目次
2.反省の入り口
3.精神の統一
4.心の浄化
5.神の光の流人
(1988年7月18日の霊示)
1.反省のほんとうの意味
高橋信次です。今日はダブル・ヘッダーです。ダブル・ヘッダーと言っても二回続けるのではなくて、昼と夜と両方やっています。一章、二章昼間やりました。三章にはいって日が沈みました。四章、照明をつけてやるつもりです。
まあね、みなさんねえ、私の本もいっぱい出るんで読むのたいへんだろうけど、先生のほうだってたいへんなんだよ。ねえ、高橋先生だってあなた昼やり夜やり、巨人や広島だってあなたダブル・ヘッダーやったらくたびれちゃいますよ。ねえ、〇〇先生だってもうダウンしてますよ。それでもやり続けてるんですよ。これが根性です。救世の熱意ですね。それしかないんです。
だからがんばって私の言ってることをよーく聞いてくださいね。夏の暑いときに録(と)っているんですよ。梅雨が開ける前のいちばん苦しいときに録ってるんですから、まあみなさんこの意味を理解してくださいよ。それだけ苦労してこの本はできているんですよ。そんなかんかんにできないんですよ。ねえ、ポンポンポンポン、にわとりが卵を生むようにはできはしないんです。
こうした神理の書というのはねえ、もんのすごいエネルギーがいるんです。九次元のエネルギーの消費量なんて、もう東京電力が目を回すほどエネルギーの消費しているんですよ。〇〇先生だってもうエネルギー消費しちゃって、もうたいへんですから、七月はもうピークですからね。そういうふうにたいへんなんですよ。
だからみなさんもしっかり心を入れ替えて、この本が出るときはもう涼しくなっていると思いますけど、暑いあの盛りに録ったんだなあ、昼も夜もダブル・ヘッダーでたいへんだったろうなあってね、わかってくださいよ。それだけ仕事が忙しくなってるんです。
もう仕事はボンボンボンボン増えてきて、主宰者なんてものすごい商社マンみたいな忙しさになってきていますよ。それでその合間をぬって、この私の本作ってるんですから、もう土曜日も日曜日もないんですよ。
だからみなさんわかってくださいよね、それだけ、気持ちだけでもわかってくれるとね、救世のためにやっている人たちははんとうにうれしいんです。その気持ちだけで涙がこぼれるほどうれしいんですよ、いいですか。まあ私にお人形送ってくるような人もいるけれども、もちろん人形もいいけれども感謝の気持ちだけで僕は結構ですからね、わかってください。
さて、「反省のほんとうの意味」ということです。この三章は、「反省しかないのだ」、なあんて言ってね、「天才バカボンのパパなのだ」っていうような感じで題をつけたわけなんですが、ほんとうに反省しかないんですね。なにがないかっていってもね、まあこれが人間として人間の形をとどめていくには反省しかないんですよ。前章の最後で「人間の最期」という話をしましたけれども、じっさい、反省できない人間はほんとうに最期になっちゃうんですよ。こんなかんたんなことに気がつかないだけでそうなってしまうんです。特に、戦後の日本では反省ということはあまり教えなくなりました。修身ということがなくなってね、こんな道徳みたいなものを馬鹿にする傾向が出てきました。こんな精神性ということは、みんな神風持攻隊になるんだっていうようなことで否定されるようになりました。これは、戦後のマスコミの悪影響が相当大きいと思います。
でもこの反省というのは、ほんとうに人間が人間として生きていくためのだいじな心の糧(かて)なんです。反省ができるかどうかということが、人間と動物の違いを分けることでもあるんですよ。
みなさん、動物が反省しているのを見たことがあるかい。さあ言ってみろ。犬が反省しているのかもわかんないね、お手のしかたが悪いんで頭なぐられたなんてね。猫も反省してるかもわかんないよ、こそドロじゃない描ドロしちゃって、魚一匹くわえて走ったけど逃げ方がへただったんで、石ぶつけられて頭から血が出たあ、なんてね。こんな描もいるかもしれませんが、そんなのほんとうの反省とは言えないですね。
猫があなたサンマ一匹くわえて逃げてねえ、石ぶつけられて「しまった。まずい取り方した、オレとしたことがぬかった。足がチョットなまったか」なんて反省したところでね、後光が差したりすることは絶対ないんですよ。いいですか。やっぱり反省というのは、神の心に近づいていくためにするんですよ。それがわかっていなければ、反省とは言えないんですよ。
だからほんとうの反省というのはね、神の心につながっていくためにするんですね。人間はともすればまちがったことをします。それはちょうど川で泳いでいて、あるいは海のなかで泳いでいてね、足に藻がからまったような感じですね。海草がくっついた、あるいはなんか罠にひっかかっちゃって、石かなんかが足にくくりついちゃった。こんな感じですね。だから泳ぐのに溺れちゃいますね。このまま泳ぐと水を飲んじゃいます。アッブアップアップアップ言って溺れてしまいます。
だからそういう意味でね、反省っていうのはこの足に絡みついた海草だとか藻だとか、石ころなんかがぶらさがったら、その石ころなんかを切り離したりして、こうして自由に泳げるようにすることを反省って言うんですよ。自由自在に神の子として泳げるように、溺れないようにするんですね。
さっきはクラゲの例を話したけど、電気クラゲでショック死しないような生き方ね、それが神の子としての生き方なんです。そういう生き方を求めてやっていきたいと思います。
2.反省の入り口
さて、ではね、反省の入り口としていったいなにがあるかな。これを考えてみたいと思うんですね。反省の入り口です。
人間はどのようなきっかけがあって反省ということをするようになるんでしょうか。もちろん、私の霊言集を読むことがきっかけで反省するという方もいるでしょう。ひじょうに優れた方であると思います。まあそういう方もなかにはいるでしょうが、たいていは私の霊言集を読むこともなく、人生を過ごしているわけですね。新聞に広告が載ってもパスしちゃうんですね。目にはいらない。で、ほかのところばっかり見ていますね。このようにしてきっかけがなかなかありません。
ところが反省の入り口になるきっかけというのは、意外にかんたんなところにあるんですね。つまり、人間というのは得意満面で上昇気流に乗ってやってるときには、反省はなかなかできるものではないんですね。わからないのですね。ところがいったん挫折したときに、コロンと転んだときにね、初めてチクッと胸を剌すものがあるんですね。
そういうこともあってねえ、人生にはほんときびしい局面ということがあることもあります。どん底まで落ちている人もいるでしょう。でもそうしたときに「一言」が降ってくることがあるんですねえ。一言がね。ある人に言われた一言ね、あるいは母の一言ね、父の一言ね、息子の一言、娘の一言、赤ちゃんのひと泣き、まあいろいろあるでしょうが、そうしたものがきっかけになって悟る人もいるんですね。
だから、私はおもしろいんだけど、人間というのを見てると浮き沈みがずいぶんありますが、なにかねえ、その機会、機会に救いの神っていうのはいるような気がするね。得意のときにもそれを導いてくれる神様はもちろんいると思いますが、失意のときにも導いてくれる神様もちゃんといますね。そして、実際、たとえばとても忙しく働いててパンパン成功ばっかりしたような人だったら、本屋のなかで、この高橋信次の『心の革命』なんていう本を手に取ることもないんじゃないでしょうかね。なにか行きづまって苦しいことがあって初めて、心の書を読んでみようかなあ、霊的な世界も知ってみようかなあ、宗教も知ってみようかなあと思うこともあるんじゃないかと思います。
こうした意味でね、神様ってひじょうに頭がいいっていうか、策士っていうか、ずいぶんいろんなことを考えておられて、いろんな人間がなにかの折に魂の郷愁というものを感じるように、なつかしい世界を感じるようにしむけているように私は思いますね。私自身の場合なんかでも、やっぱりそうしたことがいくつかありました。行きづまって苦しくなって、そして神理の世界に向かっていったということがありました。
もし本書の読者のなかで、今、人生のほんとうに行きづまったところにいるとしたら、ほんとうに悩みの渦中にあるとしたら、ほんとうに苦しみの渦中にあるとしたら、その苦しみや悩みだけをクローズ・アップして見るんじゃなくてね、だからこそ今あなたがだけ悟りの入り口に立っているんだと、そのように思ったらいいと思いますよ。そしてね、そうした苦しいときや悲しいときこそ、ほんとうは自分というものを省みるべきときなんですよ。
病人なんかで、よくなんとか病気治したい、治したいと思っている人もいるでしょう。高橋信次の霊言なんかもうどうでもいいから、高橋先生に生前やっていたみたいにパワー入れてもらえないかってね。パワー入れてもらえば病気は治るんだからなんでもいいから、もう本なんかいいからパワーだけ入れてくれ、入れてくれたら助かるんだなんて、私がなんかリンゲルの注射液かなんかのように思っている人もいるかもしれませんねえ。
でもね、僕は思うんだよ。病人というのはある意味では恵まれているんだ。恵まれているっていうのはね、自分の仕事はまずなにもないわね。仕事はないし、経済的な問題とか、頭では考えるけれどもどうしようもないわね、どうしようもない。そういうことで、この世的なきずなからいったん放たれて、一日じゅう寝てていいわけだよね。一日じゅう寝てていいっていうことは、もうこれは寝釈迦のポーズといっしょですから、お釈迦様でいうと瞑想状態で一日じゅういられるんですね。こんなことがあるでしょうか。こんな適したことがあるでしょうかね。
インドでは、夏が暑かったからね、夏じゃない昼間暑かったから、寝釈迦していて、蝿がブンブン来たときだけ追い払ってお釈迦様は瞑想していましたが、病人のみなさんはこの寝釈迦と同じことができるんですね、毎日毎日、人のおかげを受けながらできるんですね。こんなときはめったにないです。特に病気の方はね、まさしく反省の入り口に自分がいると思いなさい。この機会を通して自分というものをふり返ることなくして、反省ということはないんですよ。
反省というのはね、反省の道場とか、内観研修所だけでやるものではないんですよ。反省というのは、自分の置かれている立場、立場で、場所、場所でやっていけばいいんです。だから、病気をしている人は病院のベッドがじつは反省の場なんです。そこでやるんです。毎日毎日自分というものの過去をたどってみること。そして、いろんな人にどういうことをされたかを考えてみる。また自分はどう言ったか、そうしたことを考えてみる。そのようなことをすることによって、ほんとうに心がきれいになってくるんですよ。
それはそうでしょう。病人のなかにはおむつを替えてもらっている人もいるんでしょうが、おむつだってあれを洗ってくれるからいいんであって、ずっとそのままにされたらあなた、たまったもんじゃないでしょう。どんなおいしいものを食べさせられてもねえ、どんないい注射を打たれてもね、どんな扇風機かけてもらってもクーラー入れてもらっても、おむつ替えてくれなきゃたまったもんじゃないですよ、そうでしょう。違いますか。ねえ、総理大臣にしてやると言われようが、一億円の小切手もらおうがそんなこと関係ないんであって、おむつをとにかく替えて欲しいね、気持ちが悪いから。そうじゃないですか。そうでしょう病人さん。そうにちがいないよね。
これとおんなじように、みなさんは自分の心のおむつはどうしてきれいにしないんですか。替えないんですか。ねえ、心のなかだってもういっぱい汚物がくっついているんですよ。これを洗わないでどうするんですか。洗濯しないから心はヒイヒイ言っていますよ。そうじゃないですか。それゆえに曇りっていうものができて苦しいんでしよう。違いますか。
だから、まあ私が言いたいことはねえ、いろんなきっかけがあるけれども、それを使って、反省の入り口としなさいということです。苦悩や悩みのなかにある人ほど、今その入り口に近いと思っていい。だから、哀しむのではなくて喜びなさい。むしろ、そうした挫折によって自分がより神理に近づいたということを喜んでほしいと思います。
3.精神の統一
反省の入り口まで話しましたが、入り口からはいったら次にどうするのかということですけれども、やはり精神の統一ということかだいじですよ。とにかくね、ほんとうに反省するためには、特定の時とかは選びませんが、精神の統一がだいじです。
そして、精神の統一をするためにはどうすればよいかというと、やはり孤独な時間というものを取る必要があります。沈黙の時間と言ってもよいです。人と話をしないで自分一人で思索にふける時間、これがだいじですね。
特に現代人を見ていると、刹那(せつな)的な生き方が多くなりましたねえ。音楽でいえばロックね、ジャズ、こうした音楽がガタガタ流行ってます。ロック歌手が来ただけでね、あるいはそういうガチャガチャした音楽を弾いたり歌ったりする人が来るだけで、東京ドームが埋まるぐらいの人が集まったりしますね。そうじゃないですか。不思議な現象です。まったくあんな地獄音楽を聴いて、それで喜んでいる人たちがいっぱいいるということですね。
これが天国的な音楽かどうかを判断するには、精神の統一ができるかどうか見ればわかるんですね。ロックやジャズを聴きながら精神の統一ができるでしょうか、できないでしょうか。みなさんどう思いますか。やはりできないですね。クラシックはどうですか、これはできますねえ。クラシック聴きながらならできますね。そんなもんなんですよ。だから音楽でもレベルがあるねえ。いろんな段階があります。
そのように、精神の統一ということをするためにはある程度環境づくりを心がける必要があります。そうしてね、できれば外界との遮断ということかだいじになってきますね。したがって、主として夜寝る前とか早朝とかがふさわしいことはふさわしいですね。心が自分の内に向いており、他のことをあんまり気にしなくていいようなそうしたときですね。このようなときがいいと思います。
ただ、それだけがすべての時間帯ではありません。現代人は、努力によってその精神の統一の場を広げていくことが可能だと私は思います。というのは、電車のなかに乗っていても反省はできると思いますね。電車のなかでは本を読むこともできないし、ギュウギュウのために新聞も読めないということがあるでしょう。こうした時に、なにも本が読めないし、ボーと突っ立っているということであってはもったいないですね。だから、思いきって通勤電車のなかを反省の場所にしてしまうことも可能ですね。
そして会社まで一時間かかるのなら、その一時間に徹底的に自己をふり返ってみるということ、これはだいじですよ。こうした習慣がある人とない人ではだいぶん違うと思います。会社に九時に行くとして、八時から一時間電車に乗っていますね。ギュウギュウで本も読めません。新聞も読めません。みんなヒイヒイ言って脂汗(あぶらあせ)流して立っています。そのなかでも、心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば火もまた涼し、ねえ、満員電車もまたさわやかという、こうした気持ちでもって自分のきのう一日のあり方というものをふリ返ってみる。そして什事でまちがったこと、ひっかかっていることがあったら、それについて考えてみる。そしてきょう行ったらどうスタートを切るか、これを考える。これもりっぱな現代的な精神の統一ですよ。けっして道場とか山のなかだけで精神の統一をするだけではないんです、電車の箱のなかでもできる。じゅうぶんにできるんです。これは工夫ですね。
このように、毎朝毎朝、電車のなかで精神の統一をする工夫をすれば、それだけであなたはふつうの人とは違ったなにかを得ることができます。私はそう思います。まず、反省の習慣がある人には内省的な傾向かあります。内省的な方は思慮深いです。まずそうですね。そして失敗が少なくなっていきます。毎日毎日、自己点検をしていく。そして心を浄化してからオフィスに出ていって、朝のコーヒーを一杯飲んでから仕事を始める。これでいいんですよ。
ただ汗でグシャグシャになって行くだけではない、そんなのではなくてね、精神の統一をして出てくるということです。できれば満員電車よりもう少し早く、すいた電車で行くに越したことはありません。いずれにしても、こうした電車のなかででも精神統一ができるということを考えてくださいね。
精神統一の敵となるのは帰りの電車です。酒を飲んで帰るとこれはもう無理になりますね。だからこのへんが多少難しいですが、電車のなかでは満員のときに本が読めない、読んでも目が悪くなるというなら、精神の統一をして自らの反省をするという工夫をすることもだいじです。
そうしたときにね、どうしたらいいかというと、たとえば私のこの霊示集でもいいですが、これなんかを少し一節二節読んでみてね、長く読めないと思ったらそこで本を閉じて、そして書いてあったことを中心にして自分の心のなかの整理をしてみるんですよ。たとえば、本書を読んでいる人だったら「反省しかないのだ」と書いてあるわけですね。この扉だけを見て、そして本を閉じるんですね。反省しかないのだと書いてあるけれども、ではその反省しかないのだというのに自分に反省があっただろうかと、こうしたことを考えてみる。これでいいんですね。あるいは「精神の統一」という項目を読んだらそのことを考えてみる。「反省の入り口」と書いてあったら、反省の入り口として自分はどういう状況にあるだろうかと、そうしたことを考えてみるということです。これが、じつはあなたの人間性を光らせていくための方法なんです。
ですから、精神の統一というものは特定の時や場所を選はないのです。できればそうしたところもあればよいけれども、あるいはりっぱな空間などがあれば、そうした静寂な時間があればいいけれども、たとえそれがなくてもやるということ、これが現代人の義務です。そう思ってください。
4.心の浄化
さて、精神の統一をして反省にはいるわけですが、反省をして、ではどうなるのかということがあるでしょう。
どうなるのかと言うとね、これは結局、心の浄化をしているんですよ。心を浄化する。清らかにする。清掃するということですね。さっき言った病人でいえばおむつを替えて洗うということです。この必要があるんですね。
だからみなさんね、価値のあることばっかりを望むでしょう。たとえばかっこいいことをしたがるよねえ。花形の職業にはつきたいね、そのように思うでしょう。日の当たるところを歩みたい。舞台の上に立ちたい。舞台俳優さんみたいにあのような主役ですね、そうしたことはみなしてみたいけど、裏方さんはあまりしたくないねえ。そうでしょう。劇なんか見てもさ、ライトが当たっているときには主役がガンガンやっていますね。そして、電気が消えるときにパッと裏方さんが出てきて、舞台装置を変えているね。これは見えないね。暗くしているから見えない。けれどもやっている人がいるねえ。だから劇ができるんだね、違うかね。でもその裏方さんになろうという人がいるかね。ま、いないだろうねえ。できたら表舞台に出たいと、人はそう思うね。
一日の生活でもそうだよ。会社へ出ている表向きのときだけはちゃんとやって、家へ帰ればもうメチャメチャという、こんな人はいくらでもいますね。主婦でもカルチャーセンター行っている時だけひじょうにごきげんで美しくて、いろんな服を着てね、きれいな服を着て、人に「まあ素敵だこと」と言わして気に入ってるわけですね。
ところが帰ってくるとね、靴下はもう投げ出しねえ、もう服は脱ぎっ放しねえ、もうきったないですよ。もう新聞は広げっ放し、ねえ、ゴミは捨てっ放し、フトンはしきっ放し、掃除は一か月したことがない。ねえ、どこへでもゴロゴロ犬のように寝る。まあこんな人だって世の中にはいるんですよ。ねえ、食器は洗ったことはない。ねえ、お風呂、こんなものもうコケがつくまでつかわないのに決まっているじゃないのって、まあこんな人いますね。すごいですねえ、こういう人がいます。
やっぱりね、人間は人に目立つところはきれいにしたいけれど、そうでないところはほうっておく傾向があるんだね。
特に主婦なんかで、いちばん掃除してほしいのは玄関ね、玄関なんかしてほしい。あるいはしたいというように思いますが、玄関、あるいは応接間、このへんはきれいにしたいと思うけど、臭いところは隠していきますね。見えないところはどんどんどんどん汚くしていきます。
だからほんとうは、人の家に訪問して、そこの奥さんの性格を見ようとしたら、奥さんがちょっと席をはずしたスキにツツツツと台所はいってね、パパッと台所二、三秒見回してみる。そして音を聴かれないように素早くね、ドアの取っ手プッと引いてサッと風呂場にはいりこんで、風呂場をパパパパッと見る。うーん。そしてサッと締めてまたツツツツと歩いていってトイレのドアをパッと開けてサッとなかを見る、そして匂いをかいでみる。そして帰る。まあここまですると、だいたいその家庭がどういう家庭であるかわかりますねえ。台所・風呂場・トイレ、この三つです。これを見ればわかります。まあもっと言えば寝室まで見ればもっとわかりますがね、ここだけ見ればわかるわけです。どういう家であるかがわかります。ねえ、だいたいみんな頭隠して尻隠さずですね。このようになっているわけですね。
結局、心の浄化ということもこういうことなんですよ。人間ね、なにか悪いことがあったり、あるいは失敗したりすると、目をそむけるんですな。見たくない。「またやりぁいいのよー。何よ、え? Aさんを傷つけたって? へへっ、まあBさん喜ばすからいいわ」なんてこんなもんですね。だいたいそういう感じになりますが、これではやっぱりねえ、行楽地に行って空缶を捨てて回っているような、そんなのとぜんぜん変わらないんですよ。だから、ひとつひとつをやっぱりかたづけていくってことかだいじですね。
したがって、心の浄化っていうのも、結局、そういうことなんですね。まず心というのは、一日じゅう、やっぱりいろんなゴミがたまるんです。つまり部屋のなかといっしょです。いろんなゴミがたまります。だからこれをまとめて掃除なんかできないですね。じゃあみなさん反省は三十年分、四十年分まとめてするとおっしゃるけれども、部屋のなかを三十年間掃除しなければいったいどうなりますか、言ってください。三十年後に掃除したらどうなりますか。さあどうする。このいちばん下のがたしか三十年前の結婚当時のゴミだあなんてね。その次の埃は、これは二十年前のあれだ、これは銀婚式のころの、なあんて言いはじめたらたいへんですね。そういうふうになってきます。このようにゴミや埃(ほこり)がたまるんですね。
神様なにがいけないたって、埃がたたないようにゴミがないようにしてくれればいいじゃないかって言うけれど、じっさいはできますねえ。ここでやはり掃除しなければいけないということですねえ。だからいっしょなんですよ。あなたがたは神がいるのになぜ悪があるのか、なぜ罪があるのかと言うけれども、罪とか悪とかいうものは心に積もった埃やゴミなんです。このことを言うんですね。
だから、神様になんでゴミができるのと言ったって台所仕事といっしょでしょう。ねえ、御飯を作るのはおいしいけれど、御飯を作ったらかならずゴミが出ますね。ゴミが出たらかたづけるしかありませんね。それとおんなじように、心は創造作用を持っています。いろんなことをすることができます。考えたり行動したりできます。そうすると、そのカスがどうしてもできるんですね。そのカスについては、あとかたづけをしなければいけないということになっているんです。そのカスやゴミは神様が作ろうとして作ったんではないんですよ。あなたがなにかをしようとして、その結果できたものなんですね。それゆえにあなたがかたづける必要があるんです。
カレーライスを作ったらにんじんの切りくずができるんです。ねえ、いいですか、たまねぎの皮で捨てる部分が出てくるんです。違いますか。ハウスククレカレーを使ったら、そのククレカレーの空箱が絶対に出るんです。それが山のようなゴミになったからといって、それは神様の責任ではないんです。それは、人間がおいしいカレーを食べるために作ったんでしょう。そしてできてきたゴミでしょう。それならかたづけるしかないんじゃない、ね。
同じように、思い、心と行ないというものも人間が作っていくものです。それゆえにその結果ゴミが出ます。そのゴミは自分が浄化していかなければ、捨てていかなければしてくれる人はいないということです。三十年間部屋を掃除しないで、いきなりできはしないというたとえを思い出してください。そんなものなんですよ。
5.神の光の流入
このように、ゴミの掃除をして部屋をきれいにしたら次はどうするかというと、次は窓を開けて新鮮な空気を入れますね。部屋に入れるわけです。それと同じように、心のゴミを清掃したらどうなるかというと、新鮮な酸素の代わりに神の光というのが流れこんでくるのですね。サアーとはいってきます。
私はね、できれば多くの人にこの経験してほしいんですね。その人の感受性によって多少の差がありますが、自分の一日、あるいは過去をふり返って反省しているときに、人の美しい言葉ね、あるいは同志の言葉、先生の言葉、こうしたものを聴いたらあったかいものがサアーッと胸のなかにはいってきますね。これを神の光といいます。この体験をみなさんにできれば一生のうちに一回はしていただきたいのです。
守護霊の声を聴くところまではいかないかもしれない。指導霊の姿を見るところまではいかないかもしれない。けれども、この神の光の流入の経験だけはみなさん可能なんですね。これだけは私は経験していただきたいんです。このあったかい気持ちね、反省しているときにサアーッと流れてくるあったかい気持ち、感覚、これを経験しないでは、ほんとうにあの世の実感というものはできないと思います。
もちろん守護霊と話をするところまでできればいいんだが、なかなかみんながみんなそのようにはいかないでしょう。それゆえに、最低限の霊能力としてここまではみなさん経験ができます。あったかいものが胸にサアーッとはいってくる感じ、ここまでは絶対に行けるんですね。
だからこれに至るまでには、まず反省によって心の曇りを取り除いてほしいんですね。自分がどういうところにまちがったところがあったかということ、これを考えてほしいんです。その材料としてあるのが、私のたとえばこうした霊示集ですね。この霊言、霊示集です。こうしたものもひとつの材料です。どこが違っているのかを教えてます。私はいろんなところで教えてます。また、私以外でも他の霊人たちがいろいろな霊示集を送っていますね。
こうしたものはみんな反省の材料としてあるんですよ。反省の材料としてあるものなんです。そうしたものを材料として、自分の過去をふり返ってみるのです。そうすると、やがて神の光がサーッと射してくるようになります。この経験だけはみなさんにぜひしてほしいのです。
ところで、具体的にみなさんの心のゴミとはなにかというと、たとえば愚痴や怒り、嫉妬、足ることを知らない欲望、情欲、憎しみ、まあこうしたものです。あるいは極度な劣等感ね、取り越し苦労、不安感、こうしたものですね。いちばん根本的な問題ではありますが、このようなものを持っていては神の光が射さないんですね。
こうしたものをかたづけるためにはどうしたらよいか。そのためには、そうしたものを作り出した原因を探究し、その原因行為を作っている妨害物、あるいはつまずきの石があったら、これを取り除くことです。取り除いて、もう二度とそういう妨害が起きないようにすること。そして未来に対しては、さわやかな人生を設計していくこと。まあこうしたことしかありませんね。そのようにしてほしいと、私は強く願っているわけです。