● 小田実〔Wikipedia〕
小田 実(おだ まこと、男性、1932年(昭和7年)6月2日 - 2007年(平成19年)7月30日)は、日本の作家・政治運動家。体験記『何でも見てやろう』で一躍有名になった。日本に多い私小説を批判し、全体小説を目指した。九条の会の呼びかけ人の一人。妻は画家の玄順恵。



■ 問いかけとしての戦後日本—(その4)小田実を必要とした戦後日本 「三井物産戦略研究所 | 寺島実郎の発言(連載「脳力のレッスン」世界 2008年7月号)」より
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正直に言って小田実は嫌いだった。きっかけはたわいもないことだ。一九六七年春、早稲田に進学した私は、札幌の小学校時代に同級生だった女性とキャンパスで偶然再会した。特に思いを寄せた女性ではないが、小学生の彼女は銀行勤めの父親について東京から転校してきた利発で垢抜けした少女だった。その後、再び東京に転校していったのだが、東京の高校を出て早稲田の文学部に進学していたのだ。大学近くの喫茶店で語り合ったが、彼女は「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の活動に参加しているといい、その指導者たる小田実を熱烈に支持していると言った。
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何やら拒否反応が走った。一九三二年生まれの小田実は、我々の世代からすれば一回り以上も上の六〇年安保世代であり、一定の若者たちのカリスマであった。だが、やがて来る「全共闘運動」の予兆漂う「新左翼」主潮の早稲田の空気の中では、小田実の存在感などは「女性信者を集める中途半端な市民運動の教祖」といったイメージであり、そんな男に旧知の女子学生が傾倒しているなど許されない思いだった。
べ平連は一九六五年四月に発足した市民運動体であり、規約も会員制度もなく、ピーク時には全国に五〇〇近くのグループが存在したという。七四年に解散しているから、私が大学院までの六年間を過ごした学生時代は、ベ平連が存在した時代と重なる。にもかかわらず、奇妙な拒否反応を引きずって小田実とは何の接点もないまま四〇年近くが経過した。
『何でも見てやろう』の意味
小田実を時代の舞台に押し出したのは著作『何でも見てやろう』だった。この本が出版されたのが一九六一年で、高校時代の友人が夢中になって読んでいて、借りて読んだ記憶がある。小田実が「ひとつ、アメリカに行ってやろう」という言葉で始まるこの本の素材になった米国体験と世界無銭旅行をしたのは、一九五八年から六〇年にかけてであった。
今回改めてこの本を読み返し、最初に読んだ時に抱いた違和感のような印象の意味が分ってきた。確かに、この本は大胆で行動的な青年が「自らの見たもの」をズバリと言い切り、率直に伝える作品としては面白い。しかし、私自身が三〇年以上も世界の現場を歩いてきたからかもしれないが、小田の記述は何事にも半知半解で、独断と偏見に満ち、たとえば米国留学の途上で寄ったハワイで見たフラダンスについて「フラダンスはハワイ土人の盆踊りであった」などという記述がでてくる。若さ故の独断で、そこに面白さもあるのだが、フラの背後にあるハワイの歴史性や文化性に社会科学的構想力をもって踏み込み、理解を深めようとする姿勢が見られない。これはこの本全体を覆う性格であり、断片的な体当たりの体験を「思い込み」で突きぬいている。この辺りが「調べなければ気がすまない」私の気質からの違和感なのかもしれない。
しかし、小田実のアメリカおよび世界体験は戦後の日本にとって重く重要なことであった。フルブライトの奨学金による留学の機会を得た青年小田実が、ハーバード大学に行き「アメリカをものともせぬ気概」でアメリカ社会を観察し、体当たりで確認したレポートは、サンフランシスコ講和会議を経て独立を回復したとはいえ、圧倒的なアメリカの存在感の前に萎縮していた日本人にとって、溜飲を下げるようなメッセージであった。彼の目線を通じて、戦後日本の位置を確認した人さえ少なくない。評論家臼井吉見編纂の『現代の教養–新しい人間像』(筑摩書房、一九六七年)は小田の『何でも見てやろう』を収録し、「戦後を拓く思想」と位置付けた。戦後の日本は、アメリカを知った上で、アメリカと向き合える知性を必要としたのである。
小田実はハーバードでの生活で興味深い経験をしている。たとえば当時ハーバードにいたライシャワー教授との議論である。小田はライシャワーから再三にわたり小田をはじめとする日本の知識人の考え方が「観念的・非現実的」であると指摘されたという。小田はそれを「貧しい国のインテリの傾向」と開き直るが、いかなる存在に対しても服従することを潔しとしない小田とワイシャワーの間に微妙な緊張感があったようで面白い。また、講演にきた作家のパール・バックが「原子力時代の芸術」という題で「核時代におけるヒューマニズムの大切さ」を語った後、小田は大胆にも質問に立ち、「あなたはヒロシマへの原爆投下の時、何をしていたのか、また何を感じたのか」と問いかけ、聴衆の顰蹙をかったという思い出を記しているが、このあたりが小田実の真骨頂であろう。
「終らない旅」への共感
私は一度だけ小田実に会ったことがある。しかも、真剣に三時間以上も語り合った。二〇〇六年五月だったから彼が亡くなる一年ほど前である。NHKのラジオで「日本の自画像–憲法とこの国のゆくえ」という特別番組が二夜連続で放送された。この番組は、NHKの木村知義アナウンサーの司会で、小田実、松本健一という巨頭の議論に私が加わり、日本国憲法の今日的課題を討論するというものであった。小田実は「護憲の論理」を貫く発言を続け、護憲の市民運動の集会に出たら、「憲法は今でも旬」というフレーズが看板に出ていたが、この認識は間違いで、「憲法は今こそ旬」なのだと怒ったという話をした。憲法制定の背景だとか経緯という過去の話よりも、二一世紀の世界においてこそ「力による紛争解決」の無効性が証明されており、日本国憲法の平和主義を世界に訴えるべきという主張であった。「自衛隊の憲法上の位置づけが鮮明でない状況のまま、自衛隊の海外活動が拡大していくことの危険」を論点に、憲法の平和主義を実体化するためにも憲法改正の必要を主張する松本の議論に一切聞く耳をもたず、「現実に合わせて憲法を変えるのではなく、憲法の基本理念に合わせて現実を変える」ことを頑強に主張していた。
小田実の怒りの表情を見つめながら、私は『巌窟王』を思い出していた。小田は繰り返し「日本は戦争のできない国になった」という言葉を使った。食料やエネルギーを海外に依存する日本が対外戦争をすることはできないという理屈であり、自らを「リアリスト」だと言い切っていた。小田の認識は正しい。だが、冷戦後の世界においても国民国家間の紛争を超えた「民族や宗教の対立」がむしろ色濃くなってきているごとく、「新しい戦争」を制御する視座が要ることも間違いなく、このラジオ番組を通じて私はその点を発言した。「戦争のできない国」のはずの日本で、憲法が存在していても平気でイラク派兵を行うような「解釈憲法」がなされるような状況では原則論は意味を失う。今を生きる日本人の「憲法を実体化する意思」こそが問われるのである。小田実の生涯を通じた議論を振り返ると、彼は執拗に「市民」という言葉を使い、「国民」という言葉を避けていた。彼の姿勢は「『される側』の人間が、何故『する側』に回るのか。常に『される側』に立って行動する」というものであった。多分、私と小田実の視座の違いはここにあるのだと思う。私は「政策科学を論ずる人間は、体制側(する側)の責任をも共有し、覚めた反体制派ではなく、体制の抱える課題を解決する意思を持つべき」との姿勢で生きてきたからである。それでも、小田実の真剣な視座は大切だと思う。彼のような視線を理解できなければ、我々は人間社会のあるべき映像を見失うからである。
かのラジオ番組の後、手紙をもらった。国家による人権抑圧に関する「恒久民衆法廷」活動についての文書が同封されていた。相変わらず「憤激」し、問題提起をしていた。彼の表情を想い浮かべながら、視座の違いを超えて小田実もいい男だなと思った。少なくとも小田実は、ベトナム戦争以来、海の向こうの人間のことを真剣に想い、行動した人間なのだ。それから間もなくの死だった。藤原書店の『環』誌は〇七年秋号で「われわれの小田実」を特集した。鶴見俊輔、加藤周一、澤地久枝、ドナルド・キーン、金大中、N・チョムスキーなどが追悼の原稿を寄せており、いかに彼が多くの知性にとって重い存在感をもっていたか改めて理解させられた。加藤周一は「呼びかけ人」と小田実を表現し、「今も我々に呼びかけている」と書いている。澤地久枝は「小田さんは世界の市民と絆を結ぶべく、力の限りをつくした」と述べ、「つづきの頁は『小さな人間』私たちが書くのだ」と結んでいた。












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最終更新:2014年10月06日 17:31