目次
2.愛ある人生
4.愛の探究と八正道
5.愛の臨在
6.真実永遠なるもの
7.信仰の立脚点
9.哲学の二つの流れ
10.経験論哲学を超えて
11.信仰の原点
12.愛のシャボン玉
13.広がる愛の輪
14.愛の定義
16.人生の苦しみにあって
18.与えるということの意味
19.知恵をもって与える愛
20.愛と知をどうとらえるか
21.存在の愛について
22.愛と反省法の融合
24.文学と愛
25.愛の大河
21.存在の愛について
「存在の愛」についても、小さな「存在の愛」というものも、もちろんありえるのです。その意味ではみなさん一人一人がその可能性を持っているわけです。自分の置かれた環境のなかで、小さな世界のなかでの「存在の愛」ということはあります。
神理を勉強されているみなさんであれば、心の構造が四次元領域から九次元領域まであって、中核は十次元につながっているという、たまねぎ型の理論を学んでいることでしょう。このような心の構造と同じように、たとえば、全体として「愛する愛」の段階にある、あるいは「生かす愛」の段階にあるということを判定されたとしても、そのなかには、もちろん「存在の愛」の部分を含んでいて、その部分が発揮されることもあるということなのです。
けっきょくはどういうことかと申しますと、「存在の愛」のなかには、「生かす愛」も「愛する愛」も入っているのです。逆に「愛する愛」のなかにも「生かす愛」のなかにも、「存在の愛」はもちろん入っているわけです。しかし、トータルで見たときにその人のどの部分がいちばん活性化しているのか、あるいは愛という物差しで計ったときに、いったいどこがメインであるのかということを問われているのです。
ですから、自分が「存在の愛」に達したということで、まわりにいる人と全然仲良くすることができない、ということであってはやはり問題があるわけであって、「存在の愛」のなかにはほかの愛も含んでいなければならないのです。やはりまわりの人ともうまくいき、人を生かすこともでき、そして許すこともできる。そのようなことができながらも、燦然と光を放ち続けているという、これが「存在の愛」です。ですから、一つできれば他の愛ができなくてもよいということではありません。そういうふうに考えることが大切です。
あと、この愛の四段階説からはずれる部分といたしまして、たとえば、四次元の愛などがあります。「本能の愛」ともいいますが、この「本能の愛」であっても、なんとか、間違いまでいかない部分として、幽界のなかの精霊界の部分の愛もあります。それと地獄界に属する「堕落する愛」、「破滅の愛」の部分もあります。このへんもよく教訓として学んでください。また、「存在の愛」の上には「救世主の愛」があります。これはひと言で言えば、すでに「神の愛」に近いも`のだと考えていただいてよいであろうと思います。
22.愛と反省法の融合
八正道と愛の探究の両者についてさらに詳しく語ってみますと、八正道は日々の修行のほうにウエイトがあり、これに対して愛の発展段階説は日々の生活に端を発しながら、ある程度中・長期的な目標をも合わせ持っていると、このような説明がなりたつと思います。なるほどそのようなこともいえるのかと思っていただければよいのです。
このように八正道と愛の探究の間には、時間的な差はありますが、両方とも合流する部分があります。そこであえて八正道と愛の発展段階説を比べてみますと、以下のように引き当てができるかもしれません。
八正道の正見・正語というのは、比較的に始めやすいところです。自分が見るということと語るということは、ひじょうにチェックしやすい日常的な部分での反省材料となるでしょう。これは「愛する愛」というような、自分が身近に接する人たち、あるいは日ごろ当然接すべき人たちとの間を調整するために、欠かせない部分といえましょう。
正業・正命、これは正しい仕事、正しい生活ということです。これは特に正業の方には生かす愛の部分がそうとう入ってきております。現代ではお金を貰うのが仕事だけではなく、仕事ということを通して、人間関係を大切にし、部下を動かし、上司に働きかけ、業者を生かす、ということを学んでいくということも、課題にされています。女性であれば家事ということもありますし、育児・教育・御主人の世話ということも全部仕事のうちです。これが正業のなかに入っています。これが神の命を受けてちゃんとやれたかどうかということが問われているわけです。これも「生かす愛」の段階としてある程度認定できるのではないでしょうか。
正思・正精進、これは「許す愛」の段階であります。これもかなり難しいところです。正思というのは、正しく思うですから、ある意味では全体にかかっていることですから、あえて許す愛だけにおくことは難しいとは思います。許すという心の作用と対象に特に重点を置くとすれば、正しく思うということ、道に精進するということが、宗数的な許す愛にひき当たるであろうと思うのです。
すなわち人を許せないということは、どういうことかといいますと、心の中に葛藤ができて煮えくり返ったりしているわけです。これは心の中で正しく思う、思いを正すという努力のなかで解決していける部分なのです。反省の目標としては、正しく思うというところのチェック基準に、かなりかかわってくるのです。心の中に "しがらみ" や葛藤ができて、これをどうにも取れないで苦しんでいる人であるならば、とうてい人を許せる心境にはないということであります。
正進とは、正しく道に精進し、神理を学習しながら生きていくことです。常に学習し、自分が向上しているという手応えをしっかりと感じているときに人を許す気持ちが出てきます。これは不思議なことなのですが、停滞のなかにはあるときには、許しの心が起きてこないのです。あるいは停滞だけではなくて、さらに言えば堕落、あるいは降下、自分が下がっているようなときに、人を許す気持ちになるのはひじょうに難しいのです。
けれども、逆に、自分が発展中であるようなときには、人を許すことはそう難しいことではないのです。それはなぜかといいますと、それだけ多くの光と多くの愛を私たちが受けているという実感がそのときはあるからです。気持ちも大きく、心も豊かになり、人に貰い水を許し、与えるだけの境地が出てくるのです。発展中のとき、進化中のときには、明らかにそのような境地が出てきます。それゆえに、いっそう多く許せるようになるのです。
ですから、心に余裕が無いときには、人を許せないのではないでしょうか。自分自身行き詰まっているとき、あるいは挫折しているときと同じで、難しいでありましょう。ですから、神理を学びながら、絶えず向上していくなかに人を許す道がある、ということにつながるのです。
正念・正定は「存在の愛」の段階であります。これもかなり極端な引き当てだと感じられるかもしれません。他のところにもあるていどは正念・正定が入っているといえるでしょう。ただ、正しく念じ、正しく定に入るということは、これは、プロの宗教者としての領域です。あるいは悟りの段階において、一定の黒帯以上の段階です。
ここに入るためには、この正念・正定のところをマスターできなければいけないということです。ここをマスターすると何が出てくるかというと、平静心、および不動心というものがはっきりと出てくるわけです。そこで、はじめて常に与え切りの心がでてくるのです。自分の心が揺れないからこそ与え切りであることができるのです。
そうではなく、心が揺れているのであるならば、調子がいいときは与えることができるけれども、調子が悪いときは与えられなくなってきます。ですから、平常心・不動心というのはひじょうにだいじになってきます。このときに「存在の愛」といわれる名であらわされるように常に光を与え続けることができるということです。このようにして引き当てをすることができると考えていてよいでしょう。
23.自己を知れば知るほど八正道が生きてくる
八正道の順序はいろいろで、正見・正思・正語・正業・正命・正進という順序をもってくる考えもあります。また、正見・正語・正思・正命としたり、いろいろとこの順番を入れ換える方法があります。修行の段階、目標として考えるときは、このような四段階を考えたほうが明確にとらえやすいということです。
実際の反省に入るときはどうかといいますと、個人差がありますから、必ずしもこのとおりでなくてもよいのです。正見・正語はもちろん入りやすいのですが、次に、正思を反省の対象として、重点的に自分の心の思いというものを、総点検してみることも十分ありえますし、だいじな観点です。
見るということ。語るということ。考え、思い、心のなかにわだかまりがなかったか、ひっかかりがなかったか、これを総点検してみて、その後に、やはり積極的なプラスの人生を生きていくための正業に向かい、自分の仕事、あるいは生活そのものを考えて反省し、つくり変えてゆく。
このように、まずマイナス要素を払拭してからプラスの要素を生み出していくという方法論もあるわけです。その意味では正見・正語・正思をまず先に行なって、徹底的にマイナスの部分を消してから、正業・正命で積極的プラスの展開をはかる積極的反省の方法という考えが十分に成りたつわけです。これは正業・正命だけではなく、正進のなかにも生きてきます。このような八正道をいろいろと使い分けをしてくだされば幸いであります。
24.文学と愛
「天使の愛」という考え方もありますが、この分類そのものは、そう大きな意味はありません。ただ、このように愛の境地、また愛としてもいろいろな要素があって、高次元にいくほど、多様な愛を求められるのだということを知っておいてください。愛というと、とかく男女間の愛が連想されますが、確かにそれも愛の一つの形態ではあります。しかし、高次元の愛というのは実際はそのようなものではなくて、いろいろな役割・要素を含んでいるということです。
文学者は、愛というものをここで説明しているようには全然とらえきれていないようです。文学の対象となる愛というのは、やはり本能的な愛のところまででほとんどが終わっています。たまに悟った文学者がおられても「愛する愛」くらいまで達していればよいほうです。たいてい四次元の愛のことを一生懸命に、連綿と書きつらねています。
最近では "○○○○○の森" という本がよく売れていますので、ベストセラーの研究のために読んでみました。愛の世界をいちおう書いているわけでありますが、やはり四次元の愛のレベル以上のものではないのです。どうしても四次元の愛から超えられず、五次元の愛する愛まで作者の心境がいってないのです。四次元の本能の愛のなかで、地獄界領域と精霊界領域を行ったり来たりしているようです。するとなぜ何百万部も売れるのかといえば、やはりその対象となる人口が多いからなのです。
私は九次元の愛まで言及しているものですから、残念ながら読者人口がやや少ないのです。もう少し四次元の愛を大々的に説かないと読者層が増えないのですが、難しくとられるのかもしれません。
文学のレベルで、「愛する愛」、「生かす愛」のところまで書きおよんでいるのは数少ないと思います。それゆえに、だんだん神理を勉強すると小説が読めなくなってくるのです。作者の悟りが低いからなのです。実際に昔の愛読書であったものが読めなくなってくることがあります。読書の対象外へ落ちてゆきます。落ちていかないものはいったいどのような内容のものかと考えてみますと、たいてい宗教的な部分が含まれている本であると思います。神理を学ばれているみなさんが愛について語っている小説を読み、読書の対象から落ちないのはその部分にかかっているのだと思います。
たとえばジイドであるとか、女性であれば、曽野綾子氏や三浦綾子氏のものとか、いろいろありますが、愛について宗数的な部分にまで触れて書いている人の本は、なかなか落ちないで残ってくると思うのです。それは、やはり「生かす愛」から「許す愛」あたりを行ったり、来たりしていて、このあたりをテーマにしているので、なかなか落ちてこないのです。ところが「本能の愛」の世界というのはすぐに対象から外れます。読めなくなってくると思います。これは一つの指標になると思われます。
25.愛の大河
愛についての考え方のなかに、「愛の大河」というものがあります。霊的な目で見た実在界はどうかということです。私たちはともすれば天国と地獄という二大対立世界があって、悪の勢力には負けてはならない、頑張って天国を取り戻さなければいけないというように考えがちでありますが、ほんとうのところ、霊的な目で見たときにどうかと申しますと、地獄部分というのは、圧倒的に下流のところなのです。山でいえば、ほんの裾野の一角にすぎないということなのです。はるかなる神の世界から愛の大河がとうとうと流れてきている。十次元、九次元、八次元、七次元……と大黄河のように流れてきているのです。
ですから、地獄界などと言っていますが、大黄河、あるいは揚子江で言えば、河ロのそばで塩水と混ざって。いるあたりで、海か川かわからないで濁っているようなところが地獄にすぎないということなのです。実在界、天使の世界に還ってみれば、地獄などというのはほんとうに天使の世界と対立できるような世界ではないということなのです。このような認識を持っていただきたいと思います。これを知らないで、あくまで善悪が二元的に対立し、サタンと天使が対等の力関係で存在していると思うと心の安定を失いがちになります。
しかし、実際はそういうものではありません。ただ、この地獄の霊界は三次元に近いところにあるがために、三次元にはずいぶん影響を及ぼしています。それゆえに、私たち三次元の立場からいって、この影響を排除するためには地上ユートピア化が一日も早く求められているというわけなのです。これを知ってください。このようなパノラマの感じをつかんでいれば、心がそう揺れなくてすむと思います。ところが対等で存在しているような気持ちでいれば苦しいのは当然です。
そして地獄をつくっている要素はマイナスエネルギーです。これを要するに私たちとすれば消し込んでいけばよいのだということです。つまり妬み・嫉み・怒り・愚痴・不平・不満・主観的な心、このような心を一つ一つ消し込んでいく、摘み取っていくということを第一にすること、これが地獄部分から脱出する方法だということです。
したがって、人類救済の原理とは、「愛の本質は与えることだ」と悟ることであり、そのときにはじめて、人々はほんとうに救われていくのだということです。そして、「与える愛」とは、まず感謝することから始まっていくということです。この感謝することから始まっていくということは、先はどのたとえ話のところに戻るわけですが、人間が生かされていること、そして足ることを知ること、このあたりをつかめないとほんとうに与えていくことはできないということです。
神様からすべて与えられている私たちであるからこそ、"奪うこと" を考えてはいけないのです。そして、ありがたいという気持ちが起きてくれば、自然に与える方向に向いていくのだということを忘れないでいただきたいと思います。