目次
(1986年11月2日の霊示)
1.「正見(しょうけん)」「正思(しょうご)」「正念(しょうねん)」「正命(しょうみょう)」は、すべて心の作用である
谷口雅春です。今日は第七日目ということで、「言葉の創化力」ということに関して、約四十五分間お話をしたいと思います。
釈迦は八正道ということで、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」「正しく仕事する」「正しく生活をする」「正しく精進(しょうじん)をする」「正しく念じる」「正しく定(じょう)に入る」ということを説いたわけである。しかし、正しく見る、正しく思う、正しく念じると言っても、この「正しい」ということが、なかなか分からない。通常の人間にとっては、正しく思ったり、願ったりするということ、心のなかの作用ということが、なかなか分からない。
また、正しく見るとは、結局どういうことか。「見る」という視覚作用というのは、瞼(まぶた)さえ開けておれば何でも目に入ってくるわけだ。これをある物は目に入れて、ある物は入れないと、こういうふうにすることは、人間は残念ながらできないのである。人体というものが、もう少し都合良くできているものであるならば、ある物は見て、見たくないものは見ない、そういうふうにできておっても良いわけだ。
まあ冗談の一つも言うとすれば、男性が道を歩いておって、好みの女性なら目に入ってくるけれども、好みじゃない女性なら目に写ってこないと、こういうふうな仕組があってもいいわけだけれども、まあ実際は、こうなっておらんわけです。
ですから、正しく見ると言っても、結局目から入ってきた光景、これをどういうふうにとらえるかという機能に落ち着くかと思う。そういう意味で言えば、「正しく見る」も「正しく思う」も「正しく念じる」も、これも一つの心の作用であります。決して三つに分かれたものということではなくて、一つの作用ということができるのではないかと思う。
八正道の他のところの「正しく生活する」と言う、「正命(しょうみょう)」ですね、生活すると見るか、これを正しく生命を全うすると見るか、その見方はいろいろあろうかと思う。正命、正しく生活するという考え方もあるけれども、これも正しい生活と言われても、なかなかピンとこない。朝から晩までの、どれが正しくて、どれが正しくないのか、これを見分けるのは、なかなか難しいことであります。
その正しさというのは、一体何で見て判断するのか。心に思ったことというなら、先程の正見(しょうけん)、「正しく見る」ということ、「正しく見る」ということとか、「思う」ということ、あるいは「念じる」ということと同じになってしまいますね。「正しく生活する」ということも同じだ。
「思い」以外では何かというと、あとは「行い」でしょう。「思い」じゃないものとして残るのは「行い」。しかし、一般的に「行い」と言っても、自分の一日の生活のうちの何を、どの行いが良くて悪いのかというのは、なかなか難しい。道徳律に照らして、はっきりと悪い行為というのもありましょう。ただこの悪い行為というのも、結局のところは、自分の悪い心の発現以外にはないわけてあります。
世の中には、過失というのがあって、たとえば過失から、車で人を轢(ひ)いてしまったというのがある。これは、「正しい思い」、「正しくない思い」という考えではなくて、行為自体が良くなかったというとらえ方もできるとは思うが。しかし、正しくない行為だけが独立してあるのかと、よくよく考えてみれば、そうしたものは実際は無いのです。過失によって、人を車ではねてしまうというようなことは、結局のところ、まあ、ぼんやりしておったということだ。ぼんやりしておったということにおいて過失があるというならば、やはりこれも思いに問題があったということですね。
あるいは、酒を飲んで運転して、人を轢いた。まあこれは過失というよりは、やはり心の作用であろうと思われます。あるいは、ちょっと後ろに気を取られて、前に小さな子供が歩いているのが見えなかった。こういうのも、やはり心の作用でありましょう。こういうふうに言ってみると、良くない行いということ、行為自体があるかというと、やはりこういうものは無いのであります。やはり思いの発現にしかすぎないと思う。
他に良くない行為というと、一体何がありましょうかね。たとえば、部屋のなかの物を壊(こわ)す。これは良くない行為でしょう。しかし、これは、壊そうという意志が働いている。すなわち、「正しくない思い」というのが、それに先だってあります。したがって、「思い」から離れた行いというものもない。
あるいは、他になんでしょうかね。工場なんかが排水を流している。こういうのを悪い行為ではないかと言うでしょうが、排水を流す、有毒なものが入っていることを知って流しているというのは、やはりこれは、思いに問題があるわけであります。
では、地震とかこういうものは、思いが関係ないから、こういうのは行為ではないかというけれども、地震、雷、こうしたものは、結局人為ではありませんから、そういう意味において、人間の修行の対象とはならないのであります。心を修行すれば地震が起きないとか、雷が落ちないとか、こういうわけには、なかなかまいらない。おおよそ人為、人間が関係することにおいて、心にその原因を発しないものはないのであります。
したがって、釈迦は八正道ということを言ったかもしれないが、正しく見るということが、景色が通ってくるときに眼にフィルターをかけて見るということができない以上、「正しく見る」ということも、やはり心の作用なのだ。「正しく思う」ということも心の作用。「正しく念じる」ことも心の作用。「正しく生活する」ということも結局、「思う」と「行い」というふうに分解するならば、また心の作用でありましょう。
2.「正定(しょうじょう)」「正精進(しょうしょうじん)」も心の状態が問題である
他に、「正しく定(じょう)に入るべし」というのがありますね。こういうのはどうだろうか。定に入るべしというのは、神想観(しんそうかん)でありましょう。あるいは、禅定(ぜんじょう)でありましょう。こういうことが、「正しく定に入るべし」という考えであろうと思う。
では、正しい定とは何か。まあ足の組み方とか、手の合わせ方とか、こういうこともありましょうが、これは本質的なことではないのですね。結跏趺坐(けっかふざ)というのができるか、できないかと言われても、これはその人の体格、体型にもよることであるし、あの足の組み方がなかなかできない人がおる。それでは正座をすればいいのかというと、正座も長い時間座っておれない人がおる。あぐらをかくのは不謹慎かといえば、まああまり見よいものではないけれども、それがそれほど、本質的なことかと言えば、そうではない。
また、神想観というものをやるときには、やはり手を前に合掌するのであるけれども、合掌の位置が普通の仏教徒たちの合掌よりは、かなり高い、つまり顔の前まで両手を合掌したまま上げてくる。そして手のひらのところに呼吸ができる程度の隙間をつくっている。こうしてアンテナをつくって、天上界の波動を受けるというようなことを、私は言っております。手の位置は高いでしょう。ただこの手の位置が、そこでなければいけないのかと言えば、必ずしもそうではない。合掌の姿というのは、要するに心の調和の姿であり、天上界の波動を受ける姿であるわけです。
そういうことで見れば、結局「正しく定に入るべし」と言っても、そういう作法とか、しきたりの問題ではないということです。結局、定に入っているときの心の状態ですね。この精神統一ということが、うまくなされているかどうかということに関ると思う。これが定に入るということであります。
他に八正道では、「正しく精進する」というのがありますね。正精進、正しく精進する。正しく精進するというのは、正しく道を極(きわ)めるということで、仏道修行の本道を歩めと、しっかりと行いを正しながら勉強しなさいということが、正しく精進しなさいということですね.こういうことであるわけですけども、この正しい精進というのも、結局のところ、正しい生活に、宗教家というイメージが重なっただけのことでありますね。通常の在家の人であるなら、「正しく生活する」ということで終わるのでありましょうが、まあ出家の人、あるいは、修行をしている人にとっては、「正しく精進する」ということになりましょう。
あるいは、在家であっても、心の磨き、魂の鍛え方ということを考えている人にとっては、正しい精進ということもありましょう。ただこれも、やはり心の思いであり、心を常に努力、向上の方面に向けているということであろうかと思います。
そうすると、あと残っておるものは何かといえば、「正しく語る」というのが残っておりますね。釈迦は、「正しく聴く」ということを言っておらんのですが、「正しく見る」を入れて、「正しく聴く」というのを入れないのも、またこれも問題でありましょうが、八正道の八という数字にこだわったのでありましょう。
「正しく見る」ということ、見るというのは、思いの方がほとんどであるから、本当で言うならば、「正しく見る」をはずして、「正しく思う」があれば、「正しく見る」はなくても、まあいいと言えばいいのですね。
3.正しく聴くことができないことが不幸の原因である
見るよりも、私たちにとってむしろ大事なことは、「正しく聴く」ということであります。人の言葉、これをどう受け取るかによって、人間の人生というのはずいぶん変わってくるんですね。なかには、人の言葉を、悪いことばかりを一生懸命聴いて回っておる人がおるわけです。こういう人の人生というものは、はっきり言えば、不幸な人生であります。
本当は他の人々が何気なく言っているにもかかわらず、その言葉に傷つくとか、自分の悪口を言っているように聞こえるとか、また、冗談を言っているにもかかわらず、それを悪口に取るとか、まあいろいろありますけれども、人が不幸になる原因は、たいてい耳から入ってくるものが多いといえましょう。
目から入ってくるものが原因となることは、まあ、そう多くはありません。目から入ってきて、たとえば、人が泥棒をしているところを見たからといって、それで心が悪くなるかといえば、まあそう悪くはならんのであります。泥棒しているところを発見したからといって、つまり、むしろ心を良くする方向ですね、そういう罪というものを発見したということによって、心を正す方向に動くわけであります。
目から見て悪い物といえば、最近では卑猥(ひわい)な雑誌などがずいぶん出ているようであるから、こうしたものは、確かに目の毒といえば目の毒かもしれない。それで起こる犯罪といえば、゛非行゛、こういうことはあるかもしれない。しかし、一般的な人々を迷わす、あるいは、不幸にしていくものでは、目から入ってくるものは、そう多くはないと、私は思う。
むしろ耳から入ってくるものの方に問題がありましょう。人が言うことを正しく聴くということは、難しいことだ。人の言葉というのはいろんな意味がある。また、本音でないこともずいぶんある。人間には本音と建前ということがあって、どうしても本音の部分を隠して、建前というのを言う。それを耳から通すときに、やはりどう判断するかによって随分と影響が出るわけだ。
では今、「正しく聴く」ということを言ったけれども、聴くという作用、これは受ける作用、受動作用であります。その反対は何かというと、能動作用。この積極的作用として、「正しく語る」ということがあるわけですね。「正しく語り」「正しく聴く」ということ、この二つが非常に大事なわけであります。
4.釈迦の八正道を再検討すれば、「正思(しょうし)」「正語(しょうご)」「正聴(しょうちょう)」である
谷口雅春流に、釈迦の八正道をもう一度分析して自分で考え直すとするならば、やはり基本は、「正しく思い」「正しく語り」「正しく聴く」、この三つであろうと思う。それ以外のことは、まあちょっと欲ばった理論でありましょう。
人間はやはり心を、自分の心というのをよく見ており、そして心の作用というのも結局、話す言葉、何を語るかということと、どのように受けとるか、人の言葉を、「正しく聴く」ということ、こういうことででき上がっておるのです。これがちょうど、まあピラミッドですね、三角形のようになっておって、「正しい心」と「正しく語る」ということと「正しく聴く」ということが、トライアングルを創っておるのです。
だから、八正道ということは、普通の人間にはなかなか難しいであろうし、「正しく見る」ということを心の作用と見れば、これを反省するということも問題であろう。すなわち、どう思ったかということの反省にしかすぎないと思う。この地上のものには善、悪、美醜あろう。美しいものを醜いと見た自分が悪かったということを反省する人がおるかもしれないけども、それも、目の作用ということではなくて、心の作用なのである。
したがって、現在の人間が特に修行をするとすれば、正しい心の探究ということが中心になろう。正しい心が分からない。なかなかそれが分からない。何か正しいかが分からないのであるならば、これの外部作用というのを、まず調整していくことから始まるのである。
5.いちばん大切な修行は、「正しく聴き」「正しく語る」ということの調整である
つまり、「正しく語り」「正しく聴く」ということをしっかりと見つめておれば、やがて正しい心という調和はできてくるのである。正しく受け取り、正しく発信するということができれば、その途中にある正しい心というのは、まず間違いない。
正しい心というふうに取り出して見るわけにはいかない。これは推定だけれども、正しい心の部分がブラックボックスのようになっておって、片方入り口、片方出口がある。入り口の方が「正しく聴く」ということ、出口が「正しく語る」ということ、そして、心の部分が、要するにブラックボックス、暗箱というのかな、これになっておるわけだ。この暗箱のなかというのは、なかなか見ることはできないけれども、入るものと、出るものを調整しておれば、そう悪いものはなかに入らないということは確かだと思う。
地獄などに堕ちている人間もおるけれども、地獄に堕ちている人の問題は何かというと、結局のところ、正しく受け取るということと、正しくそれを作用していくということ、「聴く」ということと、「語る」ということができなかった人であろう。したがって、人間の修行としていちばん大事なことは、「正しく聴き」「正しく語る」ということ。これをしっかりと調整していくことだと、私は思うのであります。
6.「正しく語る」ということが、人々の心を良くし、世界を良くするための出発点である
ただ、地上に生きているあなた方は、結局のところ、この地上を仏の国、仏国土としようとしておるのであるから、仏国土とするためには、まず原因の方を受けとめねばならぬであろう。言葉という、言葉を発するという原因があって、それを受け取る聴くという結果があるのだと思う。まあ、結果のところで作用することもあろうが、やはり原因のところを抑(おさ)えるということが、いちばんの勘所(かんどころ)であろうかと思う。
してみると、「正しく語る」ということが、人々の心を良くし、この世界を良くするための、やはり出発点ではないかと私は思う。そして、正しい心というものをなかなかとらえることができないけれども、自分が口から発する言葉というものは、人間は客観視ができるのではないか。心というものは客観視できなくとも、自分が発する言葉というものは、これは客観視ができると思うのだ。
相手というものがあり、相手に対して発する言葉というものは、これがどういうふうに判断されるべきものかということは、これは第三者の立場で人間は見ることができると思う。自分の心を第三者の立場では見えなくとも、自分が発した言葉は見ることができる。その言葉によって相手がどうなったかということは見ることができるということだ。その言葉が相手を良くしたか、悪くしたか、傷つけたか、喜ばしたか、それは分かるのだと思う。
したがって、とくに心の調整、あるいは、聴く人の側を不幸にしていかないためには、結局のところ正しく語るということ一つ、これをみんなが語りはじめると、正しく聴くということも、それほど必要ではなくなってくる。結局、語るということ、ここのなかに行いのこと、行いの本質と、思いの本質とが集約されていると思うのだ。であるから、正しく聴くということも努力目標であろうが、人間は正しく語るということの積極的作用のなかに、自分を積極的に変えていく。そのような努力が肝要だと思う。
7.人間の口は、魔法のランプである
では、「正しく語る」ということは、何か。それについて、私は、さらに話をしていきたい。言葉というものは、昔から日本でも、言魂(ことだま)というふうに言われている。すなわち、言葉のなかには、魂が宿っているということだ。その人間は、とくにその言葉に何かの意味を込めようと思わなくとも、言葉というものが発され、それが記(しる)されたら、それ自体で、独立した生命(いのち)を保っているということである。
人間が日頃、口から発している言葉というものは、無意識に語っておるのであろうが、実在界の私たちから見るならば、その言葉がどのような言葉であるかという、その性質は、口から出る瞬間に見れば分かるのである。
神理に則(のっと)った言葉というのは、黄金色に輝いている。それは非常に美しいものであり、とくに悟りを込めた言葉というもの、実相を悟った言葉というものは、実在界である私たちの世界まで届いてくる。そのような快き言葉を発している人がおれば、その言葉の生命、言葉の振動数というものは、我らが如来界にまで伝わってくるのである。
たとえば、地上界では様々な思想家とか、宗教家とかが講演をしたり、説法をしたりしている。そのときに、その人の説法の内容が真に悟ったものであるならば、その悟りの言葉は、私たちの世界まで伝わってくる。ところが、その悟りの言葉というものが、間違ったものであって、地獄の波動に満ちたものであるならば、そうした言葉は地獄の方へと通じて行ってしまう。つまり言葉は、この世限りではないということだ。天国へも、地獄へも通じていくものなのである。そうであるからこそ、また大事なんだとも言える。
まあ、生きている人間は、本当に言葉に対して鈍感すぎると思う。非常に鈍感だと思う。言葉というものを、もっともっと修練していかねばならぬのだ。
言葉というものは、たとえて言えば、魔法のランプだといえます。アラジンという人がいて、アラビアン・ナイトかなんかにあるであろう。「アラジンの魔法のランプ」といって、魔法のランプを擦(こす)れば、大きな大男、魔人というのか、そうしたものが出て来て、「御主人様、あなたの言うことは何でもお聴きします」ということで、何でも叶(かな)えてくれる。
こういうのがあるけれども、この魔法のランプそのものは、実際、空想上の産物ではなくて、人間の口、これ自体が一つの魔法のランプであり、この口の出口というのは、ランプの出口のようなものだと思う。この口から出す言葉によって、その人の人生というものがずいぶん変わっていくのである。
8.言葉は創造する力を持っている
私は、今日は言葉の創化力ということで、お話をしたいと言ったけれども、私が言いたいのは、言葉というものは、出てしまえば、それで生命を失ってしまうものではなく、創造する力というものを持っているということであります。たとえば、結婚した二人の間に子供ができ、その子供を駄目にしようと思えば簡単である。両親は、常々その子供に小言(こごと)を言い、「お前なんて、いいところは少しもない」と毎日、毎日口をすっぱくして言えば、間違いなく、その子供は、まともな子にはならないであろう。やがてぐれて、非行少年となっていって、社会的に犯罪者になっていくのは、目に見えている。
ところが両親が、自分の子供を、「あなたは、本当に素晴しい子であって、本当に可愛い子であって、神様の子であって、天才になる子だ」と、こういう言葉を、花びらの如く降り注がしていると、その子供というものは、だんだん悟ってゆくのである。そして、その言葉に勇気が湧いてくる。
言葉は言魂であって、勇気の言葉であって、それが胸に宿ってくるのだ。自分は、両親から大変期待されていると思う。そうすると、その期待に対して応えてゆきたいと思う。これが感謝であり、報恩(ほうおん)であろう。こういうふうにして、子供は本来の素質以上ものをだんだんに伸ばしていくようになるのだ。
世の中では、面従腹背(めんじゅうふくはい)といって、腹のなかでは、別のことを思っているけれども、言葉ではいいことだけを言う人がおる。これは仏教的に言えば、二枚舌の罪ということで、罪にはなるのだけれども、腹の中で悪いことを考えて、言葉も悪いものを出すよりは、これでもまだ少し進歩であるのだ。つまり、腹のなかで悪いことを考えてロに出すときに、それをいい言葉に変えようと思うだけでも、まだ少しそこに救いがあるからである。
もちろん、内部と外部の分裂ということ自体は、結局のところ、人格の分裂であり、それほど誉められたことでないことは確かであるが、少なくとも、良き言葉を発しようというなかには、相手に対して傷つけまいという気持ちがある。その点においては、私は進歩であろうと思う。
言葉は言魂である以上、たとえ本心が違っていたにしても、出す言葉が美しい言葉であれば、それが独自に一人歩きしていくことは、よくあることだ。
たとえば、両親から見れば、父親も、母親も平凡な人間であるならば、自分の子供から天才は生まれるわけはないと思う。事実そう思っておるのだ。父も平凡、母も平凡であるならば、子も平凡であろう。゛瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なすび)はならぬ゛、゛鳶(とび)は鷹(たか)を生まぬ゛、まあ、これが通常であろう。
しかしながら、それが本心であったとしても、「太郎よ、お前は天才だぞ」と、「お前は、きっと世の中で、立派に成長して、世の中の人々を救っていくような、そういう偉大な人物になるに違いない」ということを言い続けて、五年、十年、十五年経てば、その子は、天才になる可能性が非常に高いと私は思う。これが言葉の創化力なのだ。
言葉というものは、創造していく、それを変えていく力というものがある。だからこそ、良き言葉というものを常々出していく必要がある。両親が、本心はそう思っていなくとも、お前は天才だと言われ続けた子供は、悪い気はしないし、それに応えていこうとする。したがって、両親の本心とは切り離されて、その良き言葉自体が独自に生命を持って、その生命の種子が子供の心のなかに植えつけられるのである。
また良き言葉を常々出していると、だんだん心の方が、それにつれて変化してくるということもある。本当は平凡な子供であるにもかかわらず、「お前は優秀だ、優秀だ」といつも言っているうちに、両親の方も、だんだん自分の子供は優秀なんだと思い始めることがある。すなわち、言葉の力によって内部が変わっていくということもあるのだ。言葉は、他人を変えるだけではなくて、自分をも変えていく力を持っておる。
9.悪しき言葉を常々言っておると、言った通りになっていく
まあ、このことは、つまり、こういう真理を知らない人というのは、自分の子供たちが大変な才能を持っていても、えてしてその才能の芽を摘んでしまうのだ。
たとえば、何でもいいが、田舎の百姓なら、百姓をしているから、自分の子供を百姓にしたいと思う。ところが、百姓の子にしては、ずいぶん賢い子ができたわけである。学校の先生などは、ぜひ東京の大学に行かせて、高等教育を受ければ、この人は、大学者になるかもしれない、とおっしゃる。まあ、お金が無いわけではない。昔と違って、今の百姓は金を持っておる。しかし、両親が考えるに、大学へやってもいいが、そういうことをして小賢(こざか)しくなって知恵をつけて、親を見下すようになったら困る、と。そういうことで、絶対に行かしてやらないと。親がこんな百姓なんだから、子供の頭もしれたものだ、そんな大学者になるわけがない、と決めつけるということがある。しかし、そういう決めつけをいつも、いつも聞いていると、だんだん、子供の才能というものは腐っていく。まあ、ここが大事なところなのだ。
今、親子について話をしておるのだけれども、先生と生徒ということに関しても同じである。文部省はどういう規準で、先生を選んでおるのかは知らぬけれども、先生を選ぶ規準は学力だけではないと、私は思う。自らは、それほど知らなくても、人を教えるのが上手(うま)い人というのはおるのである。自らの知識の量によって、人を導けるかどうかというと、決してそうではないのだ。やはり相手の人間の機根(きこん)に合わせた法を説けるような人でなければ、真に良き教師とはなれない。良き教師というのは、相手の良きものを引き出そうとする力を持っておる。
ところが、相手の悪いところばかりを見出していこうとする教師がおると、子供たちというのはだんだん悪くなっていく。ほんのちょっとした悪戯(いたずら)でね、チョークで黒板に絵を描いたとか、ガラスにちょっと悪戯(いたずら)書きをしたというだけで、それをとらえて、一時間も、二時間も怒ってしまう。そして、こういう人間は、だんだん不良になって犯罪人になるんだということを、こんこんと一時間も、二時間も聞かしている。そういう教師から注意を受けた生徒というのは、だんだんぐれていく。
その注意が良ければいいけれども、ほんのちょっとした無邪気な気持ちでやっていることをとらえて、将来、泥棒になる、やくざになる、不良になるというようなことを針小棒大(しんしょうぼうだい)に吹き込んでおれば、間違いなく、だんだんとそうなってくるのである。
たとえば、親が、息子や娘のことを、適齢期の息子や娘の心配ばかりをして、つまり、悪い心配ばかりをしていると、またそういう悪い現象が起こるのに違いない。娘が二十二になった。そろそろ色気が出てきて、男性たちから電話が掛かってきたり、手紙がきておるようだ。そこで、だんだん心配になる。そこで、両親がそろって娘をつかまえては、いつも、「お前は同棲をするんじゃないか。お前はそのうち、駆け落ちをするんじゃないか。お前はそのうち、女性としての操(みさお)を失うんじゃないか」と、こういうことを常々言っておると、だんだんその通りになるわけである。
親たちは、要するに心配をして言っておるのだが、その心配の言葉自体が、言魂があって独立した生き物であるから、その悪しき種子が娘の心のなかに宿るのである。「そんなに私が信じられないなら、少しずつ信じられないような私になっていくわ」と、こういうことで、娘が悪くなっていく。親が心配するから余計、親の目を隠れて悪いことをしようとし始めるのである。
10.良いところを見つけて、それを伸ばしていく考え方こそが、本当に人々を生かしていく道である
ところが逆に、適齢期の娘を持っていたとしても、親の方が、「うちの娘は絶対心配ない。つきあっている彼がいい人であれば、必ず連れてくるであろう。そして親に見せてくれるであろう。うちの娘は、いい娘だから、決して親の眼鏡に適(かな)わぬような、変な男性はつかまえてこないに違いない」と、そう信じて、常々そう言っておれば、娘というものは、親の期待に応えるべく、そうした良い青年を捜し出してきて、必ず親に紹介するものだと思う。これが言葉の力なのだ。
世に心配性という人の種はつきません。世に心配性、苦労性、こういう人の種はつきなくて、悪いことばかりを想像している。
たとえば、宗教というものがあって、あなた方の動きも宗教かどうかは私は知らぬけれども、宗数的なものとするならば、宗教と聞いただけで、それが悪いものと決めつけてくる人がおります。新興宗教というものは、みんな悪い。絶対悪くて、人から金を巻き上げてホクホクすることばかりを考えている。と、こういうふうに考える人もいようと思う。
ただこういう考えというものは、やはり間違っておるのであって、宗教にももちろん、良い宗教も、悪い宗教もある。ところが、「悪い宗教だ、悪い宗教だ」と言われると、だんだんそうなってくるところもあるのだ。逆に、「いい宗教だ、いい宗教だ」と言われると、本当は悪い宗教であったとしても、その悪いところをあまり公けにできないがために、だんだん良くなっていくということもあろうと思う。私は、この点、非常に大事だと思う。何事も言葉には力があって、その言葉に多くの人たちは影響されるのだから。
したがって、人を指導するときには、とくに注意をしなければいけないと思う。宗教家たちもそうであって、弟子たちをとらえて、その悪いところを指摘して、それを直すことだけが本当は使命ではないのだ。そうではなくて、良いところを見つけて、それをさらに伸ばしてゆく。こういう考え方こそが、本当に人々を生かしてゆく道ではないかと私は考えるのであります。
一日のうちでいろんな出来事があろう。やはり真中から分けてみれば、いいことも悪いことも両方あるし、悪いことばかりが続くときもあれば、いいことばかりが続くときもある。ただこのときに、悪いことというのをとらえて、あまりそれを針小棒大に言わないことだと思う。
たとえ事実は事実としてあったとしても、それを言葉に出してしまえば、その言葉は他人の耳に入り、心に残る。そしてその言葉は、自分の出した言葉は自分の耳に入り、自分の心に入り、自らの魂に刻まれてゆくのである。悪いことがあったとしても、それについて言葉を発することなく目をつぶっておれば、やがて一日、二日たてば、そうしたものは気にならなくなってくるものだと思う。
要するに、こういうことだ。つまり、良いものは良いとはっきりと言うことだ。そして悪しきものは、その影響を受けないように、最大限に受けないようにするということだと思う。悪きことを常々言っていると、やはりそれが一つの力となっていくということである。
11.地獄霊は、生きている人たちの悪しき言魂(ことだま)、悪しき思いをエネルギーとして活躍している
地獄霊というものがあるけれども、地獄霊というものは結局のところ、神の光を今、受けられないでいるのだ。神の光というのは、あの世の霊たちの生命源であり、生命の糧であるのだけれども、地獄霊たちは、それを受けられないでいる。ではなぜ、彼らはエネルギーを得ることができるのか。彼らも活動している以上、何らかのエネルギーがあるはずだ。それは何かというと、結局生きている人たちの思いと、言葉の言魂なのだ。それも悪しき言魂、悪しき思いというものをエネルギーとして、彼らは活躍しておるのです。
疑心暗鬼(ぎしんあんき)という言葉がある。疑ってかかると、何でも悪く見えてくるということである。疑ってかかると、闇のなかに鬼が潜んでいるように見える。悪人ではないかと思って人を見始めると、みんな悪人に見えてくる。そういうところがあるのだ。
そして、ほんのつまらない闇を暗鬼、闇のなかの鬼と見てしまうように、悪い言葉、たとえば妬(ねた)みだとか、愚痴(ぐち)だとか、不平不満だとか、怒りだとか、嫉妬だとか、嫉(そね)みとかね、こうした悪い言葉というものを発することによって、その悪いものというのが、この地上界にある程度の力を持ってくる。そして、要するにその力を吸収して、地獄霊たちがエネルギーと化して活動しておるのである。したがって、地獄などというものは、本来実在のものではないけれども、この地上の人間たちから出てくる想念波、あるいは、言葉の力を受けとって、それをエネルギーとして仮に生きておるのです。
そういう意味で、本来あるべきでない地獄を無くしてしまうためには、生きている人たちは、悪い想いをまず抱かないことである。悪い想いを抱かないようにするためには、まず悪い言葉を出さないように、しっかりと調整することだと思う。
12.悪というものは、認めることによって実在らしき形をとってしまう
私は生きていたときに、光一元ということで、本来闇なし、本来病なし、本来悪なし、本来地獄なし、悪魔なしと、こういうことを言ってきた。
これは言葉の創化力というものを十二分に考えた上のことなのである。地獄がある、あると思うと、だんだん地獄が肥大化して、みんな死ねば地獄に行くように思う。悪霊がある、悪霊があると、悪霊、悪霊といっていると、本当に悪霊に憑かれてきて、悪霊に支配されるようになる。自分が病気をしたということで、病気、病気ということを、いつも、いつも言っていると、だんだんに病気が重くなっていくのだ。
たとえば、癌(がん)だ、癌だと言われているうちに、本当の癌になってくる。本当に癌になったらなったで、今度は、これが転移するのではないかと、いつも思っていると、だんだん転移してくる。思った通りになってくるのだ。こういうものはまだ、こうした人たちはまだ、心の法則を知らない人たちということである。
良きことは広げることであり、悪きことは、狭めるのが正しい道なのだ。悪というものは、認めるという想念行為によって、それは実在らしき形を取ることができるということだ。したがって、認めないということが一番であり、そうしたものを一切無視して、良いもののほうを見ていくということなのだ。
地獄霊というのは、おることはおるのだけれども、互いに相手を見ては、相手の悪いところばかりを捜している人たちが行っているところなのだ。したがって、生きている人間であっても、他人を見ては悪口を言い、人を見たら泥棒と思えというような人たちというのは、生きながらにして地獄を生きている人たちだといえる。相手というものを本当に信頼し、本当に良きものを見ていこうとしなければ、本当の天国というものはできない。
宗教的なる道に入って、魂そのものは、高い魂であるにもかかわらずなぜか不幸な人が多い。であるから私は、とくに宗教的な道に入っている人たちに言いたい。なぜかいろいろと災難が起きたり、なぜかいろいろと事業に失敗したり、なぜかいろいろと常に悩みがつきなかったり。あるいは、子供がぐれたり、妻が出て行ったり。あるいはまた、一家が傾いたり。そうしたことが多いと思う。優れた宗教的な魂であるにもかかわらず、そうした現象が起きてくる。なぜか。これは、心のなかに悪というものをつかんでしまっているからだ。すなわち、人生の悪というのを見つめすぎているのである。
たとえば、妻というものは、そのうち不貞を働くのではないか。そのうち、浮気をするのではないか。と、いつもそういうことを思い、いつもそういうことを言っていると、だんだん、本当にそういう妻になってくる。今日はちょっと、おめかしをしているから浮気をしたのではないかと、心にフッと思う。
そして、「お前、浮気をしたんだろう。」と、夫が詰め寄る。しかし、妻には身に覚えがない。「あなた、なんで、そんなことを言えるのですか、私は、そういうことはしません」と言う。ところが、その言い方が真剣であれば真剣であるほど、夫というものは、また疑心暗鬼になって、こんなに真剣に言い開くということは、まさしく何か悪いことをしているに違いないと考える。
そこで、「さあ、はっきりと白状しろ、何をしたか言え」と、こういうことで詰め寄ってくる。「私は何もしていません」と妻の方は必死になって抵抗してくる。「嘘を言え」ということで、ハンドバッグか何かを夫の方が取り出してきて、そのなかの手帳を開ける。手帳を開けてみると、電話番号のなかに、男性の電話番号がいくらか書いてある。これは本当は、お稽古事のお師匠さんの名前であったり、先生であったり、そういう名前であるんだけれども、男の名前を見つけると、御主人は怒って、「それを見ろ、ちゃんと電話番号が書いてあるではないか。片端からその電話番号に電話をかけてやろう。そうすれば、必ずお前の悪業というものは全部ばれるんだ」と、こういうことになってくる。そして、夫婦のつかみ合いの喧嘩(けんか)になってくる。
結局のところ何かというと、本来心のなかに、フッと、そういう悪い想念がよぎったということが問題なのだ。そして次には、それを口に出したということが、二番目の問題となる。本来穏やかな夫婦であったものが、そうして地獄に転落していく。これも言葉というものを知らないからなのであります。
13.悪いことは最小限に見るようにし、良いものは大きく見ていこうとする努力が、人生を光明化していく
自分の妻がもし、そういう傾向があるとすれば、逆を言わねばならん。つまり、「私は、お前を信じているよ。お前を信じて家庭を任しておくよ。お前は決して自分を裏切るような人ではないと私は信じている」と。こういうことを、常々言うのだ。そうすれば、妻は絶対に浮気をしなくなると思う。仮に今しているとしても、しなくなる。ところが、してもいないのに、しそうなことを言うと、逆になる。これが言葉の創化力です。
人間というものは、良いものだと認めてやれば、良くなってくる 悪しきものと見れば、悪しくなってくるものなのだ。これを忘れてはならん。だから悪いことは、できるだけ最小限に見るようにし、良いものは、できるだけ大きく見ていこうとする努力。これが、人生を光明化していく秘訣なのである。
したがって、悪しき言葉は努力して出さないようにすること。そして良き言葉を出していくこと。その言葉が、やがてあなた方の幸せをもたらし、あなた方の繁栄をもたらし、あなた方を幸福にしていくであろう。言葉の創化力を使って、幸福というものを創り出していく。そこに本当の人間の修行があり、やはりそこに人間の魂があるのではないだろうか、と私はそう思う。以上でもって、今日の私の講演は終わらせていただこうと思う。