目次
5.宇宙の本源
さて、宇宙ということに関して、話をしていきたいと思います。これは、長年にわたって、人類が追究してきたテーマであります。古代の人間、二千年前の人間も、四千年前の人間も、一万年前の人間も、すべて、宇宙とは一体何であるうかと、こうしたことを考えてきたようであります。
宇宙、それは神秘です。人間の目に映る限りの空、星、太陽、月、こうしたものを眺めながら人間は長い間、自分たちの存在、これを確かめてきたのでありますが、いかんせん、それを最終的に判断することはできませんでした。古い時代の人にとっては、プラネタリウムのように、天にドームがかかっていて、その上を、その中を星が動いたり、月が動いたりしているように思ったこともありました。また、地球が自転しているということがわかったのは、つい数百年前のことではなかったでしょうか。地球が、太陽の周りを回転しているということを知ったのも、つい先頃のことではなかったでしょうか。
この地上で生きている人間にとっては、太陽は地球よりも大きいということは、なかなか認識ができません。太陽と月とどちらが大きいかも、なかなか認識ができません。ましてや、月が地球の周りを回り、地球が太陽の周りを回っているというような複雑なことが、どうしてわかり得ましようか。素直な心でもって見れば、地球の周りを月が回り、地球の周りを太陽が回り、地球の周りを星が回っているように見えるはずであります。しかし、そうした人間の認識というものが、誤りであるということを科学は証明してきました。
こうしたことのように、あなた方が当然と思っていることが、当然ではないということになる、そのように証明される時というのが、もう近づいているということであります。あなた方は、地球を離れて他の天体に飛んでいくためには、宇宙船に乗って、逞かなる距離を、遙かなるかなたへと、膨天な時間を使って飛んでいかねばならんと思っているでしょう。しかし、我らが世界においては、すでに宇宙は一つとなっているのです。
この地球という霊的磁場においては、四次元空間、五次元空間、天次元空間というふうに、さまざまな空間が、その周りを取り巻いています。こうした、低級霊域においては、地球における完結した霊的磁場にしか過ぎませんが、我らが世界、高次元世界においては、この磁場は地球だけに止まらず、全宇宙にと広がっているのです。すなわち、我らと同じ程度に、進化した他の天体があれば、その天体と我らが星の世界のこの霊的次元とは、つながっているということです。
これはちょうど、あなた方は、二つの歯車、二つの輸の周りに通された、ベルトコンベヤーのようなものを考えればよろしいでしょう。それぞれ、大きさの違った二つの輪があって、それが回転をしていますが、その周りにゴムのチューブというか、ゴムのベルトがつけられていて、そしてそれが回転しているのです。
ですから、その二つの輪の中には、幾層にも構造ができているわけですが、その外側には一つの大きな帯がかかっている、こうした世界なわけです。そして、このようなゴムベルトのようなものが、いくつかの輪にそれぞれかかっておって、エネルギーを伝え合っているのです。これが私たちの世界の本当の姿であります。
こうしてみると、全宇宙は、そこにある星は、天体は、それぞれ個別に生活をしていて、個別の発展を満契しているようにみえるかもしれないけれども、より高次な面においては、それぞれにつながっているということが言えると思います。
さすれば、私たちはあなた方に、霊言という形で、さまざまな霊的真実をお教えしていますが、本当の意味においての世界の秘密、神秘ということを十分に説き得ていないと思うのであります。
本当は、私がいる世界は、他の天体ともつながっているのであります。そして他の天体へとつながるこの世界は、あなた方のように、宇宙船によって、移勤しなければならないような遙かなる距離ではないのであります。我われにとっては、つい隣近所のような距離で、動いていくことができるのです、こうした世界にいるのです。ところがあなた方にとっては、それは無限の距離のように感じるのであります。そうした認識の相対観があるということを、知らなくてはなりません。
我らは、他の星の人たちともよく話をしております。そして、お互いの霊的進化について、協議をし合っております。また、彼らの特徴とするところであって、我らがまだ、取り入れておらぬところがあるならば、それについて、日夜検討をしているわけであります。
他の惑星の中には、我われが想像もつかないような偉大な星もあります。蟻や、あるいは犬や猫や、そうした動物たちが、人間の生活の全体を理解できないように、宇宙の中においては、さまざまな進化速度のある霊系団があるということなのです。
我らは高度に発達した地球にいるけれども、地球もまた、他の天体の者から見れば、未発達の発展途上の星であるようにみえることもあり、また、別の星から見れば、非常に高度に進化した星のようにみえることもあります。我らは、そうした星の進化ということに関する、統一的な見解と、基準というものも設けねばならなくなってきております。
今、私が、こちらの世界にあって、主として他の天体の者たちから吸収している知識として、一つだけ言っておいてよいことかあると思います。それは、地上のあなた方が、まったく思っていないような価値尺度の発達した世界もあるということであります。
たとえば、地上であなた方が、人の上下を決めるときに、一体何でもって決めているでしょうか。それは、肩書きというもので決めたり、あるいは、金銭で決めたり、いろんなことで決めております。しかし、ある星に行くと、違った基準がまた、あるのです。
そこへ行くと、どれだけ美的感覚をもっているか、ということが、人の上に立つ条件であるというような星もあるのです。必ずしもその人が、画家である必要はありません。あるいは彫利水であったり、あるいはピアニストであったりする必要はないのでありますが、その人のもっている美的感覚が、すなわち、その世界においては、魂の上下を分ける基準として使われている。こういう世界もあるのです。
そうしたところで、日本のように、総理大臣のようなものをぶとするならば、一番美的感覚の優れておる者が人の上に立つということになってきます。そして、その国の倫理基準として、人の魂の中にある美しさを最大に発見できる者こそが、人の上に立つことができるという正法が説かれているのです。これもまた、一つの真理でありましょう。しかし、地球においてはまだ、そうした真理は成り立っておりません、それは、ごく少数の芸術家のダループの中においてだけ、通用しているちのであります。
また、別の星の人たちと会うと、こうした価値基準をもっている者がおります。その星においては、どれだけ多くのものを創造、すなわち創り出すことができたかということが、その人間の進化を計る基準となっていることがあるのです。一生の間において、どれだけ多くの創造、自分の主体的努力によって何かを生み出し得たかということが、その基準になっていることがあります。
こうしたところへ行くと、船をつくった人であるとか、建物をつくった人であるとか、飛行機をつくった人であるとか、あるいは、作物をつくった人でもよいですが、こういう何かを創った人というものは、非常に尊敬をされるわけであります。しかし、日本の社会におけるような、こういう会社というところに勤めて、書類仕事をした者にとっては、これは、あるいは彼らの目から見れば、いわゆる奴隷階級にあたるのです。こうした、何の生産もしないで、こうして代替業、代替作業、人でもって代われるような仕事をしている人というのは、一段と低い階級であることもあります。その逆に、何かを自分の手で創った人が素晴らしい。そして、一生の間にどれだけの物をつくリ出し、どれだけの量をつくったかによって、その人の魂の進化が計られる。こういう世界もあるのです。
こうした基準でみてみると、この地上における人びとの、序列というのはまた変わってくるでありましょう。すなわち、一万人の会社を率いる大会社の社長よりも、小さな詩集を一つつくった詩人の方が、上だということになります。また、自分で、花瓶を一つつくった人の方が、上ということになっていきます こうした世界観もあるということです。
あるいは、私はまた、他の天体の人と話をすることがあります。その天体の人たちと話をしていると、彼らはこういうことを言います。その星において、一番尊敬される人は、より多く友達をもっている人である、と。こういうように言っているわけです。そうすると、そこで一番人の上で評価される人は、結局、交際範囲の広い人ということになります。なぜ、そういう人が評価されるかと言うと、多くの人に影響を与えたからだ、という答えが返ってくるわけであります。
こうしてみると、一人でわび住まいをしている人よりも、何百人、何千人の人と付き合っている人の方が偉いということになります。あるいは、もっと有名な人になればなるほど、偉いということになってきます。交際の範囲と、接する人の数、人脈の範囲が多い人ほど偉いという世界がある。それだけ多くのパーソナリティを他の人によって、確認されたという意味であります。その意味において偉いということ、彼らから言えば、この地上に生きている以上、他の人びととの関わりが本当の大事な仕事であって、他の人びとに影響を与えないような生命であるならば、あえてこの地上に生まれてくる必要はなかったと、こういうふうに言っているわけです。
そうすると、ここの星の人たちは、自分が進歩し、出世しようと思えば、一人でも多くの人と毎日会う必要があるわけです、できるだけ多くの人と会い、できるだけ多くの人に感化を与えようとします。そういう意味において、大変忙しい毎日を送っております。今日は何人の人と話をして、どういう発展的な仕事ができたということで、やっているわけです。
そして、勲章のようなものを付けておって、私はすでに、三十歳のときに一万人の人と話をした。あるいは、四十歳のときにはもう、十万人の人と接した。こうしたことを勲章のように肩のところに付けて、喜んでいる人たちもおります。
また、私は、あるところの星の人たちと合うと、ここはまた、別の世界観をもっております。ここでは、結局、一番価値のあるものは、人間の生命であるということになっております。そうすると、ここで一番尊敬される人たちはどういう人かと言うと、できるだけ多く子供を創った人たちということになるのです。これが一番生産的で、創造的な仕事だと信じられているからです。
手でつくったもの、たとえば、陶器にしても、機械にしても、自動車にしても、船にしても、やがては壊れてゆくものです。そうしたものですが、人間を創るという仕事は、神聖な仕事であって、そして、その子供を生むという作業は、さらにその子供が子供を生み、孫を生み、曾孫を生みというふうに、連綿と続いていく大事業であるから、これこそ一番神聖な仕事であると言われています。自動車が自動車を生むということは、聞いたことがありません。また、飛行機が飛行機を生むということを聞いたことがありません。しかし、人間は人間を生んでいくことができます。そういうことにおいて、一番多くの人間を創った人たちが、一番尊敬されるということになります。
そうしてみると、一番多くの子供の父親となった人が、国王となったり、あるいは、そうした組織の長となったりして、一番多くの子供を生んだ女性が、また女王となったりするような、そうした世界もあります。
まあこうした形は、ある意味においては、蜜蜂の世界においてもそうでしょう。多くの働き蜂を生むことができる蜂が、女王蜂として生きております。まあこうした世界ですね。人間を創ることこそが、最高の進化の証明である、仕事である、と言っている人たちもいるということです。
また、私は別の世界の人たちと話をすることかあります。彼らを見てみると、結局、こういう価値観をもっています。心の平静こそが、最大の価値であると言っている人たちがいるのです。心乱されずに生きた人が、一番の賢人である。こういうことを言っている人たちがいます。こういう国へ行くと、今度は、できるだけ多くの人と交際することが値打があるという価値基準とは別になってきて、人と会わなくともよくなってきます。とにかく、心が一日のうちで乱れなければよい。
この国の人たちは、心臓の鼓動を計る機械ではありませんが、心の波長を計る機械というものを胸に付けておって、一日どういう心の状態であったかということを、毎日、日記のかわりにデーターにとっているのです。そして、一日二十四時間なら二十四時間の心の波長というのが、そのグラフ用紙の中に打ち出されます。一番心乱れずに生きた人が、一番能力のある人ということになってきます。そうするとここでは、心乱れずに生きるということが最高の価値であって、乱されない生活、こういうことが重要視されます。まあ、この話を聞けば、老荘思想というものの起源が、どうやらこの辺にあるらしいということを、あなた方は感じ取るでしょう。
今、さまぎまな星の話をしてまいりましたが、そのさまざまな星に、もといた人たちも、また多数、この地球というところに生まれてきておって、彼らは彼らの価値基準を説いているのです。そうしたさまざまな価値基準が混ざり合って、地球という星において、一つの統一的な価値、その支配原理というものが、できてきたと言うことができます。
私は、今、こちらの九次元世界において、こうした他の惑星のさまざまな者たちの行動原理、価値原理というものを研究しながら、この地球において一体どのような法を説いていくのが、本当に人類の貢献のためになるのか、また、地球人にふさわしい生き方となるのか、こうしたことを、日夜、研究しているのであります。
地球には、地球における真理があってよいということは、すべての人が認めるところであります。 しかし、他の星には、そのようなさまざまな価値原埋かあります。どの価値原理からどれだけのものを取り入れて、そして地球的なるものにしていくか。こうしたところが、非常に難しいものであると言うことができます。
ちょうどこれは、三次元における国と国との関係にも似ていましょうか。日本という国において、かつて鎖国ということをしたこともありました。しかし、鎖国を終えて開国をしたときに、ヨーロッパの文明、文化というものが、日本に流れ込んできたはずです。その中から、どれを取り入れてどれを取り入れないか、そうしたことが大きな仕事となったのではないでしょうか。
結局、日本には日本の独自の文化、文明の基盤というものが必要であって、日本に合ったものが取り入れられ、それが消化され、日本独自のものと変わってきたのではないでしょうか。
これがもっと大きなスケールにおいて、我らの世界において、行なわれているのです。我らもまた、学ぶべきところは、もちろん高次元の霊たちの指導も受けているけれども、他の惑星の霊系団の中において、さまざまな魂たちと接しながら、この新たな地球というところにおける、ユートピアの原理というものを、日夜、探究しているのです。
6.真実の心
このように、この大宇宙は、いろんな法則と、いろんな価値原理で貫かれておりますが、その中で、ただ一つだけ言い得ることは何かと言うと、結局、真実の心でもって、生きるということを、みな旨としているということです。そして、その真実の心、真実なるものは何かということを、それぞれの者たちが、努力して求めているということです。いろんな星において、何が真実であるかということを、探究しているということです。一体何が真実で、何が偽りであるのか、それをそれぞれの個性でもって、それぞれの角度から探究しているということです。
真実というのは、ちょうど宝の山のようなものであって、どの角度から、どの部分から掘っていってもさまざまな宝石が出てくるのです。どの宝石をもって、あなた方が満足するか。ルビーの指輪をもって満足するか。ダイヤの首輪をもって満足するか。あるいは、珊瑚礁のかんざしをもって満足するか。真珠のネックレスをもってよしとするか。いろんな宝があるわけです。ただ、これが宝の山であることは事実であって、真珠を取るか、ダイヤモンドを取るか、サファイアを取るか、ルビーを取るか、こうした選択の余地がありますが、宝石であるということにおいて、一致しているわけであります。
宝石が宝石であるところは一体何かというと、宝、すなわち値打あるものであるということです。また、多くの人たちの憧れの的であるということが言えると思います。それが、宝石の宝石たるゆえんであると思います。
これから、地上的なさまざまな教えが説かれていくでありましょう。目的としては、結局のところ、そうした宝の山というものを教えんとしているのです。そして、その宝の山の中で、一体何を選び取っていくかというところにおいて、まだ、選択の余地を残しているのです。
こうした大きな観点に立ちながら、しかして、一つの貫くものがある。各人の心を貫くものがある。各人の行動を貫くものがある。それが何かというと、結局、真実の心の探求ということであります。いかに人生を真実一路で生きていくか、いかに人生を真なるものを求めて生きていくか、魂の真実とは一体何であるか、そうしたことを探究していくということ。これが、人間に課せられた義務でもあるわけです。
あなた方は、こうした宇宙の中の一つの星としての地球、地球の中の、いろいろな教えの中の一つの教え、こうした位置づけというものをしっかりと学んで、そして、大きなものを創っていかねばなりません。結局は、そうした宇宙観、世界観の中で、日々、努力精進していくということ、自らの心を磨いていくということが、神の愛に応えていくということなのです。
神が、これだけ素晴らしい宇宙を創られ、大宇宙の原理を創られ、さまざまな宝石を散りばめられているのです。こうした宝石の山があちこちにあるのです。こうした宝の山の中にあなた方があることを知ったならば、そうした宝を見つけていくことです。それが神の愛に報いることではないでしょうか。
たとえば、ご両親が、素晴らしい御馳走をつくられていたとしても、子供がそれに気がつかなければ、そのご両親の愛は無駄になってしまいます。同じです。神が素晴らしい料理を食卓に並べておられるのだから、あなた方子供は、これを一生懸命食べればよいのです。それがやがて血となり、肉となり、あなた方の健康となり、繁栄となっていくのです。
そうした大きな神の愛に、見事に応えていくような、あなた方であれ。この言葉をもって、今日の私の話の終わりとしよう。