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■ ゼロリスク主義の信用できないところ 「akiraaniの日記(2017年03月14日 16時29分)」より
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 ゼロリスクという用語自体は一般的にこうだと決まった解釈がないようなので、とりあえずこのエントリ内での定義を決めて起きます。
 ゼロリスク主義とは顕在化したリスク要素の影響度検証を行わずに、物事を中止もしくは禁止すべきという主張をすること、と定義しておきます。
 分かりやすい例で言えば豊洲移転問題でベンゼンの基準値越えを理由に移転反対を唱える人とか。

 ゼロリスク主義の典型的な特徴は以下のような感じ

リスクの定量評価や比較をせず、あるかないかで判断する
リスクへの対処法が基本的に禁止、廃止、中止などの「~止」で、それによってどれくらい効果があるかを気にしない
リスク対処に別のリスクがある可能性を考慮しない
「~止」以外の対処方法がとられていても、これを無視する
コストの概念がない
 これのどこがいけないのかは簡単で、必ずどこかでダブルスタンダードに陥るから。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)

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■ 築地移転問題が改めて示した「ゼロリスク」の呪縛 「WEDGE Infinity(2017年4月24日)」より
(※mono....前後大幅に略、詳細はサイト記事で)
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 今回の豊洲市場の汚染問題を通じて、行政、市民、事業者、マスメディアのどの側にも、環境問題について健康リスクを評価し、そのリスクの大きさに応じて対策を決めるという態度がないと感じる。それは、目標が「ゼロリスク」となっているからである。

 こういう様相は築地移転問題がはじめてではない。BSE(牛海綿状脳症)の場合もそうだった。英国でのBSE発症の報を受けて、抜き取り検査が行われていたが、01年9月、その中の1頭がBSEと診断された。BSEは、牛の脳など(特定危険部位)に異常プリオンという特別のタンパク質が貯まることで発症するが、そのプリオンを一定量以上食べた人間も脳症の一つvCJD(変異型クロイツエルヤコブ病)になり、早くに死にいたる怖い病気である。


■ 「ゼロリスク」を叫ぶ無意味さ 「放射線について考えよう[多田将](
2018年05月07日公開)」より
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 みなさん、米は好きですか。僕はあまり好きではありません。僕はコンビニ弁当をほとんど食べないのですが、その理由は、米が多すぎて、食べきれないからです。なんであんなにも米ばかり詰め込むのでしょうか。おかずとのバランスが、明らかにおかしいでしょう。僕は普段、いわゆるおかずしか食べないので、米を食べることはほとんどないのですが、日本人はなぜかとても米が好きなようで、驚くべきことに、ラーメンや餃子を食べるときに米を一緒に食べる人すら、いるようです。なぜに炭水化物を重ねるのか。
 そうまでして米を食べたい日本人のみなさんに、ここで、突然ではありますが、米を食べることによるリスクについてお話ししましょう。

(※mono....中ほど大幅に略、詳細はサイト記事で)
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 ところが、「ゼロにできなければ意味がない!」などという人もいます。そういう人は、ゼロになどできないということが理解できないだけではなく、恐らく、それ以前に、そもそも頭を使って考えることすらできない、あるいは、したくないのだと思います。なぜなら、「実用上問題がないレヴェル」というのがどの程度なのか、生涯米を食べないということと天秤にかけられるのがどの程度なのか、ということは、頭を使って考えなければならないからです。
 頭を使いたくないから、「ゼロ」であることにしておきたい。「ゼロ」であるなら、頭を使ってリスクを評価しなくて済むから。
 そのように自分の頭を使うことすらしたくない怠け者は、他の人の努力をも認めることはしません。1/2.7にしようが、1/20にしようが、1/21000にしようが、「ゼロ」にできていないのだから、なにもしていないのと同じではないか、と。
 これが、「1か0か」しか考えられない哀れな人たちなのです。

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)


■ 「市民のゼロリスク要求」という神話 「Mangiare!Cantare!Pensare!(2016年12月15日 17:26)」より
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今日、TL上で佐々木俊尚さんのこのツイートが話題になっていた。

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これについて、tweetしたのをもとにFacebookに書きなぐったのを、こちらにも転記しておく。

ここで佐々木さんが言ってるような「市民がゼロリスクを求めたのも安全神話が生み出された一因」みたいなのを見かけたら、まず考えなければならないのは、そういう見方は、「市民はゼロリスクを求めている」という専門家等が抱く根拠レスな信念(=「ゼロリスク神話」)である可能性だ。

たとえば原発反対・脱原発派が実際に求めてきたのは「ゼロリスク」ではないだろう。それはあくまで表面的な見かけで、主張の本義は「一発過酷事故が起きたら大変な被害が出るようなもの(ゼロリスクにできない限りは容認できないようなもの)は要らん」ということであり、ゼロリスクが達成不可能なのは大前提である。

それに対して「ゼロリスク(絶対安全)」を装ってきたのが、とくに1990年代半ばまでの政府や電力会社の立場だ

(※mono....以下略、詳細はサイト記事で)

















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最終更新:2019年02月11日 14:26