目次
(一九八九年一月二十三日の霊示)
1.地上の生活を霊界の存在形式に近づけた科学
アイザック・ニュートンです。今日は、科学者として私がこちらで見た世界について話をしていきたいと思います。こちらというのは、言うまでもなく、あなた方が霊界という言葉で呼んでいる世界のことです。
この霊界は、ひじょうに広大無辺な世界で、いまだかつてこの世界のことが明瞭、明確に説き明かされたことはないと言ってよいでしょう。なぜ、この世界が厳然として存在するにもかかわらず、明瞭、明確に説き明かすことができないのでしょうか。
そしてまた、だれもそのことに成功しないのでしょうか。この事実について考えてみたいと思うのです。
地上の人びと、とくに科学を勉強し、それを信奉している人たちは、どうしても霊界というものに対して背を向けがちであります。それがなぜなのだろうか、と考えたときに、大きく二つの原因がそこにあるように、私には思えるのです。
第一の原因は、この死後の世界というものが、科学的アプローチによって、きわめて検証しにくい世界であるということです。海の底であるとか、あるいは大気中、宇宙外、こうしたところは人間的努力によってある程度探究の可能性がありますが、この霊的世界はそう簡単に探究できない。そして、探究できるのは科学者と言われる人びとではなくて、突如、天から降って湧いたような霊能者、預言者といわれるような方であるからなのです。そこで科学者は方法論的問題において、まず第一番目の困難に行き当たるわけで、こうした方法論的にきわめて可能性が少ない場合、彼らは自動的にその世界を避ける傾向にあります。
第二の原因は、やはりこれは教育あるいは文化の問題として考えられるでしょう。霊的世界について語ったことは、これは人間が原始の時代に素朴に信じていたこと、というようにとられて、近代社会のなかではそうしたものはないという考えが主流になってきているからです。
この考え方の基礎をなすものに、二つあると思います。
一つは、技術的進歩によって、環境を変ええた、人間を幸福にしえたというその自負の面だと思います。地上を幸福にするものは、神だとか霊だとかいうものではなくて、人間自身が工夫し創意し発明した科学技術なのだ、という一つの自惚(うぬぼ)れです。これがあると思います。
もう一つは、地上がひじょうに住みよいものとなってきたという事実そのものに帰せられることでしょう。地上が住みよくなってきた、ひじょうに便利になり、面白くなってきた。こうしたこと自体、霊的関心を失わしめるのに、十分な基礎をつくっていると言えるかもしれません。人間は不自由ななかにおいては、自由を求めます。けれども、自由のなかにおいて自由を求めるという心は、次第しだいに薄れてきます。
まず、情報の自由があります。世界各国の情報を瞬時のうちに入手できるといった自由があります。また、これ以外にも、交通機関、運送、運輸、移動の自由というものがあります。こうした移動の自由はある意味で地上生活を霊界に近づけているといってもよいかもしれません。
ほんの数十年前には、地球の裏側にまで旅行するということは、きわめて難しいことであったかもしれませんが、現在ではだれもが海外旅行に出掛けて行きます。飛行機という便利なものがあって、地球の裏側でも十数時間で行けるようになりました。これは、地上の人間の生活がある意味において、きわめて霊界に近づいている、その理解や価値観は別として、その存在形式、運動形式自体が霊界に近づいていると言うことができるのではないかと思います。
すなわち、霊界というのは念う速度にきわめて近い速度で、空間移動ができる世界のことです。それゆえに、飛行機の登場、また飛行機以外のものであっても、きわめて高速度で移動できるものの登場は、霊界の運動法則を地上に現出させるのに効果があったと言えるかもしれません。
2.霊的世界の三つの特徴
さて、科学者の目で私は死後の世界について語ってみたいと申し上げました。科学者として、申し上げる以上、私の分析はある程度、だれが見てもそう思えるというものでなければならないと思います。
この私の見た死後の世界で、どうしても言っておかねばならないことが三つあります。
第一は、この死後の世界と言われるもの、霊界と言われるものは一様でないということです。それはそれは、ひじょうに多様な世界がそこに広がっているということなのです。地上でも平面的にいろいろな国家が広がっているように、霊的世界においては、もっと空間的な、もっと時間を加えた意味において多様な世界が広がっています。
第二にぜひとも言っておかねばならないことは、こうした世界のあり方を決めているものは、そこに住んでいる住人たちの心の総合集積の念である、ということです。そこに住んでいる人たちの心に描かれた世界が出現しているということで、そこに住んでいる人たちに似つかわしい世界であるのだ、ということなのです。そこに住んでいる人たちに似つかわしい世界がここにある、現われている、そう思えるのです。
第三に言えることは、この霊的世界の違いを説明するものとして、神の光の度合いの違いがあるということです。光の度合いが明らかに違っているのです。この光の度合いは、一概には説明がつかないものです。地上のみなさんは、蛍光灯の光、月の光、太陽の光、こうした光を感じておられるでしょうが、この霊的世界の光とは、少し感じの違った光であるのです。それは、明るさや暖かさをともなうのは当然のことですが、これ以外のものが光のなかに入っているということです。
これ以外のものとは何か、それはまさしくこの霊的光、神の光によって養われているという感じが異常に強いのです。人間は、地上生活をしているときに、光によって養われているという気持ちを持つことは稀(まれ)でありましょう。ところが、こちらの世界に来てみると、この光というものが一つのエネルギー源であるということを、明確に感じ取るようになります。自分がどれだけ神に愛されているかということは、この光の強さでわかるようになります。強い光が当たる世界において、強い光の流れのなかで生きているということは、幸福感を限りなくもたらすものなのです。
この強い光、これは結局こういう意味合いを持っているとも言えましょう。光について、養われているという感じが地上にあっても、植物たちはそれを感じています。緑色植物たちは、太陽の光を浴びなければ、生きていくことができません。太陽の光を浴びて、そうして炭酸同化することによって、栄養分をつくりそして成長していくでしょう。このときに、植物たちは光の恵みというものをずいぶん感じています。彼らにとっての光とは、明るさとか、あるいは暖かさだけを意味するのではなくて、生活の糧(かて)そのものなのです。彼ら自身が、光によって養われているのです。
動物や人間は、こうしたことを感じることなく、地上を去ることが多いのですが、地上を去って、こちらの世界に来てみると、この植物の気持ちにも似たものを明確に感じるようになります。光なくしては生きていけない、そういう気持ちが強くなってくるからなのです。
光というのは喜びです。光というのは力です。光というのは勇気です。光というのは無限の糧です。そうした感謝の気持ちがじわじわと伝わってくるのです。それは、当初より、あるいは太初の昔より必要不可欠のものとして在った、そういう存在であるのです。
以上で、死後の世界の特徴的な部分について述べました。
3.霊界科学 ―― 念の創造作用と精神価値の探究
さて、さらに私は次なる検討に入ってゆきたいと思います。そこで、とりあえずここでは、私の見た科学者たちの死後の世界について、語っておきたいと思います。
霊界は広大無辺なので、すべての世界について説明し尽くすことは難しいのですが、こちらの世界において、科学者たちがどういう生活をしているのか、研究をしているのかということを知ることは、あなた方にとっても、たいへん参考になることでしょう。
こちらでの科学者は、地上の科学とは違って、霊界科学というものを研究していることになります。地上で私が万有引力を発見したり、その他のさまざまな自然科学的法則を発見しました。そして、その根本には、私は神が創られた世界であるから、それなりの法則があるはずだ、という思想を持ち続けておりました。
ところが、地上を去った世界、実在界とも言われる私たちの世界に還ってくると、この世界の仕組みを説く方法は、もっともっと高度になってきます。私たちの住んでいる世界で起きてくる現象、これを単に経験的にのみ受け止めている人もいます。すなわち、こういう場合はこういうことが起きるのだ、こういう事件が起きたのはこういうことだからだ、というふうに受け止めていく生き方、経験的に物事を知っていこうとする生き方をしている霊人たちが多いのは事実です。
しかし、私たち科学者の魂というものは、単にそれだけでは満足することができないのです。私たち科学者的魂は、さらに一歩進んで次なる探究に入っていきます。この次なる探究とは何かというと、なぜこうした法則が霊界にはたらくのか、ということを探究しているのです。なぜ、なにゆえにこうなるのか。
たとえば私たちの世界では、念動、これは念力の力ですが、この念動のひじょうに強い霊人もおります。こうした念動の強い霊人は、霊界の山を切り崩したり、あるいは霊界に大地震を起こしたり、霊界の木をなぎ倒したり、こうしたことができるようになります。それはまことに不思議な感じでありますが、念いというのが、力学的な力を持って現われてくる瞬間であるのです。念いが力学的力を持って現われてくる。そして、さまざまな現象を起こすようになってくるのです。
また、念いによって、そうした破壊的運動をするだけでなく、念いによって創造をする、こういう力もあります。この念いとはもちろん念という意味での念いです。念とは、ある一点に力を、心の力を集中させて、何かを作用させよう、動かそうとする力のことを言います。この念の創造作用こそが、実は霊界物理学におけるいちばん興味あふれる部分であろうと思います。
霊界において、私たちは、念いによってさまざまなものがつくれるのです。これは、まことに不思議ですが、そのとおりなのです。ただ、この念いの実力というのがあって、実力相応の世界をつくることができるようになります。人によっては小さな物を出すぐらいの力しかない者もあれば、念いによって家を建てることができる者もあるし、さらに念いによって、もっと大きな環境づくりをする者もいます。
これが、実は私たちが真に神の子であるということの証明にほかならないのです。地上の人間は神が念いによって世界をつくられたと言っても、その意味が十分にわからないでしょう。ところが、私たちの世界においては、そのことは、しごくもっとも当然なことであるのです。なぜならば、私たち自身が念うということによって、いろいろなものをつくり出すことができるからなのです。
それゆえに、神が念いによって世界を創り出したというのは、まことに当然であろうと思うのです。それはすなおに信じられることなのです。地上では何か物をつくるときには、材料を仕入れなければなりません。材料を加工し、そして機械をつくり、部品をつくって物を組み立てていきます。ところが、こちらではまったくそういう必要はないのです。まあ、不思議と言うしかありません。私は、さまざまな機械が必要となることがあり、それについて設計図を書く場合もありますが、設計図を書かなくても、心のなかに明確にその像を描くと、その機械が目の前に現われるのです。まことに不思議ですが現われてくるのです。忽然と現われるというのが、その真相であります。
こうして、その機械を使っていろいろなことを研究するのです。これはどういうことかと言うと、こちらの世界においては、手仕事、手作業というようなものを、それほど重視していないのだと言ってよいでしょう。こちらの世界において、真に探究され、味わわれるべきものは、心の価値、精神的価値であって、そのほうに九割以上の力が注げる世界となっているのです。
4.心の価値を求めるのにも基礎努力がいる地上生活
地上にあって、心の大切さを教えている人もいるでしょうし、心の大切さを学んでいる人もいるでしょうが、その心をつくるために、環境の整備というのがひじょうにだいじになります。地上の人間は、まず家を建てなければ、住む場所がありません。家を建てて、そして生活する場合にも収入というものが必要です。収入がなければ毎日の食事にも事欠くようになります。しかし、この収入は、今度は仕事というものを通して得られます。仕事のなかには必ずしも精神的でないものが、そうとう多くあります。単に、労働としてのみある仕事、これがきわめて大きな部分を持っていると思えるのです。
そうして、一日二十四時間のうち、真に自分の精神的なことに、あるいは心の向上のために使える時聞がわずか一時間や二時間、せいぜい三、四時間しかないというのが、現代人の姿で、残りの二十時間以上の時間は、その時間をつくり出すために、費やされていると言っても過言ではありません。
霊界の人たちは、こんなことを聞くと驚いてしまいます。彼らも、もとは地上で生活していたわけですが、地上時代の記憶というのは、こちらの生活に馴染むと次第しだいに忘れていくことになります。忘れ去っていくのです。そうすると、不思議なことに、彼らは地上時代には、自分たちが精神価値を求めるために、それだけの基礎努力を要したということを、次第しだいに忘れていきます。そして、こちらの世界では、念ったことは実現する世界であるので、念ったことを実現できるということを当然として、さらにそれを材料とし、手段としてより高度なものを求めるということに没頭するようになっていきます。つまり、時間効率というのはひじょうによいのです。きわめて有効な時間利用が行なわれていると言ってもよいでしょう。
地上のあなた方は、こういう話を聞くとほんとうに羨(うらや)ましく思えることと思います。まず食べ物を得るための努力をする必要がないのです。地上にいて、食べていくために、どれほどのエネルギーを消費しているか考えれば、これは大変なことです。食べなくてもよいならば、地上の人間であっても、ずいぶん負担感は滅るでしょう。何も飲まずとも、何も食べずとも死ぬことがない。そして元気で働けるという条件があったら、もしそういう人間か生きているとしたら、その人はきわめて異例な存在であり、超人となるでしょう。もし、飲食をしないでも生きていける人がいたら、この人の時間というものは、普通の人間と比べたならば、それはそうとうなものとなるでしょう。
そして、その時間を使っていろいろなことができるでしょう。食事の時間が要らないということだけではなく、糧(かて)を得るための労働時間が要らなくなるわけですから、建設的な作業のためにきわめて多くの時間を費やすことができるはずです。
5.霊界の科学者たちの役割
さて、私が現在、私の世界においてどういう仕事をしているか、それについて興味関心のある方もいらっしゃるでしょう。
神の創られた世界は、七色の光線によって支配されています。そして、その七色の光線の特徴に応じた霊的世界や地上世界があります。それぞれの霊人たち、あるいは地上人たちは七色の光線のどれかを引いているというふうに考えてもよいでしょう。
私は銀色の光線と言われる、そうした光線の発信地に近いところに位置しています。この銀色の光線は、近現代においては、きわめて大きな役割を果たしました。この銀色光線の増幅によって、機械化が増進してきたことは、間違いのないことです。
さて、その銀色光線の役割、すなわち霊界において、私がいったい何をしているかということですが、この銀色光線をほとばしらせることによって、この系列下にある霊人たちが、ひじょうに使命に燃えるわけです。使命に燃えて、活動を開始するわけなのです。この使命に燃えた活動というのが、何であるかというと、すなわち私のほうから降ろしていく一種の指令と言ってよいでしょう。こういう方向で科学を進展させていく、という指令を私のほうから出しますと、その指令を受けて、他の如来や菩薩たち、こうした光の天使の科学者たちがこれを具体化していく作業をしていきます。
そうして、地上に降りている進歩した科学者にインスピレーションを与えて、地上で新たなものを発明・発見させていく。こういう手法をとっているのです。
たとえば、地上には、コンピューターであるとかワープロであるとか、こうした機械が氾濫してきましたが、このコンピューターやワープロの源泉になるもの、その原因となるものはすでに霊界において発明されておりました。霊人の科学者たちも、いかにして地上を進化・進歩させるかという研究に余念がないのです。彼らは地上を進化させる方法の一つとして、仕事の効率化、時間の効率化ということを常に考えています。どうすれば、能率アップできるか、どうすればより多くの効果が出せるか、こうしたことを中心に考えているのです。
そうすると、歩いて何日もかかったような距離を、鉄道を敷くことによってごく短時間で動ける。飛行機を飛ばすことによって、一時間で動ける。リニア・モーターカーを動かすことによって、ごく短時間で行き着ける。こうしたことを考えつくのは、彼らにとっては必然に近いと言ってもよいでしょう。
また、そうした行動ということだけではなくて、着想、アイデアによって改善をしていく、ということも彼らの研究の対象の一つです。新たなアイデアを得る、新たな着想を得る、こういうことによって工夫をさせる。そして、すばらしいものを開発していく、ということです。
たとえば、新たなエネルギー源の開発ということがあげられると思います。石炭があり、石油があり、電力があり、その次にくるものとして、物理・化学反応のエネルギーというものがあるわけです。この化学反応のエネルギーのなかには、水素爆弾や原子爆弾のもととなったようなエネルギーもあります。これらは、使い方を誤ればたいへんな危機を人類にもたらすことは必定ですが、しかし未来というものを考えたときに、原子力エネルギーというものは必要不可欠のものであることがわかるでしょう。
化学的反応からエネルギーを取り出すということに成功すれば、エネルギー源は無限に近いと言えるからなのです。そして、この方向は、どんどんと続いていくことになるでしょう。地上の人間がこの地球上にちりばめられた秘密を探り当てているように、霊界の科学者たちも、地球という、この存在についての研究を進めています。これは、秘密の宝庫であるのです。きわめて豊富な宝庫で、いろいろなものがこのなかに埋まっているのです。いろいろな法則や、いろいろな方程式、いろいろな原材料、こうしたものがすべて埋まっているのです。
6.人間を自由ならしめる霊界科学
さて、霊界科学とは何かということを、ひと言で語ることはきわめて難しいと思います。ただ、私はみなさんに次のようなメッセージを送っておきたいと思うのです。それは、霊界科学とは、人間を真に自由ならしめるものだ、ということです。人間を真に自由にならしめる、それが霊界科学である。すなわち、人間を縛っている絆(きずな)、人間を縛っている束縛、こうしたものを一つ一つ外していくのが霊界科学である、というふうに言えるのです。人間は食事をしなければならない。人間は何々をしなければならない。こうした縛りを取り払っていって、そうして人間が本来持っている力というものを百パーセント発揮させるための方法、手法、これが霊界科学であるのです。霊界科学は、この意味においてきわめて先の長いものだと言えましょう。というのは、人間は環境的な束縛から逃れても、次なる束縛があるからです。
その次なる束縛とは、何であるかというと、認識の束縛と言われるものです。理解がいかないということのために、気づかないということがひじょうに多いのです。たとえば、自分がその念動、念の力によって山をも崩すだけの能力があったとしても、そうしたことを自覚しない、そうしたことを知覚しない、認識できないために行なえないという人は数限りなくおります。また、自分の念いによって、自己の姿を変化させることができるということを気づかないがために、生前のままの姿でいる者も数多くおります。こうしたものなのです。きわめて難しい。この認識の束縛というものを取り除くことはきわめて難しいのです。
よって、科学者たちは、この認識の束縛を取り除くために、いかに自由奔放な、いかに自由自在な、いかに奇抜な着想を得るかということに常づね頭を巡らしております。この認識の束縛を取り除いていくためには、どうしても銀色光線だけでは無理であって、他の哲学的光線、知性の光線でもある青色光線のほうの力をも受ける必要があるように思います。世界をどのように分析するか、という分析能力です。こうした分析能力がなければ、ほんとうの意味で、自分自身の持っている力を発揮することはできないからです。
7.霊界における数の概念
もう一つ、私の見た世界で、言い落としてはならないことを申し添えておきたいと思います。それが、何であるかというと、こちらの世界においては、数の単位というものは違っているということです。地上では数の単位というものは、具体的に一個、二個といった分かれ方をしておりますが、こちらの数の単位はそうではないということです。地上では木が五本立っておれば、これは五つだというふうに考えますが、こちらの世界においては、たとえば視覚的には木が五本立っていたとしても、これらの木の意識が共通しておれば、木は一本である、という見方も可能な世界なのです。このように意識の類似性によって個体差を見分ける、というのが私たちの計算のしかたなのです。
魂の兄弟という話があります。地上の人から見れば、霊人たちは一人ひとりの個体ではなくて、本体と五人の分身でつくられているという見方をすることもあるようです。六人組で魂ができているとする見方もあるようですが、これは私たちの世界から言ったら、まことに奇抜な理論です。私たちはもともと一つなのです。もともと一つなのに、地上の人間から見たら何人かに分かれているように見える、ということだけなのです。まことに不思議です。
それはちょうど、花びらというものを見て、花びらが十枚あるからこれは十個の花だと言われているのに、よく似ています。私たちは花びらが何枚あっても、一つの花として咲いているつもりでいるのに、地上の人から見れば、花びらが十枚あるから十個の花だというふうに言うのです。こうした感じに近いです。
ですから、本体分身理論というような考え方、何人かの魂のグループで霊人ができているという考え方は、きわめて地上的な考え方であって、私たちにおいては一つなのです。一つのものを地上の人たちが見ると何人かに見えるというだけのことです。私たちは意識の同一性をもって数をかぞえますが、あなた方は意識の同一性ではなくて、物体的、あるいは個体的な現われ方を見て数を数えます。
こうした数の数え方は、私たちの世界から見たらきわめて不思議に思えるのです。どうか、こうした不思議な認識のギャップがあるということを勉強してください。こうした勉強が実は霊界の真相を知っていくために、どうしても必要不可欠のこととなっていくのです。