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トヨタ 7 レースカー '70

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トヨタ 7 レースカー '70
Image Credit : kudosprime.com
メーカー トヨタ
英名 Toyota 7 Racecar '70
年式 1970
エンジン 91E
タイプ レーシングカー
カテゴリー Gr.X
PP(初期値) 711
総排気量 4,968cc
最高出力 800PS/8,000rpm
最大トルク 74.0kgfm/7,600rpm
パワーウエイトレシオ 0.77kg/PS
駆動形式 MR
吸気形式 TB
全長 3,750mm
全幅 2,040mm
全高 840mm
車両重量 620kg
重量バランス 49対51
トランスミッション 5速
登場 グランツーリスモ4
グランツーリスモ(PSP)
グランツーリスモ5
グランツーリスモ6
備考 トヨタがCan-Am参戦を目論んで開発された、
幻のプロトレーシングカー。

概要

トヨタ 7 レースカーは、1970年の日本グランプリや北米のCan-Am(カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ)参戦用に開発されたトヨタ初のプロトレーシングカーで、「7」の名称は、当時の国際自動車連盟(FIA)競技車両分類において二座席レーシングカーがC部門第7グループであることによるもの。
また本車は当時世界のモータースポーツ、自動車界全体でも珍しいターボエンジンを取り入れ、国産初の過給式(ターボチャージャー)レースエンジンを搭載したマシンとなった。そのパワーは他を圧倒するもので、レースでは負けなしの存在になりうるはずだった。
しかし、ライバルであった日産が「排ガス対策の開発に集中したい」との理由から1970年の日本グランプリの参戦取り止めを発表。トヨタもそれに追随したため、ワークス勢の参戦によって開催が成り立っていた1970年の日本グランプリの開催は見送られ、その後のCan-Am参戦もトヨタ7でテスト中の川合稔が事故死した事を受けて撤回に。残念ながらデモランでのお披露目のみで実戦のレースへの参戦は叶う事が無かった悲劇のマシンと化した。

開発中止から半世紀過ぎた2011年11月27日のトヨタ・ファン感謝イベント「TOYOTA GAZOO Racing FESTIVAL 2011」でNA仕様が走行し、2012年のGAZOO Racing FESTIVAL 2012では、青色に塗られたニュートヨタ7(レストア車)が走行。こうしたイベントで登場機会が与えられ時には戦うはずだった日産のR382、同じくCam−Am参戦用に開発したR383と共にデモランを行う事もあった。
多くの日本国内のクラシックカーのイベントでも展示やデモランを披露し、夢溢れたかつての古のグランプリの魅力を後の世代にも伝えている。


解説

1968年から1970年にかけて日本グランプリ参戦を目的として製作されていたが、排ガス対策の開発*1にメーカー勢が集中する事となった事により、1970年の日本グランプリが中止されたため、トヨタ7は米国のCan-Amシリーズ参加を想定して開発テストが続けられた。
サイドに設置されたラジエターの空気取り入れ口がNACAダクト風であることと、エキゾーストの位置関係から、収録モデルは3代目にあたる1970年型のターボモデル、社内コード「578A」と類推できる。
このモデルは国産初の過給式(ターボチャージャー)レースエンジンを搭載したマシンであり、搭載された91E型エンジンは先代が搭載していた79E型をベースにしたもので、5リッターの90度角のV型8気筒、ギャレット・エアリサーチ(Garrett AiResearch)製ディーゼルエンジン用ターボチャージャーを2個装着した。
これは、トヨタとは2000GTの際でも協力した関係であったヤマハの研究課長が渡欧した際、ドイツの技術者ミハエル・マイ(Michael May)からターボ機構を紹介され、使用契約を結んで採用したもの。
だが、それまで当時の自動車レースにおいてターボエンジン車の例はあまりなく、まだF1もターボエンジンが登場する前であり、市販車にも浸透していなかった時代。
唯一1968年のインディ500ではターボエンジン車が初優勝していたが、ターボラグなどの問題から耐久レースでのポテンシャルはまだ未知数だったが、ライバル勢に対抗する強力なポテンシャルを得るために採用を決意したのである。ちなみに、実際のCan–Amではこの後にポルシェがターボエンジンを導入し猛威を振るう事になるのだから、あながちこのトヨタの読みは間違ってはいなかった。
このエンジンを搭載するシャシーは先代と同じくスペースフレームだが、フレームの材質をクロムモリブデン鋼から特殊アルミ合金に変更。他にも軽量化を図るべくサスペンションアームやドライブシャフトなど各所にチタンやマグネシウム合金を使用した。

前タイヤ前方にはヤマハ・ダイハツ・NDのマークが確認できる。
ヤマハは車体・エンジンを共同開発(研究含む)したため、ダイハツはカウリングの風洞実験をダイハツの施設で行ったため
NDは燃料噴射装置を供給したためである。
ちなみにNDとは日本電装(Nippon Denso)、現在のデンソーのことである。

ちなみに、マシンの最高出力は800PSとされているが、これは「嘘八百」ということわざになぞらえてライバルを警戒して控えめに発表した数値であり、実走行では850馬力以上出ていたとされ、さらにテストドライバーの1人だった細谷四方洋氏によれば「実際は1,000馬力は出ていたはず」と述べていた。さらにテストでは最高速363km/hを記録したというから、まだまだ技術的に未熟な面もあった70年代初頭のレーシングカーとしては驚異的なスペックでもある。なお、仮に1000馬力出ていた事が事実であれば想定していたCan–Amの舞台で猛威を振るったポルシェにも匹敵するパワーを得ていたという事になる。
また、細谷氏はターボ仕様について「5速でもホイールスピンするほどトルクがあるので、ステアリングできっかけさえ作ればマシンの向きを自由自在に変えられた」、「(ターボラグは)早めにスロットルを踏み込むなどのテクニックで充分カバーできたんです」と語り、これまで乗ってきた中でも最高の1台として挙げている。

1970年7月26日の富士1000kmレースの前座では川合稔氏、細谷四方洋氏、久木留博之氏の3台がデモランを行ったが、それから約1か月後の8月26日にトヨタの社内委員会でCan-Am参戦が認可されたその日、鈴鹿サーキットでこのマシンのテストを行っていた川合稔が事故死。これを受けて参戦も中止となってしまい、結局実戦で戦う機会を与えられなかった悲劇のマシンとなってしまった。

とはいえ、国際レースへの参戦を想定し世界に挑もうとしたトヨタの姿勢は後の世代にも受け継がれていき、ル・マンを戦ったTS020GR010にもこの「世界に挑んでいく」という志が受け継がれていく事にもなったのも事実であろう。

登場シリーズ

グランツーリスモ4

ミッションレース25~29までをクリアするとプレゼントカーとしてもらえる。それなりに技量は求められるが、激ムズミッションレース34クリアを求められるR89Cよりはマシだろう。

グランツーリスモ(PSP)

Cr.150,000,000で購入。

グランツーリスモ5

中古車ディーラーで購入。またはB-spec ライク・ザ・ウインドをクリアでも獲得できる。
また今作では時間変化が導入されたのだが、見ての通りシャパラル 2Jと同様、ヘッドライトが無いので、夜間走行は絶望的である。

グランツーリスモ6

Cr.195,000,000で購入。

コメント

  • この車ルマン24時間耐久レース仕様じゃなくね?ヘッドライトねーじゃん -- (名無しさん) 2024-03-28 17:00:25
  • 現存してたら是非とも再び収録してほしい -- (名無しさん) 2024-05-02 05:56:50
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注釈

*1 2年前の1968年には大気汚染法が制定、1年前の1969年に、保安基準改正により段階的にCO濃度2.5%以下に規制が強化、さらに同年には運輸技術審議会自動車部会において「自動車排出ガス対策基本計画」が策定され、昭和48年・50年の二段階での排出ガスの低減目標を設定されたりと、この頃次々と日本でも排ガスに関する法規制が進んでいた。また米国でもこの年マスキー法が設立されたりしており、自動車メーカーにとってはこれらの対応を取らざるおえない状況となっていた。だが実際この当時は様々な公害が社会問題となっており、その中でも排ガスが原因による光化学スモッグがたびたび発生するなどしておりこのような厳しい法規制を敷く必要があったのである。