| B・A・R 007 '05 | ||
| メーカー | B・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング) | |
|---|---|---|
| 英名 | B・A・R 007 '05 | |
| 年式 | 2005 | |
| エンジン | RA005E | |
| タイプ | レーシングカー フォーミュラカー ミッドシップ | |
| PP(初期値) | XXX | |
| 総排気量 | 3,000cc | |
| 最高出力 | ---ps/-,---rpm | |
| 最大トルク | XXXkgfm/XXXXrpm | |
| パワーウエイトレシオ | XX.XXkg/PS | |
| 駆動形式 | MR | |
| 吸気形式 | NA | |
| 全長 | 4,675mm | |
| 全幅 | 1,800mm | |
| 全高 | 950mm | |
| 車両重量 | XXXXkg | |
| 重量バランス | XX対XX | |
| トランスミッション | X速 | |
| 登場 | 未実装 | |
| 備考 | あれば記入 | |
概要
B・A・R(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)が2005年シーズンのF1世界選手権参戦するために開発されたB・A・R 007。
このシーズンの開幕戦(オーストラリアGP)から、最終戦(中国GP)まで実戦投入され、開発責任者はジェフ・ウィリスが担っていた。
優勝こそなかったが、大いなる飛躍を遂げ、ジェンソン・バトンが表彰台の常連に、さらに佐藤琢磨もアメリカGPで3位表彰台に上がるなど活躍しコンストラクターズランキング2位を獲得した2004年とは打って変わって、苦境の年となってしまった。
このシーズンの開幕戦(オーストラリアGP)から、最終戦(中国GP)まで実戦投入され、開発責任者はジェフ・ウィリスが担っていた。
優勝こそなかったが、大いなる飛躍を遂げ、ジェンソン・バトンが表彰台の常連に、さらに佐藤琢磨もアメリカGPで3位表彰台に上がるなど活躍しコンストラクターズランキング2位を獲得した2004年とは打って変わって、苦境の年となってしまった。
シーズン前のバレンシアでの合同テストでは、ロングラン中に幾度となくエンジンブローを起こした上にエアロダイナミクス面での欠陥が発覚するなどのゴタゴタが多発。開幕戦オーストラリアGPでは次戦のエンジン交換を見越して2台揃って"戦術的リタイア"を行うなど幸先の不安な形でスタートを切ったが、ゴタゴタはこれだけでは終わらない。サンマリノGPでは大幅なマシンモディファイを施しバトンと琢磨が入賞をもぎ取り復活をアピールしたかと思いきや、終了後の車検において、バトンのマシンから燃料を抜き取ったところ最低重量規定の600kgより軽いことが判明。原因は予備のコレクタータンクにガソリンを溜めて安定化を図る装置によるもので、一旦はリザルトが認められたが、FIAの講義により一転して失格。さらには追加でスペインGPとモナコGPの2戦の出場停止、そして以降6ヶ月の出場停止(ただし1年間の執行猶予があった)という重い厳罰を喰らってしまった。
ヨーロッパラウンド以降はマシン改良が功を奏し、バトンが連蔵入賞を果たした上にドイツグランプリ、ベルギーグランプリにて表彰台を獲得するといった活躍を見せ最終的にコンストラクターズランキング6位へと返り咲くものの、琢磨は完走こそあれど接触、マシントラブルが相次ぎ入賞はハンガリーGPの8位入賞が1回という惨憺たる成績でシーズンを終えてしまった。
なお、B・A・Rはたばこ広告規制強化のあおりを受けたことにより、2005年シーズンをもってホンダに株を売却。翌2006年からホンダワークスとしての参戦していたが、2008年にリーマンショックなどの理由でF1から撤退し、その役目を終えてしまう事になってしまった。
ホンダはその後、2015年に約7年振りにマクラーレン MP4-30 ホンダとして復帰するのだが、この年のシーズンはメルセデス勢が席巻していたため、残念ながらチャンピオンの座も逃した。結局、コンストラクターのランキングは9位で終えた。
ホンダはその後、2015年に約7年振りにマクラーレン MP4-30 ホンダとして復帰するのだが、この年のシーズンはメルセデス勢が席巻していたため、残念ながらチャンピオンの座も逃した。結局、コンストラクターのランキングは9位で終えた。
解説
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登場シリーズ
未実装
