目次
6.真実の道は険しい
1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ
第一章「新創世記」、第二章「甦る仏教」、とこうきまして、第三章で「永遠の生命」ということに関して今日はお話を続けていきたいと思います。
永遠の生命というのは、これは宗教をやる人にとって本当いちばん根本的なテーマなんですね。
この永遠の生命をつかむかつかまないかということがね、宗教家としての自覚の強さ、あるいは弱さにも関係するのです。
まあ生きている人たち地上にいる人たちはね、私たちの目から見てみると非常に不幸な人生観でもって生きておるわけなんですね。
みなさんどうしてね、そう自分を不幸にするような人生観を持ちたがるのでしょうね。私はそれが不思議でしょうがないんです。
どうして自分の人生は一回きりで、六十年、七十年で終わってしまうと思っちゃうんでしょうかね。
まあ六十年、七十年あればいいけれども、高橋信次なんかは四十八年で終わりました。
四十八年で本当に線香花火のように、パーツと燃えて尽きてしまうだけで、人生が終わってしまうなら、なんのために高橋信次があれだけ努力したか、この意味がないですね。
私は『心の発見』三部作、現証篇、科学篇、神理篇、この三つを書きました。もともと『縁生の舟』という題で出した本ですけれどもね、それから『心の原点』『原説・般若心経』『愛は憎しみを越えて』『人間・釈迦』四部作、『心の指針』『心の対話』まあこういう本をいっぱい書きましたね。
あれだけ私が夜も寝ないで原稿用紙を埋めるために一生懸命万年筆を走らせて書いて、そして全国津々浦々の人々の前で、汗を流して講習してそして現象をして見せて、講演会で入場料を一円も取らずに、あれだけやってきて、やがて四十八歳でバッタリいってね、それで高橋信次という個性があっさりと消えてしまうなら、私はなんのためにいったいやってきたのか。その意味がないじゃないですか。
みなさんそういう人生観で満足できますか。私は、高橋信次という人間はね、有限で、四十八年生きて、それで終わったら、もう焼場で焼かれてそれで人間灰になって終わってしまって、それで満足かというと、それで満足じゃないんですよ、満足じゃないからこうやってでてきて、こうやってしゃべっておるんです。
2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ
みなさんそんなつまらない人生観をどうして信じるのですか。
だれに教わったのですか。学校の先生ですか。友だちですか。ご両親ですか。
人生がわずか数十年で、本当に終わってしまうものなら、なんのためにみなさん小学校に上がって、一生懸命勉強していい中学校行って、一生懸命勉強していい高校入って、また勉強に勉強を重ねて、四当五落とかいって、四時間睡眠なら合格、五時間なら落第というような厳しい受験勉強の間、一年も二年もやって、そしていい大学に入って、そしてまた企業に就職して、そして定年がきて、会社クビになって、あと子供たちに馬鹿にされながら、余生を送ってね。そのうちポンコツの人となって、恍惚(こうこつ)の人になってホイホイになっちやって死んじゃうと。これで土になっちゃってもう終わりなんだと。
肉体が滅びたときにすなわちその人の人生が終わるのだということであったら、何のために一生生きてきたのでしょうか。何十年も人生汗水たらして生きてきたんですか。何のためですか。
それはその日その日がひもじいからですか。
ひもじいから三度のご飯を食べないと、ようするに体がもたない。三度のご飯食べるためには、お金がなければいけない。お金を稼ぐためには働かなければいけない。働くためには就職しなければいけない。就職するためには学校出なければいけない。学校出るためには勉強しなければいけない。
それでみなさん小学校から、ズーッと勉強しているんでしょうね。ただ三食食べるということのためでしょうかね。どうでしょうか。
それとも、きれいな嫁さんもらうためでしょうかね。
そのきれいな嫁さんも、やがて年とって三十になったら目尻にいっぱいしわが増えて、エドガー・ケイシーの霊言でしわのとりかた聞いたって、エドガー・ケイシーだって困っちゃうんですよ。
三十になれば烏(からす)の足跡でね。目尻にしわがよるんですよ。これは自然の摂理なんでエドガー・ケイシーがいくらがんばったってこれは治りゃしないのです。ほんとう言うとね。こんなもの。
四十になればあなたね、もうおばさんですよ。どうがんばったって、どんな映画女優だって、いいかっこしたって、お化粧とったらもうおばさんなんですよ。無理なんです。
五十過ぎたらもう白髪が出るんです、どんなにしたって。
六十過ぎたら腰曲がってたまるものかなんてね、ヨガの体操一生懸命やったって曲がるものは曲がってくるんです。どうしようもないんです。
女性だって頭のはげるんだっておるんです。毛が抜けてくるのがね。みなさんもそういうふうに生物学的にごく自然になる。まあ生物学的にそうなるんですよ。
七十過ぎて赤ちゃんみたいになるような人はおらんのです。あんなポチャポチャしないでみんなしわくちゃになっていくのです。これは逃れられないのです。
これでもって本当に「是(よ)し」と思いますか、ということですね。
あなた方はそんな不幸な人生観を受け入れて、それで本当に満足しているんですか、ということです。
本当に七十歳で自分が死んで、そしてあとは灰になって焼かれてね、灰になって空中に二酸化炭素で散らばってしまって、それで本当にあなたは満足ですかと。そんな人生って本当に正しいと思いますか。
何のために努力したんですか。何のために教えてきたんですか。こういうことをもう一度ね、よくよく考えてほしいんです。決して自分が本当に幸せになるような人生観を持ってないはずなのですね。
3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ
どうせそれこそ七十年で死ぬならね、あなた、もう生きている間もう好き勝手しないと損ですよ。
毎日、毎日、ドンチャン騒ぎしてね、ハイ、焼かれるってことになって焼き場に行って「ああ焼かれた。ああこれですっきりした。もうさっぱり私はこれでなくなった。」ってね。
生命がなくなったと思ったらね、「あらっ」と思ったら焼き場の屋根の上あたりをフラフラ飛んでいて、「あら、どうしたんだ。俺死んだと思ったらまだ生きてるなんておかしいなあ。」と思ってそのあと迷って子孫のところへ出てきて、幽霊がでたって恐がられるのがオチなんですよ。
こんなもんなんです。そんな淋しい人生観を持っている人というのは。
ところが、なぜかこれをみんな信じている。学校の先生や、インテリたちは、みんなこれが当然だと思っている。
文部省だってそうですね。霊とか魂ってのはもう古代の信仰になっちゃってね、現代はダーウィンの進化論以来そんな馬鹿な話する人いなくなった、なんて言っています。平気で言っています。
そんなまちがいを堂々とね、国の機関が教えて本当いいんでしょうかね。
事実はひとつなんです。ふたつないんです。片方が正しければ、片方が間違っておるんです。もうはっきりしているんです。
あの世の霊がこうやって話している以上、あの世があるんです。霊があるんです。人間は永遠の生命を生きておるんです。もうこれははっきりしておるんです。これはもう解釈の分かれようがないんです。思想上の問題じゃないんです。
「ある、ない」というのは、思想として認められる認められないの論争の問題じゃないんです。「現にあるからある」と言っておるんです。どうしようもないんです。
あるもんはあるんですから。そういうふうにできておるんです。それを認めないで嘲笑(あざわら)う、これが大多数の人々です。
おかしいと思いませんか。地上の大部分の人たちがそういうふうな病気にかかっておるわけです。みんな、頭がおかしくなっているのですね。いねば記憶喪失になっておるわけです。
4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間
たとえて言うとね、人間というのはみんな旅をしておるのですね。いろんなところを旅して、旅から旅へとね、股旅(またたび)のなんとかでね。清水の次郎長さんじゃありませんけれども、旅をやっとるわけです。これがおもしろいんですね。
ある山あいの村にはいると、何かそこが非常に居心地(いごこち)がよくてね、食物が豊富でね。お金がザクザクでね。娘はきれい。そういう村にはいってドンチャン騒ぎしているうちにね、みなさん旅していたことを忘れちゃうんですね。
そしてそこにいるときれいさっぱり記憶を忘れちゃって、もうこんないいとこないっていうんで、もう昔からそこにいるような気になって、ここ以外に世界がないぐらいの気持ちでおるのです。
本当は旅してきたんですよ、いろんなところをね。それで途中の宿場町に泊まっておるだけなのだけれども、あんまりその宿場町がキラキラ、キラキラ、ネオンがキララするもんだから、居心地がよくて旅人であることを忘れてしまったんです。自分はね。
いつしか通行手形も忘れちゃって、いい気になっとるんです。
で、その村では独自に自治をやっとるわけですね。そうすると村長さんがいてね、「村の者よ、よく聞け。」と。
「この村は全世界の中心であり、この山の向こうはもう崖になっとって宇宙の果てだ。」とね。
「ここ以外世界はないんだ。」とね。
「これがすべての地上である。すべての国だ。みなさんはこのようなすばらしい国にいることを誇りと思わねばいかん。この国から一歩でも出たらいかん。この村から一歩も出ちゃあいかん。それはもう地の果てであり、この世の終わりなんだ。この村だけが完結したすばらしい世界なんだ。このなかでみなさん精一杯いい人生を生きましょう。」こういってやっとるわけですね。
「ここ以外世界はないんだ。」とね。
「これがすべての地上である。すべての国だ。みなさんはこのようなすばらしい国にいることを誇りと思わねばいかん。この国から一歩でも出たらいかん。この村から一歩も出ちゃあいかん。それはもう地の果てであり、この世の終わりなんだ。この村だけが完結したすばらしい世界なんだ。このなかでみなさん精一杯いい人生を生きましょう。」こういってやっとるわけですね。
そしてその村の教育委員がでて来てね。「ああ、その通りです。みなさん、霊魂なんてありゃしないんです。人間というのは一回限りで、この村でドンチャンやって死ねばそれで終わりなんだから、もうできるだけね、ここは温泉町でもあるし、芸者をあげて朝から晩まで酒を飲みましょう。」と。「これが一番いいんですよ。」とね。
「学校の先生に給料払うためにだけ、子供を学校に通わしましょう。」ってね。
「どうせ死んだらもう終わりなんだからね、まあ生きている間、ほっとくともう暴走族か、なんかやって悪いことをするから、とにかく受験勉強さしてね、縛りつけとくと悪いことはせんだろう。」と、まあそういう話をしとるわけです。
「学校の先生に給料払うためにだけ、子供を学校に通わしましょう。」ってね。
「どうせ死んだらもう終わりなんだからね、まあ生きている間、ほっとくともう暴走族か、なんかやって悪いことをするから、とにかく受験勉強さしてね、縛りつけとくと悪いことはせんだろう。」と、まあそういう話をしとるわけです。
こんな狭い世界観で、こんな有限の人生観で、満足しておるのですよ。
あわれというしかありません。あわれです。
そして現代のインテリと言われる人たちはほとんど、これを信じておるんです。
この迷妄(めいもう)を醒(さ)ますためにいろんな光の指導霊たちが出て、いろんな人にいろんな教えをしとるのだけど、どうしてもそれをすぐ忘れちゃうんですね。信じられない。
5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち
高橋信次は、昭和五十一年六月、東北講演から帰ってきて、力尽きて二週間ぐらいしてポックリいきました。
そうすると、私がポックリいくと、それまで教えを受けてた人たちはどうなんでしょうかね。
私が講演会で永遠の生命の話をして、そして人間には転生があるんだ、過去世があるんだと。過去世があって過去幾転生してきて、それで現在があるという以上、未来世があるんだということを力をこめて私は何十回、何百回と話をして、そして現象をして見せてきました。
そして聴衆はみんな信じてたかのように見えて、先生がポックリいったらもうそれでまた信じられなくなる。こんな人たちなんですね。
目に見せるときには、現象を目に見せるときには信じるけれども、すぐそれを忘れてしまう。これが人間の愚かさであります。
こういうことを気づかすためにね、過去イエスだとか、ブッダとか、モーゼとか、いろんな偉い人がいっぱい出てきて教えてきたんだけれども、その人たちが地上を去るとまた忘れちゃう。こういうふうになるんですね。
どうしても低きに流れていくんです。どうしてもエベレスト山みたいな高い所に登ることがいやだから、川の流れにのって低いほうへ低いほうヘタラタラ、タラタラ流れていくんですね。らくちんだからです。
エペレストの山に登るのはたいへんだから、高橋信次がでてきて「こら、みなのもの、荷物をひとつにまとめなさい。ピッケル持ったか。サンダルじゃだめだぞ。山登りだから山靴はけよ。山高帽もいるぞ。弁当つめたか。缶詰持っても缶切り忘れちゃいかんぞ。雪のなかで迷ったときにチョコレート食べとったら一週間ぐらい生きのびて助かった人がおるから、チョコレートのひとつやふたつはポケットにいれておけよ。」ってね。
「ロッテのチョコレートだけじゃなくて他にもチョコレートいいのあるぞ。」と。まあそういう話をしています。
そしてみんな私のあとに続いて山を登っとったんだけれども、高橋信次が四十八合目あたりで、ちょっと谷底へ落ちたら、コロッと落ちたらね、「あらもう先生いなくなった。」ってね。「先生いなくなったら山登りの本当の意味がないんじゃないか。」なんてね。
「やめた、やめた、やめた。」といってね。
みんなリュック捨てちゃってね、「やめた、やめた、やめた、この山登りなんて馬鹿馬鹿しい。」なんてね。
みんなリュック捨てちゃってね、「やめた、やめた、やめた、この山登りなんて馬鹿馬鹿しい。」なんてね。
「登りはつらいけど、下りは楽だぜ。」って、みんな楽なかっこうしちやって、トントントントン山を下り始めました。
そうすると、「あいつも下るなら俺も下る。」なんてね。
「馬鹿馬鹿しい、頂上なんて誰も行ったことがないし、わかりゃしないんだよ。」って、「山に頂上があるとは聞いているけれど誰も行ったことがないし、頂上へ行ったってまた下らにゃいかんのだから、どうせ下るのなら登る必要がないや。」なんてね。そういうことで下り始めました。
そして仲間のなかの何人かがね、そういう楽なことをして山道下り始めると、登っていた人たちは、やっぱり気になってきますね。
山道登るのはつらいけど下るのは楽そうだし、下のほうに行ったらなにか楽しそうなところがいっぱいあるみたいだから。富士山のてっぺんてネオン街ないしね。温泉もないしね。芸者もいないし、刺身もなきゃ、なにもないと。鳥の唐揚げもありません。
これじゃやっぱりつまらんからね、ふもとにおりていきゃぁ、あなたお店もいっぱいあって、富士五湖のあたりなんかネオンキラキラして、もうほんとうに生命(いのち)の養生(ようじょう)ができます。だから先頭集団が下り始めると、みんなついて行きますね。これがかつての私の弟子たちです。
現在あわれにもね、先生がもう四十八合目でちょっと沢のほうに落ちたかと思ったら、もう山登りやめちゃって、みんな下り始めた。「こんな危険なことやめよう、やめよう。やめよう、危い。みんな下へ下ろう。これ以上登ると雷が落ちるかもわからんしね。雹(ひょう)が降ってくるかもわがらん。もう下ろう下ろう。」ってね。
指導者がいなくなるとイチコロです。それでみんな我先にと下り始めましたね。こんなもんなのですよ。
6.真実の道は険しい
あれだけ私が山の上の大切さ、すばらしさ、その挑戦することのりっぱさを教えてもね、やっぱり低きに流れる。ま、これが人間の性(さが)なんです。
どうか私の言葉を聞いて感ずる人たち、多いはずです。よく考えてほしいですね。やさしいところばかりに本当の道はないんですよ。
真実の道っていうのはけっこう険(けわ)しいんです。険しくとも一歩、一歩登っていかなくてけならんのです。それが修行なのですよ。
イエス様も言ったはずですね。「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど生命に至る門は挟く、その門よりはいる者少なし」と言っていますね。
7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム
読んだことありますか、有名なフランスの、あっフランスだったかドイツだったか忘れちゃったけど、どっちかだ。ジイドっていう、アンドレ・ジイドという作家がいて、『狭き門』というのを書いていますね。
『狭き門』のなかでジェロームという主人公がいて一生懸命、刻苦勉励(こっくべんれい)して、徳高い人聞になろうとしておるのですよ。
アリサという二つ年上のいとこがおって、これにジェロームが聖女にあこがれるようにあこがれておるわけですね。
「彼女はいま、私の愛を受け入れてくれない。私の愛を受け入れてくれないのはなぜかというと、彼女はやっぱり私の悟りが低いのを見抜いておるのだ。私は彼女にふさわしいものになるように自分の魂を高めたときにきっと彼女は受け入れてくれて結婚してくれるのではないか。」なんてジェロームが美しい誤解をします。
そうして一生懸命アリサにね、手紙を送ったり自分が最近勉強したことや最近読んだ本のことを一生懸命書いて送りますね。
こんな本読んだ、あんな本読んだと一生懸命送ります。そして感想を書きます。
そしたらアリサはアリサで、背伸びし始めまして、ジェロームがそんな難しい本を一生懸命学校で学んどるなら、私も読まにゃちょっと話ができんから、恋人同士の話ができんので、町の本屋で買いあさって、ちょっと本がないみたいだってちょっと注文したりしますね。
まあ昔、高橋信次の霊言シリーズが出てすぐに版元品切れで、印刷するのに二週間かかって、読者が怒ったりしたことが一部あったようですが、そういうふうにあんまり評判のよい本というのはすぐなくなりますから、アリサが買おうとしても注文しなければいけない。
注文しても印刷屋は輪転機を回すのに時間がかかって製本しなければいかんので、「しばらくお待ちください。」で二週間待っているうちにジェロームからまた次の手紙がきます。
今度はこんなに難しい本を読んだ、そして哲学的発見をした、なんてきますね。アリサは困ります。「しまった。前の注文の本がまだ来ていないのに次の本を読まれた。こりゃいかん。」また探しに行かねばならないとね。
そうしてどうも手紙を読んでいるうちにジェロームという人は、自分をどうやら理想化して、聖母マリアか、あるいはもっと、もっとりっぱな女性だと思い始めているんだと。
ジェロームと会うとこの幻想を打ち砕いてしまうんじゃないかと。女性というのは自分に自信がなくなります。
そしてジェロームがアリサに「会いたい、会いたい。」というと、向こうは「いやいまちょっと困ります。もう少しあなたの勉強が終わるまで私は待っています。」なんていって、いったん体(てい)よく逃げます。
そうすると馬鹿なジェロームはますます頭に血がのぼってきて、「そんなこと言わないでアリサちゃん、会ってください。僕はあなたにふさわしい魂になるためにこれだけ努力したのですから、この僕をどうか受け入れてほしい。」ってね、一生懸命書きます。
そしてもう思い余ったジェロームちゃんは、もう求婚をどんどんしますね。「結婚して、結婚して。」アリサは困ります。
「もうちょっと待ってください。もうちょっとあなたが一人前になられて、働き始められて、りっぱになられたとき、私もあなたにふさわしい妻になれるように修行します。」どうのこうのといいます。
8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか
ジェロームはまだ許されない、それではしかたがない、もっともっと僕は人生修行をしなければいけないと一生懸命やります。
ところが実在の世界から愛のキューピットが見ておると、ジェロームがあまり一生懸命やるのでね、アリサはついていけなくなってね、で自分と会うとね、女性はよくあるんだけれどもね、馬鹿だと思われるのが女性は一番辛いのです。うなずいている人がどっかにいるけれども、それが一番辛いのですよ。女性というのは心のなかで、やっぱり理想的な男性ね、なんというんですか、白馬の騎士が現われて自分を救ってくださる、こういうことを願っておるのだけれども、じっさいに白馬の騎士がきたときにあまりりっぱすぎて、クラクラきちゃうとこわくなってやっぱり逃げちゃうんですね。
やっぱり茂みに隠れちゃうんです。これが女性なんですね。あこがれる気持ちと不安感とのこの両方を持っている生物なのです。女性というのはね。
だからジェロームちゃんがあんまり勉強しすぎて、「いやカントの『純粋理性批判』によれば、かくかくしかじかであって、いやヘーゲルはかく語りき。そしてヘーゲルを乗り越えた高橋信次はかく語りき。」なんてやっていると、もう彼女のほうはついていけなくなるのです。
で、男性のほうがいっくら高橋信次の本がりっぱで難しい、すばらしいと言ったって女性が読んだらチンプンカンプンですね。
GLAでもインテリ向きには『心の原点』を薦めたりするようですけれども、近所の主婦に『心の原点』あげたって読んだって全然分らない。
「なにいっているかわからない。空理空論をぶちまけて高橋信次ってなにいっているの。こんなのわかるわけないでしょ。あの世のしくみとかね、なんだかんだといったり四次元だの何次元だのといったり、酸素が『C02』になってどうのこうのなんて生命科学のことをいったって、さっぱりわからない。」こういうことで世の女性はついてゆけんわけです。
そういうことで、まあジェロームが一生懸余徳の修行をしていくんだけど、アリサがそれについていけない。そうこうするうちに、ますますジェロームががんばっちゃってね、一生懸命修行するわけです。そしていつしかアリサが年老いていくわけですね。
再度ジェロームが結婚申し込んできたときにアリサは「もう私は年をとり過ぎました。」ってね。
「妻となるには年をとり過ぎました。女性とはいえないような体になってしまいました。いまさらあなたに抱かれてもあなたをガッカリさせます。」
女性というのは男性をガッカリさせるのが一番辛いのです。
結局、若いときには容(い)れられず、年をとって自分に勉強ができた、修行ができたと思えば、こんどは女性のほうがもう、年とっちゃってばあちゃんになっちゃったから恥ずかしくて「いまさらあなたの花嫁なんかなれません。」てね。
「いまさら教会でウェディングなどやれません。」で、結局はダメです。そしてアリサは淋しく死んでいきます。
そして死後、ジェロームはアリサの日記というものを読まされます。そうすると本当はね、アリサっていうのはジェロームに力強く奪いとって欲しかったんですね。
「いやよ、いやよ、は好きのうち。」女性の「いやよ」は好きのうちです。「いやよ、いやよ」二回言ったぐらいで男は逃げちゃいけないのです。
「いやよ、いやよ」十回ぐらい言うまでがんばってね、男性が強引に腕力でもって結婚せねばいかんのです。
だからほんとうはアリサというのは、ジェロームが無理やり押しいってくるのを待っとったんですね。紫式部の世界ですね。もう夜な夜な押しいってくるのを待っとったわけです。
それをジェロームが遠慮して垣根の向こうからのぞいたりしているものだから、いつまでたってもダメなのです。
アリサとしちゃあ、「二つ年上で、私はいとこだし。ジェロームにはもっと素敵な人がいるんじゃないかしら。」と。
「どうやら私の年下の妹なんかが」ね、まあ妹は年下ときまっていますけれども、「ジェロームを好きみたいだし、妹と一緒になり、結婚してくれればいいのに。」と思ってみたり、いろんなことを考えます。そういう葛藤があります。
まあこういうふうなことでジイドが『狭き門』という本のなかで非常に理想化しちゃってね、天国にはいる門というのは非常に挟くて、ふたりが手をつないで通るまではいかないのだと。
それだけの広さがない。ひとりが通れるのがやっとでふたりは通れないと。ふたりで手をつないで通ろうとすると、とうとう通れないと。こういうことを一生懸命いってますね。
まあこれは恋愛の大家から見りゃあね、こんなのはジェロームというのは馬鹿の典型であって、こんなのあなた女心知らんのですよね。
もう両親が留守しているときに無理やり二階に押し上って、結婚をせまればいいわけですよ。
それにもかかわらずね、そんなことを言って「徳を磨いて」なんていっているから実際は結婚できなかったんです。ジェロームは馬鹿な男の典型なんですね。
だけど、まあジイドってかたは知ってか知らずか、まあそういうことを理想的な純愛物語に仕立てあげて、天国の世界にはいるというのはね、これほど難しいのだと。ふたりでは手をつないではいれない。ひとりでしかはいれないんだと、こういうふうに書いてあります。
それを狭き門といってね、聖書のなかからとっているわけです、言葉を。
9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない
「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど、生命に至る門は狭く、その門よりはいる者少なし」といってね、ジェロームはひとりで門をくぐったつもりでおるんでしょうけれども。
けれどもね、この物語は、いま、冗談半分に言ったけれども、まあある意味では、普遍の世界の話を書いておるのですね。
ジイドという人がどうもね、ホモっ気があって最後は、どうも女性のほうではなく男性のほうを好きになったんじゃないかという説もあったりしてね。男性として不十分だったんじゃないかというような学者もおるようですけれども、そういうことはどうでもいいのであって、この物語のなかにいわゆる、「生命に至る門が挟い」という話があります。このことはある意味では当たっているのですね。
イエス様も宴(うたげ)にね、「神様の宴会に招かれる者は多いけれども、選ばれる者は少なし」と、いうようなことをいっています。事実ですね。
だから招かれる者、つまり高橋信次のたとえばこういう霊言集、霊示集が出てね、新聞に広告してます。本屋に積み上がっています。これは千円札一枚出しゃね、買えるんです。だから招かれているんです、みなさん。
千円札一枚ポケットから出して買えば、あなた永遠の神理がわかるのです。招かれとるんですけれども、選ばれる人は少なしでね、高橋信次の本を手に取って読む人は少ないのです。
こういうことでね、千円札一枚をなんに使うかというとね、まあろくなことに使いやしないのです。ちょっとパチンコやりゃあ、あなた千円札一枚なんか三分です。ものの三分で自動式パチンコなら消えちゃいますね。
喫茶店にはいったら、もうちょっと軽食たべてコーヒー飲んだら千円です。彼女とデート千円でできません。千円でデートしようとしたら、どっかのホテルのロビーで待ち合わせしてね、喫茶店で、コーヒー一杯飲んで帰るしかありません。これ以外できないです。映画見るには千五百円いるのです、最低。
こういう世界で招かれる人は多いけど、選ばれる人は少ないのです。こういうことでね、水遠の生命ということは、事実としてこの人間に本当は与えられておるのですね。
本当に永遠の生命を生きておるのだけれども、生きておるにもかかわらず、忘れておるのですね。すなわちこのことが、さっきいう「狭き門」の話なのですね。
10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない
本当はみんな、生命に至る門をくぐることができるんだけれど、この世的な荷物をいっぱいつくっちゃって、くぐれないのですね。「狭き門」のたとえってここからきているのです。
イエス様のいう金持ちが天国にはいれないって話といっしょでね。金持ちがはいれんわけではないんですよ。高橋信次が金儲けしたからといって天国にちゃんと来ていますから。
そうじゃないんですけれども、ようするにね、金持ちってなにかというと、象徴的にいえばリヤカーいっぱいにこの世的な荷物を積んでる人です。
どっか巨人軍の選手が十億円の豪邸を買ったり、あるいは貯金通帳がいっぱいあったりね。株券、有価証券、いっぱい持ってたり、山七つも持っていたりね、あるいは妾(めかけ)さんを五人も持ってたり、子供が十人いたりね。まあいろいろありますわね。
会社を五つも六つも持っておるとか。この世的にいっぱい持っておると。それをリヤカーに積んでくぐろうとすると、もう門が狭くてね、ひっかかって通らないのですよ。
ところがね、かわいそうな人間というのは、どうしてもその荷物を捨てることができないのです。荷物を捨てれば、体ひとつなら通れるのだけれども、荷物を捨てることができない。
それでしょうがないからまたリヤカー引いてね、大八車引いてあなたスゴスゴと坂をくだっていくんですよ。これがたいていの人間なんです。
このお荷物というのは実は執着なんですね。執着さえ断てば人間は生命に至る門をくぐれるのです。ところがそのお荷物、執着を断てないがためにくぐれないのですね。本当は簡単なんです。ところがそれができんのです。
11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ
昔こういうテレビ放送があったようですね。猿をつかまえるとする。南の国で猿をつかまえる方法というのがあってね。簡単なんだってね、猿つかまえるのは。
猿はかしこいらしいけど、猿知恵っていってね。ヤシの木かなんかにヒモをゆわえてくくっておいてね、その先に、ヒモの先にヤシの実、空っぽのヤシの実くくっておくんだって。そしてそのヤシの実をくり抜いて、手がはいるぐらいの穴をあけておくんだって。
このなかにね、お米だとかいれておくと、そうすると猿はその穴のなかに手をつっこむんだな。つっこむんだけれども、そのお米をしっかりにぎっちやってね、離さんわけだ。
そして人間がそれをつかまえにいくとどうするかっちゆうと、にぎったままでね、「キィー、キィー、キィ、キィ」言ってね、あばれまくっておるわけですよ。
離せば逃げられるんですよ。手を離せばはいったのだから抜けるんだけど、なかでにぎりこぶし作ってるんですね、ヤシの実のなかで。それであなたね、鎖につながれたとおもってね、ヒイヒイ言ってね、怒ってね、かけ回ったりして結局つかまっちゃうのですね。馬鹿なんですよ。
だけどこれが猿だからみなさん笑ってるだけでね、人間も一緒なんですよ。結局これなんです。
ヤシの実のなかにつっこんじゃって、なかの金銀財宝をにぎっちゃってるのです。で、手を離せば生命は救われるのだけれども、ダイヤモンドがあると思って、指輪があると思ってつかんどるもんだから、手が抜けないでつかまっちゃうんですね。まあ同じたとえです。こういうもんです。
12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ
ですから、みなさんね、逆に永遠の生命というのを得るためには、この世的なものを捨てなければいかんのですよ。
温泉で芸者をあげることはほどほどにして、自分は永遠の旅人であるということを思い出さにゃいかんのです。
温泉で芸者あげてね、もう、旅を満喫(まんきつ)しておると、自分が永遠の旅人であることを忘れてしまうんです。そういうことなんです。
あわれなヤシの実でつかまっちゃった猿のことを思い出しなさい。自分もそうじゃないかということをね。
この世的なものをつかんで、一番大事なものを捨てているんじゃないか。永遠の生命を捨てているのじゃないか。これをどうか忘れないで思い出してほしいんですね。
まあ今日は永遠の生命ということで、比喩(ひゆ)を使っていろんな話をしましたけれども、これが事実なんですよ。で一番大事なもんですよ。
みなさんね、馬鹿な猿みたいにならんで、この世的なものをつかむのやめてね、執着を断って、本当の神の生命、永遠の生命の世界へはいっていこうじゃありませんか。
この世的な執着を断ったからこそ高橋信次はいまあの世で成仏して、こうしてみなさんにメッセージ送れるのですよ。
私みたいにやっぱりあの世にきて霊言集ぐらい出しましょうよ、みなさん。どうですかね。
それが悟るっていうことじゃないですか。私はそう思いますよ。
ま、おもしろい話ばっかりしましたけれども、冗談はほどほどにしてね。ちゃんと悟ってくださいよ。これが私の願いです。