目次
1.苦難
2.教訓
3.知恵
4.光明
5.積極性
6.成功
1.苦難
天之御中主である。さて、本章では積極的人生の方法について話をしてゆきたいと思う。まず、苦難というものに関しての、私の考えを明らかにしてみたいと思う。多くの人は人生に苦難ありという。苦難あるがゆえに悩みが生じ、悩みあるがゆえに救いを求め、救いを求めるがゆえに神仏が必要となる。かくして、宗教が生まれる。このように考えられているのではないかと思う。
さて、実際に人生において、苦難というものがはたしてあるものかどうか、それを諸君は一体どのように考えるであろうか。私は人生における苦難というものは、それはその人の受け取る感じ方によって変わりうるものだと思う。本来苦難なるものはない。この地上の生活は、高貴なる魂が肉体に宿って生活しているのである。本来肉体というものもない。肉体というのは単なる乗り舟にしかすぎない。そうして、やがて数十年の人生を終えれば脱ぎ捨ててゆき、灰となるものにしかすぎない。
けれども、高貴なる魂がその肉体に宿ることによって、苦難とおぼしきものを感ずることがある。その苦難とおぼしきものはことごとく、この肉体に関係があるということを知らねばならない。たとえば病気でもそうである。病気というものも肉体を通じて現われるもの。精神的疲労というものも、ほとんどは肉体的疲労の限界に起因する。また、食べてゆく心配、収入の心配、これらもすべて肉体に原因があるといってもよかろうか。
したがって、肉体において苦難を生ずる客観的事象が現われることがあったとしても、霊において苦難はないということを、まず知らねばならん。霊は本来融通無碍(ゆうずうむげ)、自由自在な存在である。融通無碍、自由自在な霊の存在が一転して、そうした苦難や困難に縛られるがごとく見えるのは、一体なんであろうか。
それは肉体を己(おのれ)と思う誤解に端を発する考えではないのか。肉体を己自身だと思い、これ以外に己がない、と思うところにさまざまな挫折があり、蹉跌(さてつ)があるのではないのか。そうであるならば、この苦難というものに打ち克ってゆくためには、肉体的知覚ではなく、霊的知覚を高めてゆくしかない。肉体的苦難、あるいは肉体人間を介在として地上に生じうる諸苦難は、霊的自覚を高めることによって超越することができるのである。まずこのことを知りなさい。
2.教訓
さて、つぎに教訓について話したいと思う。地上において苦難は本来なく、それは肉体的感覚によって、苦難とおぼしきものが現わるるにしかすぎないという話をしたが、この苦難とおぼしきもののなかにも、汲(く)むべき教訓は数多くあることがある。これらの教訓を学ぶことによって、いっそうその人の人生が進歩発展してゆくことがある。苦難というのは、実は隠された導きであることが多いのだ。そうして、そうした苦難が、人生の途上において現われてきたということは、その人にとって、そういう魂の修行が残っているということを物語っているのである。
この魂の修行、仏教的にいうならばカルマの刈り取りといってもよいであろう。自らのいちばん大きなカルマとは、すべての人がまず対面せねばならんのである。すべての人が大きなカルマと対面し、そうして自ら自身の問題を解いてゆかねばならんのである。さすれば、ここに逆発想をすべき余地があることに気づく方もいるであろう。すなわち、自らが苦難と思い、困難と思うなかに、人生のヒントが眠っているということだ。あなたが今世において、一体何を学ばねばならんのかということを、雄弁にその苦難は語っているということだ。
かくして、このような見地からするならば、あらゆる苦難・困難は、教訓という意味合いをおびてくることになる。苦難・困難を教訓とするためには、そのなかにひそむ教え、そして自らを諌(いさ)める訓示、これを発見せねばならん。その苦難はあなた自身の何か足らざるところを教えているのだから、その足らざるところとは一体何であるかを発見せねばならないのだ。
こうして、あらゆる苦難から教訓を学ばんとせんとするとき、苦難はむしろ喜びとなる。楽しみとなる。自分にはもっと難しい問題がこないか、困難がふりかかってこないか、そういうものがきたならば全力で問題と取っ組んでみよう、全力でそれを解決してみよう、そう思った時、教訓を学びつつ大きくなってゆく自らの姿があるということに気づくに至るのだ。
もちろん教訓は、苦難のなかだけから得られるものではない。それは、順風のときにも、また、良い人間関係のなかからも、祝福されるなかからも、教訓というものは学んでゆかねばならん。けれども、苦難というこの苦い杯(さかずき)を、運命の発展という名の美酒に変えてゆくということこそ、魂にとって真の進化といえるのではないだろうか。真に魂が、そのことによって発展しつつあるということができるのではないだろうか。
3.知恵
さて、知恵について語っておきたいと思う。人生の諸苦難・諸困難から、さまざまな教訓を学んでそして得るもの、これを実は知恵という。この知恵の学び方には二通りある。
第一の学習方法は、この苦難・困難から教訓を学ぶがごとく、自ら自身の学習として知恵を身につけるというやり方がある。自らの体験を通し、いろいろなことに気づいてゆくという、そういう面での知恵だ。
もう一方の知恵がある。それはすでに先人が発見した知恵、これを借りるということだ。いただくということだ。学問の効用はすべてここにあるといってよい。一人の人間が数十年の人生において発見・発明できることは、そう数多くはない。しかしながら、一人の人間が数十人、数百人の先人たち、偉人たちから学びうることは、これは底知れぬ知恵であるといってよいであろう。
かくして、自分の頭脳のなかのみ、自分の心のなかのみに教訓を求めるのではなく、他人の生き方、他人の考え方のなかにも教訓を求め続けて生きるとき、他人の英知のなかに知恵を身につけてゆくとき、そこに無限の英知者とて自らが変身してゆく可能性があるのである。よって人びとよ、学問の効用ということを知れ。そして読書の効用ということを知れ。書物によって学ぶことによって、あなた方は一生かかって学びえないようなものを、学ぶことができるのである。
この私の神示集にしても同じだ。あなた方はおそらく一生をかけたとしても、この『運命の開拓』という名の神示集のなかに盛られている思想を、完全に体得することはできぬであろう。そのような思想が、わずか一冊の書物のなかに眠っているのである。このなかから、いかに多くの知恵を発見してゆき、それを自らのものとするか、これを考えねばならない。
さて、詳しくいうとするならば、知恵は学んだだけでは知恵とはならない。学んだだけで得られるものは知識である。この知識が知恵となるためには、実践ということが必要である。知ったたことを行ないに移し、そして確認をすることによって、自ら自身の血とし肉とする。ここに本当の知恵がでてくるのである。そしてこの知恵が神の心と一体となったときに、英知となるのである。
4.光明
さて、つぎに光明について語っておきたいと思う。光明は光、また明るいという字をつらねてある。光明とは一体何であるのか。それを感覚的に知っている人は、そう数少なくはあるまい。しかしながら、それを実感として知りえている人は、そう多くはないであろうと思う。
これは、人生の苦難を教訓に変え、教訓から知恵を学ばんとしている者に射(さ)してくる、神仏の心のことをいうのだ。人生の諸苦難・諸困難に教訓を学び、それを知恵とするときに、各人につきたる守護霊また指導霊、高級神霊たちが光を投げかけるようになってくるのである。この光はひじょうに巨大である。ひじょうに巨大な光であって、人間の力の限界をはるかに超えているといってもよいであろう。
そうした光明が誘(いざな)うところは、一体どこであるのか。一体どこに誘ってくれるのか。そう思う時に、ここにひとつの行方(ゆくえ)というものが、行く手というものが明らかになるのである。光明が我われを照らし、そして、知らせようとしている我われの行く手とは何であるかというと、それは人類の理想である。人類の理想であって、神の微笑む地である。そこへ行けと語っているのである。
さすれば私たちは、この光明の射す方向に進んでゆかねばならない。あらゆる困難のなかから教訓を学びとり、知恵を学びとり、そしてたくましく生きて行かんとする者には、必ず神の光明が行く手を照らすようになってくるのだ。さすれば、この光明のあとをついてゆけ。おのずから道が開けてくるであろう。開けつつある道をただまっしぐらに歩いて行け。明るく自らの未来が照らされたと思うならば、そこに神意がある。そこにあなたの歩んでゆくべき道筋があるのだ。その道をただひたすらに歩んでゆけ。強く、たくましく歩んで行け。
5.積極性
つぎに積極性という言葉にも触れておきたいと思う。本章の標題そのものが「積極的人生の方法」と題してあるが、まさしく積極性こそ、運命開拓の鍵であると思わねばならない。この積極性こそ、あらゆる茨(いばら)を切り裂き、そして運命の道筋をつくり、そしてつき進んでゆくものである。つき進んでゆく力である。
諸君は、あの運河というものを見たことがあるか。内陸をくり抜き、山をくり抜き、数十メートル、数百メートルの深い谷をつくって、そして、海から海へと船を渡そうとする、あの運河の姿を見たことがあるか。見よ、あれこそが運命開拓の方法。運命の開拓とは、運河を拓くことなり。自らの運を運ぶための河を通すことなり。そのためには障害物を削岩(さくがん)して、そしてつき進んでゆかねばならない。山もない、丘もない、陸もない。そんなものは目の前の単なる迷いにしかすぎない。それを掘削(くっさく)し、どこまでも突き技けてゆかんとする時に、運命の運河はついに水路を開くのだ。
諸君よ、このときの力こそ、まさしく積極性という名で呼ばれているものなのだ。積極性のなかには二つの要素があるといってよい。第一の要素は信念の力である。必ずよくなると信じ、そうした信念を把持(はじ)し続けること。この信念が、天を動かし地を驚かす力となってくる。この信念が人びとを動かすこととなってくる。
まず、信念を強くせよ。それは自分が神の心にかなうことを、今やっているのだという気持ちである。神の心にかなう事業を今やっているのだという確信である。この確信が持てねば信念は出てこない。この信念のもとに歩んでゆくということが、まず積極性の第一の要素だ。
積極性の第二の要素は一体何であるか。これはつねにチャンスというものを追い求めることだ。チャンスというものは、あるいは機会の女神というものは、前髪だけあって後ろ髪がないというではないか。それは通りぬけた時に、もうつかむことができないというではないか。さすれば常に身構え、目の前に現われたら、すかさず、その前髪をつかまないでどうするか。そうした気持ちが大事である。このときにいたずらに内向的になり、そしてジクジクと、自らをいじめるような生き方をしていては、運命のチャンスがきても、それは自らのかたわらを通りすぎてゆくだけにすぎない。まずそれを、チャンスを常にモノにせんという前向きの姿勢をとること。それが大事だ。前向きの姿勢をとるということ、それをまず、確実にしてゆかねばならない。以上が積極性ということに関して必要な要素であろう。
6.成功
さて、最後にあたって成功について語っておきたいと思う。成功とは一体何であるか。それは私は一言でいうならば、神が地上に降りたとして、成すがごとき仕事を成すということだと思う。我、肉体人間として生きるにあらず。神いま我に宿りて我が業(わざ)を成さしめるなり。我ただ実行せんのみ。そしてその成果は、すべて神の力によるのである。
ゆえに私は、まず成功を実現してゆくためには、自らの心が大きく豊かとなり、そうして、その自らの事業に関し、仕事に関してまわりの人びとを喜ばせることができ、まわりの人びとに愛を与えることができ、それゆえにまわりの人にも喜ばれるような生き方、こういう生き方をせねばならんと思う。この二つの要素をはずした成功などは単なる蜃気楼(しんきろう)にすぎない。夢にずぎない。私はそう思う。
以上で述べた苦難・教訓・知恵・光明・積極性・成功という六つの要因を常づね分析し、考えぬき、そして積極的人生を展開していって欲しいと思う。それは私があなたがたに特に望むところだ。あなたがたも、この道をまっしぐらに歩んでゆけ。そうして、成功を自らのものとして欲しい。今世をすばらしいものとして欲しい。そうして、めざましい働きをして、みごとに実在界に還って来てほしいと思う。