目次
2.決断の時
3.中年の孤独
4.再婚の時期
5.新しい出発
(1988年9月13日の霊示)
1.なぜ離婚したくなるか
高橋信次です。きょうもまた、愛の讃歌の話をしてゆきたいと思っています。きょうはねえ、ポピュラーな話題です。「離婚・再婚を乗りきる法」なぁーんて言ってね、よくある話について話をしたいと思います。
まあでもね、宗教なんか入ってくる人は、離婚者なんか多いねえ。やっぱり心に傷があって、なにかすがりたくて、そういうところに入ってくるっていうことね、そんなことはよくあります。だから、かんたんにいやあ、「全部人生の糧だ」なんて言う人は、それで終わりなんだけどね。それでまちがいじゃない。
ところでねえ、まあこの標題である「なぜ離婚したくなるか」ということですね。それを考えてみたいと思いますが、もちろんね、逆の考えもあると思うんだよねえ。結婚と言ってねえ、まったく生まれた環境も違い、親も違い、いろんな条件が違う男女がねえ、二十代かそこらの年代でいっしょになって、その後四十年も五十年もいっしょに生活できるということ自体が、ひとつの奇跡かもしれないね。だから、むしろ私たちは、離婚をなぜするかというよりは、結婚を続けられるということが、ひとつの奇跡であると思わなきゃいかんかもね。
だって、ふつうどんな人といっしょにいても、まあそら何十年もいっしょにいたら、いやになることのほうが多いんじゃないでしょうか。みなさん、どうでしょうかねえ。親友といったって、一日中ずーっといっしょにいたらどうですか。やっぱりなんかいやな感じしませんか。ねえ、どんな親友だからったって、あなた、朝起きたらいる、ねえ、御飯の時もいる、勉強の時もいる、仕事の時もいる、夜寝る時もいる、お風呂のなかもいたりしてねえ、そんなことすると、だんだん気持ちわるくなってきますね。
だから、親の許嫁(いいなずけ)なんていうのはまあともかくとして、偶然のように外見上、出会った男女が、何十年もいっしょに破綻せずに同じ船に乗っていけるということ自体が、ひとつの奇跡かなあと思います。
そしてねえ、この奇跡を演出するために、神さまは子供を与えたんだと僕は思いますね。しかもその子供がね、わずか一年ぐらいで育ってしまうんだったら、離婚なんかもっと増えていると思います。離婚・再婚なんかやりたいほうだいですね。ところが、日本人の心情では特にそうですが、子供のことを考えて踏み止(とど)まる、というのが多いですね。「子はかすがい」と昔から言っていますがね。
男性だってねえ、女性は新鮮なのがいいに決まってますよね。毎年毎年新しい奥さん迎えたら、こんな気持ちのいいことはないんですね。ところが、やっぱり子供ができちゃうのでね、ひとつのあきらめというのが働くわけですね。女性のほうにしてもそうですね。子供を生んで育てようと思っているのに、次々とお父ちゃんが新しい女性に手を出したりしてたら、たいへんなことになりますね。安心して子育てができません。それから、生んだりできませんね。そういうこともあって、やはり、子供が生まれ、そして成長するまでに、何十年もかかるということが、ひとつのその形式を規定しているように思いますね。
そして二十年も連れ添った夫婦であるならば、たとえば二十代後半で出会ったとしても、もう四十代から、五十代になりますねえ。子供が大きくなるころには、もう五十代に入っていきます。そのころには、もうだいぶ精力も減退しちゃってね。「もう今さら、もう一回結婚するほど元気もないわ」となって、あきらめとなって墓場へ行くわけですね。だいたいこういうふうに、うまーくできているんですね、基本原則はね。
だから、なぜ離婚したくなるのかと考える前にね、結婚し続けるということが、やっぱりひとつの奇跡であるなあと思わなきゃいけない。だから、本書の読者のなかで、夫婦なかよくずーっと、離婚の話も出ずやってこられた人たちはねえ、神さまに感謝しなきゃいけないよ。続けられるっていうこと自体奇跡ですよ。そう思わなきゃいけない。それと、子供にも感謝しなきゃねえ。子供のおかげで、こんな私が一生楽できるとかね。そういうことは、やっぱり感謝しなきゃいけませんよ。
だって、女性も二十代の時はいいけど、あんた三十代、四十代になってきたら、だんだん男性だって、そんなのね、あなた、だんだん、そんなにやっぱりかわいくなくなってくるよね。ミスなんとかというのが、だんだん四十過ぎて、しわが増えちゃったりして、腰が曲がっちゃったりして、お尻にでっぷり肉がついちゃったりしてね。そしたら、「こんなはずはない。オレが結婚したのはミスと結婚したんであって、こんなのオレのミスだったあ」なんて言ってたってねえ、しょうがないんです。だからまあ、結婚続けられているということも、ひとつの神の祝福と考えなさい。
クリスチャンのなかには、離婚を絶対しちゃいかんという教えがあるところもありますねえ。神が妻(めあわ)せたものを、人間心で裂いてはいけない、死が二人を引き裂くまで、なーんていう、そういうことを言うところもあります。ま、これもね、ひとつはひとつでしょう。ただ、現在の日本みたいに、コンピューター診断で見合いして、結婚なんてポコポコしているようなところでは、なかなかこの神聖な感じが生まれないかもしれませんね。
昔の社会のように、だいたいひとつの村に生まれたら、その村のなかで結婚があるようなとこだと、なんとなく最初から結婚の予定っていうのがパシッと決まっていて、うまくいきそうな気もするけど、都市型社会になってくると、多少混戦状態になってきてね、むずかしくはなってくるわね。そういうことがあるし、社会が流動化していろんな要素を踏まえているので、結婚の相手として予定していた人が、そのとおり見事に育たないこともあります。だいぶ変わっててね、理想的な彼になるはずだったのが、たとえば麻薬の常習患者みたいになっとったりしてね。そんな結婚するわけにはいかんわねえ、そんなことじゃね。そういうことで、いろんなことがあるのでね、難しいと思います。
それゆえに、第一志望の人と結婚できなかった人もいるし、第一志望の人と結婚したとしても、その相手がね、自分が期待してたような感じになってない場合もあります。そういうことがあって、性格の不一致、その他いろいろあって、どうしても離婚しなきゃいけなくなるときがありますね。その離婚したくなる時期は、どういう時かというのを、さらに次に話をしてみましょう。
2.決断の時
離婚したくなるときっていうのはね、男性の側から見て、あるいは女性の側から見て、両方からの理由があると思いますが、まずなんていうかねえ、相手のやることなすことすべてが、いやになるという時期があるんですね。
たとえばね、新婚のホヤホヤで仲がよけりゃね、ご主人のおなかがね、ポコッと出ててもね、「まあ、赤ちゃん体型ね。かーわいいんだから、うちの人は。もう赤ちゃんみたい」なんて言って、おなかなんかなでていた奥さんがね、嫌いになっちゃうと、そのおなか見て、「なによ、このデブデブ」ってね。「もうバケモノみたいだわ」なんてね。「こんなおなかの出た人と結婚した人なんて、世のなかにいやしないわ。私は世界一不幸なの」と、こういうようになるんですね。不思議なもんですね。まことに不思議です。
たとえばね、結婚当時は、男性の方から見りゃねえ、奥さんがこう浅黒くってもね、「これはきっと、君はハワイかなんかで泳ぎ過ぎて、こんなに健康色になったんだね。小麦色に焼けているんだね」なんて言っているのが、結婚して十年も二十年もたっても、全然色が薄れないんですね。ま、そういうのもあるでしょうが、それでも、「健康色だ。健康でいいね」なんて言ってたのが、嫌いになってくると、「なーんだこの汚ねえ、真っ黒じゃねえか。オレは黒人の女と結婚したんじゃないぞ」なーんて言ってね。「オレは雪の肌みたいなのと結婚したかったんだ。ああくやしい。残念だ」なんて言い始めますね。
そのように、男女の間でのこの値打ちなんて、もう百八十度コロッと変わっちゃうんですね。それは、その原因のほとんどは心境の変化ですね。この心境の変化のなかでね、やっぱりいちばん離婚したくなる場合には、ご主人に女性ができたときね、それから奥さんに男ができたときね、この両方の場合が、もちろんいちばん多くなることがありましょう。
他に好きなのができれば、いやになるっていうのはあります。そら人間、同時に二人以上の異性を愛するのは、技術的にかなり困難であるんですね。浮気するという以上は、そちらのほうに何か魅かれるものがあって、そういうふうになるということがあるわけですね。
そういうときもありますし、あるいは子供がないとかね、それとか、決定的なミスがあったなんてこともありますね。どちらかの不注意で、たとえば子供を事故でなくしちゃったとかね、こんなことがあって離婚になるような人もいるし、いろんなことがあると思います。
ただね、もう決断の時というのは、結局なんというかね、もうまったく感動を覚えないんですね。その人が、一生懸命なんとかよりを戻そうとして努力しているのにね、見てて、パントマイムかなんかの劇を見ている感じね。みなさんわかるでしょうか。パントマイムってわかるかな。手や足でね、無声映画みたいに動きだけで、なんか動いている感じね、そういうふうに見える。あるいは、水のなかから、太陽を見ている感じですね。わかるかな。水のなかで、プールのなかで外の景色を見ている感じね。
ああいう感じのように、このご主人がやっていること、言っていることが、どっか遠い世界のように見えてきたり、奥さんの存在がそういうふうに見えてくるとき、こういうときは、だいたい決断の時なんですね。もう戻れないっていうとこですね。そういう瞬間がくることがあります。
ただ、その途中ではね、まあ顔も見たくないと言ってても、実際そうじゃないこともあります。だからね、その引き返せるときっていうのはありますから、そのときには、引き返せるときなら引き返したらいいと思います。そのときには、やっぱりよく自分自身を反省することだと思いますね。そして、小さな気遣いを忘れないことだと思います。
やっぱりね、男性の方も、結婚したらもう釣り上げた魚と思って、奥さんのことをまったくめんどうもみないで、放ってあるんじゃないでしょうかね。たまには、誕生日のプレゼントしてやるとかね、たまには食事に連れていってやるとか、たまには服の一つも買ってやるとかね、結婚して二十年も立てば、指輪の一つも買ってやるとかね、やはりなにかしてやることはだいじですね。やはり、かたちを通して心を表わすという、そういうこともだいじです。
また、奥さんのほうもね、やっぱり僕は前の本で言った記憶あるけど、いつも魅力的であろうとする努力は、だいじだと思いますね。パンツのゴムみたいに、だんだん伸びていって、ダメになっていくような奥さんじゃあやっぱりいけないね。つねに新鮮さを保つために、どうしたらいいか考えることですね。そのためには、新しい発見をしていくこと、生活に工夫をこらしていくことね。そういう奥さんであって欲しい。
旦那様が土曜日コロコロっとしていて、出てくると、何かプーンといいにおいがするなあと思って、はいだしてみるとね、奥さんが珍しいお菓子作ってたりね、クッキー作ってたりして、「あれ、お前そんなことできるのか」と言ったら、「あら、私お菓子作るのホント好きなのよ」とかね。奥さんが意外に花なんか愛してたりしてね。そんなことがあったり、いろんなところをフッと見るとね、人間不思議な感覚に打たれてね、新鮮味が出てくることがあるんですね。
それが、もうどれもあいつの考えることはいつもいっしょ、しゃべることはいつもいっしょ、夜、要求するものもいつもいっしょ、まあ、こういうように、いつもなんでもかんでもいっしょだと、だんだん飽きちゃいますね。ワンパターンに飽きてくるんです。だから、生活にメリハリをつけるということが、だいじだと思います。まあこういうことで、引き返しはかなり可能なこともあると思いますね。
とにかくね、離婚にいたる前には、相当言葉での応酬というのがあると思いますね。相当、おたがいを傷つける悪い言葉が応酬されていることが、推定されるわけですね。
ただね、私は言っておきたいんですが、「親しきなかにも礼儀あり」という言葉がありますが、夫婦が親しくなってくると、相手を馬鹿にしてね、くさすようなことを言って、自分の愛情表現をしている人がけっこう多いんです。私が見ていると、七、八割はそうですね。もっといっているかもしれませんが、七、八割ぐらいの人は、「うちのもう、ほんと宿六はもうどうしようもなくて、粗大ゴミで、ほんと困ってんのでござあますのよお」なんて言っていますね。そしたら、「あら、奥様。そういうときにはエサをお与えになるのがいちばんですわ。エサやらないとおとなしくなりませんわよ」とかね。また別な人は、「なーに言ってんでザーマスか。お小遣いですよ。お小遣い取り上げるのがいちばんでごザーマスわよ」なんて、こういうことで、主婦どうしで井戸端合議よくやっていますね。
とにかくなんて言いますかね、自分のご主人、あるいは奥さんでもいいですが、伴侶をなんていうか、くさしてね、そして話の材料にして愛情表現するようになれば、まあかなり最低限度のレベルにいっているということは、まちがいないですね。欧米のように、そら奥さんをほめたり、旦那さんをほめたりすることは、技術的に日本の風土ではかなりむずかしいところがあることは事実ですね。いわゆる、はしの上げ下ろしにもうるさい妻とかね。やっぱりこういうのが、結構日本の風土では多いんですね。
「あっ、ウナギが出てきた。ウナギの蒲焼きだ。うれしい」なーんて言って、ガブガブっと食いつくとね、「あなた、生まれが悪かったんじゃないの、相当。ウナギなんか食べたことがないんでしょ」なーんて言われるんですね。まあそんなことはよくあります。あるいは、「もうトンカツさえ食っておりゃあ、オレは満足だ」なーんて言ってね、「トンカツは、どこそこのトンカツがいちばんうめえんだ」なーんて言って、トンカツばっかりいつも食ってたら、「まあかわいそうにねえ。貧乏人の百姓に育ったのねえ。トンカツの味が珍しいわけ。あっそう。私はもう都会育ちだから、トンカツなんかもう食べあきちゃって」なんてね。こういうのもあるでしょう。
ま、いろいろあるでしょうが、まず離婚の原因の発端は、たいてい言葉だと思います。だからね、やっぱりこれも努力はいると思いますよ。結婚しているからといって、気を抜いちゃいけないんであってね、いつも相手のいいところ見たらほめてやるような、そういう心境が私はだいじだと思います。
特に男性がね、ご主人が奥さんをいつもほめておれば、家庭はなんとかうまくいきます。いつもほめておいてやることです。奥さんはどうも欲求不満になりがちなんですね。いろいろと「足が痛い、腰が痛い」ね。「便秘だ、なんだあ」なんてね。「足が冷えた、腰が冷えた」なーんて言って、いつもいろいろ言っていると思いますが、病気がちであることを口にしやすい奥さんていうのはね、旦那から見りゃセックスアピールがないように見えるかもしれないけど、愛情を求めていることである場合も多いんですね。
要するに、ストレートに愛情表現してくれないから、自分の体が弱いことによって、ご主人がいたわってくれるというのを、本能的に要求している場合があります。だから、いつも「私は頭が痛い、腰が痛い」とか、「おっぱいが張って痛い」とか、いろいろなこと言ったらね、やっぱり、これは愛が欲しいんかなあ、ということはわかってやらなきゃいけないですよ。ねえ。そういうふうに考えてあげることですね。
だから、勇気をもって照れずにね、ほめてあげることです。また、ご主人に対してもね、奥さんもたまにはほめあげてやって、月給袋がたとえ薄くてもね、「すっばらしいですわ。あなたの年齢で、こーんな安い給料で一生懸命働けるなんて、そのファイトだけでも稀ですわ。ちょっとありませんわ。その給料でそんなに一生懸命毎日働けるなんて、あなたはきっと聖人君子に違いありませんわ」なんてほめあげておけば、なんとかがんばるもんなんですよ、ね。だから、ヨロヨロするラクダにね、ま、活を入れてやる必要があるということです。
3.中年の孤独
さて、離婚したとしましょう。離婚したとしてくるものはなにか。「中年の孤独」ですね。これはまちがいございません。中年の孤独と、引きずる罪悪感ですね。これだけはまちがいないでしょう。離婚者というのは、かならず罪悪感を持っています。
離婚者で罪悪感を持っていない人っていうのは、ひじょうに少ないですね。やっぱり子供のこと、あるいはなんで離婚になったのか、「離婚するっていうのは、オレはよっぽど人間的に欠陥があったのかなあ」という、こんな気持ちがありますね。
そして、再婚したとしても、「また失敗するんじゃないか」という恐怖心ね、これがありますし、再婚までの間「もうオレみたいな男は、結婚できないんじゃないか」こう思うことが多いです。女性でもそうですね。「もう、結婚できないんじゃないかしら」こういうことで、悶々とだいたい離婚してから何年かの間は、そういうことで苦しみます。もう二度としないこともありますけどね。そういうことで、中年の孤独というものが訪れてきます。
だから、離婚の決断のときにね、離婚した後は孤独であるということ、それから、罪悪感を引きずって生きていくことになるよと、それでも、離婚したほうがいいかどうか、それをよくよく考えておくことだね。
この中年の孤独っていうのは、いわく言いがたいものがあるんですね。歳とともに寂しくなるんですねえ。漬物は、よく漬かっている古いものが味はいいかもしれませんが、やっぱり女房なんていうのもね、「糟糠(そうこう)の妻」と言って、若いころから連れ添ってきた女房っていうのは、歳とるとともにだんだんよくなるんだよね。自分の、何て言うか、図書館がわりだし、テープレコーダーみたいなもんでね、自分たちの人生を記憶してくれているんですね。
また、人生においてね、話相手があるということはいいことですよ。話相手さえいればね、要するにね、南海の孤島に行ったって夫婦でいればね、なんとかもつんですよ。二人いればね。男女二人ずつで仲よく住んでいたら、五十年でもなんとか生活はできるもんですよ。ところが、一人だとやっぱりものすごく孤独ですね。そういうふうに男女というのはなっているんです。
しかし、残念ながらあなた方は、まず人生の緒戦において一敗地に塗(まみ)れたわけだ。そして、離婚になったわけですね。やむなくなった。さあこの時です。中年の孤独に耐えてどう生きるかですね。私はねえこの中年の孤独の時期に言っておきたいことが、そうだね、三つほどあります。
これはねえ、一つは、もう一度、沈没しかかった自分という船を浮上させるべく、まず排水をしてね、修理をする、そういう時期が必要だと思います。だいぶ沈没しかかっているわけですね。すなわち、自信がもうなくなってきております。それゆえに、まずね、この男女の問題はさておいてでも、自信ある人生を生きるために、なんらかの実績だね、自信を生むような実績をつくるその努力が必要です。
ま、仕事に打ち込むことでも結構ですし、今までまったく関心を持っていなかった分野にね、乗り出すこともだいじですね。今まで無趣味であった人間がね、離婚を契機として、たとえばいろんなサークル活動みたいなのに加わってみたりね、あるいはカルチャーセンターみたいなのに加わったり、またいろんな新たな仲間を求めて動くことですね。また、そういう趣味の幅を広げること、これがだいじだと思いますね。
二番目にはね、やはりこの時期に、深い人生観を磨いてほしいと、そういうふうに思いますね。この深い人生観を磨く方法は、やはり宗教のようなものを勉強すること、哲学、文学等を勉強すること、芸術等を勉強することだと思います。
意外に、この離婚の最大の効果はなにかといえば、神理にめざめることかもしれません。離婚した人はたいてい傷がありますから、どこかで救済を求めて、そして宗教にたどり着くことが多いですね。これなんかもひとつの意外に巧妙な導きであることもあるんですね。そうして、自分自身を深めるわけです。たいていみんな罪悪感があるから、贖罪(しょくざい)のためになにかしたくなるんですね。ま、これもひとつです。だから、深い人生態を持つための勉強をするっていうことですね。
三番目はね、残りの人生をやはり生かしてね、できるだけ明るく建設的に生きようと決意することだと思います。中年からの挫折、再出発はね、やはり暗いです。でも、暗さばかりたどってたら、いつまでたっても再婚もできないしね。また、再婚できなくてもいいとしても、仕事の面でも暗いです。やはり、エリート課長でバリバリやっとったところが、奥さんに逃げられちゃったっていうと、とたんにやはりカクッときちゃいますよね。だけど、そこが凡人であるかどうであるかを、やはり試される時期であるとも思いますね。
どんなことがあっても、明るく、建設的に生きていこうと決意したときにね、道というものは自然と開かれていくんですね。道は努力するものに開かれていくんです。だから、中年の孤独を単なる孤独とするのではなくてね、積極的に使っていくべきだと思います。
4.再婚の時期
さて、ではいよいよ中年の孤独から、「再婚」という問題があります。再婚のときには、残念ながら条件は悪くなっています。若いときには、希望いっぱいであったけれども、再婚のときには、おたがいどこか傷を持っていることが多いんですね。
両方再婚どうしっていうこともあるし、男のほうが再婚、女のほうが初婚というのもありますし、女のほうが再婚、男のほうが初婚というのもあるでしょうが、やはりなんらかの傷はおたがいが持っていると思います。
それで、男性が再婚で女性が初婚というような場合は、まあ、男性がある程度収入があって、社会的地位があることのほうが多いと思います。そういう人の場合には、再婚であっても、嬢さんがくることはあります。ただ、その嫁さんも、まあ多少なにか問題はあることは多いでしょうね。
なんと言いますかね、フレッシュな結婚をさめた目で見るような、なにかそういうことがある場合が多いでしょうし、男性に対して、自分の夫というよりは、父親がわりを求めてくるような、そういう女性が多いでしょうね。保護されたいという気持ちでしょうか。寄らば大樹の蔭(かげ)と言うべきでしょうか。再婚の場合には、残念ながら初婚のときのように、情熱だけで生きて行こうという気概は失せてね、人間に対してある程度条件で見ていくということが、多くなってくるだろうと思います。しかし、それもまた、やむをえないことでもあるでしょう。
次は、この再婚のタイミングですね。これは、子供の問題などもあって、いろいろと難しかろうとは思いますが、私はねえ、どうか、まあ哲学者のように生きて行く人なら、一生一人でもいいかもしれないなあとは思いますが、通常の社会生活を営んでいる人であれば、離婚したらね、そうだねえ、やっぱり三年以内ぐらいには再婚したほうがいいと思うねえ。五年、十年、孤独が続くと、やっぱり精神的にまいってくるし、おかしくなることが多いですね。
だから、やっぱりいったん離婚したら、その時点で相手がいなくても、まあ一年ぐらいはやっぱり傷があるからいやだけどね、三年以内ぐらいにはなんとかめどをつけようと、こういうように考えるのがいいんじゃないかなあと、思っていますね。十年もしてから再婚なんかしていると、いろいろと機能していない部分があったりしてね、困ることもあるんですね。だから、だいたい三年以内というのが、ひとつのめどではないかなあと思っています。
このときにはね、逆に男の側からいくと、あんまり相手の条件ばかり選んではいけないと思います。あなたが離婚した女性というのは、たいていの場合、気が強かったはずですね。だから、気の強い女性が離婚を生んでいるのが、ほとんどの原因です。気が強いのと、後は病弱であることね。もうひとつは、セックストラブルの多い女性ですね。この三つが離婚の三大柱です。まず、気が強い。勝気で、口汚くて、男を追い詰めるタイプです。二番目は、病弱で、要するに夫婦生活にたえられないものです。三番目は、やや淫乱ぎみですね、そういう節操がない女性ですね。この三種類が、離婚の三羽ガラスです。だから、だいたいそういう人だったでしょう。
それゆえに、再婚するときには、その前回の結婚にこりて、だいたい逆を選ぶのが多いんですね。よく言うことを聞いてくれそうな人、あるいは、あなたのその傷ついた部分を優しくくるんでくれそうな人、ま、これを求めることが多いでしょうね。
ただね、僕は思うんですが、これはご主人にも奥さんにも、両方に言っておきたいなと思うんですが、この再婚のときにだいじなことはね、相手の過去についてはもうあまり問わないという、大人の態度はとらなきゃいけませんよ。ま、結婚のときに九十から百十の間にしなさいと言ったけども、再婚のときなんかは、相手の値ぶみがずいぶんズレることがあるんですね。どういうふうに評定(ひょうてい)するか難しいんです。ひじょうに難しいんですね。見ようによったら三十ぐらいにも見えるし、見ようによれば、百五十にも見えるしね、難しいです。それは、かなりさめた目で相手を見てしまうのでね、そういうことがあるということなのですね。
それゆえにね、昔の夫のこととか、昔の妻のことなどは根掘り葉掘り聞かないでね、結婚のときに多少は聞いているかもしれませんが、後はもう忘れるということ、大人の態度で、新たに人生を始めていくという、そういう気持ちがだいじだと思いますね。
あと、子供がどちらかにある場合、ひとつの問題となりますが、ママ母であるとかね、ママ父というのがあるのかどうか僕はよく知らないけど、理論的にはママ父もあるはずだね、ママ父というのもあるかもしれないから、ママ母、ママ父どちらもあるかもしれないけれども、これはもう自分の子供だと思って育てることだね。
それはね、再婚するということはね、なんらかの縁があったんだから、ママ母になる人でもね、その先妻の子供が憎いなんておもっちゃいけない。先妻の子供と思っていた子供でもね、じつは過去世をひもといて見ると、自分の子供であったりするようなこともあるんだよね。
それがカルマの揺り返しでね、かつて、女性のなかには、昔自分の子を捨てたような、そういう女性もいっぱいいるんですよ。「私はそんなはずはない」って言っている人に限って、捨てているんですよ。やっているんだよ。覚えがあるんだよ、ね。そういう人が今世出てくるとどうなるかっていうとね、ママ母やったりするんですよ。昔のカルマの刈り取りをね。子を捨てた人の刈り取りは、今度は、他人のものと思いし子を育てるとかね、こういう経験を積まされることがあります。
こういうときに、みごとにそのカルマの刈り取りをするためには、そのママ母であっても、ママ子に対してね、優しい母親として、本物の母親以上に尽くすことができたら、もうそのカルマは完全に消滅です。終わりなんですね。
ところが、ママ子だからと言ってママ子いじめなんかしたら、またいっしょですね。そのカルマは残ってゆくのです。この親子、母子のカルマですね、これが残るんですね。もう一回来世の勉強のし直しをさせられます。
そういうことでね、どういう環境にあっても、完全なものだけを求めるんじゃなくてね、自分の魂への教訓があると思って勉強することがだいじです。
5.新しい出発
さて、再婚がスタートしました。なにがだいじかってね、まあ再婚のいちばんは、「老後の話し相手」だと僕は思いますね。ゲートボールの恋なんてありますわねえ。七十代なんかで、やっぱりおじいちゃん、おばあちゃんで恋するんだそうですね。そして、取り合いしたりするんだそうですね。七十過ぎて、けっこうおばあちゃんを取り合ったりしてね。まあそんなこともあるんだそうですが、こんなのを馬鹿にしちゃあいけないんですね。
やっぱり人間歳とったらさみしいですし、奥さんが先に死んだりした場合には、旦那は後を追うように死ぬことが多いんですね。ところが、旦那が先に死んでも、奥さんは十年以上は生きるという統計値が出てるんですね。こんなのは薄情であるというかもしれませんが、まあ、こうした結果になっているわけです。しかし、晩年はねえ、やっぱりさみしいです。どこかにもそういえば、旦那が先に死んだとこもありましたね。いろいろ考えてみると、やっぱりさみしいでしょうね。
けれども、なんていうかね、話し相手っていうのは、ほんとに欲しいもんですね。社交でつきあっただけではなくて、毎日お茶を飲んだり、ご飯食べたり、ソファーでコロコロしたりね、そういうことが、ほんとに楽しい思い出となってよみがえってくるんですね。結婚しているときは、当然だと思ったようなことがね。食後にコロコロっとして、あのソファーでひっくり返って、それで「なに、あなた、そんなとこでネコみたいに寝ちゃって」なんて言って、夫婦で言ってたことがね、別れちゃって独身したり、あるいはほんと一人で生活ずーっとしてると、フッと思い出されてね、「ああー、限りない幸福であったー」なんて、思うことがあるんですね。
まあそうしたもんで、幸福っていうのはみなさんね、やっぱり外的なもんだけじゃないんですよ。これが手に入ったらとかね、こんなもんじゃなくて、狭いながらも楽しいわが家でね、洗濯機はなくても、六畳一間でもね、なんとなく夫婦の語らいがあってね、希望があったりすると、うまくいくもんなんですね。
だからね、僕は、やっぱり幸福は、ひとつの発見能力でもあると思いますね。天之御中主之神なんかも、どっかでそんなこと言っていたように思いましたけど、やっぱりそれはあるだろうね。どんなもののなかにも、幸福を発見する能力っていうのは、だいじなことだなあと思います。
それと、もうひとつ言っておくとすると、幼少時にね、貧しかったり、シンプルな環境に育った人は、僕は幸福だと思いますね。貧しくて、あんまり豪華じゃない生活をしてた人たちはね、大人になってからいろんなことに対して、幸福感を感じやすいと思うんですね。ところが、小さいころから御殿みたいなところで生活していると、幸福感より不幸感の方が強くなることが多いんじゃないかな。現実のいろんなことを経験してね、そういうふうになりがちだと思いますね。
だから、なんていうかね、貧乏人の子沢山というけど、だいじなことだと僕は思うんですね。厳しい生活環境のなかで育っても、それなりに魂としては強くなるところはあります。いじけるところもあるよ、もちろんね。両方あるけどね。ただやっぱり、偉人は貧しい環境のなかから生まれてくることが多いですね。それゆえに、子供なんかもあまり贅沢させないで育てたほうが、たくましい大人となっていくことがあります。
そういうことでね、なんの話がしたかったかというと、新しい出発の話を結局やろうとしているわけだけども、その満足っていうことをね、喜びをどのへんに感じるかということをたいせつにしてほしいんですね。決してグレードダウンをしたとかね、自分が傷もんになったとか、過去に傷があるとか、こんなことを考えちゃいけないよ、ね。小さなもののなかにも幸せを見出していく力、これはだいじですよ。
女性なんかでも、初婚のときには、もう目一杯相手に条件を要求していたと思いますが、再婚になると、もうだんだん言えなくなってきますね。結婚していただくだけでもありがたい、という心境に達すれば、どんな人とでもうまくいくもんなんですよ。男性でもそうですよ。「僕が死ぬまで面倒みてくれるなら、もうどんな女性でもほんとうにありがたい。観世音菩薩として迎え入れたい」というような気持ちたったならば、絶対に失敗することはありません。
だからね、低いところから始めていって、幸福を築いていくという、そうした気持ちでやっていくのが人生いちばん幸せじゃないかな。僕はその「足ることを知る」ということがね、新しい出発にとってだいじだなあと思います。そう言って、本章を閉じておきたいと思います。