目次
1.新しき潮流
2.新文明の息吹
3.宗教改革の時代
4.根本の精神
5.未来史の展望
6.我が再誕の予言
(一九八七年十一月十六日の霊示)
1.新しき潮流
さて、私(わたくし)は、今後の時代を取り巻く環境、および、その中を流れていくであろう精神について、話をしていきたいと思う。
まず、この霊示を送っている現在、今、現時点に立って、これからの世界を眺めてみると、いくつかの潮流というものが目に見えてくる。その潮流とは何かということを、明らかにしていきたいと思う。
まず、最初の大きな潮流としては、唯物(ゆいぶつ)主義の流れ、ここ一世紀、あるいは二世紀の間に現われてきていた唯物主義の流れというのが、今、袋小路(ふくろこうじ)の中へ入っていこうとしておるということです。すなわち、この流れは大きな潮流をなすことができなくて、湾内をグルグルと回り始めているということです。それは、唯物主義というイデオロギー理論が、行き詰まっているというのみでなく、科学の中においても、唯物主義の科学というものが、行き詰まっているということである。すなわち、今後の大きな潮流とになり得ない、この唯物主義のイデオロギーが、一つの逆流現象であったということが、今後、だんだんに明らかとなっていくであろう。そのように私は思います。
そして、これに代わって新たに流れていくものは一体何かというと、これが、霊的世界観の流れであるうと思う。今後は、あなた方が意図しようがしまいが、気づこうが気づくまいが、さまざまな角度で、さまざまな方面から、霊的な文明を創っていくための大きな流れというのが起こってくる。潮の流れというものがいろんな面から入ってくるであろう。
それは、一つの宗教的な面だけではない。哲学的な面からも、経済学的な面からも、政治的な面からも、あるいは他の芸術面からも、文化面からも、医学面からも、科学面からも、この霊的な側面というものが、明らかになっていくであろうと思う。
たとえば、現代医学というものは、主として西洋医学を中心に成り立っているが、この西洋医学の基礎にあるものは、人間を物質としてとらえている、そうしたものであって、人間の本体である霊というものを無視した理論となっている。しかし、これからは、霊肉のこの両者が、研究の対象となっていくのが以後、医学の進んでゆく道である。
さすれば、この道は、宗教の世界とも通じるものがあり、宗教でもあり、医学でもあるというような方向へとなっていくであろう。また、それは、新たな教育の流れの中にも流れてくるであろう。教育の流れの中にも、霊的なるものを目覚めさせるものが出てくるであろう。また、それのみでなく、哲学の流れの中においてもそうだ。知的に物事が語られておったものが、今後は霊的実証論と相まって、さまざまなことが説かれていくようになるであろう。また、政治の中においてもそうである。霊的なる価値というものが、認められるような流れが出てくるであろう。経済の中においても然(しか)り。霊的な価値を内に含まない経済理論は、やがて衰退していくであろう。
こういうふうに、すべてのものの流れの中に、霊的なるものの値打、霊的なるものの存在というちのを認める、そうした大きな潮流というのが、今、二十世紀の末に端を発して、今後、五世紀、十世紀と、うねりを起こしていくだろうと思う。
こうした新しき潮流には、もう一つの特徴がある。その特徴とは一体何であるかというと、結局のところ、一つの世界観を打ち出すことになるという側面があるということだ。かつて、ケプラーとか、ガリレオとかの時に、地動説(ちどうせつ)というのが唱えられて、新たな世界観が呈示(ていじ)されたことがある。それとまったく同じことが、もっと大きな規模において、起きていくのである。
すなわち、この三次元というのがすべてではなくて、この世界以外の世界がある。地球や月や太陽を超えた世界があるということが、はっきりとわかるようになってくるということだ。四次元以降の世界があり、その世界こそが、我らが本当の世界と呼んでいる世界だということが、やがてはっきりとしてくる。
こうした新たな世界観を呈示する過程においては、さまざまな衝撃や、さまざまな疑問、疑惑、そうしたものが出てくるであろうけれども、やがて地動説が確立していったように、こうした世界観というのがはっきりとした形で、打ち出されていくであろう。
そして、その世界観は、かつて、オカルトの世界において摩訶(まか)不思議なものとして語られていたようなものではなく、もっと明瞭に、もっと白日(はつじつ)のもとに、晒されるようになってくるであろう。そうした、明瞭な世界観の呈示というものがなされていくであろう。これも新たな潮流である。こういうふうに言えると思う。
いま一つの潮流とは何かというと、これは、人生の目的というものに対する再考というものが、始まるということである。人生の目的に対する再考とは一体何であるかというと、それは、今までは、たとえば、金銭が目的であるとか、社会的な成功が目的であるとか、こうしたものを目的として人びとが営んでおった生活が、これからはまた、別な面から再検討されるようになる。そうしたものではなくて、人と人との触れ合い、家族、親子、兄弟、あるいは友人、こうした者とどれだけ多くの豊かな触れ合いをもちながら生きていくことが、豊かな人生と言い得るか。こうしたことが研究の対象となってくるであろう。課題の対象となってくるであろう。
したがって、人びとの求めるものは、決して収入や地位ではなくて、より愛に溢れた人生ということになるであろう。やがて、いくら収入が多くとも、いくら肩書きがよくとも、愛のない人生を生きたならば、それは、何の意味もないと言われるようになってくるであろう。愛ある人生を生きる、心の中に潤いのある人生を生きるということの価値が、再認識されてゆくようになっていくに違いない。
そうした時代こそが、私たちの期待しているものでもあり、また、その期待のごとく、やがて展開されていくであろう世界観でもある。こういうことが、言えるのではないであろうか。
2.新文明の息吹
さて、そうした潮流の流れの中で、新しい文明の息吹、新文明の息吹というのは、どのように起きてくるであろうか。それについて語ってみたいと思う。
新文明の息吹は、一つは、心の中における改革から始まってゆくであろう。心の内なる改革、人間の中にある改革、心の可能性に対する百八十度の転換、価値転換ということが、その出発点となるであろう。
すなわち、今まで心の中の領域というものは、無造作に、野放しになり続けてきたということだ。 人間は行動の面に関しては、さまざまな規制を受けたり、さまざまな批評を受けたりして、生きてきたけれども、心の用い方と、心の中の有り様に関しては、ずいぶん長い間、その人個人の自由に任されていた領域がある。
しかし、これからはそうした時代ではない。その心の中身こそが広大無辺な世界であって、そして開拓の可能性のある世界であるということが、言えるようになってくるであろうと思う。心の中の可能性、そして、その心の開拓、ニュー・フロンティアの発掘、こうしたことが、今後の大きな課題となる。すなわち、人間は、自分の心の中にどれだけの世界を発見できたか、そして、心の中に発見した世界に、一体どれだけのものを創り得たか、その中にどれだけの種を蒔き得たか、こうしたことを学ぶようになってくるのである。
生きている人間が、耕(たがや)せる畑は少ないかもしれない。しかし、心の中の畑は、広大無辺である。この広大無辺な心という、肥沃(ひよく)なる土地をいかに耕すか。いかに耕して、それにいかなる種を蒔(ま)くか。いかなる種を蒔いて、いかに育てるか。いかに育てて、それをどのように刈り入れるか。こうしたことが、根本の問題となってくる。
したがって、新文明の有り様は、心の開拓ということをなくしては、決してあリ得ないということだ。心の世界の開拓、それをいかに肥沃にし、豊かにし、実り多いものにするか、これが、新しい文明の息吹(いぶき)そのものであるということを知らねばならん。したがって、文明改革の先頭に立つものは、まず、心の問題というものを前面に掲げねばならん。心とは何なのか、その可能性とはどれだけのものなのか。
現在では、精神医学者であるとか、そうしたごく少数の人にしか、心の問題というのは取り扱われていないと思う。あるいは、文学のテーマの一つにしか過ぎないかもしれぬ。しかしながら、心の中にはすべてがある。
心の中には、あらゆる人間的感情や、あらゆる精神の有り様や、また、心の奥底にはすべての世界観、すべての世界の実像、四次元以降の世界、九次元、十次元までの世界まで通じるものがあるのである、ここに、新たな発見がある。
よって、二十一世紀以降の文明を予見するとするならば、心の時代ということが明らかに言える。それは、単なる触れ合いであるとか、フィーリングであるとか、そうしたことではない。本格的に心というものを開拓する時代が来るということだ。
新文明の息吹(いぶき)の第二は、やはり、科学の一層の進展ということに、触れざるを得ないであろうと思う。 二十一世紀の科学は、まだ、今後発達する科学の全貌からみるならば、二割、三割程度にしか達していないと言えるであろう。
これからは、もっと、もっと進歩する。そして、科学の進歩する領域というのは一体どのようなものかというと、あなた方が心の中に、こういうふうになれば、使利になると思うようなことが、すべて実現していくような世界となるであろうと思う。
たとえば、あなた方は、鳥や蝶(ちょう)を見ておって、自由に空を飛べたらいいなと思うであろう。そういう思いが、現在のたとえば飛行機を生み出したであろう。しかし、飛行機に乗るということは、空港までの所要時間を要し、非常な困難を伴うものである。しかし、人間には空を自由に飛びたいという気持がある。この、自由に空を飛びたいという気持は、やがて、かなえられるようになるのである。それぞれの人間が、特殊な装置によって、自由自在に空を飛べるようになっていくであろう。それはおそらく、ベルトに取り付けられた、重力制御装置によって、そうしたことが可能になっていくであろう。そうした世界が、やがて開けてくるであろう。
また、通信網はさらに発達をし、海外にいる者と、国内にいる者とは、ごく隣近所として話ができるような形になっていくであろう。日本という国を取り出してみるならば、日本の国の端(はし)から端まで行くのに、ごくごく短時間で動けるようになるであろう。十五分もあれば北海道から九州に動けるように、やがてなってくるであろう。また、海の中からさまざまな幸というものを取り出すことができるようになってくるであろう。ロボットというものも大量に出現し、人間の代替(だいたい)的な作業を請(う)け負(お)っていくようになるであろう。そうした科学の時代が、やがて訪れるようになるであろう。
そして、宇宙空間への飛行ということも、やがて日常茶飯事(さはんじ)となってくるであろう。人びとの関心は、心の内なる宇宙と、さらに、この三次元の宇宙と、二つの宇宙に向っていくようになるのである。
また、これからの時代には、他の惑星の人間たち、生物たち、こうしたものとの交渉というのが非常に煩瑣(はんさ)になってくるであろう。そうして、地上の人間は、自分たちが気がついていないような、新たなそうした価値観というものを見い出していくであろう。今まで考えられなかったような、人間の生き方というものを発見するようになるであろう。
また、自分たちとは違った行動様式があるものと接することによって、第三者の立場から見た、自分たちのあり方というものが、わかるであろう。やがて、そうした宇宙人との交流を通じて、地上に戦争ということのもたらす悲惨さと、その無意味さということを地上人類の人たちは、悟っていくようになるであろう。
こうして、新たな人びととの接触というのが始まることによって、地球人の感覚というものが、トータルで見直される時が来るようになるであろう。そしてその時は、人類が一つにまとまっていく時であろうと思う。今、世界各国がさまざまに分かれて、いろんな主義主張のもとに生きているけれども、やがてこれが一つのものとまとまり、日本の国内がさまざまな県として、自治権を与えられているように、世界連邦となって、その中で仲よく住むようになっていくであろう。 やがて、そういう時代が来るであろう。それを私は、つい目の前に追っている世界のように感ずるのである。
このような、人類が一つ、地球が一つとなって、他の惑星の人びととも交流するような時代というのは、そう遠い将来のことではない。ほんの、ここ百年、二百年の内に起きてくることとなるであろう。
3.宗教改革の時代
さて、このような文明、新文明のあり方というものを考えるときに、その前提として考えておかねばならないことがある。それが何かというと、宗教改革ということです。新しき心の時代と、新しき全人類的なまとまりというものを持ち来たらすための、その前提条件として不可欠であることが、宗教改革ということである。
この宗教改革は、内部において、二段の構造を持つものとなる。第一段階の構造は、宗教を認める者と認めない者との間に起きるものである。すなわち、現時点においては、宗教的なるものを認めない者の方が多数を占めているようにみえるけれども、宗教を認める者、信じる者が、信じない者を制圧し、やがて、多数派を取る時代が来るということだ。
現在の日本で、何割の人が神を信じているであろうか。三割であろうか、四割であろうか、五割であろうか。それは定(さだ)かではない。現代の日本人の内の一体何割が霊を信じているであろうか。二割であろうか。三割であろうか。少なくとも五割は超えていないはずだ。しかし、やがて、そうしたものを、神や霊を信じる人たちが、大多数を形成する時代が来る。八割、九割の人たちが信じるような世界が来る。それが、宗教の内と外を分ける大きな最初の変動の要素となってくるであろう。
第二段階目のその変動の要素は、宗数内部における大改革ということになるであろう。宗教内部の大改革とは一体何であるか。今まで、さまざまな宗教が並び立っておる。並び立って競争している。どの宗教も、我こそは正しいと言って競争しているけれども、この宗教の中において、一つの統一ある原理が、見い出されるようになってくるであろう。
政党にも多数派の見解があるがごとく、学説にも多数説があるがごとく、やがてこの宗教の世界においても、多数説というのが通用するようになってくるであろう。その共通の基盤というのができてくるであろう。コモンセンスというのができてくるであろう。やがて、そういう時代が来る。そして、その多数の理論、大部分が認めるような理論というのが、基礎がしっかりしたものとして、固まっていくようになるであろう。
こうして、内部の改革というのが行なわれてくる。すなわち、それぞれの人間が得手勝手(えてかって)にやっておった宗教というものが、一つの統一の原理のもとに、一つの大きな黄金の原理のもとに、まとまりを創っていくということである。
まあ、これは当然のことであって、宗教以外の世界においては当然の世界である。経済の原理というものが、たとえば、ある会社にだけ作用して、他の会社には作用しないということはあり得ない。経済原理というものは、Aの会社にもBの会社にも、Cの会社にも共通に働いている。ところが宗教の原理だけが、Aの団体には通用しても、Bには通用しない。そうしたことが、まかリ通っておる。こうしたことは、やがて許されなくなってくるのである。そして、はっきりとした方針、はっきりとした基礎部分、こうしたものができるのである。これが、宗教改革の第二段階目である。
この、認めない者から認める者が増えていく時代、そして、認める者の中で内部改革が起こって、そしてその中の多数の見解、最大多数の見解というのが統一されてゆく、こうしたことである。
したがって、あなた方を今後待っている仕事も、この二つの焦点(しょうてん)をもっている、と言うことができるであろう。一つは、無神諭者たち、あるいは、霊的実相の世界を信じない者たちを信じさせるがための行動、活動、仕事ということが大切となる。もう一つは、神を認め、霊を認める者たちの異なる見解というものを、統一していくための原理を創ってゆく必要があるということだ。このニつが、あなた方にとって、大切な行動原理となっていくであろう。
すなわち、まず、霊的な世界観を広めるという必要がある。そのためには、一体どうしたらいいのであろうか。やはり、あの世の世界が現にあるということの証明というものが、必要となってくるであろう。そのための証明とは一体何であるか。私は今、このような形で地上に、かつてなかったような霊示を送っているわけであるけれども、こうした霊示集を世に問うということも、大きな証明であると思う。
こうした証明はかつてなされたことがない。そして、我らが直接語り、その語った言葉が、数万、数十万の人びとに読まれるというのは、一つの大きな奇跡であるうと思う。こうした霊的現象の奇跡が、現に起きる以上、これを続々と続けていくということが、何にもまして大切なことであろう思う。
私(わたくし)の霊集というものも、一集、二集に止(とど)まらず、五集、十集と出していき、人びとにやがて読まれていくような、そうした世界となってよい。そうした者が、数多く、霊言、霊示集を出していくことが、あの世の世界の実証になるであろうと思う。こうしたことにおいて、仕事において、限りはないと思う。あくまでも限りはない。どんどん、どんどんと積み重ねていくということが大事であろうと思う。
さすれば、常識の枠(わく)を打ち破らねばならん。一年に一冊の書物を出せばよいのではない。何十冊も、何百冊も、続々と本を出し続け、日本全国の人びとが、それを読むところまでいかねばならん。いや、日本だけではない。海外の人びとまでもが、それを読むようにならねばならん。そうした大きな時代的な雰囲気(ふんいき)、ブームというものを創ってゆかねばならん。そのための作業をし続けねばならん。そうしたことが、限りなく大切なことのように私は思われる。そういうことで、霊的実証というのを積み重ねていく、この必要がある。これが、一般人に対する行動原理であろうと思う。
もう一つの宗教人に対する行動原理、これもまた、大切なものであろうと思う。それは、多くの教えの中にある、共通なるものをまず見いだしていくという努力である。これが何にもまして大事だ。それぞれのものが、それぞれに言い合っておるだけではなくて、その中に流れている共通のものは何か。一本の黄金の糸とは一体何であるのか。これを取り出し、これを見つけ出していくということが、大事ではないのか。
第二は、そうした共通のものに反するもの、反する教えの有り様、これが、存在が許されるものか、改変を余儀(よぎ)なくされるものか、こうしたものの検討が必要であろう。
また、もう一つは、神理の教えの中の高低ということ、教えの高い低いということが、明らかにされていく必要があるであろう。それは、たとえば、学問において、小学校の学問があるように、中学校の学問があるように、そして高校や大学の学問があるように、神理の領域においても、その程度の差があるべきである。どのような教えが初級レベルの神理であるのか。どのような教えが中級レベルの神理であるのか。どのような教えが上級レベルの神理であるのか。こうしたことが、大事となってくる。
この、教えの上下を明らかにするという作業が大事これがなければ、一般の人びとも学んでいく方法がない。学んでいくすべがないのである。どれが入門であり、どれが終了であるのか。どれが初級であり、ど鉄が上級であるのか。こうした神理の多層化、多重化というものに対する検討というものがなければ、そうしたことは、非常に入りにくいものとなってくるのである。
今の宗教を見ていると、それぞれのものが割拠(かっきょ)しておって、それぞれに自分のものを最高のものだと言っているだけであって、本当の真理のレベルとしてどのようなものであるか、ということの差異が明らかになっていない。これを明らかにしていく作業が、必要だううと思う。
今、現代の社会を見ても、経済世界においては、会社にも一流会社と二流会社があるであろう。あるいは三流会社というのがあるであろう。それは、いろんなもので決まっていくであろう。その内部の人材で決まることもあれば、その会社の陣容の大きさ、規模の大きさで決まることもあれば、会社の売り上げ高で決まることもあり、会社の収益で決まることもあるであろう。しかしながら、何らかの規準でもって、その中に、よい会社とそうでない会社を分ける規準があるはずである。
同じように、神理の団体においても、そうした物事の考え方が、通用する時代がこれから来るであろうと思う。非常に優(すぐ)れた団体、まずまず優れた団体、まずまずの団体、あるいは見劣(みおと)りのする団体、はるかに見劣リのする団体、こうしたものが明瞭に、くっきりと、浮き出されていく時代が来るであろう。また、そうでなければならない。このように私は考える。これが、来たるべき宗教改革の時代のあり方であるうと思う。
4.根本の精神
新しき潮流、新文明の息吹(いぶき)、宗教改革の時代と、これからの新時代についての話をいろいろとしてきたけれども、ここで、根本の精神ということに立脚して、話をしていきたい。
我われは今、霊天上界にあって、今後来たるべき時代をどういうように創っていくかということに関して、日夜、話をしており、日夜、具体的実践活動に取り組んでいる者である。その我らが、話をし合って、取り決めている考え方というのがある。精神というのがある 今後の時代は、こうした精神でもって運営していこうという考えがある。その精神とは何かというと、三つの柱で創られていると言えよう。
根本の精神の第一は、人間神の子の思想の普及ということである。まず我われは、これを全面に押し出すこととした。これからの時代には、人間神の子という思想を全面に押し出していく。これに納得をしてもらう。こういうことが、大事であるうと思う。
第二の桂としては、愛というちのを再興(さいこう)することである。再興とは、再(ふたた)び興(おこ)すということだ。これから、愛の時代というものをもう一度創っていく。これが、大事な課題と言えよう。愛の時代とは何か。愛とは何か。それは、愛とは人と人を結びつける力である。 人と人とを結びつけて育(はぐく)んでいく力である。すなわち、お互いに手を取り合うことによって、その力を、その値打(ねうち)を二倍、三倍にしていくことである。これが愛である。
こうした、愛の再興、これを根本の精神として据えた。愛の時代をもう一度創り出す。これが愛の社会であり、これが愛の世界であり、これが愛の歴史であるということを明瞭に打ち出せるような、そうした時代を創ってゆく。これが、私たちの基本の精神である。
根本の精神の第三番目は、これは、経済原理の再構築ということだ。今後、経済の問題は、さらに深まり、さらに多様な方向性というものを見い出してゆくであろうが、この中において、一本の値打、価値というものが、貫(つらぬ)いていく時代が来る。この経済原理の再認識、新たなる経済理論とは、すなわち、それは経済理論の中には、この世的なる結果の理論というものが、封じ込められていると思う。経済の理論は、結局のところ、この世的なる繁栄の理論であり、いかにこの世的に発展、繁栄していくかということが、理論的に説明されているものであろうと思う。その、この世的に繁栄、発展していく理論が、その中に、神理というものを織(お)り込んでいく時代、これが予定されているのである。
つまり、神理経済学の時代というものの到来、神の経済学というものの到来、そうした経済世界の到来、これが新たなる精神として考えられているということだ。
以上の三つの精神は、その基本において、全く同しものを意味しているかもしれない。すなわち、人間神の子の思想、愛の復権、そして経済の中の神理の確立。こうした問題、この三本柱、人間が神の子であり、そして愛の復権こそが大事であり、そして、経済の中に神理が見い出されていき、ますます社会が発展する中に、人類の発展もあるという、そういう世界観、これが求められているのである。この三つが、これから少なくとも、数百年後をリードしていく、時代精神となっていくであろう。
その時代精神に奉仕(ほうし)するために、さまざまに人の活躍というのがあるであろう。その活躍は、一つには宗教家の活躍であり、二つには経済人たちの活躍であり、三つには教育家たちの活躍であろう。宗教家と、経済人と、そして教育者、この三者が力を合わせて、新たなる時代を創っていかねばならない。そうした時代が、もうそこまで来ている。
5.未来史の展望
さて、こうしたことを前提として、人類の未来史というものを、展望していこうと思う。
この霊言集を収録している現在は、一九八七年の十一月である。今後、どのような時代が、人類を待ち受けているのであろうか。巷(ちまた)によく言われているような、人類の危機が来るのであろうか。それとも来ないのであろうか。あるいは、その危機のあとに、どんな時代が来るのであろうか。そうしたことを、地上のあなた方は、心配しているに違いないと思う。
人類の未来史には、甲乙(こうおつ)がある。すなわち、優れている部分と、そうでない部分があるということだ。繁栄の世界と、没落の世界があるということだ。これは否定ができない。なぜならば、そうした繁栄と没落を通して、新たなる時代が開けていっているからである。
まず、日本という国を取ってみたときに、この国の将来は一体どのようになるのであろうか。この国の将来というものを眺めて見るときに、もちろん、途中さまざまな紆余曲折(うよきょくせつ)はあるであろうが、これからの百年間は、おそらく、黄金の時代であるということが言えるであろうと思う。それは、神理というものが声高らかに叫(さけ)ばれ、そして、その神理の号令のもとに、国民が一致団結して、黄金の時代を創ろうとする世界が開けてくる。 そういう時代になる。これを言うことができるであろう。
日本という国は、ここ百年間、人類の手本となるであろう。そして、その文化の高みが、他の諸国の人びとの心を潤(うるお)していくようになるであろう。これからの末末史は、人類の未来史は、日本という国のあり方を見れば、わかるようになってくるであろう。ここ百年間の黄金の時代の到来、これを私は告げておきたいと思う。
他の諸国にあっては、どうであろうか。アメリカという国には、すでに没落の気配が漂(ただよ)っていると思われる。そうした不吉(ふきつ)な影が忍び寄っている。わずかまだ、歴史において、四百年ぐらいの国であるにもかかわらず、その繁栄の影にかげりがある。やがて、このかげりというものが明らかになっていくであろう。アメリカという国は、経済的なる破綻(はたん)をやがて起こすようになっていくであろう。また、大いなる、軍事的なる脅威に、脅(おびや)かされるようになってくるであろう。
また、ヨーロッパという国々がある。このヨーロッパの国々においては、今、さまざまな形で文化が栄えているけれども、この文化というものも、やがて次第にかげりが出てくるであろう。特に、そのかげりというものは、南、すなわちヨーロッパの南部において、そうした形が出てくるであろう。
また、ソ連の領域においては、今後、さまざまな物事が起きていくことであろう。それは、一部では戦争というものも起きてくるであろうし、また、他の部分としては、旱魃(かんばつ)、農作物の被害、天変地異(てんぺんちい)、あるいは大地の一部の陥没、こうしたことに見舞われるうになるであろう。こういうことを言うことができるであろうと私は思う。
また、これ以外のアジアの世界においてはどうであろうか、アジアの中では、最大の人口を誇っているのは中国とインドである。中国という国には、今後、また大きな革命が起き、新たな時代、新たな文明の時代というものが、訪れてくるであろう。そのように思われる。
インドという国は、伝統があり、宗教の宝庫とも言えるような、アジアの精神の起源のところであるけれども、このインドにも、遅々(ちち)とした形ではあるけれども、新たな発展の構図というものが見えてくるであろう。資本主義の原理は、インドの中にもやがて、根強く栄えるようになってくるであろう。そうして、彼らの文化様式も、大いに近代化してくるであろう。
一方、今後の繁栄というものは、東南アジアを中心としてますます栄えていくであろう。東南アジアからオーストラリアの世界、このあたりが、これからの二十一世紀以降の、世界の繁栄の中心となっていくであろう。こうしたことが言えるであろう。
大まかな形で言うとするならば、今、現時点において栄えている国は、やがて滅び去っていき、今、第三世界と言われている国が、やがて勃興(ぼっこう)していくということだ。こうしたことを言うことができるであろう。
また、アフリカという国は、さまざまな試練を受けるであろう。その中において、壊滅的なる被害を受けるところもあるが、また、奇跡的回復を記録するような、文化的な高みを創っていく国もあるであろう。
西アジアの世界では、西南アジアにおいては今後、戦乱が勃発(ぼっぱつ)し、さまざまなる不幸が現われてくるであろう。そしてそれは、世界の諸悪の中心のごとく見えることも、やがてあるであろう。しかし、やがてそうした世界は、過ぎ去っていくことであろう。そして、また平和が訪れるであろう。
これが私(わたくし)の見た、今後の世界図である。さまざまのことが今後、起きていくであろう。しかし、いつ、どの時点で、何か起こるかということを、私は明確に述べることはしない。それは、人類にとっての課題であるからだ。未来ということは、知らなくてよいのである。末末ということは、予想はある程度あっても、現実のこととしては知らない方がよいのである。末末というものを知らずして、日々、日々を着実に生きていく人生こそが大事なのである。
あくまでも、この三次元という世界は、仮(かり)の世界であり、人びとは、魂の修行という目的でもって、生きているということを知らねばならん。そうした世界であるということを知らねばならん。さすれば、これから先に、どのような不幸が来ても、どのような変革が来ても、どのような革命が訪れても、それで心を動かしてはならない。
あくまでも、この世は仮の世界であり、どのように悲惨にみえたり、どのような大混乱にみえることが起きたとしても、それらもすべて、魂の糧(かて)として用意されていることだと思いなさい。そうした環境の中で、最良のものを選び取っていきなさい。最悪の環境の中でも、最良の心を築いていきなさい。そのことが、何にもまして大事なのである。
6.我が再誕の予言
今まで、ここ百年、二百年という歴史を中心に、未来史の展望を語ってきた。さて、私(わたくし)も聖書の中において、やがて再臨するということを予言している。そして、この再臨が、果たされることになると思う。
私がこのように霊示集を送っているということも、これも一つの再臨かもしれないけれども、そうしたことではなくて、本格的に私が地上に肉体を持って生まれるということが、やがてあると思われる。それは、さほど先のことではない。これから、四百年ぐらい先のことになると思う。場所は、まだ明確ではない。ただ、おそらく、現在西側と言われている世界の、ある国に、生まれることとなるであろう。
その国に生まれて、私はまた、大いなる愛の世界を広めていこう思う。あなた方の仕事というものを、今世紀における仕事というものを基礎として、これを旧約聖書として、私はまた、新たなる聖書を、新約聖書を人びとに広げていこうと思う。新たなる福音(ふくいん)を広げていこうと思う。その時に、科学は進み、経済は進み、国々はまた、違った繁栄を見せているであろう。その中において、私は新たな心の世界を説いていこうと思う。新たなる世界観と、新たなる価値観を説いていこうと思う。
そして、私(わたくし)が再臨したということを明かすがために、私は必ず、また、愛が大事であるということを説こう。愛こそが、人類の出発点であるということを説こう。愛の素晴らしさを説こう。今から四百年後に、愛を再び説く人が現われたら、それが我が再臨である。
人びとよ、我が再臨の時に生まれ合わせることを希望せよ。我が声を再び聞く者は幸いである、我がもとに再び集まる者は幸いである。我と共にまた、教えを述べ伝える者は幸いである。心貧しくあっても、我と共に生きることができる者は幸いである。神の心を伝えんがために、また、多くの同志が集(つど)い来ることは、何にもまして素晴らしいことである。
やがてまた、お会いすることがあるであろう。その時まで、私もまた、日々己(おのれ)を磨き、精進していくこととしよう。地上にあるみなさんも、その時を目指して、自らを見つめ、自らを磨いていっていただきたい。それをお願いして、本章を閉じることとしよう。