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全日本GT選手権時代のGTマシン収録車種一覧

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全ては“何でもあり”から始まった、“ガラパゴス”GTレース。

目次
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GT選手権発足から始動まで(1994〜1995)


事の始まりはFIAがグループA規定のツーリングカーレースを終了した事から始まる。これによりグループA規定が終わる事となり、クラス1・2の制度に変化。併せて1993年度を持ってJTC(全日本ツーリングカー選手権)も幕を閉じる事になった。
これに困ったのはR32GT−RでグループAレースを戦っていた日産で、JTCC(全日本ツーリングカー選手権)が採用していたクラス2規定ではGT−Rは参戦出来ず、せっかくその活躍の場を失ってしまう事を危惧していた。JTCでは圧倒的な強さを見せつつも、ファンから高い人気を誇っており、レースでの活躍はGT–Rの売り上げに結びつく場であった。
そこでJTCCとは別の新しいハコ車のトップカテゴリーのレースを用意する事を決めたのである。
1993年にまずはプレイベントとしてかつてのスーパーシルエットレースの後継であるJSS勢のマシンと日産のワークスチームニスモが開発した新しいGT規定のマシンなどのマシンにて開催した。日本自動車連盟 (JAF) のN3規定での開催で全9戦を予定していたが日産以外の参加メーカーや、参加車両が集まらなかったためでJSS車両との混走でのスプリント方式レースの3戦しか開催されなかったが、この時から、今のスーパーGTにもあるGT500とGT300のクラス分けがあり、当時はGT1とGT2と呼ばれていた。(なお、この1993年のプレイベントはレース形態やシリーズ運営母体が現在のGTAとは異なる事からノーカウント扱いとして含まれてはいない。)
そして、いよいよ1994年に本格始動するにあたり、主催側のGTAとニスモは、カテゴリーが無くなってしまって行き場を失った車両を活用するという思想の元、グループN規定のN1耐久選手権とは別に規模の広いチューニングを行いたい各地のチューニングメーカーや、グループAと同じく消滅したグループCカーのレースに参戦していたレーシングチーム、そしてライバルメーカーであるトヨタのチューナー権レーシングチームのTRD・SARDなどに呼びかけてカテゴリーの設立に必要な多くの台数を確保しようとした。
しかし、中々参戦車両が集まらないため、急遽グループCカーであったポルシェ962を、人気のあったグループCからのマシンという事と、タレントとして一般の知名度も高い近藤真彦氏が乗るマシンという客寄せの話題作りも兼ねて、特例として参戦させたりと少しゴタゴタがあった。
余談だが、このポルシェ962はGT用にデチューンされており、また当時のGT選手権はスタンディングスタート方式で行われていたため、レースの特性上スタートギアの設定がそもそも無い962はスタートで出遅れがちだったという。
そして、5月、富士スピードウェイで全日本GT選手権が開幕した。集まった車種はバラエティ豊かで、街中で走り屋が乗りまわしているようなチューニングカーのような見た目のマシンから、ポルシェ・フェラーリ・ランボルギーニといったスーパーカー、日産スカイラインGT−Rのようなメーカーやレーシングチームが本気で手を入れたマシンに純粋なレーシングカーのポルシェ962などの他カテゴリーで使われていたレースカーと、まさに様々なマシンがごった煮のバラエティ豊かなレースとなった。

グループAの時に引き続き、JGTC初年度もスカイラインGT−R勢は多く参加しているが、チームによって仕様が異なり、グループA仕様のものをそのままエアロなどを付けて改良した4WD仕様のものや、グループAで使っていたものをFR仕様にしたもの、一から制作しFR化したものなどスタイルが異なっていた。
また、多くの外国車勢もJGTCの魅力の一つとして当初からアピールされているように、フェラーリF40やポルシェ962Cといったマシンを投入したチーム・タイサン、日本のランボルギーニオーナー有志が集まって結成したJLOC(ジャパンランボルギーニオーナーズクラブ)がカウンタックを走らせたりしており、これらの車が日本のスポーツカーとレースを競う姿にファンは魅了されていった。
一方、こちらのシルビアはニスモが前年のプレイベントの際に作成したものを、由良拓也率いるムーンクラフトが改良したマシンだが、見た目は何処となく街中を走るチューニングカーそのもの。これらのクラスが同じクラスで共に走っていたのだから、だいぶバラエティー感の強いレースだったと言えよう。
ちなみに全5戦行われていた1994年シーズンの年間王座は、GT1はカルソニックスカイラインが制し、GT2はポルシェ964カレラ(元々はワンメイクレースのカレラカップカーの車)が制したが、第3戦富士では近藤真彦氏乗るポルシェ962、第4戦はチーム国光のポルシェ911、第5戦MINEはチームタイサンのフェラーリF40が優勝したりと、初期の時代は外国車勢も速さを見せていた。

一方、日産勢の後を追う形で、TRD・SARDも後からスープラを投入。翌年から本腰を入れ始め、お馴染みのカストロールカラーも登場する。スカイラインGT−R勢のライバルとしてレースを盛り上げており、徐々に人気を獲得していった。
ところでなぜこのレースが人気を得たのだろうか。それは積極的な様々なメディアへの露出で、随週での1時間の特番でダイジェストでのレースリポート番組や、公認ライセンスのゲーム、専門雑誌に公式PRアイドルも用意。またレース会場も様々なイベントが行われグリッドウォークでレーサーとファンの交流を行ったり、アイドルショーなどが開催。なんならレース本編は見なくても良いと言う懐の広さがウリで、あらゆる方面からの門口を設ける事によって、多彩なファンの集客に繋げたのである。
こちらはなんとプロ野球チップスのようにカード付きのスナック菓子として販売された公認スナック菓子の「GTスナック」に付属していたカード。
カードには参戦しているマシンの写真と、裏面にはマシンに関する情報が載っているというもの。
ゲームやテレビ中継、専門雑誌にスナック菓子と、こうしたGTの世界を知るきっかけを多く作った事により、興味を示して足を運ぶファンも増やしていったと言えよう。

カテゴリーの洗練化、3メーカー激突(1996〜2000)

1996年、大きなニュースが流れた。なんとチーム郷が前年95年のル・マン24時間を制し、当時世界最強のGTマシンと呼ばれていたマクラーレン・F1 GTRを引っ提げて参戦したのだ。
当時、まだチューニングカーの延長線という認識のものが多く成熟していたとは言えなかった他のJGTCマシン勢とは段違いの速さを見せつけ、その年のチャンピオンも当然獲得したが、その一方でチーム郷は主催側のGTAと規定を巡って対立。僅か1年限りで撤退する事になってしまった。
↑マクラーレンF1が参戦した1996年度の開幕戦。マクラーレンF1の圧倒的な速さはもちろんだが、上記で述べたように様々な方針策を取って盛り上がっている雰囲気も見てほしい。
一方、新たな参戦者も登場した。それがホンダである。
だが当初はあまり本腰を入れておらず、ル・マン24時間レースにも投入していたLM-GT2仕様車を改良して参戦した。しかしF1 GTRをはじめとしたライバル達との性能差は明らかで、当然ながら結果は惨敗。そこでホンダ本社が動き、翌年の1997年から童夢とタッグを組んで本格的な参戦を行った。
当初はNSXの構造上の問題もあって苦戦していたが、年を重ねるたびに戦闘力を増し日産・トヨタ勢とのバトルを繰り広げていくようになる。ホンダの本格的な開発姿勢にトヨタ・日産側も黙っておらず、より開発に力を入れていく。また競合カテゴリーでもあったJTCCが1998年限りで消滅し、3メーカーの争いはこの全日本GT選手権のGT500クラスを舞台に争う事になる。これは今のスーパーGTでも変わらない構図である。
その一方でGT300も大きな盛り上がりを見せており、RE雨宮のFD3S型RX−7や、GT300のチャンピオン争いを繰り広げるシルビアやMR2、そして意外な速さを見せたAE86やFTOなど、様々な個性的なマシンが参戦しGT500にも勝るとも劣らないバトルが繰り広げられていた。
またシリーズの海外進出も行われ、2000年よりマレーシアのセパンサーキットでレースを開催(2000年・2001年はオールスター戦、2002年からはシリーズ戦)したほか、2004年にはアメリカでもオールスター戦を開催した。
だが、シリーズを続けていく内に少なからず大惨事も起きてしまった。1998年の第2戦富士でフォーメーションラップ中に太田哲也氏が乗ったフェラーリ・F355チャレンジが他のマシンとの多重事故に巻き込まれて炎上。ドライバーが自力では脱出できず、しばらく燃え盛る炎の中に閉じ込められてしまい全身火傷の重傷を負ってしまうという事態が起きてしまった。
原因は、大雨という悪天候の中でペースカーが突然急加速した事により隊列が混乱し、後方で加速していたマシンが状況を把握して減速した車両に玉突きになるように激突。スタート前でガソリン満載だった太田氏の車両も激突し炎上した事故だった。

実はこの3年前、1995年の第2戦富士でも、コースサイドに落ちた破片を回収作業にあたっていたオフィシャル(マーシャル)がスピンしてコントロール不能になったマシンに撥ねられて亡くなる事故が既に起きており、この事からオフィシャルがコース上・コースサイドでの対応が慎重になり過ぎてしまったため、太田氏が炎上する車両に閉じ込められてもすぐに消火を行うなどの対応出来なかったのでは?と言われた。
ともかく、急速的な人気拡大の裏で、上記で挙げたような規定面を巡るトラブルや、安全面での問題が起きてしまったのも、それらの整備が国内最大級のレベルにまで拡大する選手権の規模に追いついてなかったのも事実、としか言いようがなかった。

なお、この太田氏の事故は後に主催者のGTAとで裁判沙汰にもなった。レース参加者が主催者側の不備について損害賠償を求めるという、過去にあまり例のない裁判として注目を集めたが、2005年に和解している。この太田哲也氏の事故に関しては後にドキュメンタリー映画「クラッシュ」として発表されている。

こうした当時の緊急体制の不備も指摘され、以後、GTAは独自のレスキュー体制を整え、現在のスーパーGTでも行われているFRO(ファースト・レスキュー・オペレーション)カーもこの一環である。
コースオフィシャルの手だけでは対処できない、停止車両のコース外撤去や初期消火、そしてドライバー救助が必要な際にコースインするのがFRO。実際にはドライバーとドクター、ファイヤー&レスキューのスペシャリストによって構成されたチームで、迅速に必要な箇所へと急行する。

新たな時代へ。JGTCからスーパーGTへ(2001〜2004)


21世紀に入るとさらに3メーカーの開発競争が進み、従来のようにマクラーレンF1やポルシェ911といった外国車のGTマシンを投入しても勝てないどころか上位争いもままならないほどの状況となるまで激化。やがて外国車勢は徐々に淘汰されていき、日産はGT−R(2004年からZ33)、トヨタはスープラ、ホンダはNSXという三つ巴の戦いは現在でも続くお馴染みの構図となっていく。
一方でGT300もより個性的なマシンが出現。日本の東京R&D・イギリスのヴィーマック・カー・カンパニーの設計によって生まれた少量生産スポーツカーであるヴィーマックや(2003年にはGT500にも参戦)オートバックス・スポーツカー研究所が市販を目指していたASLガライヤが登場。他にもGT500で使われていたNSXをそのままGT300用に調整したものや、旧式と化したGT500のスープラのエンジンを再調整し直したセリカ、さらにはフェラーリF360モデナを童夢の手によって独自にレースカーへとモディファイさせた「和製フェラーリ」など、GT500よりも個性的かつ様々なアイデアが飛び出す、レーシングカー版の「高専ロボコン」というべき状況と化した。

↑10年目を迎え、JGTCとしては最終年度となった2004年の一戦の様子。上の1994年度や1996年度の初期の頃と違ってマシンなどの全体の雰囲気がガラッと変わり、スピード感も初期の頃よりもスピードアップしているように感じる。

そして、設立から10年を迎えた全日本GT選手権は2005年より国際シリーズ化したことからJAFの管轄下から離れ、全日本選手権がかけられなくなり、名称もSUPER GTへ変更された。
当初は行き場を失ったマシン達などを集めた何でもありのごった煮状態の、草レースに近い状態から始まったJGTCは様々な出来事がありながらも10年の時を経て国際シリーズ、スーパーGTとして成立、そして30年以上も続く日本を代表する人気レースシリーズとして現在も続いているのである。

グランツーリスモのGTマシン収録車種リスト

※JGTC仕様のマシンのみ掲載。ベース車両はキリが無いので省く。年代順で並べる。


グランツーリスモ未収録のJGTCマシンリスト


余談 ここで紹介したい全日本GT選手権珍車ランキング10+3

ここでちょっと、全日本GT選手権が当初掲げていた『何でもあり』というのを象徴するようなマニアックな珍車(?)を13台くらい紹介したい。意外なクルマ、レアなクルマもあるので、当時を知らない若い人は「こんなのもいたんだ!」と驚きながら見て欲しい。

選外 ホンダ NSX (GT300版) マニア度☆

あれ?NSXはGT500にいるよね?と思ったあなた、実はGT300にも出ていました。スーパーGT時代に参戦していたM−TECが有名だけど、画像の2004年に参戦していたBOSS VERNO TOKAI AR NSXは元々2000年にGT500で走っていたNSXをベースに戸田チューンの3.2LV6 "C32B"を換装したもので中身以外はGT500仕様というズルいクルマ。旧式ながらもGT500のワークス勢で磨かれた空力技術満載で、戦闘力は侮れない。2003年からはNA2型のヘッドライトに変更して参戦した。
実は1998年にもこれとは別のNSXが参加しているがそちらは予選のみの参加だった。

選外2 R31 スカイライン GTS−R マニア度☆

元々はJSSからの参戦勢の一台。R32・R33も出ていた頃で既に型落ちの存在であるが1995年のGT2クラスのチャンピオンを獲得。その他にもムラウチカメイスカイラインは1998年までR31で戦い続けた。ちなみに前モデルのDR30型スカイラインや、ライバルのFC3SRX−7も出ている。

選外3 R32スカイラインGT−R マニア度☆

実はR33が投入された後でも、プライベーターがR32スカイラインGT−Rを投入していた。上の画像の1995年に参戦した橋本車体はGT1クラスだけでなくGT2クラスにも参戦している。
一方、こちらは1996年のJUNトラストスカイラインはRB26では無くシルビアと同じ直列4気筒のSR20エンジンを搭載している。

第10位 ランボルギーニ カウンタック マニア度☆

ランボルギーニと言えばあまりレースへの参戦は積極的ではなかったが、JLOCという日本のランボルギーニのオーナークラブが「ランボルギーニでレースに出たい!」という思いの元参戦。ある輸入代理店からの輸送中の事故により真横に落ちてしまい、売り物にならなくなった市販のアニバーサリー仕様のカウンタックに少しの改造を施したもので、ほぼノーマル仕様。そのため初年度は毎レース予選基準タイムをクリアできず、大会事務局へ嘆願書を書いて決勝レースに臨んでいたが、ファンからの人気が高く主催側から参戦を熱望されていたため認められていた。その熱意が後にランボルギーニ本社を動かす事にもなる偉大な存在であり、唯一公式のレースに参加したカウンタックでもある。


第9位 トヨタ キャバリエ マニア度☆

シボレーのOEM車であるこのクルマがなぜか参戦。でも制作はMR2やAE86で全日本GT選手権でも活躍した KRAFT が行ったガチな奴。駆動形式はFFのまま。耐久でどこまで戦えるか、という挑戦のために投入したんだとか。JTCCのマシンの技術も投入した、意欲作でもあった。

第8位 モスラーMT900 マニア度☆

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。全日本GT選手権ファン以外は全然馴染みの無いクルマだが、アメリカ生まれのメーカーのスーパーカーでヨーロッパとかでもGT選手権に出ていたクルマ。結構スーパーGT時代を含めて長ーく参戦してました。
↑スーパーGT時代に参戦したモスラー。

第7位 RGS MIRAGE GT-1 マニア度☆☆

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。「カウンタックだよね?」と思ったあなた、いいえ違います。1980年代後半からランボルギーニ・カウンタックのレプリカを製造・販売している”Mirage Replicas”が英国GT選手権向けに1台のみ製作したクルマで、こちらはシボレー製の6.7リッターV型8気筒エンジンを積んでいる。どうしてこんなクルマが全日本GT選手権にやって来たかと言えば、英国GT選手権のレギュレーション変更によって戦う場を失っていたが、チーム・スリランカの手によりGT500に参戦。2003年にもGT300に参戦したがクラッシュにより修復できなくなりそのまま撤退。

第6位 メルセデス・ベンツ CLK マニア度☆☆

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第5位 スカイラインGTS (HCR32) マニア度☆☆

既にR33も登場してからだいぶ経っていた頃であり、R34も登場していた1999年に突如現れたヒラノモータースポーツのR32スカイライン。しかもGTRではなくGTS。富士の2戦のみの参戦だが、残念ながら予選落ちになっていた。

第4位 三菱ミラージュ マニア度☆☆☆

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。なんと、ミラージュが95年と96年の富士のレースのみに参戦していたんです。ワンメイクレース用のカップカーをベースに、ランサーエボリューションの4G63(2リッター直列4気筒ターボエンジン)を搭載しており、駆動方式はFF。でもやっぱり場が違いすぎて予選タイムはトップから4秒ほどのギャップで、決勝は7周でリタイア(96年の成績)という結果に。また同96年は富士スピードウェイのメインストレートエンドでスピンしそのままコースに復帰、GT500の上位争いを妨害してしまい、解説の由良拓也さんからマナーが悪いとまで言われる始末であった。

第3位 シボレーカマロ(IMSA仕様) マニア度☆☆☆

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。アメリカ車専門の横浜のチューナー、アドバンスオートが投入したIMSA−GTS仕様のカマロ。恐らく同じIMSA−GTS仕様のフェアレディZも参戦していたからカマロもイケるのでは、と思っただろう。1997年の第4戦富士スピードウェイのみしか参加していない。

第2位 ルノースポールスピダー マニア度☆☆☆

imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。JGTCマシンで唯一のオープンカー。これを送ったのはルノー・クリオの輸入販売を手掛けていたSiFo(シーフォ)。ワンメイクレース用のスピダーに当時WRCを走っていたクリオF2キットカーのF7Rという高回転型自然吸気エンジンを転用し搭載。1997年の第6戦SUGOのみにしか出てないレア車。なお2000年の最終戦にもルノーのマシンがエントリーしていたが、諸事情により出走せず。噂によればルノークリオが参戦の予定だったが、シェイクダウンで全損クラッシュを起こしたとのこと。

第1位 ランチア ラリー037 マニア度☆☆☆


「何でグループBのラリーカーがここにおるねん!」と思ったあなた、実はこれ、JGTCの1994年の第3戦富士に出ていたクルマなんです。しかもこれ、レプリカとかではなくなんと実際に1983年のWRCに出ていた正真正銘のワークスのラリーカーで、ワークス退役後はイタリアの様々なプライベーターがラリーイベントで使っていたもの。
じゃあ何でこれ出したのかって?実はこれで参戦したロッソ・コンペティションは元々フェラーリF40LMで参戦する予定だったが、急遽フェラーリF40LMでの参戦の計画が潰れてしまった。そこでチーム代表が所有していた037を投入せざるを得なくなったのが事の真相。
ただ、元々ラリーカーとして設計されていたクルマなので、ギア比がサーキット走行には適しておらず、特に投入した高速コースの富士では相性が悪かった。結局、この一戦のみしか参戦しなかった。
とはいえ、ワークスも使っていた立派な個体のラリーカーを、サーキットでのツーリングカーレースの舞台で走らせてしまったというケースは古今東西例が無いケースだろう。

もっと深く知りたい人のための関連書籍コーナー


レーシングカーのすべて JGTCマシンのすべて 1994-99

発行 三栄書房 定価1078円 (本体価格980円)
1994年から1999年までのJGTCマシンを網羅した書籍。リバリーのネタ探しとして買うのもアリ。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。ちなみに、2023年5月10日には続刊となる2000−04年編も発売(定価1100円)。こちらも併せて読もう。

全日本GT選手権1994-2003


2004年に発行された本のため、中古で手に入れるか、 三栄Webショップの復刻堂で 復刻された本を買うしか無い。でも知りたいなら必須。

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