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薩長同盟】 / 【明治維新
■ 薩長のゴロツキが差別を現代に引き継いだ 「二階堂ドットコム(2019/05/22 21:22)」より
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■ 半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「東洋経済(2018/01/27 8:00)」より
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1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている。
明治維新を主導した薩摩(鹿児島)、長州(山口)などではすでに記念イベントが始まっているが、今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。
だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた。
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(聞き手:加納則章)

「明治維新」という言葉は使われていなかった
――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。

私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。

漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。

(※mono....以下長文につき略、詳細はサイト記事で)



■ 明治政府がいちばんろくでもない。 「二階堂ドットコム(2019/05/22 21:14)」より
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■ 浅草弾左衛門を知らずして江戸は語れない。 「放心流(2012年11月11日)」より
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 先週、差別問題を採りあげた。その続き、江戸時代の被差別問題についてひとことふたこと。

 渋谷の東急本店にあるジュンク堂の書棚を眺めていたら、塩見鮮一郎の『浅草弾左衛門』(批評社)が並んでいた。全三巻と資料編。この本は絶版になっていたと思っていたのだけれど、並べている本屋もあるのだとちょっと感動した。ただし、ソフトカバーになった新版は1996年の発売のままで、増刷はされていないようだ。そんなに売れるような本ではないけれど、ちょっとさみしい。並べてあるだけでもよしとすべきか。(文庫では小学館から第一巻の一部がでているが、そのままとなっている)
 歴史小説ベストテンを選ぶとしたら、島崎藤村の『夜明け前』や堀和久の『大久保長安』とならんで本書を挙げたい。いい本だと思いますよ、長いけど。

 浅草弾左衛門とは、江戸時代、被差別民の頭領として関東一円を支配した人物である。皮革や灯芯の製造・専売などの権利を与えられる一方、江戸の町の清掃や非人の支配までも請け負った。差別される立場にあったが、特権も有していたのである。その資金力は大名並みと言われた。この本では12代、13代目の弾左衛門を描く。最後の弾左衛門は幕末から明治を生きた。15代将軍・徳川慶喜の生涯と重なる。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


江戸時代
■ 死刑に、出来ないワケ。 「我が郷は足日木の垂水のほとり(2018年12月15日)」より
(※mono....前半の『東名あおり運転死亡事故』関連記事は略)
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明治になって、庶民が看破したように、治まるめい(明)と、庶民はあざけった。二百数十年の泰平な世が江戸時代。かわって、明治以降は、昭和にいたる、百年ちょっとの間に、日清・日露そして第一次、第二次大戦と、どれだけの戦が続いたことか。それも、これも其の原因は、国家に取憑いた金貸しの、『戦争で大もうけ』 の戦略があったから。サヨク諸党の反安倍主義。これに一定の国民が賛同を示してもいる。それには、安倍政権にも、そうした金貸しの私益の為の。戦争の臭いがする。この事だと思われる。

とにかく、紳士然とした金融家の裏には、借金取り立ての、暴力団が隠れている。この『自由』経済の蔭には、危ない人たちの裏社会がある。最後は暴力だとか、脅迫で事をおさめる。とくに戦後世界では、朝鮮進駐軍の係累たちが、ケーサツとか裁判所、そして検察にも色濃く、取憑いている。

(※mono....後半略、詳細はサイト記事で)


明治維新
■ 「明治維新150周年、何がめでたい」by半藤一利 「DEEPLY JAPAN(2018-01-28 14:18:22)」より
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半藤一利さんが、明治維新150周年を祝おうとする、あるいは祝わせようとする現在のムードおよび政府+自治体政府に異論を述べていた。

ふと気が付くと、地方自治体の催しの頭に、明治維新150周年記念とかなんとかついてたりするので、こりゃまぁ手回しよくやってるんだなと私も最近気がついた。


半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」
「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す


いろいろ興味深いことをおっしゃってますが、まず維新という名前について。

「漱石や荷風は、明治維新ではなく『瓦解』と言った。薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握った。その歴史的正当性を主張するため『明治維新』という言葉を使った」
調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした。
明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。

(※mono....中ほど大幅に略、詳細はブログ記事で)
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武士道とかいう語をやたらに使いたがる傾向を私はよしとしていないんだが、お侍らしいお侍がいたのは、実のところ奥羽側であって、薩長側は時流に乗ったただの強盗と言っても過言ではないと思う。総じていえば、薩長側には矜持というものがない。

というか、よく考えれば、お侍らしいお侍、もののふであることに誇りを持つというのは東国の鎌倉幕府を発信源とするんだから、西にそれがなく、東によほど根付いていたという考えも成り立つのかもしれない。



ということで、政府は現在長州の人なのでこれをおめでたいことだとしたいらしいが、そうではないと異論を述べる人は多く存在することが確認できることは結構なことですね。

日本は150年たってようやく革命政権について自由に語れる言論環境が整ったということなんじゃないでしょうか。


■ 明治国家の男尊女卑文化は薩摩起源 「代替案のための弁証法的空間(2018.1.26)」より
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 大河ドラマ「西郷どん」、初回では薩摩の男尊女卑文化が鮮烈に描かれていた。ヒロインの岩山糸が、自分も勉強したい、剣術もやってみたいと願うが、薩摩には女であるというだけで学ぶ権利は存在しない。道の真ん中を歩くこともできない・・・・。マララちゃんとタリバンを思い出してしまった。

 薩摩の郷中教育は、「先進的」と評価されているが、女子を排除し、男尊女卑の価値観を植え付ける教育の何が先進的なのだろう? 明治日本の好戦主義、侵略主義の起源はこれにありとしか思えない。

 江戸時代の他地域の事例を見てみよう。私の地元の例で恐縮であるが、以下は『上田市誌 近現代編(1)』からの引用である。信州の江戸時代の寺子屋で生徒数の記録がある塾の統計をまとめたものである。

 農村部の寺子屋を見ると、確かに信州でも女子生徒の数は少なく、女子の割合は6.4%(1027人中66人)しかなかった。しかし都市部になると女子生徒の割合は38%(1298人中499人)となる。場所によっては幕末にはすでに男女半々になっていた。都市部では、女子でもふつうに寺子屋教育を受けていて、男女共学に近い形になっていたのだ。


 出所)『上田市誌 近現代編(1)』26ページ。


 女は学んではいけないというのは、薩摩の「後進性」の現れでしかない。

(※mono....中略、詳細はブログ記事で)
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 寺子屋では男女共学が浸透し、村役人は女性も参加して入札で選出し、村の条例など寄合で定めていた江戸時代の民衆が、国政選挙に参加する質がなかったと考える人々こそ、薩長史観に洗脳された、「自虐史観」の持主であると言えよう。

 拙著でも紹介したが、慶応年間の赤松小三郎の憲法構想はふつうに男女普通選挙であるし、明治7年の米沢の宇加地新八の憲法構想でも女性参政権が唱えられていた。
 ところが明治14年に多摩の民衆が作成した五日市憲法草案になると、選挙権があるのは男子のみとなり、自由民権派でも男権主義が浸透してしまっている。
 すなわち、薩長支配の明治になって、最初の10年の間にすっかり男尊女卑思想が浸透し、国民の意識も後退してしまったのだ。

(※mono....以下略、詳細はブログ記事で)
















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最終更新:2019年05月23日 16:36