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グループBラリーカー系の収録車種一覧

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もっとパワーを!!そんな勝利の欲望と、時代の熱狂が生んだ、ラリーの世界に解き放たれた“怪物”達。

グループBラリーカーとは?


主に1980年代前半から後半の初頭頃まで存在していたラリーカーのカテゴリー。グループCの下位のカテゴリーで、主にハコ車のカテゴリーであるが、後のラリーの主流となるグループAよりも改造範囲が大きく、ホモロゲーション(公認)の対象は「連続する12ヶ月間に200台製造された車両」だったのだが「エボリューションのホモロゲ用車両としては20台、それはラリーカーとして使ってもよい」という規定が追加されたことから「形だけ200台制作した車両にして、20台やりたい放題した車を作って市販はしない」という後年のGT1車両みたいなトンチ合戦になってしまい、最終的にはエンジン搭載位置も駆動形式もホモロゲを取得した市販車と異なる車で暴れまわることとなってしまった。
さらに、グループB導入前に参戦していたランチア ストラトスのような2シーターのスポーツカーも参加可能でレース用に大幅なチューンアップも可能。
ちなみに、いわばこれまでのシルエットフォーミュラのカテゴリーにあたるカテゴリーだが、サーキットレースではグループCカーとの混走となる事と、特に欧州地域ではポルシェが強すぎたためシルエットフォーミュラカテゴリーの人気が低迷し長続きしなかった事もあって類似のカテゴリーも設立される事も無かったためあまり広まる事がなく、主にラリーカーのカテゴリーとして浸透する。

主に活躍したグループBラリーカー達


主に初期のグループBを席巻したのはアウディクワトロであった。それまでジープとかのクルマぐらいにしか使われてなかった四輪駆動方式とターボ過給によって悪路でも難なく走り抜ける圧倒的なパワーを見せつけ、後のラリーカーの常識を作ったクルマとなった。
一方、ランチアはラリー037、ルノーは5ターボを投入するが、これらのクルマはかつてのストラトスのようなミッドシップの後輪駆動であったため悪路では四輪駆動のクワトロには歯が立たなかった。(ランチアはこれを受けてか結構セコイ事してたらしく、冬のモンテカルロラリーではコースの雪道に事前に塩を巻いていたりわざとスタートを遅らせたりしていたという。)


クワトロに対抗すべく、ライバル勢も新たなマシンを開発し投入。プジョーの205ターボ、フォードのRS200、ランチアのデルタS4などなどが登場していき、特にプジョー205ターボはミッドシップ・ターボエンジン+四輪駆動、ランチアのデルタS4はそれに加えてスーパーチャージャーも載っけた贅沢なマシンであった。


また、この頃から日本メーカーも本腰を入れ始めて続々とグループBマシンを生み出していった。

行き過ぎたグループB、多くの犠牲者を生み出す(※閲覧注意)


それらのマシンは当初は300馬力くらいだったが、400、500馬力も叩き出すようになり、狭い公道や山道を舞台にするラリーではオーバースペック過ぎる性能でありもはやドライバーですら扱うのが一苦労なレベルであった。それに加えて当時は観客の距離も走っているマシンに近く、時に時速100キロ以上走るマシンが50センチ以下の距離で走り抜ける事も日常的であった。

当然、そんな状況では事故が起きるのも必然というか、当時の観客は牛追い祭りよろしく「ラリーカーにふっとばされて傷という名の勲章を得るのが男らしい」とばかりに頭のネジがぶっ飛んでいたために、コース内まで飛び出てくる始末。
さらにクルマ自体の安全性さえお粗末だった(またまたランチアの話だが、車が横転した時などの衝撃から守るロールゲージが鉄ではなく“プラスチックと段ボール”という子供の工作レベルで使うような材料で出来ており、まるで即席で作ったかのような代物だったという。)ため、重大な事故が相次ぐ事になる。

1985年の第5戦のツール・ド・コルスではベッデガの運転するラリー037が立ち木に激突し、そのまま死去。(※上の画像はその時の物。)第8戦のアルゼンチンラリーではバタネンが直線でコントロールを失い大クラッシュ、シート自体が外れてしまったために再起不能とも言われたレベルで重傷を負った。翌年の1986年の第3戦ポルトガルラリーではフォード・RS200を駆るヨアキム・サントスが、コース上の観客を避けようとして観客席に時速200キロメートルで突っ込み、死者3名(一説には4名)を含む40人以上の死傷者を出す大惨事を引き起こした。
そんな重大事故が多発しまくったにもかかわらず、FISAは観客整理の杜撰さに責任を求め、Gr.Bカーの性能暴走を止めなかった。

そして、後のグループBの運命を決定してしまう事故が起きた。第5戦のツール・ド・コルスで初日からトップを独走していたトイヴォネンが緩い左コーナーにノーブレーキで進入したところ、コースオフして崖から転落した直後に爆発炎上。トイヴォネンはコ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡した。
↑ヘンリ・トイボネンの事故が起きた後のマシン。彼の乗っていたランチア・デルタS4は跡形も無く焼き焦げ、鉄屑のような残骸だけが残っていた。880kgという軽量車両に600psという当時のF1マシンやグループCカーにも匹敵するほどのオーバーパワーという余りにも危険すぎるこのクルマは、マグネシウムを多用した事、アルミニウム製燃料タンクを 運転席の真下 に配置するというマシンの性能を優先して乗員保護の観点を疎かにした結果、フレームとブレーキを残して跡形も残らず全焼してしまった。

この死亡事故を受けてFISAは緊急に会議を招集し、2日という異例のスピードで声明を発表。この中で「以後のグループBのホモロゲーション申請を受け付けないこと」「1986年限りでグループBによるWRCは中止し、1987年以降は下位カテゴリーであるグループAにて選手権を行うこと」を決定したため、グループBカテゴリーはわずか5年でWRCの主役の座を追われることとなった。
1980年代はモータースポーツの技術も飛躍的に高まった時代であったが、それが行き過ぎ遂に死人まで出す事態となった、まさに技術の進歩の影を象徴する出来事である。だが、以降も行き過ぎた技術の進歩によって重大な事故が起き死人を生み出す事態やコストの高騰化を招く事態が起きてしまうのは皮肉な話であろう。
日本の古典から拝借すれば、おごれる平家も久しからずと言うように、おごれるカテゴリーも久しからずと言う事であろう。栄えれば、やがて廃れる事もある。その栄えが行き過ぎれば廃れるのも早いのだ。

だが、それであってもグループBのラリーカーは今なお人気がありクラシックイベントでも人気のあるカテゴリーである。狂気の時代は良く言えば伝説の時代でもあったのだ。

当時、ランチア・デルタS4で自身のWRC初勝利を決めたミキ・ビアシオン氏は『エンジニアリング的に間違ったコンセプトだったと思う。競技での性能のみを追求し、安全面についてはまったく配慮していなかった。』とクルマとして、安全面について批評的な意見を述べた。しかし、彼はもう一つ感想を述べており、こうも話した。

強烈に魅惑的だったよ。僕に最も感動を与えてくれたラリーカーは、間違いなくS4だった。狂った馬を押さえつけるような感覚なんだ。ドライバーにとって支配する喜びは何物にも代えがたい。と…
2024年にはこの時代のアウディとランチアの攻防を描く映画も公開予定。

余談 幻となったグループSと別の舞台で活躍したグループBマシン

↑ランチア デルタECV
↑アウディ スポーツ・クワトロRS002
↑トヨタ 222D
なお、グループBのさらに上位のカテゴリーであるグループSなるカテゴリーも検討され、こちらはホモロゲ取得台数を10台にするというめちゃくちゃなもので、一応パワー競争が過激化し過ぎた点も考慮してか300馬力での制限をかけていたのだが、ボディはパイプフレーム方式を取っていたりなどもはやサーキットを走るレーシングカーと同じような構造に。特に上の写真の2番目のスポーツ・クワトロRS002は元の車両のクワトロとは似ても似つかない別物になっている。
各メーカーも試作車を生み出していたがグループBが廃止される事となりこれらももちろんお蔵入りとなってしまった。
その後、グループBがWRCで廃止された後、残されたグループBマシンはパイクスピーク・ヒルクライムやパリ・ダカール・ラリーといった別の舞台で活躍した物もあった。

現在、WRCで活躍しているラリー1カーは、ハイブリッドシステムの搭載によりグループB並、それ以上の500馬力を叩き出すようになり、グループSの時に各メーカーが採用していたパイプフレーム方式まで取り入れているなど、もはや市販車とは別物でグループB、いやグループSの構想の再来とも言えるものだが、安全性や操作性もグループBよりも優れている。
それでも2023年にはクレイグ・ブリーンがテスト走行中の事故により亡くなるという事案が起きてしまっているが、それでも安全面は高いと言える(そもそもブリーンの事案は不幸な偶然が積み重なった*1面が強い上に、観客を近寄らせない事の徹底やグルーブBの時代には無かったGPSなどによる安全監視体制も取られている)。
これほどの出力でも安定して安全に走れるようになった現在のテクノロジーには驚くが、逆を言えばグループBは不安定でもパワーを追い求めた、まるで第二次世界大戦中のドイツの航空技術者メッサーシュミット氏の思想を体現したかのような*2狂気の存在だったと言えるかもしれない。


一覧表 ※並びはメーカーの五十音順

※GTS・GT7にあるグランツーリスモオリジナルの現行車両のGr.Bラリーカーは除いており、主にWRCでグループBカテゴリーが展開されていた時代のマシンやホロモゲーションマシンを入れている。

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注釈

*1 雨の中で低速走行中に突然滑ってしまい、木製の柵に突っ込んだ結果木材がブリーンの身体を直撃してしまった。

*2 メッサーシュミット氏が設計した戦闘機「メッサーシュミットBf109」は加速・軽量・機動力といったハイスペックさは高く評価されていたが、操縦スペースが狭かったり緊急脱出がしにくいなど、パイロットの配慮に多少欠けた面もあり、メッサーシュミット氏自身も「機体が高性能であればパイロットの技量などは関係無い」という設計思想を持っていた。対して「Bf109」の対抗馬であった「フォッケウルフ Fw190」を設計したクルト・タンク氏はシュミット氏とは真逆で「どんなパイロットでも扱いやすく、整備性などの他の面も考慮する」という設計思想を持っていた。両者の設計思想を読み解けばクルト氏の思想は量産品など万人受けしやすいと言えるが、シュミット氏の思想は「多少の欠陥は承知で性能を突き詰めた」というものは安全面などでの事故や問題を招きやすい点も抱えてると言え、そのような思想で生み出されたグループBが淘汰されてしまったのも必然というべきだろう。どんなに高性能でも、最後は人間が扱うのだから、扱いやすさも考慮しておくが大切という事は、あらゆる機械や乗り物にも言える事だと言えよう。