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+ 前半記事
14日の毎日の記事で内田樹が総選挙を総括する意見を上げている。「まず感じたのは小選挙区制という制度の不備である」と書き、小選挙区制に対する不満をぶちまけている。この主張は、投票結果が出た直後に中野晃一が言っていた。どうやら、安倍晋三が圧勝した結果に苛立っている文化人たちの間で、小選挙区制に対する批判が共通の問題意識になっているようだ。昨年、トランプが勝利した米大統領選の報道を受けて、文化人たちの間で、没落した中間層に夢を抱かせないよう上から説教を垂れようとした思想運動が起こったことを思い出す。ユニクロを着て鍋をつついて我慢せえと清貧の心構えを垂れていた。年末から正月にかけて、上野千鶴子、小熊英二、長谷部恭男、杉田敦などが、この線に沿って同じ言説をマスコミで披露した。アカデミーの世界は狭い。どこかで身内で顔を合わせて世間話をしているうちに、こういう安易で傲慢な認識と結論になったのだろう。トランプ的なポピュリズムとファシズムを阻止するためには、大衆に幻想を抱かせてはならず、中産層に復活の夢を諦めさせなくてはいけない、われわれ岩波文化人が愚かな大衆を教導して自覚を促そうと、そういう「使命感」で一致したのに違いない。今回は、安倍圧勝の総選挙を受けて小選挙区制の見直しが主題になり、年末から年始の大手紙のメインの論調になるのだろうか。

内田樹や中野晃一の言い分に対しては、何を今頃言っているんだという苛立ちと脱力の気分しか覚えない。この文化人たちは、2年前から「野党共闘」を推進して支持を訴えてきた面々だ。そもそも「野党共闘」なる政治戦略は、小選挙区制のスキームを前提にしたもので、小選挙区制で安倍自民党の現職に勝つために既成野党を合従させるところに主眼がある。基本政策の異なる民進党と共産党に手を組ませ、共産党の下駄票を民進党に与えるというのが鍵だった。もし、今回、小池百合子の希望の党の出現という2年前は想定外だった動きがなく、したがって民進党の分裂という事態がなく、彼らの2年前の戦略どおりに事が運び、北海道や東北や信越の小選挙区を取り、自民党の議席数を40ほど減らしていれば、彼らは小選挙区制に対する文句などは言わず、逆に、小選挙区制のおかげで成果を得られたと喜び、小沢一郎の持論をあらためて賛美したことだろう。結果が悪かったから選挙制度のせいにするというのは、八つ当たりもいいところで、自分の失敗を棚に上げた責任転嫁そのものだ。負け犬の遠吠えにしか聞こえない。「野党共闘」の戦略には、小選挙区制の化身とも言える山口二郎と小沢一郎が中核に入っていて、小選挙区制を肯定する論理で組み立てられたものだった。その「野党共闘」のイデオローグたちが、今頃になって小選挙区制を否定するのは筋が合わない。

内田樹は、これまで小選挙区制を批判したことがあっただろうか。小選挙区制を本気で批判するのなら、なぜ25年前の「政治改革」のそもそもの出発点に遡って検討を加え、その発起人であり扇動者である山口二郎を糾弾しようとしないのだろう。不思議なことに、中野晃一にせよ、内田樹にせよ、小選挙区制を批判しながら山口二郎には指一本触れようとしない。目の前に「政治改革」の首魁の山口二郎がいるのに、目を背けて批判の対象から外している。いったい誰が小選挙区制を導入したのだ。小選挙区制にしてしまうと、対立するはずの二大政党の政策が近似すること、有権者の選択肢が狭められること、政党の幹部に権力が集中して弊害が出ること、等々の民主主義の機能不全の懸念は、「政治改革」の論議の際に反対論者からさんざん挙げられた指摘だった。そもそも、そもそも、そもそも、戦後日本で小選挙区制に反対する者がそれを拒絶してきた理由は何だったのか。小選挙区制を導入しようとしてきた保守側の意図と目的は何だったのか。ハトマンダーとカクマンダーは何のためのものだったのか。改憲のための選挙制度改変の策動だったではないか。3分の2を取るためだったではないか。だから護憲側が抵抗したのではなかったのか。今、小選挙区制が問われるとすれば、糾明しないといけないのは、なぜあのときに、岩波書店と朝日新聞が「政治改革」の旗を振る錯誤を犯したのかということだ。

+ 後半記事
内田樹は記事の中で、小選挙区制が有効に機能しないのは低投票率のせいであると言っている。何を言っているのか意味が分からない。内田樹の政治センスの鈍さを感じるし、論理構成の支離滅裂を感じざるを得ない。本末転倒な議論だ。低投票率になるのは、この国の小選挙区制の本来性であって、低投票率は何かの原因として先行する要素ではない。過去の総選挙の投票率の推移を見れば簡単に分かることだ。中選挙区制から小選挙区制に変わり、死票が増え、二つの政党の政策が近似して差異と対立がなくなり、選択肢の幅がなくなり、有権者は選挙に関心を持てなくなった。小選挙区制というシステムそのものが、この国では投票率を低く抑える機能と属性を持つ。自民党Aと自民党Bでは選びようがない。中選挙区制では、自民党と対決し対抗する野党を応援し、自民党を牽制する野党を増やすための一票という投票(参政権の行使)が機能した。だが、小選挙区制では政権選択の投票になるため、野党を応援する一票という投票ができない。その投票は死票になる。したがって、小選挙区で票を稼ごうとする野党は、与党である自民党と同じ政策に寄せて差を埋める動きに出る。小選挙区制に移行して以降、この国では日米安保反対は決定的に異端となった。日米安保反対の立場が異端となると同時に、平行して護憲の立場も異端となって行った。今では日中友好も異端だ。日米安保礼賛で自衛隊礼賛しか政治の立場がない。

政策の対立軸を選挙制度で消したのが「政治改革」だった。日米安保を絶対化する政治制度改革だったと言っていい。中選挙区制の時代の投票率は70%を超えるのが普通だった。投票率を上げれば小選挙区制がワークするという内田樹の議論は、内田樹らしい屁理屈の小細工であって、そもそも制度の内実と因果関係の認識が間違っている。また、どれほど小選挙区制を批判しても、小選挙区制で勝ち続けて権力を握っている自民党が選挙制度を変えるはずがないし、小選挙区制というシステムとともに誕生し生息してきた民進党やその派生政党が小選挙区制を否定して改変を主張するわけがない。既成野党の中で小選挙区制に反対を言うのは、唯一共産党だけなのだから、野党全体に向かって小選挙区制反対で一致せよというのも愚かな話だ。政治の初歩が分かっているのだろうかと怪しんでしまう。小選挙区制を本当に変えようとすれば、二つのことが必要になる。一つは「政治改革」の首謀者である山口二郎が自己批判し、国民の前で土下座して懺悔することである。もう一つは、中選挙区制に戻そうとする意思を持った政党が選挙で自民党に勝つことである。現行の小選挙区の下で勝って過半数を制することだ。「意思を持った政党」は、既成野党の中では共産党しかないから、共産党が小選挙区で自民党に勝たないといけないということになる。後者は事実上困難なことだが、前者は簡単にできることである。内田樹と中野晃一は、山口二郎の懺悔と謝罪を実現させるべく努力すべきだろう。

内田樹に反論するなら、投票率を上げようとするのなら、既成野党を数合わせさせる「野党共闘」で安倍政権打倒を考えるのではなくて、永田町の外からのリベラル新党の戦略を考案した方がいいということだ。その方がずっと可能性があるし、自民党から小選挙区の議席を奪う力になる。有権者が新しい政党を求め、新しい政治家と言葉を求めているのは歴然で、有権者は政治の変革を強く求めている。今の政治に満足していない。だからこそ、7月には都民ファの怒濤の勝利劇があったわけだし、10月の総選挙でも枝野新党の小さなブームが起きた。昨年の参院選を振り返ったとき、32の1人区で「野党共闘」は単独候補を立てて8勝の成績を収めたけれど、特に大きなブームと呼べる現象は起きず、選挙区の投票率も上がらなかった。投票率が上がらなかったから、8勝した選挙区では共産党の組織票がよく貢献し機能したのだという見方もある。有権者は「野党共闘」に醒めていた。それは数合わせの所産だったと評価するしかない。いつも投票する人が投票し、共産党候補の案山子票が死票にならなかっただけだ。全国ベースで小選挙区で自民党に勝つ「革命」を起こすためには、いつもは選挙に行かない有権者をその気にさせないといけない。マスコミがブームに乗って風を吹かせる現実を作らないといけない。それは、既成野党の合従連衡の形では絶対に無理なことだ。最後に共産党についてだが、私は、今は、党名を変えなくてもよいという立場にある。党名よりも重要なのは人物と言葉である。

小選挙区で共産党が自民党に単独で勝つことは難しいけれど、サンダース的なブームを起こして比例の得票と議席で野党第一党(1200万票:40議席)を制することはできる。その図は十分に想定できる。人々の期待を集められる新しいキャラクターとメッセージが準備され、ブーム的現象を起こせば、共産党の名前でも支持を集めることは可能だ。共産党が古くて魅力がないのは、党の名前や綱領のせいではない。社会主義と護憲と反日米同盟のイメージと政策を、サンダースのように有意味に訴求し説得する能力と努力がないためだ。

■ 思考停止の左翼系知識人 「真田清秋のブログ(2017.3.11)」より
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「月刊日本」3月号、哲学者・適菜収氏と山崎行太郎氏の対談記事より:
 "言葉を破戒する安倍政権”

山崎: そういう意味では、安部さんの言葉だけでなく、「保守」という言葉自体も混乱していますね。最近では、憲法改正を主張したり、中国や韓国を批判すれば、自称保守の人たちから仲間だと見なされますよね。彼らは「中国や韓国を批判するのが保守である」といった考えにとりつかれています。これは保守がイデオロギー化、左翼化しているということです。
 実際、彼らは自分たちとちょっとでも違うことを言えば、「お前は左翼だ」などと批判するわけです。これは昔の左翼にそっくりですよね。だけど、中国や韓国を批判するだけで保守になれるなら、誰だって保守になれますよ。
適菜: 三島由紀夫は、朝から晩まで反共に明け暮れていると、段々相手と似通ってくると言っています。教条的なイデオロギーに絡めとられてしまうのですね。今の自称保守も同じで、愚かな左翼を批判しているうちに、自分たちも同じようなものになってしまった。
 福田恒存は「私の保守主義観」で「人間は相手の甲羅に似せて穴を掘る」と言います。「日本の革新派は保守派の水準の低さを嘲笑うがその水準は革新派の水準によって定まったもので、軽々しくそれを笑うことは出来ない」。そしてそれは逆にも言える。「保守派の水準が低いために、革新派の水準が低くなったのだとも言えよう」と。だから安倍に対して頓珍漢な批判を投げつけるバカ左翼と、安倍を頓珍漢な理由で支持しているバカ保守が、同じレベルでわいわいやっているだけです。
山崎: そうですね。その結果、今や櫻井よしこや百田尚樹が保守の代表とされるまでになってしまったわけです。安倍さんが作家と言われて思い浮かべるのも、彼らの顔だと思いますよ。安倍さんは櫻井よしこの本の解説まで書いて、櫻井を絶賛していますからね。安倍さんの頭に三島由紀夫や小林秀雄のことがちらつくことはないでしょう。
適菜: たぶん読んでいないでしょうね。
山崎: 読んでいなくとも、せめて名前くらいは知ってほしいけれどね。尊敬する作家が櫻井よしこや百田尚樹では、いくら何でも恥ずかしいですよ。
適菜: 安倍の愛読書は百田の『永遠のゼロ』ですからね。一昔前は、政治家が愛読書に司馬遼太郎の本を挙げていると、「政治家は劣化した」なんて批判されましたけど、いまや『永遠のゼロ』ですよ。
 ついでに言うと、橋下徹の愛読者は『いま、会いにゆきます』です。もう何がなんだかわからない。
山崎: 安倍さんは百田や櫻井を一流の作家だと思い込み、彼らの言っていることを真に受けているフシがありますよね。これは知的土壌が根本的におかしいということです。昔の総理大臣は、佐藤栄作あたりまでは、江藤淳や小林秀雄のことは頭に入れていたと思います。
適菜: 安倍は百田と『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』という対談本を出していますけど、まさにタイトル通り、お花畑で咲き誇っているんですよ。
山崎: これは保守派だけではなく、佐翼にも問題があると思います。かつては左派系の知識人が力を持っていて、権力に対してそれなりにしっかりした批判を行っていました。だから、今は左派からまっとうな批判が出てこないから、権力側も彼らに対抗するために、知的訓練を積む必要があった。だけど、今は左派からまっとうな批判が出てこないから、権力も安心しきっちゃっているんですよ。
適菜: 左派も冷戦時代で思考停止していて、現状認識できていない。だから彼らの安倍批判は力を持たないんです。
 例えば、慶應義塾大学に金子勝という佐翼の学者がいますよね。彼は「トランプは排外主義者であり。安倍首相も似たようなもの」と言っていたのですが、大間違いです。不法移民を追い出そうとしているトランプと、「外国人材」などと誤魔化して大量の移民を国内に入れようとしている安倍が「似たようなもの」であるはずがない。安倍はグローバリストですよ。ナショナリストが「国籍や国境にこだわる時代は終わった」などと言うはずがないでしょう。
山崎: それから、佐翼の人たちは「安倍は民主主義を壊そうとしている。民主主義を守れ」などと言っていますが、先ほど適菜さんが指摘したように、民主主義は権力の一元化を招くから無条件に善とは言えない。だから「民主主義を守れ」というスローガンだけでは、安倍政権に対抗できないのだと思います。
適菜: そうですね。正確に言えば、安倍が壊そうとしているのは民主主義ではなく、議会主義(間接民主主義)です。多くの人たちは民主主義と議会主義を混同しているから、議論が噛み合わなくなる。

清秋記:
 真の保守の哲学者であるお二人の共通するのは、品性ある思想、言い換えれば卑怯でないむしろ武士道的な知的見識に殉じることで、全体観から現在位置を確認し、その上で迫力ある行動が可能な知的見解とも言えるでしょう。
 やはり、人は議論を重ね、知的レベルを常に磨く必要が天意に適っていると思います★
 そのことが、時代を見据え、その本質を掴み、万人のために行動する気概が大事だと痛感します★


■ 左翼キャスター・コメンテーター 進歩的文化人の後裔は限りなく軽い 「iRONNA(月刊正論2015年8月号)」より
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竹内洋(社会学者、関西大学東京センター長)

「進歩的文化人さまが到着しました」

 進歩的文化人といま言っても、「ああ、あれね」とリアルに思いだせるのは、60歳代以上の人々であろう。それよりも若い世代にとっては、いまでは具体的イメージが湧きにくいかもしれない。だから、年長世代にはいくらか復習めいたことになるが、進歩的文化人とはどのような存在だったかの説明からはじめたい。

 進歩的文化人は進歩主義的文化人をつづめて言った言葉。進歩主義とは歴史を進歩するものとみ、それを推し進める思想の謂である。進歩の先にソ連や中国の社会主義国を想定していた。したがって進歩的文化人は、敗戦後の社会党・共産党応援団として前身の自由党をふくめた反自民党の立ち位置をとり、護憲平和、非武装中立、戦後民主主義の擁護などを唱えた学者や作家、芸術家などを指した呼称である。進歩的文化人を英語に訳せば、socialist intellectuals(社会主義的な知識人)となる。

 ところで進歩的文化人のドンだった丸山眞男は、1970年代後半から80年あたりまでに書かれた「近代日本の知識人」という論稿(『後衛の位置から』所収)の中で進歩的文化人という呼称についてこう書いている。

 「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活発に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます(下線引用者)。

 70年代後半から80年代あたりは、進歩的文化人への批判が高まり、丸山は自身が進歩的文化人のドンとして攻撃の矢面に立たされることが多かった。それ故の被害者意識からの言明であることを斟酌しても、進歩的文化人をもっぱら「他称」であり「侮蔑や嘲笑の調子とむつびついている」というのは、この論文が書かれた時代についてはともかく、言葉の発生としては首肯できない。進歩的文化人はもともとは尊称用語であり、ひそかな自称用語でさえあったからである。

 というのは戦後初期には、左翼知識人が自称や決意表明として「進歩的知識人」や「進歩的インテリゲンチャ」を使用していた。そのことは、戦後初期の左翼臭が強い総合雑誌『世界評論』や『潮流』などにこれらの用語が頻出することでわかる。このようななかで、「進歩的文化人」は、戦後増産された軽薄な「文化人」のなかの「進歩的」分子という尊称用語として登場したからである。

 蔑称ではなかったという事例をあげよう。評論家青地震(1909~84)は、砂川闘争(1955年にはじまる米軍基地反対闘争)で、丸山とならんで進歩的文化人の代表格だった社会学者清水幾太郎と砂川町にかけつけたとき、地元農民からこういわれたというのである。「ただいま進歩的文化人さまが到着されました」(「戦後史のなかの岩波文化人」『週刊読売』1974年8月17日)。基地反対派の地元農民が応援でかけつけた青地や清水に皮肉をいうわけはないから、「進歩的文化人」は蔑称ではなく、その反対の尊称として存在したことの証拠となる。知識人という名称がそうであるように、自分のことを進歩的文化人などと名乗り出るようなことは憚られたが、他者からそういう括りにいれられないと、学者としての誇りを傷つけられるという類の用語だった。進歩的文化人は歴史の針を前にすすめる良心的知識人であり、かつ一流の学者文化人であるという意味が込められていたからである。


《保守反動文化人》を蹴散らす

 進歩的文化人陣営は命名闘争のために、対抗知識人を命名し括り出した。進歩的文化人の反対用語は、「退歩的野蛮人」だが、それでは漫画的すぎて負のレッテルとしての訴求力を欠く。それに対抗集団を野蛮人とすれば、進歩的文化人が自らの格を下げることにもなる。そこで進歩的文化人陣営から文化人という名称だけはのこして、「(保守)反動文化人」という命名がくりだされた。反動的文化人は歴史の針を過去に戻す復古主義者であり、権力と結託する寄生的知識人という意味がこめられていた。かててくわえて一流の学者文化人でもないという意味も込められていた。「(保守)反動文化人」の名称には、三重にも否定的意味をこめられていたのである。

 進歩的文化人を蔑称とする動きは、進歩的文化人陣営がタグをつけくくりだしたことに対する「反動文化人」側からの反撥による攻勢の結果だった。進歩的文化人陣営が投げた飛び道具が投げた者自身に戻ってくるブーメラン効果だった。そういう意味では、呼称をめぐるせめぎあいだったが、圧倒的に優勢だったのは、進歩的文化人のほうだった。

 進歩的文化人は論壇での発表の媒体は『世界』をはじめ、『現代の眼』や『朝日ジャーナル』などいくつもあった。それに対し、保守系の論壇誌には、『自由』(1959年末創刊)があったが、岩波書店から刊行された『世界』からくらべて「よく読む雑誌」などの調査でランクインすることのないマイナーな雑誌だった。『胎動』『新論』『論争ジャーナル』など保守系論壇誌の試みはいくつかあったが、購読数は数千単位で、そのほとんどは短期間で休刊にいたった。メジャーな保守系雑誌として『諸君』(1970年1月号からは誌名は『諸君!』)が登場したのは、戦後も四半世紀たった1969年(7月号)だったが、70年代の『諸君!』の毎月の実売数は、まだ二万~三万台で低迷していた。本誌『正論』が登場したのはそれから四年たった一九七三年十一月号である。その四年あとに『Voice』が1977年十二月号に登場した。購読者数で保守論壇誌が革新論壇誌と肩を並べるにいたったのは、八〇年代からである。それまでは論壇は進歩的文化人の独壇場だった。

 つまり、進歩的文化人は、戦後のある時期まで、声高に物を言う大学生やインテリ、労働組合員という小文字のオピニオン・リーダーに絶大な影響を及ぼした、大文字のオピニオン・リーダーだった。当時の保守(自民党)に対する社会党・共産党を代表とした革新陣営のイデオロギーを浸透させる役割を果たした。代表的進歩的文化人の具体名をあげれば、さきほどふれた丸山眞男東大教授や清水幾太郎学習院大学教授、久野収学習院大学教授のほかに教科書裁判で有名な家永三郎東京教育大学教授、作家野間宏、阿部知二、大江健三郎などである。60年安保反対闘争は、かれらが世論に大きな影響を与え、もっとも輝いたときであった。そして、進歩的文化人は、1967年の美濃部亮吉の東京都知事当選に代表されるように、反公害・護憲・福祉を旗印に社会党・共産党によってかつぎ出され、知事・市長に当選した。70年末までは進歩的文化人の影響力は大きかった。

大衆インテリの急増が権威を後押し

 ここまでの説明を読んだ若い世代の人は、進歩的文化人という言葉でいまテレビに出ているちょっと左の立ち位置のキャスターやコメンテーター文化人などを想起するかもしれない。たしかにどんな問題にもいっぱしの嘴をはさみ、政府のやることに文句をつけ、自由や競争より平等を掲げる言論は、進歩的文化人の後裔とはいえる。しかし、いまのテレビのちょっと左のキャスターやコメンテーターはかつての進歩的文化人をかぎりなく軽量にしたものである。キャスターはそもそも学者でも文化人でもない。コメンテーターには芸能人やスポーツ選手がいるし、学者といっても必ずしも一流かどうかは疑わしい人もいる。ところがかつて猛威をふるった進歩的文化人は大物大学教授や一流作家などの文化人がそろっていた。

 いまや学者文化人もただの大学教員にしかすぎないが、進歩的文化人の時代は、学者や芸術家・作家などの文化人の威信は絶大なものがあった。以下に示す1964年におこなわれた職業威信調査(東京都の男性)をみると隔世の感があるだろう。

 第一位が総理大臣(94―スコア、以下同)。それについで東京大学総長(92)が挙がっている。東大総長の威信は、最高裁判所長官(90)、衆議院議長(89)、大臣(89)よりも高かった。いまでも卒業式のシーズンには、東京大学総長の言葉はメディアで報道されているが、スピーチの内容はかなりはしょられている。季語のような儀礼的報道である。進歩的文化人が闊歩していた時代には、「太った豚になるより、痩せたソクラテスになれ」(1964年3月の大河内一男東大総長の卒業式式辞。ただしこの言は、原稿にはあったが式場では省かれた)のように、東大総長の式辞は時代の指針の言葉のように詳しく報道され、社会的話題にもなった。大河内総長自身が押しも押されぬ進歩的文化人だった。

 そんな時代だから唯の大学教授でもスコアは83で医師(77)をはるかに離し、大会社の社長(82)よりも高い評価だったのである。であれば、芸術家や作家の威信も高かったはずである。もちろんこの時代の大学教員数と今の大学教員数を比べれば、5万人(1960年)から18万人と3倍以上も膨張した。大学教授のインフレは威信の低下――95年調査では、医師90、大会社の社長87、裁判官87、大学教授84――に影響しているが数の膨張だけが原因ではない。かつての大学教授の威信の高さは、戦後の無い無いづくしの中で生まれた文化国家という目標と人々の学歴志向とが連動しながら、大衆インテリが増産されるなかで学者文化人への畏敬の念が強まったことが大きな要因だった。

 中でも進歩的文化人は、大学教授の中の大物であるから、その威光は格別である。だからかつての進歩的文化人はいまのキャスターやコメンテーターの発言などとは比べ物にならない影響力を行使したのである。当時は、ネットはないし、テレビは萌芽期で普及したときでも娯楽を主とした二流メディアにすぎなかった。活字の印刷媒体こそが権威メディアであったから、進歩的文化人は論壇誌や著書、そして講演、声明活動などで啓蒙活動にいそしんだのである。そう、進歩的文化人の時代というものがあったのである。戦後70年を考えるときに、敗戦後四半世紀以上にもわたって大きな影響力をふるった進歩的文化人群は忘れてはならない社会集団である。

進歩的文化人の巣だった『世界』

+ 続き
 この進歩的文化人の誕生地となり、原型となったものは何か。岩波書店世界編集部の吉野源三郎が音頭取りとなって、共産党員ではない文化人を糾合した平和問題懇談会である。平和問題談話会は1948年12月に平和問題討議会として発足し、「多数講和」(とりあえず米英をはじめとする西側諸国と講和条約を結ぶ)に反対し、米ソを含むすべての連合国と同時に講和条約を結ぶべきとする全面講和、中立不可侵、軍事基地反対を唱える声明を『世界』に発表した。談話会は年長世代の安部能成や大内兵衛などをかつぎながらも、実質的には清水幾太郎・丸山眞男・久野収などが仕切った。かくて『世界』と岩波は、進歩的文化人の本拠地となった。こうしたことから岩波と言うと、進歩的文化人の牙城とおもわれてきたが、それは、1946年1月の『世界』創刊号からはじまったわけではないことに注意したい。岩波書店創始者である岩波茂雄存命のときの『世界』は進歩的文化人の雑誌ではなかった。『世界』は、津田左右吉の皇室を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」論文(1946年4月号)を掲載したように、オールドリベラリスト(安倍能成や小泉信三など戦前からの自由主義者)系の穏健な雑誌として出発した。そのころは、『前衛』(日本共産党中央機関誌)はもとより、『人民評論』『民主評論』『社会評論』『世界評論』『潮流』など左翼系雑誌が目白押しだった。『改造』は「ブルジョア左翼雑誌」とみなされ、『中央公論』は「微温的」といわれた時代である。したがって岩波茂雄存命時代の『世界』は、左派からは、ブルジョア左翼にも達しない「金ボタンの秀才の雑誌」といわれていた。日本共産党機関誌『前衛』の雑誌評では、『世界』は「保守的なくさみが強い」とされてさえいた。

 あまつさえ、『アカハタ』(1948年3月5日)で岩波書店が叩かれるこんな事件もあった。岩波書店が、割り当てられたインディアン・ペーパー(辞典用紙)を煙草巻紙用に横流ししたという記事(「摘発した物を再割当」)である。経済安定本部顧問会議に岩波書店の吉野源三郎が出席していて、長官の和田博雄(農政官僚、のちに社会党副委員長)と示し合せての仕業という記事である。のちにこの記事について事実無根の訂正がなされたが、日本共産党が『世界』を含めた岩波書店を同伴者ともおもっていなかったからこそ、ウラを取った気配の感じられない、醜聞記事を載せたといえる。

 『世界』や岩波の刊行物が左旋回したのは、岩波茂雄没(1946年4月25日)後数年たち、平和問題談話会ができたあたりからである。『世界』は平和問題談話会の声明発表場所となり、かれらの論稿を掲載する場となった。『思想』や「岩波講座」「岩波全書」「岩波新書」をはじめとする岩波書店の刊行物は相互に同種の傾向(進歩的文化)をもつものが多くなった。1949年4月には、岩波新書が表紙デザインは戦前と同じだったが色を赤色から青色に変え(青版)、『解放思想史の人々』(大塚金之助)などで再出発させた。このときに付された「岩波新書の再出発に際して」には、「平和にして自立的な民主主義日本の建設」「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせ」る、と言明されている。『世界』の平和問題談話会路線とその軌を一にした言明である。刊行物ミックス(併読)効果によって、岩波文化を進歩的文化人と進歩的文化の牙城にしたのである。

進歩派を活気づけるに終わった福田恆存の批判論文

 『世界』を舞台に平和問題談話会に蝟集した岩波進歩的文化人を完膚なきまで批判したのが、今では戦後の名論文とされる福田恆存の『「平和論の進め方についての疑問」(『中央公論』1954年12月号)である。

 福田のつけた題名は、「平和論に対する疑問」だったのが、編集部が配慮して、つまりトーンダウンさせて「平和論の進め方についての疑問」にした。さらに、福田論文掲載号の編集後記は、「ただこういう論旨が現状肯定派に歪曲され悪用されることは警戒しなければならぬと思います」と、腰がひけたというより、ひけすぎたものである。しかし、こういう編集後記を添えざるを得なかった当時の論壇の空気を思い浮かべるべきであろう。飛ぶ鳥を落とす勢いの平和問題談話会を代表とする進歩的文化人を論難することがいかにむずかしかったかがわかるものである。

「平和論の進め方についての疑問」は、一時代を画する論文で、よく知られているが、その内容をかいつまんで紹介しておこう。福田は、平和論者の平和論よりもまずは、そうした論をとなえる「文化人」の思惟様式や行為様式の批判からはじめている。文化人とは事件や問題がおき、ジャーナリズムに意見を聞かれれば、どこかに適当な原因をみいだしてなにごとにも一家言を提供する人種で、「運がなかつた」からだとか「自分にはよくわからない」などとはいわない人々であるとし、「自分にとつてもつとも切実なことにだけ口をだすといふ習慣を身につけたらどうでせうか」という。いまのコメンテーターにもそのまま送りたい揶揄であるが、福田はこのように文化人批判をしてから、平和論をめぐる岩波進歩的文化人の思惟様式批判に入る。

 日本の平和論は正月などに使う「屠蘇の杯」だという。屠蘇の杯は「小さな杯は順次により大きな杯の上にのつかつてゐる」。平和問題論者は、基地における教育問題(風儀の乱れと猥雑さ)を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして、資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる。小さな杯を問題にするためにはどんどん大きな杯を問題にしなければおさまらない。統一戦線とか民主戦線とかいうのは、こうした拡大主義から生まれてくる。現地解決主義ではなく、無制限な拡大をなす。そのことで本末転倒がなされ、基地における教育問題などのもとの問題を忘れさせてしまう。最後に、福田はこういう。平和論者は、二つの世界の共存をどういう根拠で信じているのか、日本のような小国は強大な国家と協力しなければやってはいけないはず、と。

 「平和論の進め方についての疑問」は、『中央公論』の巻頭論文ということもあって、蜂の巣をつついたような騒ぎをもたらした。絶賛した記事もあったが、九牛の一毛。しかも匿名記事にすぎない。ほとんどは猛反発だった。「平和論の進め方についての疑問」が発表された『中央公論』の翌月号(1955年1月号)には、平野義太郎「福田恆在氏の疑問に答える」が掲載される。「ダレスという猿まわしに曳きまわされながら、小ざかしくも踊つているのではないか、という疑いをもちました」という激しい論調になっている。福田は平野論文への応答「ふたたび平和論者に送る」を『中央公論』(同年2月号)に発表する。

 ここで福田論文と反撥論文をめぐる読者の反響の大きさを掲載号の『中央公論』の購読数でみよう。たしかに、福田論文が掲載された12月号の実売数が7万6000で前月より4千部ほど多かった。それなりの反響がうかがえる。しかし反響の大きさは平野の反論のほうである。1月号は前年の福田論文の12月号よりもさらに、1万部も増え8万7000となる。福田の反論がでた2月号は平野の1月号ほどではなく、8万2000。3月号には向坂逸郎(経済学者、1897~1985)や中島健三などのあらたな福田への反論が掲載される。この3月号は福田が反論した2月号よりも1000部強多い。福田論文がむしろ進歩的文化人側を活気づける塩梅になったことに、当時のインテリ界の空気がいかなるものかが表されている。

朝日新聞を「権威」づけたもたれ合い

 進歩的文化人は、その誕生地と活躍舞台を「岩波書店」にしたが、もうひとつ「朝日新聞」という舞台がくわわった。「朝日新聞」の論壇時評が『世界』掲載論文や進歩的文化人の論文をいかに多くとりあげたかについては、社会学者辻村明による労作「朝日新聞の仮面」(『諸君!』1982年1月号)がくわしい。それによると、1951年10月から80年12月までに朝日新聞論壇時評で言及された論者の頻度数では、1位中野好夫、2位小田実、3位清水幾太郎、4位加藤周一、5位坂本義和である。上位26人のほとんどを、『世界』の常連執筆者である岩波文化人が占める。『中央公論』は取り上げても、『諸君!』や『正論』などの保守系論壇誌掲載論文をとりあげることは少なく、とりあげても否定的言及が多かった。


 こうして進歩的教授(文化人)・岩波書店・朝日新聞はもたれあいの鉄の三角形を形成した。もたれあいと言うのは、そもそも進歩的教授にしてもジャーナリズムにしても、みずからの権威(正統性)を自前で生み出すことはできない。他者の認証あっての権威である。したがって、権威を貸与しあったり、借用しあったりのキャッチボールによって権威が確立する。進歩的教授・文化人は自らの権威の正統化のために岩波書店や朝日新聞によりかかった。岩波のほうは進歩的教授・文化人の著作を出版することで、権威をもつことができた。一方、朝日は著名な岩波文化人=進歩的教授・文化人を紙面に登場させることで、クオリティ紙やインテリの新聞のブランドを得、岩波文化人=進歩的教授・文化人を読者=大衆へ橋渡しすることで、その権威を浸透させ、大衆の支持を獲得する役目をになった。岩波文化も進歩的教授・文化人も朝日の紙面によって大衆的正統化を獲得することができた。

 「朝日新聞」はこうした大衆的正統化を後ろ盾にしていただけに、岩波文化人・進歩的教授(文化人)の論説を薄めた朝日的なるものは戦後日本のたてまえとなった。護憲、非武装平和主義などがこれである。そうであればこそ、自民党の政治家や財界人の中にこのたてまえを考慮するハト派がうまれた。この鉄の三角形から進歩的文化人と朝日文化人と岩波文化人はイコールになった。岩波族や朝日族である読者たちは桟敷席にいる観衆であるが、岩波文化・朝日新聞・進歩的教授(文化人)を言祝ぐことで進歩的インテリとして聖別化される功徳を得るという構造(図参照)ができたのである。


覇権的地位からの転落

 かくて大学キャンパスやメディア産業従事者の間では、進歩的文化人のイデオロギーこそが支配思想であり、進歩的文化人が支配階級となった。その時代、進歩的文化人の言説と真逆の物言いをする学者がどんな反応を呼び込んだか…。60年安保の翌年大学に入学したわたしには、ありありと思いだされる。当時、京都大学法学部に大石義雄教授がいた。法学部だけでなく、教養課程の日本国憲法も教えていた。日本国憲法は教職免状を取得するための必須科目であるから、大石教授は法学部以外の学生の間にもよく知られていた。大石教授は、日本国憲法を占領軍による押し付け憲法論として、憲法改正論を展開し、自衛隊については現行憲法でも合憲として、そのことを授業でも開陳していた。だから、典型的な「保守反動教授」とみなされていたが、それだけでおわらなかった。なにかの話で「大石さん」が出てくると、その途端に笑いがおこる、変人・バカ教授扱いだった。誰も反動的文化人になりたくないから、人気を気にする教授連は、反動的文化人とだけはいわれないような立ち位置をとった。左翼に媚びているとおもわれる教授もいた。

 いや他人事ではない。私自身が嘲笑されたことがある。私が大学院生の1968年の冬ごろだった。さすがにこのころは、全共闘の時代で進歩的文化人の株価は猛烈に下がり、丸山眞男(進歩的文化人)の時代から吉本隆明(進歩的文化人批判の左派知識人)の時代になっていたが、それでも保守反動知識人は論外だった。

 当時、福田恆存が面白いなどと仲間の学生に語りかける雰囲気ではないことはわかっていた。だから友人たちにしゃべることはなかった。ところが…あるとき数人の仲間が友人の下宿に集まって談話することがあった。吉本隆明のなんとかがどうしたこうしたというような当時のありふれた会話がつづいた。わたしは、「吉本もいいけど、福田恆存はもっといいぞ」と喋りだし、「案外、二人は似ているんだな」といった。

 恥ずかしいことだが、そのとき二人の女子学生がいたので、彼女たちにいいところをみせたいという邪心が働いたのであろう。しかし、「似ているんだな」といいだしたあたりから、呆れた物言いだということがありありとわかる表情を全員から投げ返された。そのあとをつづける勇気はなく、「うんまあ…いいけど」で終わってしまった。「いいなら、いうなよ」と追い討ちまでかけられた。いいところをみせるどころか、すっかり面目を失ってしまった。

 このことがあってから、その場に居合わせた吉本隆明の女子学生は、わたしを誰かに紹介するときはかならず「この人ウヨクよ」と添えたものである。福田恆存をよいというだけで「ウヨク」扱いを受けた時代なのである。このときのウヨクは「右翼」ではなく「バカ」に近い意味だった。

 大学や文化産業においてでは、左派は、中国における共産党のようなもの、つまり体制だった。にもかかわらず、自分たちは反体制だとのみ思っているところや、自分たちこそ正義や知性やヒューマン価値の担い手の「意識高い」系であるとする臆面のなさがなんとも鼻についた。進歩的文化人やそのシンパの進歩的大衆インテリがいやだったのは、かれらのイデオロギーもさることながら、鈍感な自己意識から繰り出される啓蒙という名の特権的で抑圧・排除型の支配だった。

 しかし、進歩的文化人の覇権は、全共闘によって打ち砕かれる。進歩的文化人の鬼子による親殺しがおこなわれたのである。糾弾の論理は、東大全共闘会議議長山本義隆によってかかれた論文(「東京大学 その無責任の底に流れるもの」『現代の眼』1969年6月号)に要約されている。山本義隆は、この論文で、教授会の無責任構造を非難し、丸山の『日本の思想』をとりあげ、引用しながら、丸山が剔抉した日本社会の病理は大河内一男総長体制下の東大評議会・教授会そのものである、何故丸山は東京大学の体制そのものを批判しないのか、と激しく非難した。進歩的教授は、日本社会論のような総論では忌憚のない見立てを展開するが、各論それも大学や知識人集団の仲間集団のこととなると、口をつぐむか打って変わって仲間擁護の甘い見立てになる、と講壇安全左翼の不徹底性が糾弾されたのである。山本義隆は、日大全共闘との対談では、進歩的教授についてつぎのように批判をしている。

 一体進歩的文化人といわれる教授たちは何をやってきたか。彼らはいまやきわめて反動的な役割を果たしているか、困ってしまって無言を重ねているか、そのいずれかではないか。進歩的文化人といわれ、平和と民主主義を説いて、高度成長の経済社会では欺瞞的に教授という位置を与えられ、その範囲内で毒にも薬にもならぬ平和・民主主義論を説くことを許容されていた、それ以外の何ものでもなかったことを示している(「権威と腐敗に抗して」『中央公論』1969年1月号)。

 当時の大学自治で守られた大学という安全地帯のなかでのかれらの反体制的言説をウソくさいと全共闘が糾弾したのである。いざとなったら、職場を守り、文部官僚や政府権力と結託し、全共闘学生を機動隊に渡す大学教育官僚にすぎない、と。こうして進歩的教授や進歩的文化人という呼称から発した光輪が消え、呼称そのものが消滅した。進歩的文化人・岩波文化・朝日新聞の鉄の三角形の一角が瓦解した。権威の借用・貸与によって存立した鉄の三角形が形骸化しはじめた。

大衆化した後裔たちの茶番劇

 ところが、小型化し軽量化された大衆的進歩的文化人がキャスターやコメンテーターの姿であらわれた。それは、「堅気(保守)的大衆」よりも、権利と自己主張に急な「(疑似)進歩的大衆」がせり出したことと相関している。どっこい進歩的文化人は生きているという思いをもった。だとすれば、全共闘的なるものがあらわれるはず、と思わぬでもなかった。

 案の定、といっても思いもかけない形でそれはあらわれた。今年3月27日のテレ朝「報道ステーション」の冒頭のあの事件である。新聞や雑誌でも報道されたから、よく知られているが、かいつまんでふれておこう。古舘キャスターがコメンテーターの古賀茂明氏に中東情勢についてのコメントを求めると、古賀氏はこう言い始めた。「テレビ朝日の早河会長と古舘プロジェクトの佐藤会長のご意向で今日が最後ということなんです」。つづいて古賀氏は、菅官房長官の名前も出して、官邸から「ものすごいバッシングを受けました」と言った。古舘氏が慌てて、今の話は「私としては承服できません」と言うと、それを受けて、古賀氏は爆弾発言をした。テレビ局幹部と官邸の意向による「更迭」について、古舘さんは「自分は何もできなかった。本当に申し訳ないと言いましたね」。古舘さんとの「やりとり」は録音しているから「全部出させてもらう」、とまで言い放った。

 古賀氏の自爆テロとも言われたが、私は、これはどこかで見た光景の再現に見えた。機動隊が全共闘学生をけちらかすことに進歩的教授は手を貸したと糾弾する全共闘学生に古賀氏が、そのように糾弾される進歩的教授に古舘氏が、二重写しで見えてきたのである。酷な言い方にはなるが、いざとなると、大学の秩序ならぬテレ朝と古舘プロ、そして自己の延命にまわるあたりも、その昔の進歩的教授と相似である。

 歴史上の事件については、一度目は悲劇で、二度目は茶番としてあらわれるといわれるが、たしかに古賀事件は茶番劇だった。そうなったのも、二度目の軽量進歩的文化人の存在そのものが茶番であるからだ。いまや、ヤンチャ系であるはずの芸能人もスポーツ選手もテレビカメラが向けられると、かつての進歩的文化人のような物言いをするが、そうした化身事が猿芝居であるからだ。


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たけうち・よう 昭和17(1942)年、新潟県生まれ。京都大学教育学部卒。京都大学大学院教育学研究科教授、関西大学人間健康学部長を経て現職。『革新幻想の戦後史』(中央公論新社)で2012年度読売・吉野作造賞。著書に『教養主義の没落』(中公新書)、『知識人とファシズム』(共訳、柏書房)など多数。近著は『大衆の幻像』(中央公論新社)。















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最終更新:2017年11月19日 16:25
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