校から、会社から、親から、子供から、健康から、恋人から、友人から、健康から、家庭から、金や財から、名誉や地位から、捨てられはしないかと、四六時中、ビクビクしてはいないでしょうか。
「今さえ幸せならあとはどうなってもいい」というドラマのセリフはありますが、現実は、明日が不幸なら、今日の幸福に暗い影をおとします。
今さえ幸せなら、とは口だけで、あとの人生が暗かったら、今の幸せさえも、幸せにならないのです。
時の経つのが悲しくなり、幸せに悲しみが混じるからです。
いつか捨てられる時がやってくる・・
別れなければならない時がくる・・
薄氷を踏むような不安の中に人間は生きています。


そんな私たちが心の底で求めているのは、ガチッと摂め取られて絶対に捨てられない幸せ、たとえ何が起きても変わらない安心、満足です。
歎異抄第一章では、その幸福の厳存を親鸞聖人は『摂取不捨の利益』と宣言されています。


■ 【0から分かる】道元とハイデガーそして親鸞の「時間の話」が深くて面白い
幸せの学校(その悩み ブッダはすでに答えてます)筬島正夫
2024/09/20 #幸福 #浄土真宗 #幸福学
同じ京都に同じ時代を生きた親鸞と道元
そしてその700年後に、ドイツで活躍した大哲学者・ハイデガー

この3人の【時間論】には

驚くほどの共通点があります


しかも、その内容は

たいへん深く、

人生を変えるインパクトがあるのです


「時は金なり」

いや、

「時は命なりだ」

ともいわれる時間について

単なる知識で終わらない

一人ひとりにとって極めて大事な内容になっている

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この流れでお話ししています

① 道元の「有時(うじ)」が凄い

② ハイデガーが定義しなおす
  過去・現在・未来が深い

③ 親鸞の「究極の時間」とは














最終更新:2024年10月05日 19:44