目次
1.神の子の自覚
谷口雅春です。まだまだ言い足りぬことは数多いし、真理についての種も尽きぬわけだけども、私の考える範囲の中で、今いちばん大事なこと、内在する叡知の発見のしかた――こうしたことを話をしておきたいと思う。
ます、最初に、「神の子の自覚」ということだ。生長の家の信徒諸君などは、人間神の子ということは、もう自明のこととして知っているであろうけれども、一般の読者はまだそこまで考え方が進んでおらんであろう。人間神の子というのは、言葉として言うのはた易(やす)いが、実感としてそれを知るということはなかなか難しい。実感として人間は神の子であるということを知り抜くこと。これを現実に、現実の問題として知るということは、とても難しいことだと思う。
では、どのようにして神の子の自覚を得られるのか、これを私は考えてみたいと思う。
こうしてみると、結局地上に降りている入間というのは、一つの錯覚に陥っている。このように考えられるのではないのか。ひとつの錯覚だ。どういう錯覚かというと、あまりにもこの物質というものに取り囲まれた世界に住んでいるがために、自分がまたそうした物質の一部であるかのように誤解するという、そういう錯覚かあるわけだ。
こうしてみると、結局地上に降りている入間というのは、一つの錯覚に陥っている。このように考えられるのではないのか。ひとつの錯覚だ。どういう錯覚かというと、あまりにもこの物質というものに取り囲まれた世界に住んでいるがために、自分がまたそうした物質の一部であるかのように誤解するという、そういう錯覚かあるわけだ。
これは、やむを得ぬところもあると思う。たとえば、人間の赤ん坊であっても、狼に育てさせると、狼の遠吠(とおぼ)えのしかたをし、狼のごとく地を走り、狼のごとく食べ物を食べる。そういうふうになるということが報告されているが、そのように環境というものにかなり支配され、自分をそのものだと思い込むことがある。
すなわち、生まれ落ちてすぐ、物質の中に投げ入れられると、物質の中にいることが当然であって、物質外に出るということは異常なことである。そのように感じやすいということだ。こうして、神の子の自覚というのが、次第に薄れていくことになる。
もちろん、神の子の自覚の出発点は、霊的存在としての自覚であるけれども、人間が生まれ落ちてよりこのかた、霊的であるということを実感する機会が非常に少ないわけだ。霊的であるということを、実感するというのは、何らかの奇跡が起きる時に限られている。奇跡を見てはじめて信ずる。こういうふうになっているのではないか。私はそのように思う。
この辺に人間の哀(あわ)れさがあるけれども、いかんせん地上にあるということは難しいことだ。厳然とした奇跡でも見ない限り、それが本当だとなかなかわからない。神の子としての自覚が、芽生えてこない。こうしたことだ。そうした奇跡を見て、人間の霊的存在としての本質を知った時に、はじめて、さらにその奥にある神というものを類推することができる。こういうふうになっているのではないかと思う。
2.精神統一の方法
さて、神の子を自覚するという話をしたけれども、神の子を自覚するためには、何らかの修法がいるのではないか。すなわち、精神統一がいるのではないか。こういう問題が次にあると思う。
さて私は、神想観という方法、神を想い、感するという方法を編み出したわけだけれども、これの方法はいろんなところでいろんなやり方があるので、必すしもこれしかないというふうに言いきることはできないと思います。
ただ、言えることとしては、やはり心の波長を統一するということは、とても大事なことです。地上に出ていて、この中で生活していると、いろんな人とおしゃべりなどをしているうちに、どんどんどんどん波動というものは乱れてくる。乱れに乱れて、そうしてどうしようもなくなってくる。こういうことがある。
しかし、このような三次元から四次元以降の世界に架ける架け橋の方法として、精神統一ということがなされている。このように私は思います。精神統一ということがなされているということだ。これは、非常にいい方法です。
すなわち、神様が人間を創られ地上に送り出して、そしてまったく実在世界を教えないままで地上生活をさせておきながら、一方、神であるとか、仏であるとか、霊であるとかを信ぜずに生きたら、死んであの世に還れば地獄に堕ちるというようなことであったなら、これは大変な問題となるわけです。
したがって、何らかの方法、自分たちの実相の世界について感知し得るような方法、これがなくてはならない。そのように思うわけです。ここに、精神統一の方法が出てくるわけです。精神統一ということを通して、実在界とのコンタクトが許されているのです。これは大変な慈悲であります。また、大変なこれは神の愛であろうと思うし三次元と四次元というのは、まったく分かれた世界となっているけれども、精神統一ということを通して、この間がコンタクトができることとなっている。
すなわち、静かに座して心をなだめて、そして合掌する。合掌して、両手をアンテナとしていると、天上界の霊波がかかってくる。そして、ある時は手が動くというようなこうした霊動があることもあるし、ある時はインスピレーションが降りてくるというような、そうしたこともある。また、直接神の声が聞こえてくる。人の声が聞こえてくる。こういうこともあるだろう。
こうした異次元との交流ということが、精神統一という方法を通してなされ得(う)るということが、現実にあるわけです。人間は、このことを忘れ去っているのです。本来こうした統一方法があって、昔から精神統一によって異次元の人とも交流をしていたわけです。この方法を忘れて久しいのです。
ちょうど地上の人間というのは、自分がポケットの中に缶切りを持っていることを忘れて、なんとかして缶詰めの缶に穴を開けようと努力している人に似ている。石で叩(たた)いてみたり、歯で噛(か)んでみたり、手で殴ってみたり、いろんなことをして缶詰めに穴を開けようとしているけれども、実際はちょうどいいぐあいに、ポケットの中に缶切りが入っているのだ。神様は最初から缶切りを与えているのに、それに気が付かないで、一生懸命缶詰めを開けようとしている。そうしたことが、通常の人間によくあることなのです。
この缶切りを早く発見して、これで缶を開けてしまうことでず。この缶を開けるということが、異次元との交流ということになるわけです。
その異次元との交流のしかたですが、結局、私も前巻、前々巻でも話をしたように、波長を調えるということがとても大事です。波長を調える。異次元の霊波というのもこれも一つの波長であって、この世的ではない波長です。そうした波長を受けるためには、心の状態がそれに同通しなければならんわけです。したがって、心を高級霊なら高級霊の波長に合わせていく。そうしたことが非常に大事だと思います。
3.無限の光の供給
さて、精神統一の方法としては先に述べた通りですが、ここで人間は大いなる神の愛というものに、気が付くことがあります。一日仕事をしていて疲れると、とてもぐったりとして、どうしようもないことがある。また、他人のことが心にかかってかかってしようがない。気になってしょうがない。こうしたことも、ままあります。
こうした時に、神想観をなして、あるいは座禅でもよい、他の観法でもよいけれども、精神統一をすることによって、神の光を受ける、こういうことがあるわけですね。この時に、神の無限の愛が自分に流れ入ると感することが大事です。そうすることによって、自分の精神的な疲労の素が抜け、体内が光によって満たされることとなるわけです。「神の無限の愛、流れ入る流れ入る」、あるいは、「神の無限の光、流れ入る流れ入る」こういうふうに唱えながら、心を統一して目を閉じていると、サーッと光が流れ入ってくることかあります。
これは、決して自宅で夜中にやらねばならぬことではない。バスの中で吊り革に揺れている時であっても、電車の中で座っている時であっても、会社の食事の後のひとときであってもよい。精神を統一して「神の無限の光、流れ入る流れ入る」とこう念じていると、本当に天使たちの光がサーッと流れ入る。そうしたことがあるわけだ。言葉というのは、そうした合図の役割を持っている。
天上界に光は満ち満ちている。実相世界に光は満ち満ちている。その光をどのように引いてくるかということは、各人がこれをせねばならんわけだ。
ちょうど私の眼にはこういうふうに見える。みなさん方の三次元世界というのは、ちょっとした一つの部屋の中だと思ってよい。そして、天井は非常に低いところにある。手が届くところにあるのだ。ほんのニメートルぐらいのところに天井があって、手を伸ばせばつくぐらいのところにあるのだ。そして、その天井の上には、無限のエネルギーが詰まっている。ここに、いろんな穴が開いていて、コルク栓で詰めがしてあるわけだ。このコルク栓を抜けば、二階からは無限のエネルギーが吹き出してくる。こうしたものだな。
あるいは、違うたとえをするとするならば、この天上界の光というのは、各家庭に配線されている電線のようなものだ。電線そのままではこの光が使えないけれども、ここにソケットならソケットというものがあって、これに電球を差し込むと、電流が流れ始める。そして、電燈がついたり、電気製品が動いたりすることになる。
こうしたふうにソケットに差し込むという行為、これが精神統一だね。あるいは、言葉を出して高級神霊を呼ぶということ。こういう必要があるということです。
このように無限の光を浴びる方法というのが、現にあるのです。現にこうした無限の光の供給を浴びる方法かある。これは無料であるから、だまされたと思ってやってごらんなさい。電車の中でも、あるいは車の中でもどこでもよい。「神の無限の光、流れ入る流れ入る」「神の無限の愛、流れ入る流れ入る」。こういうことをいつも心の中で唱えておくことです。そうするとちょうど、コンセントの中にプラグを差し込むような効果があって、そこから神の電流が流れてきます。神の電流が流れてきて、みなさんの体を充電するわけです。こうした実に簡単な方法かある。
原始人が文明人の部屋の中へ入ってきても、部屋の中にコンセントがあっても、これはいったいなんだかわからないで、遂に使わずじまいでいる。ところが私たちはこうした神理を知っているがために、このコンセントの意味ということが実によくわかるわけだ。これに差し込めばよい。プラグを差し込めばよい。そうすれば光が流れてくる。こうしたものです。
神というのは無限の光でずから、多少諸君が疲れたからといって、エネルギーをもらったぐらいで、それで電力がなくなるようなことはないのだ。だから、安心しておおいなる気持で、神の無限の光を浴びると良い。
4.悪想念の断ち方
さて、この無限の光を引き入れる方法というのは、実は悪想念の断ち方とも関係していると思う。
これは私も若い頃、実にそうであった。霊的な体質になっていたので、非常にくたびれやすいわけだ。読者諸君の中にもそういう人はいるだろう。霊的に敏感な体質であると、非常に疲れやすい。他人の波動を受けやすいのだな。他人の言葉、他人の念、こうしたものをいっぺんに受けてしまう。そうしたことがある。これは難しいものだ。「触らぬ神に祟(たたり)なし」で、接触しないのがいちばんなのだけども、どうしても接触せざるを得ないこともある。こうしたに難しさがあるというわけです。
だからこれは、どのような宗教者にとってもあることなのです。私も最初の頃、ずいぶん個人面談等もやっていたけれども、どうも個人面談をやっていると、体の調子が悪くてしようがない。それは、いろんな悪想念を受けてしまうのだな。もちろん、こちらも聖者であるから、「そんな悪想念に負けてはいかん」と、善なる波動で感化しようとはするわけだけれども、いかんせん一人の人間の力、肉体的力というのは非常に限られているので、一日、五十人、百人の人と面接などをしていると、大変なことでまいってしまいます。こういうことがあるということだ。
だから悪想念を断つには、やはり極端に接触はしないということもひとつであろうし、霊的な体質の人間が、雑踏の中などを歩いていると非常に疲れるだろう。雑踏に出ると疲れるというタイプの人は、霊感体質であることが多いから、この際にひとつ考えて欲しいと思う。人の雑念、雑想念を受けやすいということだ。これを断つ方法は、だから極端な接触を避けるということがひとつ。これは私もそうであって、最初の頃は面談していたけれども、次第にそれはやめていきました。そして人とは会わずに、文書伝道ということで、書物を残していくことに専念しました。それはそうで、一日に何人の人と会えるかと言うと、個人面談をしたとしても、五人、十人もすればくたびれてしまって、もうできなくなる。ところが文章にして残すと、それがすぐ何万、何十万、何百万人の人に読まれる。
大衆救済ということから考えた時に、文書伝道ということがどれほど素晴らしいか、力があるかということを、私も実感したものです。私自身、体力がそう強い方ではなかったために、こうした文書伝道というものを非常に重視いたしましたが、結果的にはこれが良かったと思います。
個人面談をしてあげて、その人の気持は済んだかも知れないけれども、まだいくらでも相談したい人はいる、しかも、相談を受けた人もまた次の相談かある。こうしたことを考えてみると、そうした人たち個人個人に対してではなくて、全体に対して役に立つようないろんなそうした知識というものを、まず授けておいて、各自がそれで解決していくということが大事だと思う。こういう文書伝道の方法は、私はこれからもおそらく変わらないと思う。
これから変わるとすれば、文章に変わって、マスコミ等を通じた宣伝ということがあるだろう。テレビ電波、あるいはラジオの電波、こうしたものを通じて、真理を伝播(でんぱ)する。広げる。こうした方法があるだろうが、私はそういう方法もひとつだと思う。
それと、一日のうちでそうした悪想念をいっぱい受けてしまった場合に、どうしたらよいかということだけれども、単に精神統一をしたり、神想観をしたりしても気分が良くならないことはよくあります。こうした時には、いったい何をどうすべきかというと、まず神理の書を読むということが大事であろうと思う。神理の書には光がこもっている。その光の書を読むことによって、心の中の波長が調ってくる。次第に調うということがあるのです。
したがって、たとえば一日中イライラしたり、なかなか考えごとがまとまらなかったりするような時には、私のこの『霊示集』でも読んで、そして心に一日十五分でもよい、三十分でもよいから光を入れて欲しいと思う。特に疲れやすい体質で、疲れやすい仕事をやっている人ほど、電車の中でもどこでよいが神理の書を読んで、一日のうち一定の時間、光を胸の中に入れる。そうしたことをして欲しいと思います。これも立派な悪想
念の断ち方であります。
念の断ち方であります。
私は、やはり、うまずたゆまず神理の光というものを、毎日毎日注入していくこと、これがいちばん大事だと思う。悪想念に疲れることはあっても、それでずっと疲れっぱなしであることは、本人の責任だと思う。偶然いろんな出会いがあるけれども、疲れっぱなしということは本人の責任である。
したがって、できれば心に光を入れる。あるいは講演会を聞く。講演会のテープを聞く。こうしたことでもよいであろう。そして、心に光を入れていくことだ。あとは「聖経」、お経のようなもの、こうしたもので本物があれば、それなどを吟唱(ぎんしょう)して、そして心を調和させてゆく。こうした方法もあるであろう。
5.対人関係調和の方法
さて、悪想念の断ち方についての概論をしたが、次は対人関係の調和の方法、これについて多少話をしておこう。
人間生きているうちには、好みの問題があって、なかなかね、いろんな人、自分の好きな人嫌いな人といろいろある。個性の差がいっぱいあって、なかなかすっきりうまいことはいかないようになっている。ある人から見たらみんな気に入った人であっても、お互い同士が気に入らない。こういうことはいくらでもあるわけだ。
宗教団体でもよくあることだ。そこの教祖さんは、弟子をみんなもちろん可愛がっているわけだけれども、弟子の相互の間では好き嫌いがある。これはどうしてもある。同業他者ということで、それに対して気になることがある。こうしたことがどうしてもある。
さて、そうした時に、いったいどうやって対人関係を調和するか、これを考えてみる必要があると思う。
私も生前から、「天地一切のものと和解せよ」ということを言っていたけれども、やはり、人間が神の子であり、神の子としての本分を実現していくためには、「大調和」という状態に入らなくてはいけない。大調和のなかに入ることが必要である。そうでなくては、本当の意味で神の子としての自分を顕現していけない。
したがって、こういうことです。神の祭壇に供物(くもつ)を捧げようとした時に、歩いていく途中に、もし兄弟と自分が一日のうちに喧嘩(けんか)をしたことを思ったら、祭壇に供物を捧げるのは後でもよいから、まずその兄弟に詫(わ)びることでず。あるいは、直接詫びることはできないなら、心の中で「すみませんでした」というふうに詫びておくことです。これが和解ということです。
完全無欠な人、失敗をしない人、そういう人はいません。そうであるならば、間違ったことをしたと思えば、素直に謝って、調和をしておくことです。これが大事だと思う。神は、形式的なる行為よりも、実質的なる行為の方を好まれる。神の前に出る時には、一切のものと和解して出なければいけない。こういうふうに思っていただきたい。
ですから、私のこの書物を読む場合にも、一切のものとの和解、これがとても大事だと思う、天地一切のものとの和解、これをしなくてはいけない。こうしたことが言えるわけです。
次にもう一つは、相手の中にある神性を―「神なる性(さが)」だね――これを拝み出すという方法があるのです。「神なるその本性(ほんせい)」、これを拝み出す。こういうことが大事であろうと思います。
これはどういうことかと言うと、結局、こういうことなのです、人間というのは、悪人だと言われたり、悪人というレッテルを貼られると、本当に悪人になってくるということだ。たとえば自分の赤ん坊、あるいは子供でもよいが、それに向けて毎日、父も母も「お前は悪人になるぞ、お前は悪人になるぞ」、こういうことをいつも繰り返して言っていたら、本当にその子は悪人になってくるわけです。だんだん親不幸をし、親をののしるような子供になっていきます、「お前はいい子だ、お前はいい子だ。素晴らしくなるぞ、素晴らしくなるぞ」といつも言われた子供は、実にのびやかに育っていきます。そして、両親に対しても「素晴らしい」と見るようになってきます。こうしたことが大事なことなんです。
したがって、悲観論、未来に対して悲観的なことばかりを言っていたり、人を見たら狼と思え、泥棒と思えというような考え方を持っていると、本当にそうしたことが現象化してきます。だから、これは勇気を持って心をクラリと光明の方に向けなければいけない。
人の悪いところを見つけたならば、ひとつ見つけたならば、よいところを十ヵ所探してみなさい。私はこういうふうに言っておきたいと思う。他人の悪口、その人の嫌なところが見つかったら、その人のよいところを十ぐらい思い出してごらんなさい。探ってごらんなさい。必ずあるはずです。そうした努力を続けて欲しいと思う。まず、悪しき言葉はできるだけ使わないようにする。そして、心の中にも思わないようにする。そして、悪しき言葉を思い浮かべないためには、よき言葉を出していく。これが大事だ。そうしなくては、本当の意味での地上の光明化ということはできないのだ。こういうふうに思っていただきたい。
したがって、相手が自分のことを悪く言えば、自分も相手のことを悪く言うのではない。これは売り言葉に買い言葉となる。相手が自分のことを悪く言うなら、自分が相手のことを褒めて褒めてすればよい。心の底から褒めることだ。その時に、お追従(ついしょう)やおべっかではなくて、心の底からいいところはいいと褒めることだ。これが大事であろうと思う。対人関係の調和の方法の秘訣でもあろうと思う。
6.実相円満完全の真意
私は、生前からよく「人間の実相、生命の実相、こうした実相というのは円満完全だ」というふうに言っておりましたし、人間の実相は神の子の本質ですから、円満完全ということが間違いのないことです。それは事実認定としてもまさしくその通りでありますが、事実認定だけではなくて、これは効果という面で見てもその通りだと思う。
自分の実質を本当は完全円満なものではなくて、非常に歪(ゆが)んだもの、曲がったもの、形の変わったもの、こういうふうに思うとだんだん自分が嫌になってきます。他人に対してもそうです。善悪の二元論というのはよくあるけれども、この善悪二元の物差しでもって人に物差しを当てると、その人のいいところも出てくるが悪いところも出てくる。そして、悪いところを切って捨てようとしてくる。そうすると、悪いところを見出された方は、「切って捨てられてたまるものか」ということで、次には抵抗が始まってくるわけです。
このように、もちろん人間には、長所も短所もあるでしょう。それは私も十分に知っておりますが、できるだけよいところを見てやろうとする努力、これが大事です。とても大事です。こうした努力が、実は天国建設のための努力でもあるわけです。他の人間の中から神性を拝み出す。よいところを拝み出す。これが大事です。
これが嘘かどうか試したければ、ご家庭で実行されたらよい。子供が家庭内暴力をふるってやまない時には、親というのはたいてい子供を裁いている。子供を「お前は悪い子だ、お前は親不幸だ、お前は勉強しない、お前は不良だ、お前は将来どうなるかわからんぞ」。両親はたいていこうしたことを言っているんです。間違いないです。子供を裁いているのです。その結果、神の子の子供の部分が反乱を起こしている。すなわち、その暴力をふるっている子供というのは、実は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が方便を使っている姿かも知れない。そして、親に間違っているところを教えているのかも知れない。子供たちに、自分が教えられているのかも知れない。こうした観点もあるわけだ。
親が子供の暴力でほとほと困って、どうしたらいいかと、こういう相談もあるわけだけれども、そうした時に子供に「親不幸だ」と言うことをやめて、素直に「申し訳なかった、わしが悪かった」と、このようにお父さんならお父さん、お母さんならお母さんが手をついて謝(あやま)ってごらんなさい。どうなるかね。子供はピタッと暴力をやめるはずですよ。「ああ、親にそんなことまでさせて、自分は悪い子だった」、急に反省し始めます。「親に手をついてまで謝らした。ああ、自分は本当に悪い子であった。もう親に二度とこういうことはさせまい」。こういうふうに思うようになる。これは、「生長の家式」であるわけだ。
これは他にもある。妻と夫の問題でもそうだ。お互いに「お前が悪い、お前が悪い」と言っていたのでは、家庭内はいつまでたってもダメです。だから、そうしたことに気づいたら、素直に「ああ、わしの方が悪かった」「いや、私の方が悪かったのです」と、こういうことをパッと言えるような訓練、これをしておくことが大事だ。そうすることで、相手の中にある本当のいい神性が出てくる。拝み出すことができる。
だから、「立ち向かう人の心は鏡なり」と言うけれども、相手が悪人に見えるというその人もまた、悪人である。これは間違いない。それは相手の中にある、少なくともよい実相を拝み出していないという事実があるからだ。
たとえば、嫁が来ることによって、姑とたいていいさかいが起きると、よく言われている。そして、「なんてお母さんはあんなに心がいやらしいの、あんなに意地悪(いじわる)なの」と、嫁はたいていこういうように思うわけだけれども、姑のそうしたいやらしい心を呼び出しているのは、実は嫁の中に、その姑を排斤しようという心があるからなのです。そういう心があると、だいたい意地悪になって返ってくるわけだ。だから、周りから意地悪をされるとよく思う方は、自分の中にも人を排斤するような、そういう気持があるのではないかどうか。これをよくよく考えねばならん。たいていの場合はそうです。「立ち向かう人の心は鏡なり」です。自分の態度が変われば、相手の態度はコロツと変わってきます。それが大事です。特に意地悪をされやすいと思う人は、自分は裁く心が強くないかどうか。善悪の二元論的に人を見ていないかどうか。人をだめだと言って切って捨てていないかどうか。人をだめだと言って切って捨てるタイプだと、人に切って捨てられるようになります。これはもう間違いないことなのだ。
相手の中にどれほどいいものをつかんでいくか。それもうわべの心ではなくて、心底から相手の中にいいものを見出す。これは大事なことだと思います。これが本当に大事なことです。これが「実相円満完全」ということの真意です。本当に人の中から良いものを拝み出す。拝み出せなければ、悪いものが出てきたら、自分の中にも足らざるところがある、そういう反省をしていただきたい。こう思います。自分に立ち向かう人の中に悪人が出て来たら、自分もまた悪人である。その悪人の原因をよく考えなさい。相手の神性の悪いものを呼び出したのは、自分の中の悪である。悪のみが悪を呼び出すのである。悪と悪が呼応しているのである。このように思っていただきたい。本当に相手を完全に、円満に、引き出していくこと。これが本当の修行者の道です。これをよくよく考えていただきたいと思う。
7.光の人生を生きる
さて、相手の善を拝み出す、仏の部分を拝み出す、という話をしましたが、光の人生を生きようとする心構えが、私はまず出発点だと思います。
皆さんは、自分は暗黒の人生を生きたいのか、それとも光の人生を生きたいのか、これを今、はっきりと心に問うてみて下さい。もし、皆さんが暗黒の人生を生きたい、暗闇の人生を生きたい、人間不信の人生を生きたいと思うなら、しかめっ面(つら)をして、人の悪口ばかりを言っていればよい。人のアラばかり探しておればよい。人を厳しくこき下(お)ろしておけばよい。
ところが、光の人生を生きたいと願っているならば、そうしたことは忘れ去ることだ。流し去ること。気にも止めないことだ。そして人を見ては、よいところだけを褒(ほ)めていく。よいところを見ていく。たとえ、よいことを見ることによって、その人が自惚(うぬぼ)れたりすることがあったとしても、しかし、その自惚れのつけはその人自身に還って来るだろう。私はそう思う。ある人を見たら、よいところを見ていくことが大事だろうと思う。
地上を去ったあの世の世界には、天国、地獄という世界かある。地獄という世界が現にあって、そこでいろんな人が苦しんでいるということを、私はまざまざとこの目で見た。私は思うが、彼らを反省という武器によって、悪人として悟らせるということも大事だけれども、彼らの中にある善なるもの、素晴らしいものを拝み出す、こういう努力も大事だろうと思う。
彼らだって人間として生きていた時に、そんな徹底的な悪人であったかと言えば、私はそうではないと思う。たいていの人は普通の人間であったのだ。普通の人間であったけれども、心の波動というのが乱れていた。ただそれだけが原因であった。私はそういうふうに思います。
したがって、悪人と見えし人の中にも、褒むべきところがあったら褒めること。これが大事だと思う。その結果がよくなるか悪くなるか、それは別です。ただ、相手の中の善なるものを見て、拝み出していくこと。これが大事です。否定的な言葉を出さないこと。悲観的な言葉を出さないこと。徹底的善意でもって、相手の中にある真理をつかむこと。真実の姿をつかむこと。その神の子の部分が見えないのなら、自分に間違いがある。それを私は言っておきたいと思う。
だから大事なことは、まず「決意」です。皆さんはどうするのか。光の人生を生きるのか。それとも闇の人生を生きるのか。どちらにするのか。地獄に行って、鬼たちの欠点ばかりをあばいている人、それで彼らを本当に悟らすことができると思うでしょうか。
地獄に行っても、地獄で迷っている人たちの心の中にいいものがあったら、それを見出していけるような人、こうした人こそを私は本当の仏だと思う。地獄霊といっても完全な真っ黒けではないわけだ、表面上はたとえば暗い姿をしていても、それは本当は、神の子が煤(すす)けているだけなんだ。表面上が曇っているだけで、本当はその曇りを除いた時に真っ白な光を放つことができる。私はそれを数多く見てきた。そうした迷いのべールがかかっているだけなのだ。
それは、ちょうど電球がどのように輝いていても、電球の表面にゴミや埃(ほこり)がたまったら電球は暗くなる。あるいは、風呂敷(ふろしき)をかけられたら電球は暗くなるだろう。そうしたことと同じだ。
光の人生を生きるためには、こうした「本来闇は無いのだ。本来罪も無く、闇も無く、暗いものは無い。人の欠点は無い」と、強く言葉の力でそれらを否定し去ること。そして、「本来光しか無いのだ。」と強く言うことだ。地獄というのはこうした行為を続けていく時に、おそらく消えていくと思う。私はそう信じて疑っていない。
8.希望はかくして実現する
さて、内在する叡知(えいち)の話をいろいろとしているわけだけれども、結局人間は、仏子(ぶっし)であり、仏性(ぶっしょう)があるのであり、また、神の子としての本質があるのである。そしてそれは、生命の実相の部分が各人にあるということ。そのままにあるということなのだ。あとは、希望を実現するということは簡単なことなのだ。
神の子が何かをなさんとして、それが失敗するということが果たしてあるだろうか。成功しないということが、果たしてあるだろうか。神の子が本当に、神の心を心として何かをなさんとする時に、協力者が出ないことがあるだろうか。そうしたことは、あり得ない。私は、世の中にはよいことがあったら協力したいと思っている人なんていくらでもいる。そういうふうに思っています。
経済的な問題然(しか)り。神理の伝道然り。さまざまな面でお手伝いしたいと思っている人は、いくらでもいる。こういうふうにして、本当にいいものであるならば、必ず協力者が出てきて助けてくれる。私はそう思っています。
だから何をどうしようとか、こういうことを計らい心で思ってはならん。本当にいいものであるならば広がっていく。このあなたたちの教えであっても、本当にいいものであれば、おそらく広がっていくだろう。そして、より多くの善と、より多くの光とを持ち来たらすようになるだろう。
私も、『谷口雅春言言集』『谷口雅春雪示集』に続いて三冊目の本を世に問うわけだけれども、これについてもいろんなことを言う方はいるだろう。ただ、それに対して、あなた方はいちいち反論したり、反駁(はんばく)したりしていてはならん。それはひとつの闇の行為だと私は思う。あなた方は、真実のものを出していくことだ。本当の光を出していくことだ。光が行進していく前に、闇は退却していくであろう。
勝敗は、事実が決しているということを知リなさい。「谷口雅春の霊言」を語れるのは、「谷口雅春」だけである。私のこの霊言のような内容を語れる人は、この地上には誰ひとりとしていない。それが語れるのは、「谷口雅春」しかいないのである。こうした霊言、霊示、また、これは『谷口雅春の大復活』という名が冠されているけれども、「大復活」の言葉を語れるのは「谷口雅春」だけである。それが真実であるかどうかは、事実そのものが決定している。事実そのものが勝敗を決していると思う。
だから諸君は、この法を信ずる人は、疑ってはならん。断固として強くありなさい。事実が勝敗を決定する。
そしてこの私の書物を読んで、どれだけの人が勇気を起こされるか、鼓舞されるか、光を与えられるか。こうしたことを知って欲しい。多くの人が勇気づけられ、真実、天上の世界がある、霊の世界があって、人間には実相の世界かあるのだということに目醒めた時に、これはひとつの大きな希望です。私はそのために本書をつくろうとしている。
多くの人の目を醒まさせたい。地上にある多くの人たちは、目が醒めていない。「生長の家」というところで、私は五十数年間法を説いてきたけれども、わずか信徒はまだ三、四百万人しかいなかった。しかし、私は今できるならば、日本人一億二千万人全員にこの霊的世界の実相を教えたい。全員に知って欲しい。日本だけではない。ブラジルに、アメリカに、オーストラリアに、世界のすべての人に知って欲しい。
その前には、私は小さな人間心、計らい心を捨てた。『谷口雅春の大復活』が、いったいどこから出るかというようなことは関係ない。私は全人類を救いたいのだ。全人類を救うためには、そうした情実でもって物事を考えてはならん。
私は、真実の書を天上界から一冊でも多く送りたい。送ることによって、「谷口雅春」という近年に肉体を持った人間が霊示を送ることによって、霊界が本当にあるのだということを、実相の世界が本当にあるのであるということを、ひとりでも多くの人に教えたい。知らせたい。この願いは、尽きることがない。
どうか、我が願いの前に道が開けるように、私も析っている。地上の諸君も、我が前に道が開けるように、そして多くの人が従い来たるように祈ってほしい。それを心からお願いして、本書を終えるとしよう。