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Can-Am系のレースカー系の収録車両一覧

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排気量無制限という自由の国の精神と、新たな技術への開拓精神が生んだ、アメリカンな“豪快”プロトタイプカーレース。

Can–Amとは?

カンナム(Can-Am)とは、カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ(Canadian-American Challenge Cup)の略で、北米スポーツレーシングカーの最高峰カテゴリとしてアメリカ・スポーツカークラブ (Sport Car Club of America, SCCA) とカナダ自動車スポーツクラブ が共同で開催した選手権シリーズの事。1966年から1974年までの第一期(9年間)と、1977年から1987年までの第二期(10年間)に分けられるが、主にCan–Amといえば第一期の方を思い出す人が多いので、ここでは第一期の事を扱う。

Can–Am、その魅力とは?

参加資格車両は第一期は国際自動車連盟 (Fédération Internationale de l'Automobile, FIA) 既定の二座席レーシングカーをロードスターに限定したSCCA独自のスポーツレーシングとスポーツカーで、エンジン排気量は2.5リットル以上であるが、エンジン排気量に下限こそあれど上限はなし、というルールが象徴するように技術面の自由度が高く、大排気量のエンジンを載せたマシン達が繰り広げる豪快なレース展開が人気を集めた。

ちなみにこれらのマシンは国際的にはグループ7と呼ばれた。
他のスポーツカーカテゴリーと比べると、仕様や装備などに細かな規定があり、自動車メーカーの規模がないと対応できず、車両製造に技術とコストが必要だった写真上のニッサンR380やポルシェ906などがあたるプロトタイプカー規定のグループ6、ポルシェ 917などが該当するスポーツカーのグループ4規定は経験豊富なメーカーワークス勢が多くいるヨーロッパ地域で広まったものの、カテゴリーとしての普及が頭打ちとなっていた一方、明快な車両規定と廉価な車両パッケージングのグループ7はアメリカのプライベーター勢に受け入れ、好評を得ていたのである。

※写真はCan–Amに参戦したマーク・ダナヒュー選手。

その人気は北米独自のシリーズながらも、最盛期にはF1やスポーツカー世界選手権と比較されるほど注目されており、ヨーロッパの有力コンストラクターが北米でのシェア拡大を目指して参戦し、「賞金総額世界一」を謳う報酬にひかれてジャッキー・スチュワートらF1でも活躍していた一流ドライバーも数多く出場した。
特にこの頃のF1も開催されていた年間のレース数も10戦前後程度と今よりも少なく、さらに今のような高額による契約金とかもなく貰える賞金も微々たるものだったので、F1だけでは食べていけず、シーズンオフに南半球にて開催されるタスマニアシリーズや下位のカテゴリーに当たるF2のレース、さらにル・マンといったスポーツカーレースにもバリバリ出ていたため、そうしたドライバー達の出稼ぎ場所としてはCan−Amは最適だったのだ。
様々なアイデアを試せる自由度の高いルールと、一流ドライバーも惹かれるほどの高額報酬、まさに技術者もドライバーも参戦する価値がある、そして観客も見ていて楽しいモータースポーツとして成り立っていたのである。

主に活躍したCan–Amのマシン

主に有力チームとして活躍したのがマクラーレン。1966年の開幕シーズンは接戦の末ローラに乗るジョン・サーティースが初代チャンピオンとなったが、翌年から1971年にかけてはマクラーレン勢の独擅場となった。ブルース・マクラーレンとデニス・ハルムはオレンジイエロー色のワークスマシンで独走劇を重ね、「ブルース・アンド・デニー・ショー」と呼ばれた(1969年シーズンは2人で11戦全勝)。また、プライベーターへのマシン供給により出走台数の半数以上をマクラーレン勢が占め、コンストラクターとして23連勝という記録も残した。チームオーナー兼ドライバーのブルース・マクラーレンが1970年のテスト中事故死するという不運に見舞われたが、F1での成功に先駆けて名門チームとしての地位を固めることになったのである。
また、石油王ジム・ホールが率いるシャパラルは独創的なマシン設計によりカンナム人気のシンボルとなった。優勝こそ1度のみだったがセミオートマシステムや可変ウィング、ファンカーといった独特な装備は後にF1にも影響を与えた。

また、1972年にはアメリカの名門レーシングチームであるペンスキー・レーシングとの協力によって917でル・マンなどの耐久レースを制覇した耐久王、ポルシェも参戦。5リットルの水平対向12気筒エンジンに当時のレース界ではまだ普及し始めたばかりである技術であったターボを2個載せたポルシェ917/10は1100馬力、その後継車の917/30では5.4リッターV12のツインターボで1500馬力を叩き出すという圧巻のパワーを見せつけた。

このハイパワーなマシンの力によって、ポルシェ勢がこの72年シーズンを席巻。マクラーレンはワークス活動休止に追いやられた。翌1973年もポルシェの圧勝が続いたが、燃費規制が導入されることで意欲を失い、ワークス活動から撤退することになる。1974年〜75年はオイルショックの影響や有力チームの撤退により選手権の実施が不可能となり、中断される事となる。
とはいえ、排気量無制限、技術的なレギュレーションも比較的自由だったため、他カテゴリーでは試せないような奇抜なアイディアも次々と試された。言ってみればCan–Amは『走る実験室』的な役割を担っており、その後のレースカー全体の技術の発展にも少なからず繋がった事も事実である。
後にル・マンを走った奇抜なアメリカ生まれのレースマシンもCan–Amの『チャレンジ精神』を引き継ぐ存在と言えなくはないだろうか。
今では競技としての公平性の重視や、過度な技術的競争によるコスト面の上昇を防止するために、技術的な禁止項目などによりこうした様々な奇抜なアイディアを搭載したマシンによるレースは行われてはいないが、レースはこうした技術面を磨く場という役割があるので有れば、こうした『NHK学生ロボコン』のような自由性に富んだレースが見てみたい気もある。
アメリカ本国などではかつてCan–Amに参戦していたマシン達によるクラシックレースやデモランも行われる事も。
「ドドド……」という独特の重厚かつ野生的なアメリカンサウンドを奏でる大排気量エンジンを搭載した先鋭的フォルムのマシン達の走りはCan–Amを知らない世代にも魅力的かつ新鮮に感じるであろう。

グランツーリスモの方ではあまり取り上げられないが、ライバルのForzaシリーズの方では様々なCan−Amマシンを収録している。

日本とCan–Amの関係

このCan–Amの人気は日本も注目しており、1968年と1969年には富士スピードウェイで本場のCan–Amで活躍する選手やチームを招いて実施された『日本Can–Am』が開催されたり、71年には風戸裕が日本人としてCan–Amに本格参戦していた。
特に日産とトヨタが本場Can–Amへの参戦を計画しており、日本グランプリにも出していたマシンをベースに開発を進めていった。
トヨタはトヨタ7を開発。だが、テストドライバーを務めていた川合稔がこのマシンのテスト走行中に事故死してしまい参戦を断念。

日産もR383を開発していたが、同じく参戦を断念した。
両者とも、日本国内の方でも当時社会問題と化していた公害の原因の一つであった、排気ガスに対する規制の強化による対策を理由に1970年の日本グランプリ参加を辞退しさらにワークス活動を休止、この大手自動車メーカー両者の参戦をレースの目玉にしていた1970年の日本グランプリは結局開催中止になってしまう事になり、その後のオイルショックで日本国内のモータースポーツ全体に対しての風当たりが強くなってしまう事態が起きてしまう事になる。
時代の変化により、Can–Amの参戦断念は致しかたない事だが、もし参戦していれば上位争いも繰り広げる事も夢ではなかったのが惜しまれる。
これにより大排気量のエンジンを搭載したレーシングカー、通称「ビッグマシン」と呼ばれるマシン達による時代は終焉を迎える事となる。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。余談だが、その日本グランプリの開催中止とオイルショックの影響を受けて富士スピードウェイが企画したのがグラチャンこと、富士グランドチャンピオンレースである。
日本グランプリにはプライベーターチームも参戦していたが、その日本グランプリの中止により活躍の舞台を失ったチーム達をレースの主役にし、スポンサー企業の参加やプロモーションなどを行った、その後の日本のモータースポーツの基本的なフォーマットが出来上がっていく。
詳しくは用語集/か行のグラチャンの項目を解説して欲しいが、1970年の日本グランプリ開催中止とグラチャンの誕生はその後の日本のモータースポーツ界の大きなターニングポイントになったのである。

第2期時代についても軽く解説

その後の時代である第2期の時代についても少し番外編として解説しておこう。
2年間カテゴリーは休止状態だったが、レギュレーションをエンジン排気量を5.0L以下とし、単座席車、シングルシーターも許容されてシリーズが再開。これと併せてエンジン排気量2.0L以下でF2のシャーシを流用したクラス、スポーツ2000も開催された。
その単座席車両はローラやダラーラの旧式F5000用シャーシに各チームオリジナルのフルカウルを被せたもので、カウルを被ったフォーミュラマシンという印象。第一期と比べると自由度こそは狭まったが、各チームは様々な独特なデザインのマシンを生み出した。

シーズンは10年間も続き、1984年からはエンジン排気量を6.0L以下に変更し、国際規定発効から3年目となるグループCを基にしたカンナム・クーペも採り入れたが、1981年の国際モータースポーツ協会 (International Motor Sports Association, IMSA) のGTシリーズにグランドツーリング・プロトタイプのクラスが加わった事も重なり人気が低迷。
1987年を最期に消滅してしまったのである。
ちなみに、この頃と同じ時代のグラチャンの方も旧式のフォーミュラマシンのシャーシに、各チームが独自にデザインをしたカウルを被せた単座席式車両が主流となっており、こちらの方も競合カテゴリーの人気に押されて80年代後半、Can−Am消滅から2年後の1989年に幕を閉じていたりと、何かと共通点が多い。第2期Can−Amは北米版のグラチャンだったと言えるかもしれないし、海を越えた両者が同じ道を進んだのも不思議な事実であろう。imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。

模型で人気のCan–Amマシン

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。若い人には、あまり馴染みの薄いCan–Amであるのだが、ご年配の自動車愛好家には人気の高いレースであり、特にスロットカーなどの模型で良く見る事がある。特にスロットカーではCan–Amがやっていた当時は日本がちょっとしたスロットカーブームの時期で、こうしたCan–Amのマシンも題材になっていた。今でもそうしたマシンが売られているのでそこから入って知って見るといいだろう。

一方でモデルカーの方でもCan−Amマシンがリリースされており、圧倒的な強さを誇ったスノコカラーの917/30やマクラーレン、シャパラルとかは非常に人気が高い。今から50年以上前でレギュレーションとかの制限も無かった自由な時代に生まれたアメリカンなマシン達は模型の世界でも非常に映える存在だ。

一覧表

残念ながらグランツーリスモシリーズの方ではCan–Amに関連する収録車種はたったの三車種のみ。

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