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● 汎ヨーロッパ・ピクニック〔Wikipedia〕
汎ヨーロッパ・ピクニック(はんヨーロッパ・ピクニック、ハンガリー語: Páneurópai piknik、ドイツ語: Paneuropäisches Picknick)は、1989年8月19日、オーストリア共和国ブルゲンラント州に食い込むハンガリー人民共和国領ショプロンで開かれた政治集会。ピクニック事件、ヨーロッパ・ピクニック計画とも呼ばれる。
この政治集会には西ドイツへの亡命を求める1000人ほどの東ドイツ市民が参加した。この時、彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え、亡命を果たした。後にベルリンの壁崩壊へと繋がる歴史的事件である。



ハンガリー
■ ハンガリー 東欧革命の原点 ピクニック計画 「エブリサンデー(2015/8/16(日) 午後 10:32)」より
(※mono....前後略、詳細はサイト記事で)
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東欧革命のあしづえ
1989年の東欧革命の号砲となったのは、5月に始まったハンガリーによる
オーストリア国境の開放だった。これはハンガリー首相のネーメトが密かにオーストリア側と
交渉を進めた結果であった。「5月2日、両国国境350kmに沿って
1960年代に張り巡らされた鉄条網と警報装置を年末までに撤去すべく、
...国境警備隊による解体作業が始まった。
東独=チェコスロヴァキア=ハンガリーの西部国境に沿って東西欧州を分け隔ててきた
鐵のカーテンに初めて風穴があいたのである、これは一連の東欧革命の先頭を切るものであり、
「一発の銃声も聞かれず、一滴の血も流されず」平和な手段で実現された。
これを知った東独国民はハンガリーを経由して西ドイツに亡命しようと多数が押し寄せ
、夏までに20万人規模となった。首相ネーメトは密かに西ドイツのコール首相を訪ね、
難民の受け入れの了解を取り、9月10日正式に東独難民のオーストリアへの出国を認めた。
その日東ドイツでは反体制グループ「新フォーラム」が結成され、
意志決定能力を欠いた東独の ホネカー 政権に対する反政府運動を開始
 それがベルリンの壁の開放と、東独消滅の引き金となった。このハンガリーの積極的な国境開放は、
ハンガリーが西側諸国に入ることを強くアピールするためのものであった





■ ヨーロッパ・ピクニック計画 「西野神社 社務日誌(2011-11-09)」より
(※mono....前後略、詳細はサイト記事で)
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以下は、この番組の中で紹介・再現されていた、ヨーロッパ・ピクニックが行われた後の8月31日に東ベルリンで行われたハンガリー外相ホルン・ジュラと東ドイツ外相オスカー・フィッシャーとの緊迫したやりとりの一部です。ハンガリーと東ドイツの最後の対決の場面で、両国外相の一歩も譲らない態度が鮮明に表れていました。


ホルン・ジュラ 「我々は人道的見地から、ハンガリー国内に滞在する東ドイツ国民が、自由に西側に出国する事を認める事にした。」

オスカー・フィッシャー 「それが、ハンガリー政府の提案なのか!」

ホルン・ジュラ 「提案ではない。これは我が政府の決定であり、私はあなたに通告しているだけだ。」

オスカー・フィッシャー 「それは裏切りだ。最後通牒も同様だ。あなた方はその決定が、東ドイツを見殺しにし、西側に寝返る事になるのを分かっているのか!大変な事になる。必ず後悔する事になる!」

ホルン・ジュラ 「我々の決意が揺らぐ事はない。あなた方が考えなければならない事はたった一つ、何千もの国民が国を捨てる決意をするような、そんな国をつくったあなた方自身の罪の重さだ。」


この時のハンガリー政府の決断によって、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は事実上意味の無いものとなり、ベルリンの壁が存在する事によって辛うじて存立していた東ドイツの崩壊は避けられないものとなり、それによって東欧諸国の民主化は更に加速化し、結果的には東ドイツのみならずソ連という超大国すら消滅してしまったのですから、あの時ハンガリー政府の下した決断は、当事者達が考えていた以上に極めて重大な結果を招く、歴史的な決断になった訳です。リスクを恐れず果敢に決断をする政治家の姿は凄くカッコイイなと思いました。


■ 欧州ピクニック計画ベルリンの壁崩壊(1) 「クタビレ爺イの二十世紀の記録集(2009年02月23日)」より
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欧州・ピクニック計画
            ベルリンの壁はこうして崩れた

誰でも感動の場面はいくつか心に残っているものである。私にとっての一押しは、ベルリンの壁崩壊である。昨今の武力を伴なう改革は、さしたる感動を呼ばないが、このピクニック計画はさすが欧州の知の戦いと言う印象があった。この計画の主役は、東ドイツではなく『ハンガリー』である。
中央ヨーロッパの地図をみると、このハンガリーは、我々島国の平和ボケ民族には、とても想像できない環境にある。つまり、北にチェコ、東北はソ連、東にルーマニア、南にユーゴ、西にオーストリヤの各国に囲まれている。もともとマジャル族と言われる彼等の祖先は、ウラル山脈付近から発して長期の民族移動時代を経て現在のところに定住したと推定されている。しかしその歴史は、波乱万丈であり、他民族との摩擦を生き抜いて、高度の文化を誇り、アジアのどこかの国のように自国の力の無さを全て他国の圧迫のせいにするような卑屈さは微塵もみられない。彼等の平和は、先ず13世紀のモンゴルによって踏み躙られ、16世紀にはオスマン・トルコに侵入され、2世紀に亘るトルコ支配を経験する。その後、ハプスブルグ家のオーストリアに支配され、第一次大戦ではドイツ・オーストリア同盟に組みしたため国土の72% を失い、多くの国民が各国に少数民族として残されてしまう。これが失地回復の政治運動となり、枢軸側に傾倒する。そして第二次大戦ではドイツ側に加わり、国土戦場化の悲運と成るが、戦後はソ連の勢力圏に入れられ、人民共和国となっていた。しかし東欧圏内で最も進歩的と言われ、社会主義的民主主義の枠内で、経済改革と合わせて民主化を進めて居た。そんな下地があったのが、このピクニック計画を可能にしたのではないであろうか?
この話には、登場人物が余りに多いので最初に彼等を紹介しておくことにする。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)

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最終更新:2019年01月10日 18:10