目次
12.お立て直しのときがきた
(1987年2月26日の霊示)
1.出口王仁三郎の大降臨は、一回きりしかない
出口です。まあ、いろいろと、言うてきたけれども、どうやらわしの本も、でき上がりじゃのう。第8章、今日は、「お立て直し」というところまで、どうやらこうやら、やっと、漕ぎつけてきた。
戦前、戦中、大本数で、一番わしがやりたかったことは何かと言えば、まあ、はっきり言えば、お立て直しじゃ。この世のお立て直し、これがわしの理想じゃった。まあ、そのために、大本ならぬ根本から、ごっそりやられてしもうた。そういう残念なことがあったわけじゃ。
まあ、じゃから、この世の勢力というのも、けっこう無視はできん。この世には、この世の、やはり法則もあれば、この世の人間の考えもあるし、この世の人間の妨害もあるし、また、協力もあるし、いろんなことがあるから、なかなか、あの世で思うたとおりにはいかん。わしも、地上に生まれる前には、このお立て直しということを中心に、やはり日本の大改革を、やろうと思って出て来たんじゃ。じゃけれども、大本の神様と天皇陛下の神様とは、どうも合わんかった。おかけでまあ、こういうふうな仕儀(しぎ)になったわけじゃ。まあ、それで今日は、このお立て直しの意味を話した上で、お前さん方へのアドバイスをいくつかして、そしてきれいさっぱり、あの世で成仏しようと思っとるんじゃ。
わしは、未練がましゅうないからのう。一冊しゃべったら、もう終わりじゃ。もう二度と、王仁三郎の声は聴こえんぞー。どんなに大本の信者とか、どんなに日本の熱心な読者が、王仁三郎さんもう一回出てくれ、なんて言ったって、わしゃあ、聴かんぞ。そう何回も出たんじゃあ、格が下がるからのう。王仁三郎は、後にも先にも一回きりじゃ。一回大降臨すれば、もう終わりじゃ。そういうことでのう、名残り惜しいけれども、もう出んぞー。出んと思うて、皆んな、しっかり聴かにゃあいかん。
2.宗教の使命は、総じてこの世のお立て直し
まあ、宗教の使命というのは何かと言えばのう、結局、宗教というのは、この世ならざるものをこの世に持ってくるんだから、そういう意味では、まあ、この世のお立て直しということは、宗教ということ自体のなかに、もうすでにあるということじゃのう。宗教ということ自体のなかにあるんじゃ。お立て直しということはのう、すでにある。そこでじゃ、最初に、簡単に、まあ、大先生みたいに、大法螺(おおぼら)吹いては申しわけないけれども、宗教の使命ということで、いくつか話をしておこうと思うんじゃ。宗教の使命というものを、そうじゃのう、わしは、五つぐらいに大きく分けられるんじゃないかと思うとる。
3.宗教の使命の第一番目は、人間存在の意義の教え
宗教の使命の、一番目は何かと言うと、これはのう、まず人間に、自分たちの存在とは何かということを教える。こういう役割じゃのう。むずかしく言えば、哲学は哲学じゃ。ものごとの追究、探究をしないで、何となくその日暮ししとれる人間は、それでいい。太陽が、なぜ東から上がって、西に沈むか、全然気にならん人もおる。
何で昼と夜があるか、気にならんでも、一生は終われるんじゃ。こういやあ、笑ってしまう人もおるじゃろうが、日本のうちの半分以上は、そうじゃぞー。理科か何かで習った以外は、太陽がどうして昇るじゃの、昼と夜がどうしてあるんじゃの、何も考えんと過ごしとるのじゃ。
何で春夏秋冬があるか、何も考えとらん。何で星が瞬(またた)いておるのか、何で月があるのか、どうして海があるのか、山があるのか、谷があるのか、川があるのか、のう、樹木は緑なのか、なぜあれが緑なのか。茶色でのうて、葉っぱが緑なのか、まあ、いろいろあろう。なぜ海が青いのか、いろんな神秘がある。こうした人間の身の回りのことを、不思議に思う目を持っとるのなら、そもそも人間とは何じゃということにさえ、やはり目がいかんようじゃ、困るわけじゃ。
まあしかし、学校の先生でも今、人間とは何じゃと、教えられる人はおらんのじゃ。のう、これが問題なわけじゃ。教えられる人がおらん、大学の先生でも、教えられん。ああ、人間は考えられる動物じゃ、と言ったところで、そんなものでは、定義になっておらんのじゃ。動物は考えておるか、どうなのかは、わからんもんのう。動物に聞いてみにぁ、聞いてみても返事が戻ってこん。ワンワンとか、キャンキャンとか言いよるから、結局、わからんわけじゃ。お前、考えとるかちゅうても、ワンワンとか、モウモウとか言うとるから、わからんわけじゃ。
そういうことで、動物が考えているかどうかは、わからん。じゃあ、人間は人間として、自分は一体何者じゃということを考えにゃいかん。つまり、人間存在についての、まあ、追究じゃのう。これをやらざるを得ん。この解答を与えてくれるのが、ひとつは宗教じゃ。じゃが、宗教のなかには摩訶(まか)不思議なものが多うて、なかなかすんなりとはいかん。学問のように答えてくれん。学問のほうでは、何万何十万年前に直立猿人が出たじゃの、何じゃのかんじゃの言うてのう、原人じゃの言うて、人間がおったじゃとか言うて、骨を発掘したりして調べておるけれども、まあ、宗教のほうでは、未だに、わからんのじゃ。
たとえば、キリスト教が、二千年前から、進歩しておるかどうかじゃ。これは、進歩しておると言える人はおらんじゃろう、おそらく。やはり、イエスの時代が最高であって、あとは下がってきたんではないのか。下ってきて、何度も何度も、垢(あか)落としをしたり、立て直しをしたりしたのが、キリスト教じゃないかのう。今のクリスチャンで、「私は、イエス様のことを説いとります」と言える人がおるかおらんかじゃ。学問の世界で、二千年も経ったら、こんなことはあり得んこっちゃのう。今、十年経ったら、十年前の学者の説など、もう一笑(いっしょう)に付せられとる。
ところが、宗教の世界では、そうはいかん。二千年前の人、偉い人は偉い人であって、イエスがどう思ったかということを、未だに連綿と、皆んなが研究しとるわけじゃ。
まあ、ブッダでも、そうじゃのう。二千五、六百年前の、ブッダの思想、これより高い思想を、今の仏教家が持っておるかどうかじゃ。お寺の坊さんに、マイクつきつけて、聞いてみい。どうじゃ、お前はお釈迦様よりも悟っておるか。お釈迦様以上の説法ができるか。してみい、と言うたら、まあ、百人が九十九・九人、逃げ出すわ。そりゃ、無理だと言う。まあ、仏教は二千五百年進んどらんのじゃ、結局。堕落していっては、まあ、その垢落としばかりをしておるというのが、筋(すじ)じゃのう。
こうして見ると、人間とは何かという存在を、宗教は教えるわけじゃけれども、この宗教の難点というのは、こういうふうに時代が進んだからといって、進まんということじゃ。時代とは別々に、それぞれの、高いところがあってのう。偉い人が出たら、それが頂になって、それから下ってくるというのが宗教じゃ。そして、宗教のなかでも偉人というのは、ほんと、何百年、何千年経っても、そそり立っておるのじゃのう。
鎌倉時代には日蓮おり、親鸞おり、道元おり、栄西おり、ということじゃったけれども、それ以後に、そうした先生方以上の人が出とるかっちゅうと、疑問なわけじゃ。まあ、こうして見ると、宗教家というのは、どれも一代限りじゃということが、ようわかる。一代限りで、ボーンと突き出て、あと、下ってくる。下ってきたときに、また、ボーンと出る。そういうこっちゃのう。
まあ、○○学会も何千万と人がおる。けれども、それは、その信徒の数は、日蓮さんが教えたときよりは多かろうが、じゃあ、○○学会の指導者が日蓮さん以上かと言えば、まあ、そういうことはないじゃろうし、はた目にも、そう認めんじゃろうし、自分たちでも認めんじゃろう。自分たちでも、日蓮さん以上に教えられるとは思うとらんじゃろう。やはり先生以上には、ゆけんのじゃ。八百年経っても、ゆけんのじゃ。ゆけんもんはゆけんのじゃ。まあ、こうしたもんじゃ。
じゃから、宗教とは、人間の本質とかのう、存在論について教えてくれるもんじゃけれども、そういう師以上のことを知ることができんという欠陥があるんじゃ。まあ、そういうことで、偉大な、何と言うかのう、指導者が生まれたときに生まれ合わした人は、幸せじゃ。じゃが、時代を、これひとつ逃がすと、そういう人にはもう会えん。これは悲しいことじゃのう。まあ、仏教徒が何回生まれ変わってきたところで、釈尊がおるとき以外に出たんでは、結局、それ以上のことは聴けんわけじゃ。
今の坊さんで、釈迦以上のことを言える人はひとりもおらんじゃろう。まあ、間違いない。今のクリスチャンで、イエス様以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。今のマホメット教徒で、マホメッ卜以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。まあ、こういうことで、宗教ということを教えるものじゃけれども、まあ、限界として、不確かさがあるし、時代的制約がある。そうした偉人が出て来たとき以外にはわからんという、制約があるちゅうことじゃのう。
4.宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を与えること
まあ、今のこととも関連するけれども、宗教の使命の第二番目というものは、新たな世界観を人間たちに与えるということじゃ。新たな世界観というのは何かと言うとのう、先程、人間の本質ということを言うたけれども、これは、わしらが住んでおる世界の様相じゃのう。これをどうやって伝えるかっちゅうことじゃ。まあ、そうじゃのう、ちょうどこの世におる人間が、あの世の世界のことを教えるちゅうのは、まあ、池に映った雲を指してのう、あれが雲じゃ、あれが空じゃ、と言うとるのと一緒なんじゃ。これだけむずかしいんじゃ。
ほんとうに雲じゃの、空じゃのを見える人がおれば、あれが空じゃ、雲じゃと思うんじゃが、まあ比喩(ひゆ)的に言えばのう、この世の人間というのは、空を見上げることはできんのじゃ。空っちゅうのは、天国じゃのう。天上界と言うてもええ、これを見ることはできんのじゃ。みな俯(うつむ)いとるんじゃのう、まあいねば、地面しか見とらん。ちゅうことは、物質ということしか見ておらん、ちゅうことじゃ。そして、下しか見えんということになる。
そのなかに、上を見れる人がひとりぐらい、おるんじゃのう、宗教家には。そして、空とか雲とかを知っとるわけじゃ。それで、地上人に、お前たちは土ばかり見ておるが、ほんとうは上のほうには空とか雲とかがあるんじゃと、教えとるんじゃが、まあ、聴いた人はわからんわけじゃのう、下しか見えんのじゃ。だから、そんなもの信じられんと言うとる。
それでは、わしについて来いと言うんで、とことこついて行って、行けば、池か何かに連れて来てのう、これ見てみろと、下の池見たら、水面に、雲じゃの、空じゃのが映っとるわけじゃ。あれが雲じゃ、あれが空じゃというわけじゃけれども、まあ、それを見て、ああなるほど、これは他の面が反射しとるのじゃから、上にこんなもんもあるに違いないと、認める人もおる。こういう人も、何十パーセントかおる。しかし、そんなものは、まやかしじゃ、と。あれは、水中に何かしかけがあって、あんなもの幻燈(げんとう)みたいに映しとるに違いないと、まあ、こう言うてるものもおるんじゃ。こういうむずかしさじゃのう。
池の面を見せながら、あの世を語っているようなもんじゃ、こういうむずかしさがある。これは、大指導霊が出ても、皆一緒じゃ。それを見せるわけにはいかんのじゃ。どうしてものう。じゃから、まあ、できるだけ正しい世界観、とまで言えんから、この世ならざる世界観を教えることじゃのう。そして、他を指して、これが雲じゃ、空じゃと、教えるのが宗教家の使命じゃ。ただ、全容を確信させることは、なかなかできん。
5.宗教の使命の第三番目は、生かし合う幸福感を与えること
宗教の使命の三番目はのう、人間を幸せにするこっちゃ。まあ、皆んな、小学校や、あるいは、中学校から、いろんなことを教わっておるんじゃが、今日では、すたれてしもうたけれども、道徳というのがあってのう。友だちとは仲ようせねばいかん。友情が大事じゃ。親子の愛情が大事じゃ。そういうことを、いろいろ教わる。あるいは、親切ということはよいことじゃ、奉仕ということはええことじゃ、と教わる。じゃが、こうしたことはのう、なかなか教わらんとわからんのじゃ。
人間、やはり放し飼いにしとるとのう、野蛮人みたいになってしまうんじゃ。そりゃのう、ジャングルか何かに育ったら、わからんぞ。まあ、ジャングルか何かに育ってのう、二十年経って、そこへ探検隊の人でも出て来てみろ。そりゃ、人間を見たら、化けものじゃと思うて逃げるか、害を加えるか、どっちかじゃ。愛し合うということは、まずわからん。恐怖心しかない。恐怖心と、自分を守るということじゃのう。したがって、何も教育せんと放っとけば、要するに、人間というのは、自分を守るという気持ちと他に対する恐怖心、これを持って生きるようになってしまうのじゃ。
今、お前さん方、道を歩いておっても、恐怖心は感じんじゃろう。まあ、車がくれば恐怖心を感じるが、まあ、通常、道を歩いておって、何かをされることはないわけじゃ。ところが、本能のままに人間がのう、勝手勝手に生きておったら、たとえば、買いものひとつできんのじゃ。買いものして、肉でもネギでもええが、それを買いものかごに入れて下げとるのを通りがかった人が見て、こんないいものがあると思えば、サァーっと持って行くのじゃ。
そりゃあ、当然じゃ。これは教わっておらんからじゃ。盗んだらいかんということを教われば、それはいかんと思うけれども、知らんかったら、肉がほしいと思えば、それを取って逃げる。卵がほしいと思えば、取って食べる。当然のこっちゃのう。で、憎い人間がおれば、殺してしまう。まあ、憎けりゃ殺すのは当然と思うておるのう、こういうところがあるわけじゃのう。
じゃから、まあ、道徳じゃとか、いろんな学問じゃとか、まあ、家庭教育じゃとか、いろいろ、あるけれども、そうしたものは、人間を何と言うかのう、助け合う存在として、生かしめようとする。この根源は何かと言うと、結局、宗教にあるわけじゃのう。宗教ちゅうのは何かちゅうと、要するに、神仏、まあ、神仏と言っちゃあ、あれじゃけれども、神仏に近い、高級霊から受けた、啓示じゃのう。
こういうのを元に、いろんなものがつくられたわけじゃのう、教えが。じゃから、わしの本を読む読者も、まあ、同時代じゃから、王仁三郎がしゃべっておるわと思うて、のほほんと生きて、読み飛ばしとるじゃろうが、これが五百年、千年経てば、王仁三郎の霊示集などというと、これは大変なことじゃ。本に赤鉛筆の線を引くのさえ、畏(おそ)れ多いことじゃ。祟(たた)りがあるんじゃないかと思われるぐらいじゃのう。
そういうことで、五百年もすりゃあ、これが、皆に暗誦(あんしょう)されたりするんじゃろうとわしは思うんじゃ。同時代にはわからんじゃろうが、根源はやはり、あの世の霊たちなんじゃのう。じゃから、あの世のほうが、よくものごとがわかるから、それで教えるということじゃのう。そういうことで、宗教の、まあ三番目の使命ちゅうのは、そういうあの世の知識を元にして、この世の人間に、生きるべきすべをのう、人間としての正しい人生観、まあ、愛と慈悲と言うてもええ、助け合いと言うてもいい、まあ、そういう生き方を教える。これが三番目じゃ。
6.宗教の使命の第四番目は、魂の過去、現在、未来を示す教え
四番目に、宗教の使命というのをあげるとするなら、まあ、一番目の人間とは何かということにも関係するんじゃけれど、人間は何かと言うんで、まあ、神仏の子と言うてもええ。人間が永遠の転生輪廻をやっとる、生きものじゃと思ってもいいし、まあ、そういう定義がいろいろあるのう。じゃが、四番目で、宗教の使命と言うと、そうじゃのう、まあ、これは一番目とも非常に関係しとるんじゃけれども、魂の事実、歴史についての解明じゃのう。
一番目のが、人間が霊的存在だということに気がつくことだと言えば、四番目ちゅうのは、霊的存在ちゅうことで、止まらずにのう、魂ちゅうのは一体どんな性質を持っていて、どんなふうに生きてきとるのか、そして、どういうふうに今後いくのか、まあ、こういう魂の行方じゃのう。来し方、行く末、性質、まあ、そういうことじゃ。あるいは、これを魂と言わずに、心と言うてもええ、もっと一般的に。人間の心についての、神秘を語るのが、宗教であろう。
まあ、そんなことは宗教でやらないでも、心理学でやるじゃろう、と言う人もおるじゃろう。じゃが、心理学では、やはりわかっておらん。心理学は、まあ、いろんなのがあるわのう、モルモット相手に、条件反射ばっかり調べておる心理学もあれば、あるいは、犯罪人ばっかり相手に、犯罪心理学やっているような者もおる。じゃが、心理学の一番いかんのは、要するに、まともな人間相手の心理学がないこっちゃのう。異常心理学ばかりやっとるわけじゃ。気狂いさんじゃの、変な、何ちゅうかのう、犯罪人じゃの、そんな心理学ばかりやっとる。
あとは動物じゃのう。動物の心理ばかりやっとる。モルモットはメスのモルモットのところに近寄るのと、餌を食べるのと、どっちが好きかとのう。こんなことを、一生懸命調べとるんじゃ。そして、やっぱり餌のほうが好きらしい、と思うとるのかのう。こんなことを調べたりして、だから、人間もそうなんじゃろうとか、こういうことをやっとる。
まあ、これはちょっと方法が違うんじゃのう。結論に基づいて、何ちゅうかのう、ものごとを考えるとんじゃ。そういう動物、モルモットじゃの、人間じゃの、これは、結果なんじゃのう、想像の結果なんじゃ。結果に基づいて、あれこれ言うとるけれども、結果を見たんじゃ、いかんのじゃ。原因を見にゃあ、いかんのじゃ。どういうふうにつくられたのかが、そもそも問題なわけじゃのう。じゃから、心理学で、ほんとうの意味での心はわからん。
霊の世界がないと言っているうちは、まあ、こういうのは、偽者じゃのう。こういう心理学者は、そうじゃのう、皆んなに詫びてもらわにゃいかんのう。お金もらっちゃあ、いかんわ。さらに言えば、その、心の秘密じゃのう。これをいろいろと説き明かしていかにゃあいかん。心ちゅうのは、ひとつには、善悪の問題があるけれどものう、善悪の思い、善の思いと悪の思い、というのが心の面、魂の面で、一体どういう役割をはたしておるかじゃ。この傾き、これを学ばにゃあいかん。じゃ、悪いことを思えば、それがどうなるのかちゅうことじゃ。いいこと思えば、どうなるのか、これを勉強させるのが宗教じゃのう。これは地上の学問では、まあ、ちょっと無理じゃ。
7.イエスの教え、左の頬(ほお)も出せとはどんな意味か
これはのう、地上の学問ちゅうのは、まあ、言うてみりゃあ、イエス様が言うとる、右の頬っぺた殴られたら左の頬っぺたを出せなんて言われたら、ナンセンス、まあ、こうじゃのう。上着取られたら、下着も差し出せ、なぞと言うとるのも、こんなの見たら、まあ、法律学者が見れば、こんなのナンセンスじゃろう。こんなんでは、犯罪人が増える一方で、全然取り締りができん。やはり、上着を取られたら、早う取り返さなきゃいかん。取り返せなかったら、賠償(ばいしょう)を請求せねばいかん。これがほんとうのあり方で、下着まで与えるなど、そんな馬鹿なことあり得ないと、まあ、こういうことじゃのう。
そういうことで、イエスの姿は、慈悲魔としてしか映らんじゃろう。ところが、イエスは、心の世界を知っとったわけじゃのう。心の世界を知っとったわけじゃ。心の世界というのを知ってしまうと、彼が言うとる意味がようわかるんじゃ。たとえば、右の頬っぺた殴られたから、じゃあ、相手の右の頬っぺた殴り返したら、これはどうなるかじゃのう。この世的には、五分五分じゃ。殴られたから殴り返したんで、まあ、帳消しじゃのう。これで気がすんだから、まあ、これで止めようじゃないか、と。しかし、あとで殴られた人が痛いぐらいじゃとのう。前に殴られた人が、もう痛みがやわらいでおるけれども、あとで殴られた人が痛かったと、まあ、こういう不平不満はあるかも知らん。じゃが、この世的には、右を殴られたら、右を殴り返しゃ、終わりじゃ。
8.右の頬を殴られてハッと感じる人間修行の各段階人
じゃが、心の世界では、そうはいかん。右の頬っぺたを殴られても、要するに、いろいろ段階があるわけじゃのう。その殴られたあと、カーッときて殴り返す。まあ、これは最低じゃのう。これは動物と一緒じゃ。
あるいは、殴られたら泣き出す、まあ、こういうのもあるわのう。あるいは、殴られたら逃げ出す、というのがあるじゃろう。まあ、この辺は、ほとんど動物と一緒じゃのう。変わらぬ、全然。あえて人間として生まれただけの、価値がないちゅうわけじゃ。殴られたら殴り返す、殴られたら泣く、殴られたら逃げる。まあ、これでは、人間として、心の修行をしとる意味がないちゅうわけじゃ、全然のう。
じゃあ、どの辺が修行かと言うとのう、殴られてカーッと腹が立つけれど、まあ、一生懸命自制するちゅうタイプがある。まあこれは、今の三つよりは、ちょっとましじゃ。殴られたけど、自制する。ジェントルマンがそうじゃのう。ステッキついて、金ぶちのメガネかけて、シルクハットだか何だか知らんのをかぶって、エンビ服着て歩いとるとき、殴られたからといって殴り返しとったら、そりゃあ、暴力団みたいになる。じゃから、紳士は、頬っぺたが赤くなっても、ジィーっとがまんして、この野郎と思いながら、今にみてろ、警察を呼んでやる、なんてね、まあ、思うくらいじゃろう。こういうグーッとがまんするという段階は、まあ、前の三つよりはちょっとましじゃけれども、まだ、今ひとつじゃのう。
次の段階は何かちゅうと、殴られて、それで、それに対して、何ちゅうかのう、自分を守るか、相手を害するかというんじゃなくて、相手を見る人じゃの、次は。なぜこの人はわしを殴ったんじゃろうか、とこう見る人が次におるんじゃ。そして、いろいろ考えてみると、確かにこれは、わしが眼付(がんつ)けしたのが悪かったんかも知らん、確かに、あいつの眼線(めせん)を切ったかもわからん。やくざさんなら、そりゃ怒ったじゃろう。こりゃあ、失礼した。やくざにはやくざの世界の生き方がある。眼付けをしたのはわしの間違いじゃった、と。こういうようなことを考える人も、おる。
あるいは、相手はよっぽど腹の虫の居どころが悪かったに違いない。もしかしたら、朝めしを食うとらんかもわからん。あるいは、借金して、サラ金か何かにやられて、もう頭がいっぱいなのかもわからん。あるいは、家族のなかに自殺者が出て、夜寝とらんのかも知らん。ムシャクシャしとるんかもわからん。あるいは、新品の服着とったけれども、曲がり角で車に泥んこを跳ねられて、頭にきとるんかもわからん。まあ、相手の人にもいろいろ事情があるやろう。よっぽど虫の居どころが悪かったのかも知らん、と。
まあ、こういうふうに自分の内を見、相手の内を斟酌(しんしゃく)するという段階は、まあ、もうひとつ上じゃ。先程のちょっとがまんするというよりものう。腹立ったけどがまんするというより、もう一歩上じゃ。相手の内と自分の内を見る。まあ、ここまでくれば、そうだのう、中等より上じゃ。もう、中の上はきとるわ、人間として見てのう。
まあ、読者の皆さんも、同じことやられて、どう思うか、自分がどう反応するか、まあ、考えてみることじゃ。殴り返すか、泣くか、逃げるか、怒るけど我慢するか。それとも、相手の立場を考えて、自分に非がないかどうか振り返るか。どれに値するかどうか、よう考えてみい。最後までくれば、まあ、中の上じゃと思うてもよい。上等とまではいかんが、中の上ぐらいじゃのう。松、竹、梅の竹ぐらいまではいっとるわけじゃ。じゃがまだ、これよりもっと上の人がおるのう。
まあ、今までの人は、そうじゃのう、最後の人は、心の段階が高こうて、相手を見るだけの余裕があるけれども、もっと大きな人が出てくるんじゃのう。つまり、そうじゃのう、愛の塊と言うてもいい。慈悲の塊とも言うてもよい。縁があって、人生の途上で、自分と出会う人を、何とかしてよくしてやりたいと、思うてる人じゃのう。こういう人がある。まあ、生来の教育家じゃのう。何とかして相手を向上させたいと思うておる人がある。まあ、こういう人なら、怒るでもなく、泣くでもなく、相手を、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人にできるか、いろいろと斟酌(しんしゃく)するじゃろう。
そして、相手を見て、これは注意をしたほうがいいと思えば注意をするし、たしなめたほうがいいと思えばたしなめるし、黙っておいてやったほうがいいと思えば黙っておる。あるいは、場所を変えて話をする、というような人もおる。まあ、相手をよくしてやろうと思うタイプじゃのう。先程の、一日に何かあったかもわからんと思ったり、自分に非があったかもわからんと思ったりする人と、相手をもっと向上させようと思っとる人となると、まあ、これでまた、心の段階がちょっと違うんじゃのう。この辺までくると、まあ、そうじゃのう、上の下はきとるじゃろう。
9.出口王仁三郎の心境は、上(じょう)の中(ちゅう)ぐらい
もっとすごいのがおるのじゃ。まあ、上の中ぐらいじゃのう。王仁三郎ぐらいか、まあ、王仁三郎じゃったらどうしたかじゃ。そもそも、わしが殴られるようなことはなかろうが、まあしかし、警官隊に殴られたわけじゃから、まあ、似たようなもんじゃのう。で、王仁三郎じゃったらどうかちゅうと、殴られてどうなるかちゅうと、まあ、大本が潰(つぶ)されとるわけじゃのう、ダイナマイト千五百本でぶっ飛ばされたわけじゃから、そりゃ、頬っぺた殴られるよりは痛いぞよ。ダイナマイトで、大本の本部全部、ぶっ飛ばされたんじゃから。これは、頬っぺた殴られるよりは、だいぶ痛かったぞ。わしも、監獄にもぶちこまれたからの、これは。頬っぺたよりも、よっぽど痛かったのう。
そこで、わしはどうしたかじゃのう。まあ、わしの場合だと、やはり真実は、真実、ほんものは曲げられん。この世的な結果は、神仏の御心(みこころ)のままにと、まあ、こういう心境じゃ。真実は真実、わしが間違っていなかったのは、間違っておらん。しかし、この世的には、いろいろあるじゃろ。この世的に、どう顕われるかは、神仏の御心のままじゃ。心乱されては、いかん。真実は真実。しかし、御心のままに、と。この程度の心境じゃろうのう。まあ、上の中ぐらいじゃのう。先程の教育家よりは、ちょっと上なわけじゃのう。
教育家はいっぱいおるのじゃ。町の教育委員なんかつかまえれば、まあ、間違いないわ。で、そのような殴り方をすれば、風紀を乱すなどと言うのがいっぱいおる。じゃが、もっと神仏を知った人間になると、それだけの判断はせぬ。まあ、ダイナマイトでぶっ飛ばされても、それを怨むでもなく、謗るでもなく、真実は真実じゃ、と。わしは、そう思う。じゃが、この世的に、それが、その真実がどう顕われるか。真実の顕われ方が、阻まれるか、それは、御心のままじゃ。これはやむを得ない、というのが、わしぐらいの考えじゃのう。
まあ、イエス様もわしも、そう変わらんと思うが、そうじゃのう、一般の常識人から言えば、わしよりは、ちょっとだけ偉いじゃろう、イエス様のほうがのう。じゃが、イエスじゃったらどうかちゅうことじゃのう。わしの場合は、ダイナマイト千五百本ぐらいで大本をぶっ飛ばされたが、まあ、あとは、悠々自適で余生を送ったわけじゃが、イエス様は、もっといったのう。十字架じゃ。
10.イエス様の心境は、馬鹿も徹底した "神" の姿
殴られるどころじゃないのう。殴られとるぞ、十字架の前に、十字架に架(か)けられる前には、殴られとるんじゃ。頬っぺたに唾をかけられとる。茨(いばら)の冠もかけられた。殴られた人がどうなったかと言うと、殴られた上に、さらに十字架につるされて、手に釘(くぎ)を打ち込まれて、わき腹を突きさされて死んだんじゃ。したがって、どうなったかと言うと、結局、右を殴られたら、それ以上のことをされたわけじゃのう。
イエスは、頬っぺた、右を殴られたら、左も差し出しなさいと言うたけれども、まあ、それが彼の人生じゃのう。頬っぺた、左どころじゃないのう。右の頬っぺた殴られた上、唾をかけられて、茨の冠を被(かぶ)されて、そして、罪人と一緒に引きずられて、十字架を負わされて、最後には、殺されてしまうちゅうんじゃから、ええこと、何もなしじゃ。もう徹底的じゃのう。上着も取られたら、下着も取られるちゅうことだが、そのとおりになっておるわけじゃな、下着どころではないわのう、命までも取られたわけじゃ。
じゃから、こう見ると、先程の法律家の嘲笑(あざわら)いじゃないが、右殴られたら左出すちゅう馬鹿かと言うけれども、もっと馬鹿なわけじゃのう。イエス様ちゅうのは、徹底的な馬鹿なわけじゃ。頬っぺた殴る人に、頬っぺただけで気がすむのか、のう、右も左も殴らしてやる、と。それでダメなら、足蹴りでもいいぞ。それで嫌なら、わしの生命をやろう。お前がそれはどこの世が辛(つら)いんなら、お前がそんなに迷うとるのなら、わしの体で、生命で、いいのなら、わしの生命をやろう、と。これはイエス様じゃのう。王仁三郎は、生命までやろうとは思わんかったのう。そこまではやっぱり思わんかった。
まあ、イエス様の考えは、そういうとこじゃ。じゃから、右殴られたら左までとは言わんけれども、もっとじゃのう、生命までじゃのう。で、自分は、要するに、神理を説いただけじゃ。神の心を説いただけで、何にも得とらん。すべてを出したわけじゃのう。まあ、自己犠牲の最たるもんじゃ。
まあ、普通はここまではいけんわ、のう。結局、頬っぺた殴られた人に、家ごと、財産ごと、全部やって、そのあと、自分の生命までやってしもうたわけじゃ、イエスちゅうのは。そこまでやったんじゃ。財産も、生命も、すべてやる。それで、お前たちは、目覚めなさいちゅうことじゃ。まあ、神様の独(ひと)り子かどうかは、わしは知らんが、それほど偉い人が出て来て、自らの生命を捨ててまで、気づかそうとしたわけじゃのう。
まあ、そこまでやらなければ、人類は自分らの罪深さを気づかんちゅうことじゃ。イエス様が、頬っぺた殴られたぐらいで、要するに、槍を振り回してのう、周りの人を五、六人殺して、それで最後、戦の末に斬り伏せられて死んだちゅうなら、のう、わかるぞ。じゃが、そうじゃなかったわけじゃ。徹底的に全部奪われたわけじゃ。そして、奪われたなかに、すべてを与えたわけじゃのう。すべてを与えて、目覚めの機会を与えようとした。
まあ、これなどは、先程の教育家どころじゃないわのう、もっとすごいわ。要するに、自分というのが、もうないわけしゃ。まあ、上の下の教育家ぐらいだと、まだ自分があるのう、自分は教育者としての立場があるから、人を指導せにゃいかんと思うとる。王仁二郎じゃ、行雲流水(こううんりゅうすい)で、まあ、余生を悠々自適、やるだけのことはやったと思うていくのが、わしじゃ。イエス様は、ダイナマイトで、神殿ふっ飛ばされただけでなくて、肉体までふっ飛ばされるところまでいかんかったら、要するに、愛と慈悲の活動を止(や)めん人じゃ。そこまで行く人もおる。
じゃが、これは普通の人は真似しちゃあいかんぞ、こんなころへは行けんのじゃから普通はのう。まあ、こういうふうに、人間の心ちゅうものを、ひとつ取っても、やっぱりいろんな状態もあるし、まあ、仕組み、作用、段階、いっぱいあるわけじゃ。これは、やはり、偉大な人が出て来んと、なかなかわからんのじゃ。まあ、そのままの人間に聞きゃあのう、十人に聞けば、九人以上は右の頬を殴られたら、左の頬を殴られたいと思う人は、絶対におらん。上着取られて、下衣というかのう。下着まで取られていいと思う人おらんじゃろう。
11.神仏は、すべてを許されている慈悲深いお方
まあじゃが、そういうことを教えることによって、神の世界というものを、感ずる人はおるんじゃ。イエス様の話をしたけれども、神様ちゅうのかのう、神仏ちゅうのは、ちょうど、一緒なんじゃ。神仏ちゅうのはのう、右傾を打たれるときには、左の頬を、先に出しとるばっかりじゃ。わかるかのう、人間は神の子じゃ。神が創って、幸せにしようと思って創った者同士が、戦争してみたりのう、犯罪をしたり、他の宗教を迫害したりしとるわけじゃ。同じ神様が創った宗教じゃのに、他の宗教家を迫害したりしとる、こんなのはもう、結局、神様自身が汚されておるのと一緒じゃ。自分が創ったもんで、自分が汚されておるんじゃ。ちゅうことは、どういうことかと言うとのう、神様という人は、よっぽどお人好しなんじゃ。これは間違いない。
お人好しでなけりゃ、そういうのを許せんと思うのう。間違った宗教家じゃの、軍人じゃのいうのは、神様が、もう潰(つぶ)してしまえばええんじゃ。すりこぎみたいのでゴシゴシとやって、潰してしまえば終わりなんじゃ。しかし、潰さんじゃろう。何で潰さんかじゃ。なすがままにされるということじゃのう。これは、イエス様の考えと一緒じゃ、右の頬っぺた出されても、祇抗しちゃあいかん。悪に抗するなかれ、左の頬っぺたも出す。
イエス様の態度ちゅうのは、神様と一緒なわけじゃ。神様は、この世の中を見ればのう、そのまま見ればのう、もうこれは閉じてしまいたいと思うぞ。わしは、地球なんか風呂敷か何かで、くるっと、くるんでのう、宇宙のどっかゴミ捨て場か何かでのう、ポッと捨てると一番ええと思うぞ、わしが神様じゃったら、そうするのう。こんなうっとおしい人間が五十億もおって、ろくな人間はおらん。まあ、心ある人はもうちょっとだけじゃ。わしの話を聴いたり、わしの本を読む人だけじゃ。心ある人はのう。あとは、皆んなおかしいのばっかりじゃ。こんなのもう、地球丸ごと、風呂敷に包んで、どっかブラックホールでも何でもええが、ポンと捨てちゃえばいい。まあ、捨ててやりたいのう、そんな気持ちになる。
しかし、それを神様は、されん。だから、どれだけ、要するに、神様がお人好しかじゃのう。お人好しちゅうんじゃなくて、まあ、はっきり言えば、慈悲深いわけじゃ。それだけのう。それだけの慈悲じゃ。まあ、大仏さんの慈悲どころじゃない。もっと大きいんじゃ。まあ、そういうことじゃ。そういういろいろな話をしてきた。宗教の使命ということでのう。