目次
1.頭が良いということには、知性・理性・悟性の三種類の働きがある
このたびは、宗教家でない私に、瞑想の方法を伝授せよという言葉を賜(たま)わりました。まあ、とくに私は、瞑想をしたわけでもないので、素人(しろうと)の私に、どれだけのことが、言えるかは、わかりませんが、期待にそえるかぎりのお話を、していこうと思います。名づけて、「カントの頭の良くなる瞑想」といたしましょう。
まず、私が話をしたいことは、人間が頭が良いということには、三種類の、知性の働きが、あるということを、知らねばならぬということです。
第一の知性は、これは計算的頭脳と、言われる知性であります。つまり、テキパキと、ものごとの処理ができ、計算ができ、事務の処理ができるという、まあ、高度な事務処理能力という意味での、頭の良さです。これは、工業文明、科学文明が、進んできた近代のなかにおいては、ずいぶん重視されて、きつつあります。
第二番目の知性というのは、これは、思索する知性です。つまり、ものごとを考え抜く、考えるということにおける、知性です。この考えるという作用は、論理的にものごとを組み立てていく。あるいは、分析的に見ていく。こうした論理という枠組みのなかで、思想を形づくり、つまり、分解していく、こうした作業としての頭の良さというのがあるのです。まあ、これを理性と言っても、いいでしょう。
先程の一度目の、一回目の頭の良さ、計算的頭脳のことを、まあ、何と表現するかむずかしいけれども、これをまあ、いわゆる、「知性」とすると、この二番目の論理的にものごとを考えて、見抜いていく力、そして、たとえば、話を組み立てていく力、また、文章など書かしても、筋立った文章を書く力、こうした考える力、知性というもの、これを、「理性」と言います。
三番目の知性とは何か。これは、先程から言っている、いわゆる大きな意味での知性のなかで、何に当たるかということですけれども、一番目の知性とは、小さな狭義の知性でありますが、狭義の知性、狭義の理性の次にくる三番目の知性というのは、狭義の「悟性」であります。この、私が言った知性、理性、悟性というものも、大きな意味での知性には、もちろん、入っておるけれども、人間の主体的判断能力、行動能力の三つの原理であるわけであります。
この三番目の悟性は、いわゆる、直観とも言うのです。霊的な直観、あるいは、宗教的直観、こうしたもの。あるいは、芸術的直観。これが三番目の悟性と言われるものなんです。ある意味では霊能者などの能力、これも悟性と言われるものでありましょう。こういうふうに、大まかに頭が良くなるとかいう、その頭、というものを分析するならば、頭に当たる部分は、知性・理性・悟性の三つに分類することができるのです。
2.感性は動物的な感覚の延長で、人間的頭の良さというものから除外される
まあ、もちろん、これ以外の機能として、あるいは作用として、人間には感性というものがありますが、この感性の働きをもって、頭がいいというには少し、飛躍があると思う。感性というのは、やはり、これは動物的な感覚の延長にあると、私は考える。感性は動物でも十分に持っており、むしろ人間以上に感性が、発達しているのが動物であろうと思います。
鳥類であれば遠くまで目が利(き)く。あるいは、犬であれば嗅覚が異常に発達しており、人間の数千倍の嗅覚を持っておる。あるいは、聴覚も、人間よりも、はるかに優れた聴覚を持っていると言う。また、人間が見えないような光線を見ることができる動物もおれば、人間が聞くことができない振動数の音を聞くものもあれば、あるいは、人間が持っていないような、そうした優れた感覚を持っておる動物もいる。
また、感性の究極を見れば、自分の、自らの体を変化させていくようなカメレオンのような感性というものもあろう。あるいは、海底の、底において、自らの、色彩を、周りの岩や、土の色に変えていく、カレイ、あるいは、平目というのであろうか、こうしたもののような、感性というものもある。ただこうした感性というものを追求していくならば、人間よりも、むしろひとつひとつの動物のなかに、優れたものが数多く秘められておるようである。ですから、これは人間が求めていくうえでの頭の良さというものではなかろうと思う。
ただ、比較的頭の良さに、関わる感性としては、現代人たちが、とくに、日本人たちが、フィーリングという言葉で呼んでいるものがあると思う。これは、実は、感性と、先程述べた悟性との中間にありながら、どちらとも定義しかねる領域であろうと思う。単なる感性としてとらえた場合の、フィーリングが、これが人間の頭の良さ、知性につながっていくのではない。ただその感覚のなかで、霊的直観が働く場合に、それを、悟性の要素が、加わっているという意味においての頭の良さと言うことができると思う。
こういうふうに、人間の感覚機能、作用においては、五官という感性の機能、それから知性、理性、悟性という四つの知覚能力、これが与えられておるけれども、このなかの最初の感性というのが、いわゆる頭の良さというものからは、除外される。ゆえに、知性、理性、悟性の三つが、我々が研究に向かうべき対象であると言えよう。
3.頭を良くする方法の第一――情報処理能力を高めて知性を磨く
まず、最初に、頭を良くする方法のなかの、第一番目の知性の磨き方、いわゆる狭義の知性について。これは事務処理能力や、あるいは、学校の試験の勉強、こうしたものの処理能力であろう。この最初の知性の発達した人間というのは、学校ではいい点を取るであろうし、企業とか役所に勤めては、有能な社員、あるいは、役人となっていくことが、ほぼ見えておるのである。
この知性の中核をなすのが何かと言うと、記憶能力と、判断能力です。この二つの能力が、知性を形成していくのです。まず、最初の記憶能力についてでありますけれども、これは、よくものごとを知っておるということです。広くものごとを知っておる。つまり、これは情報の収集能力です。
二番目の判断能力というのは、これは情報の分析能力です。つまり知性の根幹をなしているのは何かということ、情報の収集と、その分析、これにつきておるわけです。学校の成績が良くできるのも情報の収集とその分析、これができるということであり、会社で仕事ができるというのも情報の収集と分析、これが良くできるということなんです。つまり、情報処理能力が、この知性の根底にあるわけです。
であるならば、この情報処理能力という名の頭を良くしていく方法は、一体何であるかということです。まあ、これははっきりしておるのです。これは訓練ということなんです。訓練の要素によって、その情報の収集、分析ということ、これが早くなるんです。あるいは記憶し、判断するということが、訓練によって発達してくるのです。訓練によって、的確性が高まり、ますます能力が発揮してきます。
4.訓練によって発達する知性の約六割が先天性、約四割が後天性
この、いわゆる訓練によって発達する、知性という領域は、先天性のものが約六割、後天性のものが約四割です。したがって、いわゆる学校の勉強が良くできる、できないと言っても、先天的にこれを受け継いでいるものは六割であって、残りの四割については、これは努力によって変えていけるものなんです。努力、すなわち訓練なんです。ですから、勉強ということ、これは努力によって変えていけるものなんです。努力、すなわち、訓練なんです。
したがって、勉強ということに関しては、勉強時間を増やし、教科書を読み、参考書を繰り返し、繰り返し反復して、記憶と、そして、それを書く作業をする。あるいは、読んで話す。こういう作業を繰り返すことによって、能力は高まっていくのです。これはだれにも通用することです。
だから、これの四割をフルに使った場合、残りの六割の先天的な部分がどれだけ違うかによって、各人の能力が違うのだけれども、やはり、たとえば、通常人に期待される能力を、七割とするならば、この七割の能力の組み立て方が、先天能力六割に、後天能力一割と組み合わすか、あるいは、先天能力三割に、後天能力四割と組み合わすか。これは、いろいろであるけれども、通常要求される、たとえば、七割という能力の発揮の仕方は、この組み合わせによって決まるのです。
ですから、この発揮の仕方によっては、さまざまな、出方があります。けれども、通常、要求されるレベルが、十割でない以上、すなわち、たいてい七割か、ハ割である以上、努力によって、ほとんどが、克服できる問題なのです。
5.知性を磨く瞑想――連想ゲームのように、いろんな図柄を心に思い浮かべる
したがって、この意味での頭を良くするためには、瞑想というよりは、短時間において、頭脳の切り換えをする訓練をする。これの反復です。これを、瞑想という言葉で言うとするならば、瞬時に意識を切り換える瞑想ということになります。つまり、どのような外部的な、情報が入っても、どのようなことが起きようとも、どのようなできごとが、出てこようとも、この心の状態を瞬時に切り換える訓練、これができることが、この第一番目の知性を磨く方法となります。
ですから、瞑想方法において、この最初の知性を磨くためには、心のなかの図柄を、次々と切り換えていく練習というのが大事なわけです。つまり、どういうふうにするかと言うと、瞬時に心の図柄を切り換えていく訓練ということですから、いわゆる、まる一日瞑想するとか、一時間同じ瞑想をする、とか言うのではなくて、連想ゲームのような形で、次々といろんな図柄を心に思い浮かべる訓練をさせると言うことです。
「定(じょう)」に入る方法は、一般と同じでありますけれども、指導者が前に立って、心に描く図柄を次々と指示していくわけです。
まず、蝶(ちょう)を思いなさい。そして、蝶が出て、その色が出て、形が出て、それが空中に飛ぶ姿まで連想させたら、次に花を思う。どんな花かを、思わせる。花を見た場合には、次にその蜜を、思わせる。蜜に、蜂が飛んでくるのを見る。蜂が巣箱に、帰って行くのを見る。巣箱に蜜が、溜(たま)っていくのを見る。その蜜を管理人が取っていくのを見る。その管理人が取った蜜が、溜っているのを見る。そして、蜂蜜ができるのを見る。その蜂蜜が運ばれていくのを見る。そして、一般家庭に配られていくのを見る。そして、食べられるのを見る。そして、心の糧となり、栄養となるのを見る。
こういうふうに、連鎖反応的に、次々といろんなことを想像していく訓練、この時間、だいたい三十秒単位でけっこうです。こういうことを続けていく。つまり、二十も、三十もの、そういう連続して起きることを想像、予想させながら、誘導して、次々と図柄を換えていくのです。
そして、心のなかの雑念を振り払って、そういう図柄を描けるような訓練をしておくと、これはつまり、勉強の能率が上がり、仕事の能力が、上がるのと同じことになるわけです。勉強の能率が上がらない人というのは、要するに勉強中に、雑念ばかりが心に浮かんで、集中していないわけです。仕事においても同じです。雑念が湧いてきては集中できないのです。ですから、図柄を指示どおりに、次々と切り換える訓練、これをやっておく必要があるわけです。
あるいは、今は、蝶と花の話をしましたけれども、ある人の一日というのでもいい、だれか第三者の一日でもいい。朝起きてから、夜寝るまでの二十四時間を、要するに十分ぐらいに短縮して、想像させるわけです。まず、朝起きたときを想像させる。そして、着替えをするところ。朝食を食べるところ。出掛けていくところ。通勤電車に乗るところ。降りるところ。会社に入るところ。あいさつするところ。午前中の仕事をするところ。昼食を食べるところ。午後の仕事。そして、引けて、同僚と話をするところ。帰って来るところ。帰って来てから風呂に入るところ。食事をするところ。読書をするところ。寝るところ。
こういうのを、短時間において、十分ぐらいで次々と連想させる。こういう訓練をさせるんです。
6.頭を良くする方法の第二――考えを組み立てる能力を高めて、理性を磨く
二番目には、理性を磨く瞑想をします。これは、もう少し、高度な意味での、知力ということになります。これは先程の知性が、事務処理的知性であり、学生の知性、生徒の知性であるとするならば、この論理的な能力、理性というのは、もう少し高度です。いわゆる大学教授的な知性であります。あるいは、文筆業の方、あるいは、知的職業についておる方の、知性であります。裁判官、弁護士、こうした知的職業についておる方の知性が、二番目の論理的知性に当たると、私は考えます。
この論理的知性の根底には、もちろん訓練ということが、あるわけでありますけれども、これは、いわゆる先程の、単純反復作業という意味での訓練では不十分であります。この論理的知性を養うためには、一定の期間、思考を集中するという訓練が大事なわけです。少なくとも、たとえば十枚、二十枚のエッセイを半日かかってでも書き上げるような、根気強く、ひとつの目標に向かった努力ができる。こうした知性が必要なわけです。
そのための方法として、何があるかというと、まあ、一番一般的な方法としては、まず、読書があるわけですね。読書の習慣を持つということ。そして、その読書も十分、二十分の短時間の読書ではなくて、二時間、三時間というたっぶりとした時間を取った読書の習慣を、身につけるということがひとつです。あるいは、文章を書いたりする。考えたことを、文章としてまとめる、訓練をする、こうしたことがひとつです。
7.理性を磨く瞑想――ひとつの題(テーマ)についての物語を瞑想のなかで創作する
したがって、これを瞑想方法のなかに取り入れるとするならば、同じようなことをやらせるわけです。あるひとつの題、あるいは、標語、そうしたものを与えて、それについての物語を、瞑想中に創作させるのです。ですから、たとえば、これから一時間で、ある小説を構想してもらうというような題を、たとえば、出すわけです。
つまり、そのテーマを設定する。テーマの例として、外国の地で、あなたが新しい人と出会って、ロマンスが生まれるという、たとえば、ラブロマンスの小説。あるいは、刻苦勉励(こっくべんれい)して立身出世していくテーマ。あるいは、戦国時代の時代劇。いろいろあります。テーマはね。そうした、ひとつの小説、あるいは、エッセイになるようなテーマを、指導者が選ぶわけです。
そして、恋愛小説なら、恋愛小説というテーマを与えて、一時間くらい、そのテーマを考えさせるわけです。その瞑想をさせるんです。頭のなかでストーリーを進めさせていく。そういう訓練をさせるのです。こうした訓練を、毎週一回ぐらいずつやっていくと、その人の論理的思考能力、つまり、理性の部分が、ずいぶん高まっていくのです。ものごとを組み立てる能力が、ついてくるということですね。まあ、これも現代人に欠けていることであろうから、こうした瞑想も大切です。
たとえば、宗数的な方であるならば、禅宗なら禅宗というテーマを与えておいて、その人が、たとえば、会社に勤めておるならば、会社を辞めて、出家して、頭を丸めて、禅寺に入門して、修業して、悟るというようなテーマを与えて、それを一時間、ストーリーとして考えさせる。こういうことをするわけですね。
8.頭を良くする方法の第三――自分の心を見つめ、高級霊と交流し、悟性を磨く
三番目の、悟性としての頭の良さの磨き方について、話をしたいと思う。まあ、この悟性の磨き方は、前述の、やはり理性、あるいは、いわゆる知性とも、関係があって、悟性だけが、極端に発達している方も、なかにはいるけれども、通常は、知性、理性が、その土台となっておるということが、前提であります。
ただ、よくあるように、教養がなく、知識はないけれども、いわゆる悟っている。妙好人(みょうこうにん)という人の存在があることもまた、事実なので、知性、理性の前提をはずした悟性も、ある、ということを、私は、認めたいと思います。
けれども、期待されるべき悟性というのは、やはり、もっと高度なものであり、最終的には、諸如来、諸菩薩が持つような、そうした能力を目指す悟性であろうと思います。つまり、霊的直観をいかにして磨くかという意味での悟性であります。
この方法は話せば、長くなっていくのでありますけれども、ひとつには、ひとりになる時間を、つくるということです。昔からイエスの時代にしてもそう、ブッダの時代にしてもそうです。このように、悟った人というのは、ひとりになる時間というのをつくっておるのです。ひとりになる時間というのは何かと言うと、まあ、一般的な言葉で言えば、神と対話する時間であり、もう少し具体的な話をすれば、守護霊とか、指導霊と対話する時間であります。つまり、自分の心を見つめて、人間以外の高級諸霊たちとの交流の時間をつくるということが、この悟性を磨くということになります。
こうしたことを進めていくと、芸術家は、だんだんインスピレーションが湧いてくるようになり、また、詩人は思わぬ詩が、出てきたり、宗教家は悟りを深めていって、あるいは自動書記、あるいは霊言、あるいは霊聴というような形で、高級霊たちの声を聞くようになることもあります。まあ、これが、いわゆる瞑想のほんとうの根本であろうとは思うんです。
けれども、この道の進め方として、私が提唱したいことは二つです。第一点は人間としての、正しい常識を根底に持っている、ということです。この正しい常識が根底にない場合に、いわゆる、霊がかりとなり、おかしな人物となっていく危険性が、非常に多いのです。したがって、ベースとしての人間性が、つまり、正しい常識人である必要があります。この正しい常識人としてベースがない人間は、この悟性という面での、頭を良くする瞑想をしてはならんのです。
9.悟性を磨く瞑想――自分の守護霊と心のなかで対話する
二番目は、要するに心を鎮(しず)めて、守護、指導霊との対話を開始するということ。ですから、瞑想ということであれば、一時間なら一時間、坐して自分の守護霊を心に思い浮かべさせる。そして、その守謹霊と、一対一で対話する姿を、イメージさせるわけです。
つまり、守護霊が目の前にいるとして守護霊が、自分に何を言うであろうか。何を語りかけるであろうか、ということを考える。そして、守護霊の語りかけに対して、ひとつひとつ答えていく。その質疑応答(しつぎおうとう)が、自分の反省となり、また、未来への希望となり、祈りとなるはずです。
つまり、自分の守護霊や、指導霊がいると考えて、その瞑想の期開中に、自問自答、ひとりごとを繰り返していくわけです。そして、守護霊が第三者としてそこにいるとして、自分の問題点、欠点、反省すべきところを、ひとつひとつ点検していくわけです。
ですから、坐らせて、あなたの目の前に、あなたの守護霊がいる姿をイメージして下さい、ということを言います。そして、その守護霊と心のなかで対話をはじめて下さいということです。その対話は、あなたが心にひっかかっていること、問題のあること、あるいは、反省すべきこと、こうしたことをひとつひとつ主題として、対話してみることです。これをやられると、だんだん、ほんとうに霊的に、インスピレーションを受けるようになってきて、答えが得られるようになってきます。いわゆる問題の解決ができるようになるんです。これが、頭を良くする瞑想の究極、悟性の瞑想であります。
以上の知性、理性、悟性という三つの頭を良くする瞑想方法を、つきつめていくことが、私が今回述べた、頭を良くする瞑想の方法ということになります。まあ、この方法で努力をしていただきたい。以上で、時間がきたようですから、私の瞑想は終わらせていただきます。