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質問:差別と区別 「教えてgoo(2001.10.15)」より
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質問者:piyopiyo-zzz質問日時:2001/10/15 21:39回答数:5件
”差別と言うものは区別から生まれるものであり、ゆえに区別と言うこと自体
もいけないもので、区別と言うのは状況的には最悪のものである。”
はっきりと覚えていないので申し訳ないんですが、意訳するとこんな感じの言
葉が哲学の言葉にあるらしいのですが、その出典を教えていただけませんか?
反論はしないつもりでいますので、できれば独断に満ちた見解なり批判なりで
かまわないので一筆残していってくれると嬉しいです。
No.4
回答者: highpower 回答日時:2001/10/28 18:36
特定の哲学者の特定の言葉でなくても、本質的に同じ言葉と状況は日々のメディアにしばしば見つけられるのではないでしょうか?
「眼の見えない人のことを日本語ではメクラと言う。メクラという言葉を使うのは差別である。よってメクラという日本語は使わないようにしよう。眼の不自由な人あるいは視力障害者と言おう。しかし、実態があって、それを指す言葉があり、差別する状況が変わらなければ、やがて同じように言い換えた言葉を使うこと自体が差別になる。したがって(?)差別を生むのは実態を指し示すこと(区別)に起因しているので(?)、差別をなくすには区別もしないことが最も良いことである。」この論理の途中までで思考停止して「差別用語」を慎重に避けているのが新聞や雑誌の凡人記者であり、最後まで突詰めて無責任な言説を公にしているのが一部の「哲学者」と呼ばれている人達ではないかと思います。「出典」探しなどという大袈裟な問題でもないように思いますが、質問された方は、やはり有名な哲学者先生の文章の引用が必要なのでしょうか?すみません、役立たずで。でも、もう良い回答が出ているみたいですね。
No.3ベストアンサー
回答者: caballero 回答日時:2001/10/18 16:06
差別は、簡潔にいうと選択の余地がついています。
区別は、違いを認識するものです。
例えば、国産小麦100%!って書いて、何故か外国産と比べて品質が上かの様に消費者は錯覚させられていることがある。実際はフランス産のほうがやすくておいしい!アメリカ産もそこそこおいしい!日本産?別に・・って感じです。高いし、、、。こういった表現による区別は差別とすりかえられているように思います。日本の米でパエリアは作れません。
別に何もかも国産がいいワケじゃないでしょう。だのに国産=上品かのように宣伝するのはおかしい!日本産とか書いて欲しいですね。生産物の善し悪しに自国、他国は関係ないです。単純にもっとおいしいもの食わせろ!って思います。
上か下かの判断は場合によって異なるのに、違いによる区別に一律的な立場で価値をすぐに与えてしまう。個人の選択肢を排除しているように思います。
ねずみ色と灰褐色、これだけじゃ上とか下ってつけようない。白と黒も、邦人も外国人も、高価も安価も、上か下かや好き嫌いなんて、場合によるでしょう?
ですから、区別がないと差別どころか、机といすが別のものともわからない。差別はさらにそこから場合によって生じるもので、差別=区別ではない。
<>差別と言うものは区別から生まれるものであり、ゆえに区別と言うこと自体
もいけないもので、区別と言うのは状況的には最悪のものである。
なにが最悪なんでしょうか?ひよこが黄色いのはタマゴが黄色いせいなのか?
差別がないと選択の仕様が無いです。機械の性能にだって差をつけるでしょう。合理的判断のための手法の一つだと思います。違いだけでは数字も5,4,8,9,60,3,1、バラバラに見えます。差をつけるから1,3,4,5,8,9,60になり、規模がわかる。足の比べて遅い人、世界で一番速い人、オリンピックの「場合」は後者を選択しますよね。差をつけるゲームだから。クマから走って逃げるなら、クマからにげれたらそれでいい。一番も何も無いです。人でなくてもいいです。別に亀が足の速度においてウサギより劣っているわけではないです。温度に優劣も何も無いでしょう。足がある、目が見えない、問題が解ける、
できないより出来たほうがいいワケじゃない。あるほうがいいワケじゃない。
金で買えるものは少ないけれども、同じものなら高いより安いほうがいいのか?お金は多いほどいい?そんなワケない。少ないのは困るが、、。使った分だけあればいい。たくさん使えばいいワケじゃない。節約したからってだから何?ってかんじです。
その言葉を語った所に、差別、区別のいかな哲学があんたんでしょうね。
No.2
回答者: shunchi 回答日時:2001/10/15 22:46
孫引きで申し訳ないですが、遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』筑摩書房の177ページに、
「<区別>は<差別>とは別なものではなく、最も悪質な差別」
(駒沢喜美・小西綾『魔女の審判』エポナ出版)
という引用があるので一応お知らせしておきます。
ジェンダー・フェミニズム(社会学)関係の文脈です。
私としては、「そんなこと言っても男と女を区別しないわけにいかないじゃんか、実際に違いがあるんだからさー。」という感想を持ちました。
No.1
回答者: nabayosh 回答日時:2001/10/15 21:59
出典はわかりませんが、一筆残してみます。
区別、というのは「くべつ」以外の読み方もあります。
「けじめ」という読みが。
けじめをつける時の判断基準は人間ですから、不確定なことがあります。
したがって、差別が起こるのではないでしょうか。
区別・・・悪くない
人間・・・時に悪い
区別から踏み外れて起こった差別・・・人間が悪い
簡単に言っちゃうとこんな感じでしょうか。
本当はもっと複雑なんですが、一筆なので、手短に。
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差別ではなく区別 「後藤健太公式ブログ(2015.11.17)」より
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ある人からわたしの言動に対し「あなたはわたしを差別している」と指摘を受けた。
わたしはコンサルタントなので「差別化」は好きだが「差別」はしているつもりはない。倫理的にも好ましく無いと信じている。
なぜその人がわたしの言動に対し「差別」と感じたのか、文脈を振り返ってみたところ、どうも「差別」と「区別」を勘違いしている気がした。
「差別」はたしかに上から目線のニュアンスを含んでいる。彼(または彼女)がそれを「差別」と受け取った時、たとえそれが「差別」でなく「区別」であったとしても、自分で自分を貶めているだけかもしれない。
目次 [非表示]
1 差別と区別を巡る議論
2 差別の辞書的な意味
3 差別 さべつ
4 さ べつ [1] 【差別】
5 しゃ べつ [1] 【差▽別】
6 区別の辞書的な意味
7 区別 くべつ
8 く べつ [1] 【区別】
9 区別と判断
10 区別と差別化戦略
(※mono....以下略)
「風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。
人は差別をするものです。そして多くの人は、自分が差別をしていることを認めたがりません。非難を避けるためには、「これは差別ではなく区別である」などと主張されることがあります。不当な別ではない、と言いたいわけです。
辞書的な意味を言えば、複数の対象をそれぞれ違うものとして分けることが、「区別」と呼ばれます。そして、それら異なるものの間で取り扱いに差を付けること、特に一方をとりわけ不利に扱うような類の差を付けることが、「差別」と呼ばれるようです。
この意味の違いは、曖昧極まりないものです。違うものとして区別をすれば、それは当然に扱いの差を生むでしょう。すると、区別と差別は切り離せないものになってしまいます。しかし、5歳児を相手にする時と成人を相手にする時、どちらも同じ話題や話し方で対しなければ差別になる、と考える人はいないでしょう。区別と差別の違いは確かに存在するように思えます。おそらくポイントは、区別が導く「差」の内容です。
それから他方で、差別であれば全て許されないものなのかどうかも、省みるべき問題です。愛は差別ではないのでしょうか。愛する人に優しく接し、それ以外の他人よりも有利な取り扱いを為そうとすることは、多くの人が許容する自然な行為ではないでしょうか。もちろん、状況によってはそれが許されない(好ましく思われない)こともありますが、明らかな差別でも、それがむしろ微笑ましいものとして受け取られる場合(例えば親バカ)は存在するのです。
同じことをもう少し明確にするため、人と動物の差別的取り扱いを考えてもよいでしょう。人に認められている権利を他の動物に認めないことは、明らかな差別です。しかしその差別は、(道徳的に許されるかどうかは別にして)社会的に許容されています。「していい」差別なのです。少なくとも、許容されない「不当な」差別ではない。すなわち、こちらの問題のポイントは、差別には不当なものとそうでないものがある、ということのようです。
2つのポイントについて、考えを深めるため、法哲学者のR. ドゥオーキンの議論を導入してみたいと思います。ドゥオーキンは、「平等の処遇(equal treatment)」と、「平等な者として処遇されること(treatment as an equal)」とを、分けて考えます*1。そして、市民の基本的な権利は後者にあり、前者は派生的な権利であると言うのです。
派生的とされる「平等の処遇」とは、「ある種の機会や資産や負担を平等に分配される権利」を意味します。それに対して、より基本的とされる「平等な者として処遇されること」は、「他のすべての人々に対すると同様の尊重と配慮をもって処遇される権利」のことです。5歳児と成人は同じ人間として「同様の尊重と配慮」を傾けられますが、個別に配分される「機会」や「負担」、つまり権利と義務は同じではありません。そして、認められる権利や課せられる義務の個別内容が異なるからといって、それが子どもと成人の基本的に対等な関係を否定するものでないことは、多くの人が認める通りです。
この議論を介すると、区別と差別の違いをどこに見るべきかは、より明確になるのではないでしょうか。子どもと成人を区別して、個別の権利・義務の内容(取り扱い)に差を設けることが、「平等な者として処遇されること」に反しないように、差別に陥らない区別はあり得ると考えるべきでしょう。根本的な差を設けず、対象それぞれの諸特質に合わせた形で(A. センに倣って言うなら、capabilityを最大限にするように意図して)処遇に差を設けることは、差別とは分けて考えてよいのではないか。
そして同じ議論によって、差別の意味も明らかにすることができます。すなわち、複数の対象を「平等な者として処遇」しないこと、それぞれに「同様の尊重と配慮」を与えないことが、差別なのです。動物は市民と「平等の処遇」を与えられないだけでなく、「平等な者」とも認められません。
差別が不当であるか否かは、差別される対象間の共通性がどの程度大きく・重要であるかについての感覚ないし合意と、差別が行われる状況にどの程度の公的性格が伴うかの、2つの基準によって概ね左右されるでしょう。前者については、虫よりも哺乳類の権利を云々する人が多いことから、明らかです。後者は、全く個人的な財産から拠出して分配する場合と企業や政府が支出するケースとで、どちらにより偏りが許されるかの比較を通じて、容易に推測されます。
以上のように考えると、(不当な)差別がなぜ許されないのかは明らかです。社会が許さないと決めているからです。たとえ建前であろうと、現代社会は全ての人々を「平等な者として処遇」することを決めています(国民か外国人かによる差は、「平等の処遇」の水準の差に過ぎません)。差別は「平等な者として処遇される」権利を侵害するものであり、社会に対する挑戦です。人が差別を差別と認めないのは、社会に対する挑戦意図を隠匿するためなのです。
社会が個人や様々な下位集団から成り立つものである以上、差別を差別と認めない/名指さない暗黙の反抗によって、「平等な者として処遇される」権利についての合意は内部から食い破られ、スカスカの空洞になってしまいます。それは、自らの盾ともなり得る権利を使えなくしてしまうことでもあります。
それでも、人は差別を止めないでしょう。ですから、根本的に必要なのは、ただ社会の意志だけです。差別が「よい」か「よくない」かは重要ではありません。前提として、ある「平等な者」の範囲が存在するなら、社会は端的に差別を「許さない」。必要なのはこの意志だけです。範囲への疑義の形を採らない、この意志への反抗(それが意識的であるか否かは問題ではありません)は全て、反社会的な挑戦を意味しており、そしてその挑戦の成否は、社会の意志がどこまで貫徹されるかにかかっています。
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