この進歩的文化人の誕生地となり、原型となったものは何か。岩波書店世界編集部の吉野源三郎が音頭取りとなって、共産党員ではない文化人を糾合した平和問題懇談会である。平和問題談話会は1948年12月に平和問題討議会として発足し、「多数講和」(とりあえず米英をはじめとする西側諸国と講和条約を結ぶ)に反対し、米ソを含むすべての連合国と同時に講和条約を結ぶべきとする全面講和、中立不可侵、軍事基地反対を唱える声明を『世界』に発表した。談話会は年長世代の安部能成や大内兵衛などをかつぎながらも、実質的には清水幾太郎・丸山眞男・久野収などが仕切った。かくて『世界』と岩波は、進歩的文化人の本拠地となった。こうしたことから岩波と言うと、進歩的文化人の牙城とおもわれてきたが、それは、1946年1月の『世界』創刊号からはじまったわけではないことに注意したい。岩波書店創始者である岩波茂雄存命のときの『世界』は進歩的文化人の雑誌ではなかった。『世界』は、津田左右吉の皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」論文(1946年4月号)を掲載したように、オールドリベラリスト(安倍能成や小泉信三など戦前からの自由主義者)系の穏健な雑誌として出発した。そのころは、『前衛』(日本共産党中央機関誌)はもとより、『人民評論』『民主評論』『社会評論』『世界評論』『潮流』など左翼系雑誌が目白押しだった。『改造』は「ブルジョア左翼雑誌」とみなされ、『中央公論』は「微温的」といわれた時代である。したがって岩波茂雄存命時代の『世界』は、左派からは、ブルジョア左翼にも達しない「金ボタンの秀才の雑誌」といわれていた。日本共産党機関誌『前衛』の雑誌評では、『世界』は「保守的なくさみが強い」とされてさえいた。
あまつさえ、『アカハタ』(1948年3月5日)で岩波書店が叩かれるこんな事件もあった。岩波書店が、割り当てられたインディアン・ペーパー(辞典用紙)を煙草巻紙用に横流ししたという記事(「摘発した物を再割当」)である。経済安定本部顧問会議に岩波書店の吉野源三郎が出席していて、長官の和田博雄(農政官僚、のちに社会党副委員長)と示し合せての仕業という記事である。のちにこの記事について事実無根の訂正がなされたが、日本共産党が『世界』を含めた岩波書店を同伴者ともおもっていなかったからこそ、ウラを取った気配の感じられない、醜聞記事を載せたといえる。
『世界』や岩波の刊行物が左旋回したのは、岩波茂雄没(1946年4月25日)後数年たち、平和問題談話会ができたあたりからである。『世界』は平和問題談話会の声明発表場所となり、かれらの論稿を掲載する場となった。『思想』や「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする岩波書店の刊行物は相互に同種の傾向(進歩的文化)をもつものが多くなった。1949年4月には、岩波新書が表紙デザインは戦前と同じだったが色を赤色から青色に変え(青版)、『解放思想史の人々』(大塚金之助)などで再出発させた。このときに付された「岩波新書の再出発に際して」には、「平和にして自立的な民主主義日本の建設」「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせ」る、と言明されている。『世界』の平和問題談話会路線とその軌を一にした言明である。刊行物ミックス(併読)効果によって、岩波文化を進歩的文化人と進歩的文化の牙城にしたのである。
進歩派を活気づけるに終わった福田恆存の批判論文
『世界』を舞台に平和問題談話会に蝟集した岩波進歩的文化人を完膚なきまで批判したのが、今では戦後の名論文とされる福田恆存の『「平和論の進め方についての疑問」(『中央公論』1954年12月号)である。
福田のつけた題名は、「平和論に対する疑問」だったのが、編集部が配慮して、つまりトーンダウンさせて「平和論の進め方についての疑問」にした。さらに、福田論文掲載号の編集後記は、「ただこういう論旨が現状肯定派に歪曲され悪用されることは警戒しなければならぬと思います」と、腰がひけたというより、ひけすぎたものである。しかし、こういう編集後記を添えざるを得なかった当時の論壇の空気を思い浮かべるべきであろう。飛ぶ鳥を落とす勢いの平和問題談話会を代表とする進歩的文化人を論難することがいかにむずかしかったかがわかるものである。
「平和論の進め方についての疑問」は、一時代を画する論文で、よく知られているが、その内容をかいつまんで紹介しておこう。福田は、平和論者の平和論よりもまずは、そうした論をとなえる「文化人」の思惟様式や行為様式の批判からはじめている。文化人とは事件や問題がおき、ジャーナリズムに意見を聞かれれば、どこかに適当な原因をみいだしてなにごとにも一家言を提供する人種で、「運がなかつた」からだとか「自分にはよくわからない」などとはいわない人々であるとし、「自分にとつてもつとも切実なことにだけ口をだすといふ習慣を身につけたらどうでせうか」という。いまのコメンテーターにもそのまま送りたい揶揄であるが、福田はこのように文化人批判をしてから、平和論をめぐる岩波進歩的文化人の思惟様式批判に入る。
日本の平和論は正月などに使う「屠蘇の杯」だという。屠蘇の杯は「小さな杯は順次により大きな杯の上にのつかつてゐる」。平和問題論者は、基地における教育問題(風儀の乱れと猥雑さ)を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらない。統一戦線とか民主戦線とかいうのは、こうした拡大主義から生まれてくる。現地解決主義ではなく、無制限な拡大をなす。そのことで本末転倒がなされ、基地における教育問題などのもとの問題を忘れさせてしまう。最後に、福田はこういう。平和論者は、二つの世界の共存をどういう根拠で信じているのか、日本のような小国は強大な国家と協力しなければやってはいけないはず、と。
「平和論の進め方についての疑問」は、『中央公論』の巻頭論文ということもあって、蜂の巣をつついたような騒ぎをもたらした。絶賛した記事もあったが、九牛の一毛。しかも匿名記事にすぎない。ほとんどは猛反発だった。「平和論の進め方についての疑問」が発表された『中央公論』の翌月号(1955年1月号)には、平野義太郎「福田恆在氏の疑問に答える」が掲載される。「ダレスという猿まわしに曳きまわされながら、小ざかしくも踊つているのではないか、という疑いをもちました」という激しい論調になっている。福田は平野論文への応答「ふたたび平和論者に送る」を『中央公論』(同年2月号)に発表する。
ここで福田論文と反撥論文をめぐる読者の反響の大きさを掲載号の『中央公論』の購読数でみよう。たしかに、福田論文が掲載された12月号の実売数が7万6000で前月より4千部ほど多かった。それなりの反響がうかがえる。しかし反響の大きさは平野の反論のほうである。1月号は前年の福田論文の12月号よりもさらに、1万部も増え8万7000となる。福田の反論がでた2月号は平野の1月号ほどではなく、8万2000。3月号には向坂逸郎(経済学者、1897~1985)や中島健三などのあらたな福田への反論が掲載される。この3月号は福田が反論した2月号よりも1000部強多い。福田論文がむしろ進歩的文化人側を活気づける塩梅になったことに、当時のインテリ界の空気がいかなるものかが表されている。
朝日新聞を「権威」づけたもたれ合い
進歩的文化人は、その誕生地と活躍舞台を「岩波書店」にしたが、もうひとつ「朝日新聞」という舞台がくわわった。「朝日新聞」の論壇時評が『世界』掲載論文や進歩的文化人の論文をいかに多くとりあげたかについては、社会学者辻村明による労作「朝日新聞の仮面」(『諸君!』1982年1月号)がくわしい。それによると、1951年10月から80年12月までに朝日新聞論壇時評で言及された論者の頻度数では、1位中野好夫、2位小田実、3位清水幾太郎、4位加藤周一、5位坂本義和である。上位26人のほとんどを、『世界』の常連執筆者である岩波文化人が占める。『中央公論』は取り上げても、『諸君!』や『正論』などの保守系論壇誌掲載論文をとりあげることは少なく、とりあげても否定的言及が多かった。
こうして進歩的教授(文化人)・岩波書店・朝日新聞はもたれあいの鉄の三角形を形成した。もたれあいと言うのは、そもそも進歩的教授にしてもジャーナリズムにしても、みずからの権威(正統性)を自前で生み出すことはできない。他者の認証あっての権威である。したがって、権威を貸与しあったり、借用しあったりのキャッチボールによって権威が確立する。進歩的教授・文化人は自らの権威の正統化のために岩波書店や朝日新聞によりかかった。岩波のほうは進歩的教授・文化人の著作を出版することで、権威をもつことができた。一方、朝日は著名な岩波文化人=進歩的教授・文化人を紙面に登場させることで、クオリティ紙やインテリの新聞のブランドを得、岩波文化人=進歩的教授・文化人を読者=大衆へ橋渡しすることで、その権威を浸透させ、大衆の支持を獲得する役目をになった。岩波文化も進歩的教授・文化人も朝日の紙面によって大衆的正統化を獲得することができた。
「朝日新聞」はこうした大衆的正統化を後ろ盾にしていただけに、岩波文化人・進歩的教授(文化人)の論説を薄めた朝日的なるものは戦後日本のたてまえとなった。護憲、非武装平和主義などがこれである。そうであればこそ、自民党の政治家や財界人の中にこのたてまえを考慮するハト派がうまれた。この鉄の三角形から進歩的文化人と朝日文化人と岩波文化人はイコールになった。岩波族や朝日族である読者たちは桟敷席にいる観衆であるが、岩波文化・朝日新聞・進歩的教授(文化人)を言祝ぐことで進歩的インテリとして聖別化される功徳を得るという構造(図参照)ができたのである。
覇権的地位からの転落
かくて大学キャンパスやメディア産業従事者の間では、進歩的文化人のイデオロギーこそが支配思想であり、進歩的文化人が支配階級となった。その時代、進歩的文化人の言説と真逆の物言いをする学者がどんな反応を呼び込んだか…。60年安保の翌年大学に入学したわたしには、ありありと思いだされる。当時、京都大学法学部に大石義雄教授がいた。法学部だけでなく、教養課程の日本国憲法も教えていた。日本国憲法は教職免状を取得するための必須科目であるから、大石教授は法学部以外の学生の間にもよく知られていた。大石教授は、日本国憲法を占領軍による押し付け憲法論として、憲法改正論を展開し、自衛隊については現行憲法でも合憲として、そのことを授業でも開陳していた。だから、典型的な「保守反動教授」とみなされていたが、それだけでおわらなかった。なにかの話で「大石さん」が出てくると、その途端に笑いがおこる、変人・バカ教授扱いだった。誰も反動的文化人になりたくないから、人気を気にする教授連は、反動的文化人とだけはいわれないような立ち位置をとった。左翼に媚びているとおもわれる教授もいた。
いや他人事ではない。私自身が嘲笑されたことがある。私が大学院生の1968年の冬ごろだった。さすがにこのころは、全共闘の時代で進歩的文化人の株価は猛烈に下がり、丸山眞男(進歩的文化人)の時代から吉本隆明(進歩的文化人批判の左派知識人)の時代になっていたが、それでも保守反動知識人は論外だった。
当時、福田恆存が面白いなどと仲間の学生に語りかける雰囲気ではないことはわかっていた。だから友人たちにしゃべることはなかった。ところが…あるとき数人の仲間が友人の下宿に集まって談話することがあった。吉本隆明のなんとかがどうしたこうしたというような当時のありふれた会話がつづいた。わたしは、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、二人は似ているんだな」といった。
恥ずかしいことだが、そのとき二人の女子学生がいたので、彼女たちにいいところをみせたいという邪心が働いたのであろう。しかし、「似ているんだな」といいだしたあたりから、呆れた物言いだということがありありとわかる表情を全員から投げ返された。そのあとをつづける勇気はなく、「うんまあ…いいけど」で終わってしまった。「いいなら、いうなよ」と追い討ちまでかけられた。いいところをみせるどころか、すっかり面目を失ってしまった。
このことがあってから、その場に居合わせた吉本隆明の女子学生は、わたしを誰かに紹介するときはかならず「この人ウヨクよ」と添えたものである。福田恆存をよいというだけで「ウヨク」扱いを受けた時代なのである。このときのウヨクは「右翼」ではなく「バカ」に近い意味だった。
大学や文化産業においてでは、左派は、中国における共産党のようなもの、つまり体制だった。にもかかわらず、自分たちは反体制だとのみ思っているところや、自分たちこそ正義や知性やヒューマン価値の担い手の「意識高い」系であるとする臆面のなさがなんとも鼻についた。進歩的文化人やそのシンパの進歩的大衆インテリがいやだったのは、かれらのイデオロギーもさることながら、鈍感な自己意識から繰り出される啓蒙という名の特権的で抑圧・排除型の支配だった。
しかし、進歩的文化人の覇権は、全共闘によって打ち砕かれる。進歩的文化人の鬼子による親殺しがおこなわれたのである。糾弾の論理は、東大全共闘会議議長山本義隆によってかかれた論文(「東京大学 その無責任の底に流れるもの」『現代の眼』1969年6月号)に要約されている。山本義隆は、この論文で、教授会の無責任構造を非難し、丸山の『日本の思想』をとりあげ、引用しながら、丸山が剔抉した日本社会の病理は大河内一男総長体制下の東大評議会・教授会そのものである、何故丸山は東京大学の体制そのものを批判しないのか、と激しく非難した。進歩的教授は、日本社会論のような総論では忌憚のない見立てを展開するが、各論それも大学や知識人集団の仲間集団のこととなると、口をつぐむか打って変わって仲間擁護の甘い見立てになる、と講壇安全左翼の不徹底性が糾弾されたのである。山本義隆は、日大全共闘との対談では、進歩的教授についてつぎのように批判をしている。
一体進歩的文化人といわれる教授たちは何をやってきたか。彼らはいまやきわめて反動的な役割を果たしているか、困ってしまって無言を重ねているか、そのいずれかではないか。進歩的文化人といわれ、平和と民主主義を説いて、高度成長の経済社会では欺瞞的に教授という位置を与えられ、その範囲内で毒にも薬にもならぬ平和・民主主義論を説くことを許容されていた、それ以外の何ものでもなかったことを示している(「権威と腐敗に抗して」『中央公論』1969年1月号)。
当時の大学自治で守られた大学という安全地帯のなかでのかれらの反体制的言説をウソくさいと全共闘が糾弾したのである。いざとなったら、職場を守り、文部官僚や政府権力と結託し、全共闘学生を機動隊に渡す大学教育官僚にすぎない、と。こうして進歩的教授や進歩的文化人という呼称から発した光輪が消え、呼称そのものが消滅した。進歩的文化人・岩波文化・朝日新聞の鉄の三角形の一角が瓦解した。権威の借用・貸与によって存立した鉄の三角形が形骸化しはじめた。
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