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FIA GT1系の収録車種一覧

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それは“GT”か?はたまた“プロト”か?混沌の世紀末に現れた“あわいなる”存在のル・マンモンスター達。

FIA GT1とは?


ここでは1990年代に活躍し、グループCカーに代わってスポーツカーレースのトップカテゴリーとなったグループGT1規定のマシンを扱う。2005年からのGT1規定はグループGT1がトップだった時期のGT2規定をベースとしたカテゴリーのため、両者は全く別物である。

新たなル・マンの主役、GT1の誕生の経緯 (GT1初頭の時代から隆盛へ)

国際自動車連盟(FIA)主催で行われ、世界的なグループCカーカテゴリーの選手権だった世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)が、スポーツカー世界選手権(SWC)へ改称したのが1991年。同時にレギュレーション改正も行われ、それまでの自由な規定からF1と同じ3.5L自然吸気エンジンオンリーに変更*1したところ、これに反発したメーカーワークス勢が相次いで撤退。ル・マン24時間レースもトップカテゴリーの参戦車両が一気に減少するなど、改正によって翌年の1992年にはカテゴリーの終焉を迎えてしまう。国際的なスポーツカーレースによる選手権の存在が空白となった影響から、各国が各々で量産型のGTスポーツカーやスーパーカー(ポルシェ911、フェラーリF40、マクラーレンF1など)によるレースを立ち上げ、それが行われるのみになっていた。

これを受け、1994年にステファン・ラテルら3名の有志が立ち上げたカテゴリーが「BPRグローバルGTシリーズ」である。参加車両は改造範囲によってGT1、GT2にクラス分けされ、GT1は最低生産台数25台の車両公認条件があった。これが現在まで引き継がれるGTレースの原型ともなった。ちなみに、 『インド人を右に!』 という有名な誤植の元ネタとなっているSEGAのアーケードゲーム「スカッドレース」は、このBPRグローバルGTシリーズを扱ったゲームである。

このレースの存在を知ったFIAや、ル・マンを主催するフランス西部自動車クラブ(ACO)が関心を寄せて交流を促進。だが、ACOはそれらのマシンを受け入れる際にローカルルールとして、「レース仕様の車両以外に市販ロードカーが1台生産されていればホモロゲーションを与え、LMGT1としての出走を認める」というルールを策定。グローバルGTシリーズに参戦せずとも、ル・マンのみにスポット参戦できる抜け道が生じた。

実際に1994年のル・マンでは、GT1の車両としてダウアー・ポルシェ962が出場したが、これは市販車ながらかつてグループCマシンとして参戦したポルシェ962がベース。そしてそのままル・マンを制覇したことから、レギュレーションに関する物議を醸す事となった。
↑ダウアーポルシェ962(1994年の優勝車両)。Cカーを公道仕様にした車両をGTカーとして参戦させた点は当時でも議論を呼び、後のGT1クラスが抱える問題点を予感させる物となった。

それでも盛り上がりを見せたグローバルGTシリーズは、1997年からFIAが管轄する「FIA GT選手権」に発展解消。よりグローバルかつ規模の大きな選手権として展開していくことになった。一方、ACOは将来的にLMGT1クラスをかつてのグループCカーに代わる、総合優勝を争うトップカテゴリーに置くことを考え、規制面で大きな恩恵を与えるなどの優遇措置を取ったところ、様々なメーカーがこぞってエントリー。SWC以降は手を引いていた日本の各メーカーも、これによって参戦を再開することとなった。

↑1996年のル・マンにR33GT−Rで参戦をした日産チーム。だが、参戦の空白からノウハウなども貧弱で、かつ280馬力&の自主規制(あくまでカタログ値のため実際はもっと出ていたけど)が設けられていた国産スポーツカーベースの車両は、マクラーレンやポルシェなどが投入するマシンに太刀打ち出来る物では無かった。
↑トヨタ系チューナー兼レーシングチームのサードが投入したサードMC8は、2代目トヨタMR2をベースに独自のカウル形状を備えたマシン。成績は残念ながら振るわなかったが、カスタムマブルチョロQで商品化されている。

↑これはGT1が正式始動する前の1993年に投入されたミグM100。ミグはソビエト連邦時代の戦闘機メーカーの名前だが、正式にはモナコを拠点としていた自動車メーカー、モンテカルロ・オートモビル(MCA)が製造した車両。ベースモデルは同社のスーパーカーであるサントナーレで、ほぼ市販仕様に近いいでたちだった。MCAの頓挫後、何らかの形でミグに渡って「M100」の名称となり、1993年のル・マンの予選に出場したものの、残念ながら予選落ちを喫している。
↑上は市販車仕様のM100、下はスポンサーの1つだったブラーゴから発売されたミニカーのM100。

隆盛から過激化へ、行き過ぎたGT1 (GT1後期の時代から終焉へ)

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だが、1994年のダウアーの件で触れたように、既にレギュレーションの部分における綻びは見え始めていた。元々ベース車の生産下限数を規定で設けていたGTシリーズが、ロードカーをたった1台作るだけで公認が取得できるためである。

一見すると小規模なスポーツカーメーカーでも参戦が可能なレギュレーションに見えるが、実際は思惑とは逆となり、大手メーカーがプロトタイプレーシングカーをGT1カーと銘打って投入することが常態化。それを伺える例として、1998年仕様のポルシェ911 GT1*2に、日産のR390 GT1*3、トヨタのGT−ONE(TS020)などが挙げられるが、その見た目はもはや公道を走るようなスーパーカーとはかけ離れ、もはやレーシングカーありきの公道仕様が生み出されていた。

ただしこれには事情もあり、特にトヨタ・日産など日本メーカーの場合では、GT1に参戦するにあたってベース車両が存在せず、前述のようにR33GT-R・スープラ・NSXで参戦したものの、マクラーレンF1と参戦時期が重なった影響で思ったような結果を得られなかった。それでもル・マンでの勝利を得ることを目的に据え、こうしたマシンを生み出したのである。もちろん欧米のメーカーも黙って見過ごすはずはなく、レギュレーションの限界ギリギリを攻めた高性能マシンを投入していき、ますますカテゴリーは過激化。だが、そうなると大手メーカーより開発面で不利なプライベーター・小規模メーカーの立つ瀬は無くなり、レースでの技術競争もストリート仕様車の製造ビジネスも成立できなくなっていっていった。

1999年、とうとう開発競争の激化についていけないメーカー勢が次々と撤退を発表。FIA GT選手権のGT1クラスはなんとメルセデスのみとなった。これを受けてFIAはFIA GT選手権におけるGT1クラスを廃止し、それまでのGT2が「GT」カテゴリーとしてトップクラスに昇格することに。

同年のル・マンでは旧GT1を新たにプロトタイプカーカテゴリーの「LMGTP」に移行させたが、ル・マンの主流も徐々にLMP規定のマシンへとシフトしていたことから、同年に参戦を開始して後に常勝メーカーとなったアウディはもちろん、前年に続いてLMP規定のマシンで参戦していたBMWが優勝候補のトヨタを下し、この年の総合優勝の座を手にした。その一方、LMGTPカテゴリーで参戦したメルセデスは新マシンのCLRを投入したが、予選・決勝前のウォームアップ・決勝とすべてのセッションで宙を舞う事態を巻き起こす。幸いにも死者は発生しなかったものの、このインシデントが加熱したGT1の開発競争が引き起こした出来事として語られる事となった。

1999年を最後にル・マンはもちろん、世界中のサーキットの舞台から静かにGT1のマシンは消えていき、GT1の時代は終焉を迎えた。同時に、日本の自動車メーカーもしばらくル・マンの舞台から姿を消す事にもなる。
↑こちらは1998年のロードアトランタに参戦したポルシェ911 GT1。メルセデスCLRと同じくバックフリップからのクラッシュを起こしており、この時点で既にGT1は一線を超えすぎてしまっていたと言える。
↑どうして浮き上がってしまったかの解説動画。(※英語)詳しく知りたい人は本Wikiのグランドエフェクトとは?のページも見てほしい。
後にル・マンの覇者となるアウディは前述のように1999年から参戦し、なんとRTNが作成したクローズドプロトのR8Cとダラーラ製オープンプロトのR8Rの2種類を同時に投入した。GT1の流れを継ぐLMGTPとプライベーターを想定したオープンLMPは車両規定に違いがあったためであるが、どちらが有利なのか見極めるため2種用意した事になる。結果オープンLMPのR8Rが圧勝したことで、翌年の2000年からはR8Rの発展型であるR8を開発。ここから数年間LMP時代を席巻していく。

なお、BMWは元々F1の前哨戦として参加しており、V12 LMRのシャシー開発も2000年からエンジンを供給する予定だったウィリアムズとの共同だった。当然F1へリソースを集中させるため優勝を手土産にプロトタイプレースからは撤退した。

その後のGT1マシン達

プロトタイプ時代の訪れと共に、世界中のサーキットから姿を消していったGT1マシンであるものの、ローカルレースでは細々活動を続けた。ロングテール化されたマクラーレンF12000年代前半の全日本GT選手権に参戦し、2005年に「SUPER GT」へ改称した後も富士スピードウェイでのレース(2戦)へスポット参戦した。改良前のモデルも含めると、マクラーレンF1 GTRは約10年間もレースで走っていた事になる。ある意味、マクラーレンF1は最もGTカーらしいGT1マシンだったのだろう。

同じく1995年のル・マンから参戦したリスター・ストームも、2006年頃までレースに出場していた。イギリスGT選手権では1999年と2001年にGT1クラスのタイトルに輝くなど、マクラーレンF1に次ぐ恵まれた存在と言えるだろう。


GTカーでは異色のFRレイアウトを採用したパノス・エスペラントGTR−1も、後継のLMPマシンが登場(設計自体は共通)した2000年代に入っても活躍。2004年にはフランスのラルブル・コンペティションの手によって改修されて、「パノス・GTP」のエントリーネームでル・マンなどに参戦した。

↑また、怪物と呼ばれたトヨタGT−ONEは思わぬところで新たな役目を果たす。それはトヨタのF1参戦のための技術テスト用の車両としての役目である。画像のTF101(実践投入はなし)はGT-ONEと同じアンドレ・デ・コルタンツ作であり、その後のトヨタのF1マシンの開発に貢献した。ちなみにクローズドプロトとして2003年に総合優勝したベントレー Speed 8は、中身こそアウディR8と共通ながらGT−ONEが開発のベンチマークだったらしく、少なくとも後のプロトタイプのカテゴリーのマシンにも影響を与えたと言えるだろう。

グループCと同じく、近年ではクラシックカーレースのカテゴリーで90年代GT1マシンを集めたクラスのレースや、イベントでのデモランを行われたりするなど、今なお人気も高い。これらは登場から既に30年ほど経過していることから、もう「クラシック」の枠組みであると言える。今後のイベントでも大きくクローズアップされる事はあるだろう。


一覧表(並びは年代順)

1995年以前


主なGT1関連の出来事
  • 1993年
 ジャガーXJ220がルマンに参戦しGTクラス優勝を遂げるが、後にレギュレーション違反で失格になる
  • 1994年
 BPRグローバルGTシリーズ始動
 ル・マンでもGT1規定がスタートするが、その規定で参戦したダウアーポルシェ962が優勝し物議を醸す
  • 1995年
 マクラーレンF1 GTRが参戦開始、関谷正徳氏が日本人初の総合優勝を果たす
 日本メーカーがスカイラインGT−RやスープラやNSXをベースに参戦


1996年

  • 主なGT1関連の出来事
 ポルシェが911 GT1をル・マンに投入する、総合優勝の座はヨーストレーシングがWSCクラス(プロトタイプマシン)に投入したTWR ポルシェWSC−95が獲得
 セガがBPRグローバルGTシリーズを題材としたアーケードゲーム「スカッドレース」の稼働を開始
 マクラーレンF1 GTRが全日本GT選手権にも参戦を開始。その年のシリーズチャンピオンの座を勝ち取る


1997年

  • 主なGT1関連の出来事
 BPRグローバルGTシリーズ、FIA GT選手権としてリニューアル
 1997年のル・マンも前年に続き、TWR ポルシェWSC−95が総合優勝


1998年

  • 主なGT1関連の出来事
 ル・マンは日産・トヨタ・ポルシェ・メルセデスなどのGT1マシン群雄割拠の状況
 総合優勝はポルシェ911 GT1。日産は惜しくも3位表彰台となる


1999年

  • 主なGT1関連の出来事
 FIA GT選手権がメーカー勢の撤退が相次ぎ、メルセデスのみの状況へ。併せてFIAがGT1クラスの開催を中止する
 ル・マンのLMGT1クラスも廃止し、LMGTP規定がスタート。トヨタのGT−ONEはクラスを移して参戦するが惜しくも2位に終わり、総合優勝はLMPクラスのBMW
 メルセデスCLRが3度のバックフリップを起こすインシデントを起こし、レース半ばで棄権。この年にル・マンからの撤退も発表した
 富士ル・マン1000KmでもGT−ONEが参戦するが、同じく本家のル・マンにも参加していた日産のLMPマシン・R391が優勝
 各レースのGT1カテゴリー終了に伴い、GT1規定のマシンも徐々にフェードアウトしていく


この時代をもっと知りたい人のための資料集

グランツーリスモでこれらのマシンを触れたらば、そのマシンの活躍していた当時の映像や資料を見てみよう。

LE MANS GT1の時代 1994-1999 ル・マン24時間耐久レース [DVD]


全6枚入りのDVDでル・マンでのGT1カテゴリーの時代を網羅する。日本メーカーとドイツ勢のメーカー同士の威信をかけたル・マンでの迫力の対決は、30年近く経つ現在でも色あせる事はない。各年に分けた単品版もあるので、お気に入りのマシンが活躍した年だけ見たい人にもオススメ。

FIA GT選手権 1997 / GTビッグバトルの閃光 [DVD]


1997年のFIA GT選手権の様子をダイジェストでお届けするDVD。ル・マンとは違ったポルシェ、メルセデス、マクラーレンによる三つ巴のタイトル争いは必見。

GT1マシンのすべて-1994-1999 黎明期のスーパースポーツカーからまるでCカーの お化けマシン(SAN-EI MOOK)


GT1マシンを網羅しているだけでなく、同時代に活躍したWSC・LMP規定のプロトタイプマシンにGT2車両も網羅しているので当時の雰囲気とどんなマシンが活躍していたのかこの一冊で知る事が出来るのでオススメ。電子書籍版もアリ。ちなみにミグM100の名前を知ったのはこの本から。
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  • カテゴリー解説
  • 199X年
  • ル・マン
  • GT1(199X)
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注釈

*1 当時のFIA会長だったジャン=マリー・バレストルが、F1との規定共通化による両カテゴリーへの参戦の増加を画策したため。

*2 市販車のモノコック前半にグループCカーの駆動コンポーネントを組み合わせた96-97年モデルと異なり、カーボンモノコックを採用した。

*3 一応市販車(ジャガーとトム・ウォーキンショー・レーシングの共同開発したXJR-15)がベースなのでギリ。