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■ 時代の試練に耐える音楽を――「落ちこぼれ」から歩んできた山下達郎の半世紀 「Yahoo!Newsオリジナル特集(2022/6/11(土) 10:17)」より
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山下達郎は今年、69歳を迎えた。1975年、シュガー・ベイブの中心メンバーとしてデビューし、翌年にソロシンガーとしてスタート。半世紀近く経った今も新作を世に送り出し、ライブツアーで全国を回る。「制作方針は、風化しない音楽」と語る通り、代表作の「クリスマス・イブ」をはじめ、多くの曲が時代を超えて愛されている。青春時代の苦労、自身の音楽表現、夢を追う若い世代への思い。歩みを振り返りながら、存分に語ってもらった。(文中敬称略/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

シティポップブームは「40年前に言ってよ」
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「僕らの世代は、日本のロックミュージックの黎明期で、『DON'T TRUST OVER THIRTY』の時代だったことも相まって、30歳から先のロックシンガーの展望なんて全くなかった。僕に限らず将来に関してはみんな探りながら悩みながら、何とか30代40代と、がんばってくぐり抜けてきたんですけど、でもまさか70近くになって、現役でアルバムを出してるとは想像もできなかった」

「僕は最終的にレコードプロデューサーになるのが夢だったので、50くらいまでは、いつやめるかってずっと考えていた。82年にムーンというインディー・レーベルを立ち上げた時、僕のビジネスパートナーからは、90年代に入るまで、つまり37歳くらいまではがんばってくれと言われた。そこで最初で最後の武道館公演をやってやめよう、と。『みなさんありがとう』って、百恵さんじゃないけど(笑)。ところが89年、『クリスマス・イブ』(83年)がオリコン1位になっちゃって、やめられない。それでも、一生やり続けようと決めたのは、50代になってからで。2008年からライブツアーを再開してもお客さんが来てくれて活動が継続できたので、これはもう続けるしかないと思って今に至るんですよね」

数年前から、世界中の音楽シーンで「シティポップブーム」が起きている。70年代半ばから80年代にかけて、日本で生まれた都会的なポップミュージック。山下はその中心人物として、海外のリスナーからもリスペクトを集める。ブームについて尋ねると、「40年前に言ってよ」と笑い飛ばす。

「シティポップをどう思いますかと聞かれても、正直、『分かりません』としか答えられない。全ては運だとしか答えようがない。数年前に渋谷で、20代のアメリカ人青年に『GO AHEAD!』(78年)のアルバムにサインしてくれと言われて。どこで知ったんだって聞いたら、ネットだって。変な時代だな。ありがたいけど(笑)」

「私はね、極東の片隅のね、日本という国でね、ごく質素にやってきた者なんです。全然メインストリームじゃないんです。10代の時は音楽オタクで、誰も聴かないような音楽を聴いていたんです。全米トップ40も、トップ10にはあまり興味がなくて、目当てはいつも30位あたり。大ヒット曲には見向きもしませんでした。そういう音楽の聴き方で育った人間が作ってる音楽なんて、誰が聴くんだ?っていう疑問をいつも自分に投げかけて。なので、拡大志向はやめようと」

誰が聴いても分かるものを作っているつもりはないという。しかし、世代を超えて誰もが口ずさむ曲を生み出している。例えば「雨は夜更け過ぎに」から始まる「クリスマス・イブ」。88年にJR東海のCMソングに起用され、翌年オリコンチャートで1位を記録し、30年以上にわたってチャートイン。クリスマスの風物詩となっている。

「制作方針は昔から、風化しない音楽、いつ作られたか分からないような音楽。耐用年数ばかり考えてきた。KinKi Kidsの『硝子の少年』(97年)を書いた時もそう。『絶対ミリオン超えの曲を』という難題を課せられて作ったんだけど、関係者の間では『暗い』『踊れない』って大ブーイングだった。そうすると、KinKiの2人も不安になるわけですよ。でもその時、僕が彼らに言った言葉は、『大丈夫。これは君たちが40になっても歌える曲だから』と。確信犯だった」

「普遍性というのかな。時代の試練に耐えること。『あの頃、彼氏と一緒に聴いた、懐かしの……』っていう想い出ツールも大切だけど、古き良き懐メロにならないためにはどうしたらいいか。それは、曲、詞よりも編曲なんです。あとは、それを補佐するミュージシャンの優秀な演奏力と、それを録音するエンジニアの力」

「僕の曲は基本的にワンパターンです。好きな響きが少ないので。だから、誇りを持ってワンパターンと言ってます。映画監督の小津安二郎の有名なせりふで、『俺は豆腐屋だから豆腐しか作らない』という、そんな感じ。落語とか浪花節とか文楽、そういうものは何十年も変わらないのでね。変わらない中で、どう今の時代の空気を吸っていくか」

ライブには、長年のファンの子ども世代が訪れるようになった。

「それは日本が七十数年間平和だったからですよ。第二次世界大戦みたいに時代がバッサリ切られていれば、親子の断絶があったり、文化的な乖離があったりする。文化が続くためには平和が続くように努力しなくてはならない。だけど現実は、なかなかそううまくはいかなくて、この先どうなるか分からないけど、でも今まで生きてきて、自分が何をすべきかは常に考えてきたつもりです。僕は音楽家なので、それを音楽で表現しようと努めてきました」

「この年になると、ジュブナイルや20代、30代のことが思い出されてくる」と、青春時代を振り返る。山下が生まれ育ったのは東京・池袋。「東京の人間は、口が悪いんです」と笑う。70年安保闘争の頃に高校生だった。

「小・中学校の頃はわりと優等生タイプで、理系志望でした。でも、高校に入ってバンドにうつつを抜かすようになった上に、70年安保があったりして、ちょっと人生が狂ってドロップアウトしてしまった。高校の時は、今でいう不登校に近かった。大学は理系はとても無理になっちゃったので、法学部に行って著作権を勉強して音楽出版社にでも行ければ、と思ったんですけど、大学に入って3カ月ぐらいでバンドを始めて、やめちゃった。それでシュガー・ベイブを作って、22の時にデビュー。でも、自分的には落ちこぼれなんです」

「当時、家では親父から、『学校に行かないやつをうちに置いててもしょうがないから出てけ』って言われてたんですよ。最初にシュガー・ベイブが所属した事務所が給料をくれなくて、数カ月後につぶれて、あの時は本当に困窮した。だけど、運良くCMで使ってもらえて、飢え死にしなくて済んだんです。不二家のハートチョコレートのCMは、人生で3本目のCM作品だったんです。僕の実家は街の菓子屋・パン屋というか、そういう店をやっていたんだけど、台所で親父と無言で飯食ってたら、テレビからそのCMが流れてきた。『これ、俺がやったんだよ』って言ったら、親父はテレビをチラッと見て。それ以降、何も言わなくなった。世の中は、やはり形にして出さないと、いくら俺は最高の音楽を作ってるんだと御託こいても駄目なんだ、という教訓」

お金がなかった頃の記憶は鮮明に残っている。

「実家の店にはレジスターがあって、引き出しを1センチ開けるとチーンって音が鳴るんですよ。なので5ミリぐらい開けて、ようじにセロハンテープを付けて200円くすねて、往復の電車賃にしてた。親父はたぶん知ってたと思うけど。ある日、その金で実家の練馬から渋谷に行って、ライブのリハーサルに参加したことがあってね。スタジオに行くと、売れっ子ミュージシャンばかりで、夕飯時になると、出前にウナギをとろうか寿司にしようかと楽しそうでね。で、『山下さんはどうします?』って言われて、『あ、僕、食ってきましたんで』ってウソをついた。一番金がなかった時代の、あれだけは忘れないな(笑)」

それでも、自身の音楽表現を貫いた。

シュガー・ベイブでデビューする時に、シングルはこれ(『DOWN TOWN』)じゃ駄目だと言われた。他にも『曲はいいが詞が弱い』『歌詞はプロの作詞家に書かせる』、イヤだと言うと、『おまえは売れたくないのか、売れたら何でもできるぞ』とかいろいろ。だから『僕は別にそんなことまでして売れたくありません。シングルは『DOWN TOWN』以外にはないです。それでないならやめましょう。別にあと何年下積みしても構わないですから』って。22歳。あの時は我ながらカッコイイ!と思いましたよ(笑)」

「70年代は文字通り売れないミュージシャンでした。『GO AHEAD!』を出した時には、ソロアルバムを出すのは恐らくこれで最後だろうと思ったんですよ。ところがその翌年に、アルバムに入ってる『BOMBER』という曲が大阪のディスコで流行り始めて、そこが運命の分かれ道でね。そこからようやくきっかけがつかめて、『RIDE ON TIME』(80年)のヒットにつながった。それまでのアルバムは低予算を余儀なくされてて、もうワンテイク録りたくても、『予算がない。やりたいことをやりたかったら、レコードを売れば?』って。だからなんで売れたかったかといったら、もうワンテイク録りたかっただけ。行動原理は当時から変わってないんです」

「1回ヒットしたら、世の中バラ色、悠々自適で左うちわ、なんてのも全然ウソ」で、その後も悩みながら歩んできたと語る。86年に『POCKET MUSIC』を作った時には、アナログからデジタルへの転換期でレコーディングに七転八倒。今もテクノロジーの変化に合わせて、常にレコーディングのノウハウを模索している。

「経験則って恐ろしいもので、1回成功するとしがみつくんですよね。だいたい職人は50代ぐらいでそういう壁にぶち当たるんですけど、その時にそれまでのものを捨て去って、新しいノウハウを学習しようとするか、『いや、俺はこれでやってきたんだ』って言って、停滞していくか。そういう分岐点がいくつかあるんですよ」

「それまでの実績にあぐらをかいてると、あっという間に取り残される。Spotifyで配信はしないですけど、Spotifyのグローバルチャート50はいつも聴いてます。今の時代の音像というか、空気感は絶対に必要なので。そこに自分の今までのスタイルをどう融合させていくか。まさに『RIDE ON TIME』だな(笑)」

2000年代に「CDの時代が終わる」といわれるようになると、08年にライブ活動を再開した。今もオリジナルのキーで歌うが、ボイストレーニングはしていない。

「ボイストレーニングはあまり信用してないです。個性をなくすから。例えばオペラのベルカントなら、スカラ座の壁を突き破るような声を出すための訓練が要る。でも、僕らはマイクに乗っける声なので、しゃがれ声でもとっちゃん坊やでも、それも個性になる。人間が肉体的にどこまでやれるかという観点では、歌うことはそれほど長く続けられない場合が多い。だから音楽文化は、比較的若い文化として享受されている。サッカーと同じで、年を重ねて声をちゃんとキープするのは容易でない。還暦過ぎてどれだけ声を出せるかは、運不運でしかない要素も多い」

11年ぶりとなる最新アルバムには「blanklink プラグインエラー: URLかページ名を入力してください。」という曲が収録されている。「ペダルを踏んで 空を飛ぶんだ 金も権力(ちから)も 今はないけど」「夢も追えずに 生きて行けるかよ」と歌い、夢を追う人の背中を押す。なぜ今、この曲を書いたのだろうか。

「『人力飛行機』は、無一物の若者が、さあどうやって上に上がっていこうかという歌です。夢なんていらないか?といったら、そんなことないわけですよ。だけど歌の文句のように『夢は必ずかなう』なんてことも、安直にはとても言えない。教育で重要なのは、かなうことばっかり夢想させるんじゃなく、失敗した時にどうするかを教えること。能力とか才能は、全員が同じじゃない。勝ち負けではなく、その人の身の丈に対する充足を、哲学的、倫理的に教えないと。そうじゃないと、勝者と敗者が明確化した場合、敗者が勝者に怨念を抱いたりする。逆に勝者がそれを怖がったりもする。そういうのは昔からあるんだけど、今はSNSの匿名性の中ですさまじく増幅されている感がありますよね。気の弱い人だと、ネットでたたかれて、『私は才能ないからやめます』みたいになったりする」

「『人力飛行機』は最初の一歩の歌で、本当はその先にあるものも考えないといけないんですが、歌はそこまでやるとクドくなるので。口幅ったくいえばフィロソフィーというか、そういうものの反映は、なるべくきれいにやりたい」

若い音楽家への思いも込められている。

「若い人が音楽表現をどうやっていくのか。この年になると引っ張り上げる責任を感じるので。僕らは若い頃、音楽表現を貫徹することに関しては、わりと恵まれた環境でやってこられた。今の若い世代が自由にできているかというと、かなり疑問があってね。音楽表現をすることより、しばしば名声や金もうけが優先される。音楽でお金がもうかる時代が続いて、特に90年代の残滓がまだある。でも現実にはここ10年ぐらい、次第に苦しい時代になってきています」

「僕も年なんで、あと、いまだに自分のことで精いっぱいなので(笑)、そんなに深くは関われないけれど、若い才能をどうすくい上げて、チャンスを与えるか。それはやっぱり大人の役目だと思う。一昔前のジジイみたいに『いまどきの若いモンは』なんて説教は決してたれたくない。彼らを励ましたり、叱咤したり、できることをやりたい」

多くのアーティストに楽曲提供するほか、84年以降、妻である竹内まりやの全作品のアレンジ、プロデュースを手がけてきた。そのなかで気づいたことがあるという。

「竹内まりやは当初、曲を与えられて歌う、いわゆる歌手としてデビューしたんですが、意に沿わない活動に疲れて2年半ほど休業しました。そういうスタンスの人が復活することは、当時の日本の音楽界では非常に困難なことだったんです。幸運なことに、休業している間には河合奈保子の『けんかをやめて』(82年)など、人に曲を提供していて、『VARIETY』(84年)というアルバムから僕が全面プロデュースすることになった。その準備期間、『2年半で曲を書きためたから聴いてくれ』って持ってきた最初が『プラスティック・ラブ』(84年)だったんです。それでぶっ飛んで、『なんでこんな曲書けるのに今まで出さなかったんだ』と言ったら、『チャンスがなかったから』ってね。その後にも、どんどん出てきて、これなら全曲作詞作曲という画期的な突破口が作れると」

「ひとくちに歌手といっても、歌だけの人、作詞する人、作曲もする人、あと本業は作曲家や編曲家だけど歌唱作品を作る人、いろんなスタンスがあるんですけど、竹内まりやは、そうした歌手と呼べる全てのスタンスを経験している。しかも全てが一定程度の成功を収めているんです。『VARIETY』がヒット作となった時、僕は何を考えたかというと、同じような可能性を持った人は他にもいるのでは?ということ。だけど、チャンスがない場合が多い。僕はたまたま彼女のプロデューサーだったので引っ張り出せたんだけど。だから今でも、若いバンドとかシンガーとか、眠ったポテンシャルを生かし切れてない人はたくさんいると思います」

サブスクでの配信は「恐らく死ぬまでやらない」

音楽の聴かれ方は、半世紀の間に変化してきた。サブスクリプションでの配信を解禁しないのか尋ねると、今の時点で山下は「恐らく死ぬまでやらない」と答える。

「だって、表現に携わっていない人間が自由に曲をばらまいて、そのもうけを取ってるんだもの。それはマーケットとしての勝利で、音楽的な勝利と関係ない。本来、音楽はそういうことを考えないで作らなきゃいけないのに」

「売れりゃいいとか、客来ればいいとか、盛り上がってるかとか、それは集団騒擾。音楽は音楽でしかないのに。音楽として何を伝えるか。それがないと、誰のためにやるか、誰に何を伝えたいのかが、自分で分からなくなる。表現というのはあくまで人へと伝えるものなので」

リスナーに向けて、地道に音楽を届けてきた。今年も全国津々浦々のホールを回り、24都市で47公演を開催する。間もなく30周年を迎えるラジオ番組「山下達郎サンデー・ソングブック」では、個人のレコードコレクションを使い、選曲から構成まで手がける。

「『あれは俺のやりたかったことじゃない』と言って、ヒット曲を歌わない人って多いんですよね。ベストヒット=自分のベストソングじゃないんでしょう。お客さんはそれが聴きたくても、ライブでやってくれない。逆にマニアと呼ばれる人々はヒット曲を嫌う。でも、私は誰が何と言おうと、『クリスマス・イブ』はやめません。夏でもやります。だって、それを聴きに来てくれるお客さんがいるんだもの」

「僕のビジネスパートナーは海外進出しようと何度も言ってましたけど、僕はずっと拒否し続けてきた。90年代の頭ぐらいには、ブライアン・ウィルソンとコラボやらないかとか、いろんな提案もあった。でも、興味がない。僕はドメスティックな人間なんで、ハワイとか香港とかマレーシアに行く暇があったら、山形とか秋田のほうがいい。そこで真面目に働いている人々のために、僕は音楽を作ってきたので」

ライブでは、「お互い、かっこよく年を取っていきましょう」と観客に呼びかける。新作アルバムに付けたタイトルは『SOFTLY』。「もう来年古希なので、人間が丸くなってきたから」と冗談めかすが、「動乱の時代を音楽で優しく包み込みたい」という思いがある。

「人類の歴史が変わるファクターは3つあるといわれているんですね。パンデミック、自然災害、戦争。今、同時に起こっている。20代、30代だったら、もうちょっと違うやり方をするけれども、47年間のポリシーみたいなものがある。リーマン・ショックの頃にはライブのお客さんに焦燥感のようなものが見えたし、東日本大震災の後も、とてつもない緊張感があった。今回、あんまりネガティブな作品は入れないようにしようと。ポップカルチャーは人の幸福に寄与するものなので。アジテーションとかアンチテーゼは世の中が平和じゃないとできないんですよ」

「大切なのは平常心でいること。僕、大きなパニックに強いんですよ。足つったとか、そういう小さいのには弱いけど(笑)。朝起きて、冗談言って、歌って……そういう人は生き残るって、アウシュビッツから帰還して『夜と霧』を書いたヴィクトール・フランクルが言っている。いろいろあっても、春が来て花は咲くしね。雨は降るし、空は変わらない。明るくやらないと、駄目でしょ」


山下達郎(やました・たつろう)
1953年生まれ、東京都出身。最新アルバム『SOFTLY』が6月22日発売。3年ぶりのホールツアーを開催中。https://tatsurosoftly.com

聞き手:能地祐子
構成:塚原沙耶
ヘアメイク:COCO(関川事務所)
















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最終更新:2022年06月11日 17:39