目次
1.神々の諸相
2.高級霊の本質
3.低級霊への考え方
4.地獄の存在
5.神と悪魔
6.理想的人間
1.神々の諸相
天照です。今日は、神々、高級霊、低級霊、こうしたことについてお話をして参りたいと思います。
日本では、古来より、八百万(やおよろず)の神々といって、たくさんの神がおられると言われています。これは、神近き人びと、あるいは、高級霊と言われる人びとに対する国民の長い間の尊敬の念が、そのようにさせたのだとも言えましょう。
神々と称されている方々も、その姿が、あまりにも人間的であることからわかりますように、かつては、地上で肉体を持って生きたことのあった方々です。彼らの多くは、地上にあったときに、その偉大な霊能力ゆえに、神と称されていた方々です。そうした名が後のちに語り伝えられて、現在では、高天原(たかまがはら)に数々の神がいらっしゃるということになっています。
この、古事記等で有名な高天原でありますが、これが現にあるか否かということが、みなさんの多くの方々の疑問に思われることだと思いますが、高天原と言われる霊域は、現にあるのです。それは、主として、この日本という国の、立体的な話をするならば、上空にある霊域ということになりましょうが、そこに数々の神が集まっておられるのです。
その情景を話すとするならば、やはり荘厳な金色(こんじき)に光る大地があり、そうして、そのなかに、ひときわ高い山があります。その山は七色に光りながら、その頂上がどこまでつながっているかがわかりません。
こうして、その山を中心にして、様々な色の美しい雲が棚引(たなび)いています。この山のことを、高天原中心山(たかまがはらちゅうしんざん)と申します。その高さは、地上的なる感覚で言うならば、一万メートルをも越えているような高さではないかと思います。そのぐらいの高い山であります。
そうして、その麓(ふもと)には、古代の衣装をした神々が数多く住んでおられます。この麓にあたる部分が、あなた方がよく知っている言葉では、菩薩界と言われる世界であろうかと思います。日本の神域、霊域においても、数々の諸菩薩がおられるわけであって、ここでも、数百、あるいは、数千に近い方々が一緒に住んでおられます。そのなかには、もちろん、近、現代の日本に出られた神々もおられるために、非常に変わった身なりをしている方もおられますが、大多数の方は、やはり、古代の神々のような姿をして、住んでおられます。
その多くの方々は、その高天原に、たとえて言うならば、出雲大社であるとか、伊勢神宮であるとか、そうした神社、社(やしろ)というようなものを造ってそこを中心に生活しているのです。そして、彼らの大多数の人の仕事というものは、やはり、どのようにして人びとを指導するか、また、日本という国をどのようにして今後よい方向に指導していくか、こうしたことを日々話し合い、考え合っているのです。
この高天原にいる神々の内で、その半分以上の方々は、現に地上に在る人びとを指導しています。各人が何人か受け持ちをしていて、地上に生きている、その神の使命を帯びた方々を、何らかのかたちで指導しています。それは、宗教家であったり、学者であったり、財界人であったり、あるいは、政治家であったりすることもあり、その職種は多様に分かれておりますが、地上にある人びとを導いて、この日本の国を、素晴らしいものとして造っていくためにやっているのです。
また、高天原のなかには、地上にある外務省、外務局にあたるような仕事もあってこの日本の国に、異国の神々が教えを説かんとして来られる時に、その許可を与えたり、その影響度の範囲を決めたりする仕事をしている方々も、現におられます。
こうした高天原に、多くの神々が住みたもうておられますが、たとえば私は、どういうところに住んでいるかというと、たいたての場合、この高天原中心山の八合目ぐらいのところに大きな神殿を造って住んでいるのです。そうしてたいていの場合は、この山からは降りてまいりませんが、月に一度は山を下って麓に降り立ち、この高天原の諸神相集う席上で、お話をしているのです。こういう意味において、現在でも私は、日本神道系のなかの主催神のひとりとして活躍をしているのです。
また、私は、高天原中心山の八合目に住んでいると言いましたが、この頂上に住んでおられると言われている方が、天之御中主之神です。この方が、高天原中心山の頂上に住んでおられると言われているのです。
そのお姿は、真(まこと)に神々(こうごう)しく、また年の頃は、七十歳ぐらいにも見えますが、白いあご髭(ひげ)、てかてかと赤銅色(しゃくどういろ)に光るお顔、そうして、体から発散する黄金色のオーラ、その白い衣装のまばゆいこと、こうした高齢とは思えぬほどの精力に満ち、気力に満ちた方、そうして、力強い言霊を発する方、この方が、天之御中主之神と言われる方です。
この方も、どこにお住まいかは多くの方は存じ上げませんが、しかし、時折、神々を指導し、また、地上への直接の指導もされているようです。
これが、私たちが住んでいる高天原の本当の姿であります。
2.高級霊の本質
さて、神々とも呼ばれる彼ら高級霊の本質は、一体どこにあるのか、その点について、説明をしていきたいと思うのです。
彼らは生まれつきの神であるのか、あるいは、神となった方々であるのか、それについて話をしてみたいと思うのです。これに関しては、二つの考え方があり、神は最初から神であり、高級霊は最初から高級霊であるという考え方もありますし、あるいは、転生輪廻(てんしょうりんね)の過程において、高級霊へと生長していったとする考え方もあるでしょう。
実際、高天原に住んでおられる諸神霊の出生(しゅっしょう)、その神となられた謂(いわ)れを考えてみますに、結局彼らは、やはり、その八割ぐらいの方は、当初より、高級霊として、存在していた方のように思います。日本の国が造られるに際して、神々と称する方が集め寄せられたことは事実であり、彼らを中心勢力として、この日本の国を造っていったという事実はあります。この意味において、神は最初から神であると言えましょう。
しかし、残りの二割ほどの人は、最初から神ではなかった方々もおられます。それは、この日本という国で、さまざまな時代に降りていって大いなる仕事をしているうちに、神と並び称されるような偉大な心性、心というものを持つに至った方々がおられるからです。彼らは、まだ新参(しんざん)の者であるゆえに大変恐縮をしておりますが、ただ、その仕事が大いなる評価を得たということに対しては、大変な自信を持っています。
神々の世界では、やはり、魂の古さということが、ひとつの指標になります。同じく高天原に住んでいたとしても、太古より住んでいる方とそうでない方とでは、やはり、その神としての格に違いがあります。この意味で、新しく神となられた方であっても、まだ、その人が高天原の住人として日が浅いことがその容貌にも出ています。
それは、どことなく人間くささが漂っているということであります。地上に在っては、人間くさいということは、ひとつの喜ばれるべき特質とも言われているでしょうが、この高天原においては、人間くささがあるということは、大変恥ずかしいこととされています。いち早く人間的属性を捨て去った者こそが、本当の神と称されるようになってくるのです。
心のなかに人間的なる属性が残っている方は、常にそのことに劣等感をいだいていることが多く、他の神々と接するに際しても、どうにかして、その人間くささを見破られないように、他の人に気づかれないようにと、心を遣(つか)っているようです。
地上においては、成功という名のもとにさまざまなことに手を伸ばし、社会的な地位や名声や金銭で自ら得意満面となっていた者たちは、この世界に来れば、そうしたことをどれだけ思わなかったか、思わなかったように見せたいという気持ちで、いっぱいになっていくのです。地上に在った時に、人びとに羨(うらやま)しがられたような職業に就いていた人が、どれほどそのことを隠そうとしているかということを、みなさんはご存知でしょうか。
たとえば、政治家であっても、総理大臣となったような人のなかにも高級霊はおりますが、地上にいた時に、神の僕(しもべ)として生ききらずに、自分が日本でいちばん偉いというような思いで生きてきた人は、こちらに還ってから、その心境を隠すことで大変苦労しています。どうにかして、その古着を捨てたいと思っているのだけれども、如何(いかん)せん、地上時代のそのなごりが、拭(ぬぐ)い去れないで苦しんでいることが多いのです。
歴代の政治家のなかで、この菩薩界という所、高天原の神々に近い席を許された方として、まず、明治の時代においては、伊藤博文(いとうひろふみ)という方もいます。あるいは、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)という方もいます。これ以外にも、大正期になりましょうか、原敬(はらたかし)という名前で言われている元首相も来ています。
昭和期になっては、高橋是清(たかはしこれきよ)、近衛文麿(このえふみまろ)らも、地上を去って後は、こちらでは、そうした神々と同じ待遇を受けております。
3.低級霊への考え方
低級霊への考え方というのは、非常に難しいものがあります。その言葉自体のなかに、彼らに対する軽蔑の念がこもっているからです。
ここに二つの、二律背反する価値が存在します。ひとつは、人間はすべて神の子であり、神の分け御霊であるという考え方です。今ひとつの考え方は、しかし、人間にはやはり、魂の高下があるという考え方です。確かに本質的に見るならば、すべての魂は神より分かれて来たものであって、その神より分かれてきたという点において、一点の疑問もさしはさむ余地はないのです。
しかし、神より分かれてきた者であっても、その人生行路をどのように渡っていくかということに関して、自由性というものが与えられているのです。
たとえば、子供に対して母親が、真っ白の体操服、トレーニングウェアというものを与えたとしても、子供は、それで野球をし、相撲をし、体操をしているうちに、やがて泥んことなっていく
でしょう。泥んことなった体操着は、それ自体がもともと汚れていたかといえば、そうではない。もともとは、純白のものであったと言えましょう。
でしょう。泥んことなった体操着は、それ自体がもともと汚れていたかといえば、そうではない。もともとは、純白のものであったと言えましょう。
この意味において、私は、彼らが現在、悪という姿、低級霊という姿になっているということは、もともと真っ白な服を与えられているにもかかわらず、それが、汚れた状態にあるということだと思います。如何に優れた子供であっても如何に素晴らしい子供であっても、泥んこで汚れた姿でもって家のなかに入れ、食事をさせ、そして居間で自由にさせ、布団のなかに入れる母親はいないでしょう。そうした子供を見たならば、まず、その服を着替えさせることを勧めます。また、手や足を洗うことを勧めるはずです。そうでなければ、いくら食事がしたいと言っても、その願いはかなえられませんし、いくら布団のなかでぐっすり眠りたいと言っても、その願いもかなえられないこととなるでしょう。
このように低級霊というものはやはり本質ではない。本質ではなくて、現れ方であるというふうに、理解することが大事であろうと思います。やはり、心がいろんなことによって汚れていたり、曇っていたりすることが、低級霊の本質であって、それは、彼らが本来、そのように創られているということではない。素晴らしいものであっても、それをどのように使うかということが、各人の責任において任されているということが、その本質にあるわけです。
真っ白な体操着を与えられたからといって、それをまったく汚さないように、いつもいなければいけないかと言えば、そうではありません。そうであれば、スポーツというものはできません。ただ、汚れた服であるならば、それを取り替え、洗濯するということが大事だということです。ここに、禊ぎ祓いの考え方が出てくるわけです。地上というものは、そうした泥や汚れの付きやすい世界であるために、これを常々よく洗濯し、美しいものとしていく必要があるのです。そうしたことをしないと、本当に素晴らしい本来の色、これを取り戻すことができないのです。
したがって、私は、地上のみなさまに申し上げたいのですが、本来、悪人はいないということ。本来、低級霊もいないということ。本来、根本から間違っている方はいないということ。これを信じていただきたい。たとえどのように、その姿が悪人として現れているとしても、本当にその方が悪人として生まれついているわけではないということです。
それは、すべての人のなかには、優しい気持ちというものがあるからです。どのように悪人として世を渡っている方であっても、そのなかに、一片の優しさは必ず潜んでいるものです。
その優しさがあるということが、すなわち、その方が神の子であるという事実を示していると思うのです。神の子であるという事実は、こうして明らかとなっていくのです。
4.地獄の存在
地獄はについて語られた書物は、数多いと思います。また、日本においても、昔より、地獄絵巻であるとか、地獄図であるとかいうものが示されて、そこには大変な厳しい環境かあるといわれています。西洋においても地獄についての話は種か尽きないようです。先進国のみならず、後進国においても、地獄についての考え方かどこの国にもあります。
さて、しかし、現代の日本人で、地獄を信じている人は数少ないと思います。「そんなことをしたら地獄に堕(お)ちるぞ」と言われたとしても、それはほんの笑い話としてしか受けとめられないのが事実です。しかし、現に地獄と称されるものはあります。それは、本当に物理的なる姿として、たとえば血の池であるとか、針の山であるとか、そうした、ところがあるわけではないのですが、心の世界として、心の風景として、そうしたものがあるということです。
それは、みなさんのうちの多くの方々は、悪夢というものを見られた経験があると思うのです。悪夢のなかでみなさんは、恐ろしい姿をした動物であるとか、人間であるとかに襲いかかられたり、命を取られそうになった経験があるでしょう。その恐怖の思いがあるでしょう。実は、地獄の世界というものは、そうした悪夢の世界とまったく同じ世界だと言ってもいいでしょう。
夢のなかでは、さまぎまな奇想天外なことが続々と起きますが、実際の霊の世界においても、こうした夢で見るのと同じく、奇想天外なことか数多く起きてきます。それは一見、無秩序に見えたり、脈絡(みゃくらく)がないように見えますが、その通りいろんなものが目の前に現れ、いろんな経験をさせられるようになる。気がつけば一転して、まったく違った場所に出ている。こうしたことが、よくあるようになってきます。
この夢の世界、悪夢の世界というのは、大多数の人は、実はその魂が睡眠中に肉体を抜け出して、地獄の世界をさまよっていることが多いのです。そうして、あの世の世界というものを、いち早く勉強させよっとしているのです。そうした魂の経験をしているのです。
それゆえ、地獄とは何かかわからないとすればヽ悪夢の世界だと思えばよいのです。
こうした夢現(ゆめうつつ)の世界が、死後に続いているのです。
実際それはその通りであって、地獄にいる大多数の人たちは、生前、神を信じず、また霊を信じず、死後の世界のことを信じていなかった方々です。彼らは地上を去っても、自らが一体何をしているのか、どういう生命(いのち)を生きているのかということに関して、信頼できないでいるのです。自己認識かできないでいるのです。白分か一体どのようになっているのかということが、わからないでいます。それゆえ、悪夢のなかを漂(ただよ)っているのとまったく同じ状況となっていきます。
そうした方が、やがて自分の姿をつかみ、自分が地獄にいるということをわかるまでに、かなりの時間を要するようになります。早い人ならば、もちろん、数日ぐらいでわかっていきますが、遅い人であれば、三年経っても、五年経っても、十年経ってもわからないでいます。ただ、地上時間で言って、五十年、百年と経っていった時に、どうやらその悪夢の世界が、白分の住んでいる世界であるということだけは、はっきりと実感することができるようになっていきます。
ただ、彼らの大多数は、それが地獄のように見えたとしても、自分はたまたまこうした世界にいるだけであって、なんとかしてここから脱出しようと思うのです。間違って、自分はこういう世界に紛れ込んだのだけれども、何とかして、この世界から逃れ出したいというふうに考えているのです。
けれども残念なことに、地上で生きていた時に、なぜ自分が地獄におちるというようなことになるかということを、知らないままに生きていたのです。何が善で、何が悪かということを知らないで生きていた。地獄などは、ほんの笑い話、昔話として一笑に付していた。ところが、それが現実に現れてきた時に、自分はすがるべきものが何もないということを知るのです。
この意味において、地上にいた時に、何らかの宗教に属していたということは、ひとつの救いになることはあります。それは、そうした宗教に属していたということによって、その魂のなかに一条の救いの道が用意されているからです。すなから、自分の信じていた教えを、ひたすらに思い出すということによって、「反省」という方法か与えられたり、あるいは、「祈り」という方法が与えられたりするからです。そうすることによって、その宗教を指導をしていた高級霊たちが、その方を導こうとして、努力し始めるということが言えるのです。
私はこの意味において、地上に生きていた時に、なんらかの宗教心を持って生きるということが、とてもとても大切であるように思います。そうした気持を持って生きるということが、結局は死後の世界においても、ひとつの救いとなっていると思うのです。
思考の材料、考える材料を持たずに生きてきた人ほど哀(あわ)れな存在はありません。彼らは藁(わら)にもすがるつもりで、周りの人に救いを求めようとするのですが、そこに、知った人が推もいないのです。この意味において、生きている時に、魂の教師役、先生役を持っているということは、とてもとても大事なことであろうと思います。
もちろん、何が正しい教えであるか、何が本当の宗教であるかという考えに関しては、多様なものの見方ができるわけであり、そうして、きまざまな教えの違いが、同時代の混乱を生んでいることは事実でしょう。ただ、二千年もの歴史をもっていて、今なお、多くの人を引きつけている教えは、やはりそれだけの内容があり、それだけの指導霊たちがいるということは、事実であろうと思います。
何が本物であるかということがわからないのであるならば、歴史的に名のある教えにつけばよいと思います。それは仏教であっても、キリスト教であっても、神道であってもよいと思います。また、そうした古い教えでもの足リなぃ方は、新しい教えのなかで、非常に自分の納得のいく教えがあったならば、それについていくことも大事であろうと思います。
また、現在、私たち高天原の高級諸霊が、このようなかたちで、地上にいるみなさまに続々と教えを伝えておりますから、こうした教えを生きているうちに学んでいただくことによって、あの世に旅立たれた後に、迷わずにもといた世界に還って来れるということがあると思います。
いずれにしても、地獄の存在は、魂の真実に関して、無知なる人びとが数多いということに起因していると思います。もっともっと多くの人たちは、魂の真実に目覚めてゆかねばなりません。そうしなければ、本当の意味での地獄からの脱出ということは決してできないわけです。
5.神と悪魔
6.理想的人間
神と言われる言葉にも多義性があり、宇宙の根本神の心はなかなか計り難いものがありますが、三千年の歴史のなかで、神とも称されきた私の立場から言うならば、神の愛する人間像には三つの姿があると言えるのではないかと思います。
第一の姿は、「秩序と調和を大切にする人間」です。
秩序を大事にする考えは、結局、調和を生んでいきます。秩序と調和という、この大いなる原理、これを大切にして、そして社会全体の美しい姿を描き出していくこと。これが大事です。秩序を破るということは、それ自体がひとつの不調和であり、地獄図であります。秩序を大切にしていく。そして、調和を大事にしていく。人びととの間の和を大事にしていく。協調を大事にしていく。ここが重要ではないかと思います。
この意味で、現代に蔓延している自我我欲を主張する生き方、我欲、我流の生き方に対して、私は、厳しい警告をしておきたいと思います。それが、地獄を生んでいる原因であるということに、気付かねばなりません。
秩序と調和ということを大切にして、自然の姿、あるべき姿に持っていくということ、これが大事です。上役は部下を指導し、部下は上役に仕え、師は弟子を指導し、弟子は師に仕える。こうした本来あるべき姿に立ち戻ることが、とてもとても大事であると私は思います。
神の愛する人間像の第二として、私は、「愛の実践」ということをあげておきたいと思います。
愛の実践とは、すなわち、多くの人びとに美しい人生を生きて頂きたいと思う心、願う心です。多くの人びとに、真実の人生を生きてもらいたいと願う心、それを助けようと願う心です。多くの人たちが本当に幸せになるために、何らかの努力を惜しまないという心、それが愛の実践です。
あなたは今日一日、どれだけ多くの人を喜ばしたでしょうか。多くの人びとを幸せにするような努力をしたでしょうか。私は、それが大切であると申しているのです。
多くの人びとを愛するということ。これが何にもまして重要なことです。自らに与えられた一日という時間を無駄にすることなく、愛の実践に生きることです。自分として、どのような生活をすることが多くの人びとへの愛となるか、これを深く深く考えて頂きたいと、私は思います。
神の愛する人間像の第三として、私は、「無限に発展していく人間」ということをあげたいと思います。
神はやはり、最大の愛そのものでありますから、自らの下にある人びとに、みな、繁栄していただきたい、良くなっていただきたいと願っているのです。
さすれば、理想的な人間とは、常に向上発展を目指していく人間であり、自らの過ちを改めるにやぶさかでない人間であります。自らがたとえ間違ったとしても、すぐさまそれを改め、より素晴らしい人間として生長していけるように、常に努力、精進を怠(おこた)らない人、それこそが、神の愛する姿であろうと思います。
また、神の神たるゆえんは、高級霊の高級霊たるゆえんは、やはり、自らも向上していこうとする気持ちを持っているということが言えると思います。自らも、より高度な人生観を磨き、より大いなる認識力を得、より大いなる指導力を築かんとしている。それが、多くの人びとの姿であります。この理想的な人間像、これを、やはり追求していくことが大事なのではないだろうか。私はそのように思います。
神の愛する人間とは、結局、神近くなっていくために大切な条件を守るということでありましょう。
もう一度繰り返すとするならば、まず、「秩序と調和」ということを大事にすること。秩序と調和なくしての社会の平和、ユートピアということはないということ。さらに、個人の義務として、責務として、「愛の実践」があるということ。愛を述べ伝えるという必要があるということ。他の人びとを良くしょうという思いがあること。
そして第三に、「発展」という考え、「繁栄」という考え、自らも伸びていき、自らも天高くなっていこうとする気持ち、そして、また、大いなる役割を与えられたならば、その役割を実践し、実行し、巨大な巨大な光となって世の中を導いていこうとする気持ち、これが大事です。
神の愛する人間像には、本当の地獄霊も悪魔もありません。そうした者は、神の愛する人間像を知らない人たちの生き方なのです。
どうか、この三つの観点、秩序と調和を目指し、愛を実践し、自らも発展していこうという、この三つの観点を忘れずに、大いなる人格を築いて生きていっていただきたいと思います。