目次
3.愛と挫折
4.悲しみと与える愛
(1988年9月13日の霊示)
1.愛という永遠のテーマ
引き続いて話をします。第5章はちょっとさみしかった、なんていう声もあってね、ま、離婚・再婚の話したらさみしくなりますよ、ねえ。収録も今、秋の夕暮れですから、やっぱりさみしいものですね。夕暮れっていうのはね。
やっぱりみなさんねえ、結婚なんていうのを機会にして、ほんと幸せにバラ色になって、発展していってくださいよね。私は、この世から、不幸が全部なくなることを祈っています。私の本読むことによって、みんなが幸福になったら最高ですね。この高橋信次のバイブルをね、各家庭で備えて、そしてみんなで勉強会でもしてくれるといいなあと思っていますね。言葉は美しくなくとも、中身は美しい。そんなに美しくないかな。まあ、でも中身はためになる。僕はそう思ってますね。
まずね、本章のテーマでもある「愛」だけども、愛というのはねえ、ほんと永遠のテーマなんですね。これは、勉強のしがいがあるテーマなんです。結局人間は、みんな愛というテーマを与えられて、生きているのといっしょですね。それで、一生の人生が試されているんですね。この永遠のテーマに対して、どう解答するかね、これが試されているのだと思います。
これはね、どんな高級霊が地上に降りたとしても、やはりテーマになるんですね。悩みというようなものは、ある程度解消していくことが可能ではあるけども、愛という問題はね、もちろんそのなかには消極的な部分もあると思いますがね、この嫉妬をやめるだとか、浮気をしないとかいうようなこんな部分あるだろうけど、愛のなかにある創造的な面というのはね、それはやってもやってもきりがないぐらいありますね。
みなさんは、その愛というものの定義をどうされるでしょうかね。私もこのように、『霊示集』をあの世から送っていますが、これも私の愛です。あの世に還った人は、死んでしばらくは、地上に対して執着が残っていたり、地上の人たちになにか言いたいっていう気持ちがあったりすることもありますが、だんだんにみんなあの世の生活に慣れてくると、地上のことなんかもうどうでもよくなるんですね。どうでもよくなって、新しい生活に没頭していくようになっていきます。
ところが、私みたいにおせっかいな霊がいてね、地上のことがいまだに気にかかる、なーんてことがあるわけですね。私の生前の教えからいうと、これは執着じゃないか、執着があれば、これは自縛霊になるんであって成仏できないと、こういうふうに思う人もいるかもしれませんがね。
でもやっぱりね、人間の根本的なその愛の思いというのは、自分が関わりあった人ね、関わりがあった人全員に、幸福になってもらいたいという気持ちだと思います。関わりあったというその関わりをね、どこまで見るかによって、その人の魂の器、偉大性が違ってくると思うんだね。単に家族だけにとどまるのか、友人にまで行くのか、職場のみんなに広がるのか、それとも、日本国中、全人類にまで広がるのかね、いろいろあるでしょう。
私は今、自分で言うのも口はばったいことだけども、やはり「全人類への愛」、また「時代を超えた愛」というものを、実践したいなと思っています。高橋信次が肉体を持つということは、もうしばらくないでしょう。そして、地上に出たこの人間の個性でもって、人びとを指導していきたいと思っています。
この指導は、読んでいるみなさんはなかなか信じられないかもしれないけれども、今後何千年もの間、語り継がれていくのです。こういう個人がいて、おせっかいな霊がいて、復活して、霊示集を送り続けて、そしてどなたかよく知らないけれども、送り続けたというようなことがね、何千年も語り続けられるようになるんですよ。そして、後世の人たちはね、これだけおせっかいな霊がいたということに対して、驚嘆の思いを抱くであろうと思います。これが、私にとっての愛というテーマです。
みなさん一人ひとりに、また違ったテーマがあると思います。さあ、自分のね、心のなかを見つめて、愛、自分にとっての愛と言うテーマはいったいなんなのか。まず、奥さんと調和できていない人は、奥さんを愛することが愛だし、子供をじゅうぶん愛せない人は子供への愛もあるだろう。職場での愛もあるだろう。あるいは、神への愛とかね、いろんな隣人への愛もあるだろう。あなた方にとって、愛というテーマはいったいどういうものかね、僕はこれをじっくりと考えてほしいなあと、そう思います。
2.人生の共通一次試験としての「愛」の問題
さて、「愛」というのは共通のテーマだと、僕は言いました。でも、共通のテーマというように、小説の題みたいなものとしてだけとらえてはいけない面がある。これは、ある意味ではきびしい面があると思います。
それはねえ、やはり愛というのは、人生の共通一次試験なんですよ。今、国公立大学入るのに共通一次試験なんてあるでしょう。全国レベルで統一試験を受けて、やっていますね。これなんかも同じかもしれませんけども、一つの資格認定試験だよね。愛というのはそうなんですよ。あの世に入るための共通一次試験なんですよ。
この愛の部分を見てね、そして「与えられた愛と与えた愛」、この貸借対照表を出してみて、与えた愛のほうが多い人は天国へ行けるんですね。天国へ行く資格があるんです。ところが、与えられた愛だけで生きてきた人は、借金が多くてね、もう借金が返せないんです。そうしたものなんですね。だから、いろんな基準で自分の過去を反省するということが可能ではありますが、この愛というテーマでね、自分の過去をふり返ってみることはだいじだと思います。
たとえばね、まあセミナーとか研修会なんかよくやっていますが、僕なんかだったらこんな出題してみたいですね。「あなたが人を愛したその経験について、それが神理にかなった愛であるということを前提にして、それを述べてみなさい」ってね。「どれだけ神理にかなった愛を実践したか。それを三十枚ぐらいで述べてみなさい」なんて言ってみたいですね。書けるかどうかですね。ま、暇な人いたら書いてみてください。本書読んで暇な人いたら、土、日に書いてみてくださいね。人を愛した経験。それもおしりなでて愛したなんていうんじゃダメです。キャバレーで愛したなんてこんなのダメですからね。そうじゃなくて、ほんとうに男女を問わず、他人に対して神の愛を実践したと思うようなことがあったらね、それを書き出してみてください。どのぐらいあるかねえ。
ところが、人から愛された経験というのは、ずいぶん、ほんとうにあるんですよ。私だって、生まれてからこのかたのことずいぶん反省してみましたけど、やっぱりいろんな人の恩恵を受けてますねえ。両親から始まって、いろんな方の恩恵を受けていますね。それを思い出すと、自分はいかに足りなかったか、その感謝がね、足りなかったか、お返しができなかったか、そんなことを感じます。また、私が地上に生きている間にね、指導してくれた高級諸霊たちのあの愛というものを考えたときにね、「あー、自分は足りなかったなあ」とずいぶん思うことがあります。
たとえば、「心配」という言葉がありますね。まあ心配というのを悪いことだけにとる人もいますが、心配のなかには、やっぱり愛の面もあると思いますね。親が子を心配するように、高級諸霊たちは、地上に出ている人びとのことをやっぱり心配しています。守護霊なんかもひじょうに心配症ですね。心配しています。私も心配症です。みなさん方一人ひとりのことが気になる。あの人もこんな悩みがある。この人もこんな悩みがある。あそこで離婚しそうだ。ここでカップルが崩壊しそうだ。ここで親子の葛藤が起きている。ここでどうこうなっている、とこのように考えるとね、なんとかしてやりたいなあと思うことがずいぶん多いです。そういう人たちは、相談する先がなくて困っているんでしょう。たとえば、私が生きていてお会いすることができればね、そんな家庭の問題などについてもアドバイスしてあげたいなあ、と思うことが多いです。
愛の問題に関してはねえ、権威をもってアドバイスできる人が、今ほんといないんです。みんなね、どうしたらいいんだかわかんないんです。新聞の解答欄なんか見たってわかりやしないです。人生相談見たってね、小説読んでもあまり解答出てないです。どうしたらいいかわかんないんですね。だから、この愛の問題についての解答をね、やはりひとつでも多く出したいと思います。
私もこの本のなかで、いろんな具体的なことを言いましたが、これは私なりのひとつの解答なんですね。読者のみなさんが、自分が今の立場でどうしたらいいかわかんなかったら、高橋信次のアイデアもひとつの参考にしてね、やってくれればいいと思います。私はできるだけの努力はしましたが、もちろん、私以外の考え方もあることはあるでしょう。ただね、人生の達人と言っていいかどうかはわかりませんが、肉体を去って、今はるかなる高次元から見ていて、ま、こんなところでいいんじゃないかなあと思うところを、私は言っているんですね。
どうかね、「人生の共通一次試験としての『愛』の問題」という観点をね、忘れちゃいけないよ。これは日々試験なんだよ。試験を受けているんだよ。いいですか。この愛の出題というのは、いつも出てるんですよ。中間試験にも、期末試験にも、ズーッと大学受験にも出てるんですよ。はるかなる太古から今日までね、連綿と出し続けられている問題だし、地上に人間が生命を持つ理由も、じつはここにあるということなんだね。
「愛の実践」ですよ。ここにほんとうの理由があるんです。この場を与えられているんですね。
天上界にいたときには、それぞれの人間が、自分の霊層にあった世界で生活をしています。そして、そこはひじょうに調和された世界です。それゆえに、愛を実践するということに、それはどの困難をともなわないのです。このために、魂の磨きという面において、幾分見劣りするところがあるのです。
ところが、地上世界は霊的世界と隔絶(かくぜつ)された世界であり、この肉体に宿って、そして愛を発見し、実践していくということは、このうえない修行になるのです。たいせつな魂の糧となり、魂の成長のための材料となるのです。そうしたありがたい環境として、この三次元世界が与えられているんです。だから、いろんな材料に関して、どう愛を発掘し、愛を発揮していくか。こういうことを、重点的に考えていって欲しいと思います。
3.愛と挫折
こうしたテーマでもって、人は愛に生きているわけだけども、愛にはね、いろんな挫折があります。それは、本書で語ってきたように、夫婦関係のトラブルもあれば、三角関係の問題、あるいはセックストラブル、離婚・再婚、悲しいですね。いろんなそんな挫折があります。親子の葛藤というような、そんな挫折もあります。みんなのね、こうした苦しみや悲しみ見てると、僕はもうなんていうかねえ、黙ってられないんだね。黙ってられなくて、なんとかしてやりたいなあと思います。
そして、この愛の挫折の部分については、なんていいますかねえ、霊格が関係ない部分もありますね。それは、おたがいに理解しえないと、こういう悲劇が起きるんですね。
「愛と挫折」と言うテーマをとってみれば、イエス様なんかも、いちばん典型的な例だったでしょうね。あれだけ愛の大家として生きた人が、実践面において、数々の挫折をしています。兄弟との愛においても挫折をしていますし、母との愛においても挫折しております。また、弟子への愛においても挫折をしておりますし、敵に対する愛ということを説いても、その敵に対する愛について、やっぱり挫折の経験はあります。それほど難しいものなんですね。
というのはねえ、人間は地上に生きていると、なかなかそういうお人好しの存在が信じられないんですよ。で、イエス様みたいな人は、ほんとのお人好しだと思いますね。高級霊っていうのは、地上に出てくるとお人好しになっちゃうんです、どーしてもね。多少抜けててお人好しなんですね。そして、上着取られたり、下着も与えるほどの、ほんとのお馬鹿さんになっちゃうんですね。地上に出るとね。そうするとね、地上の人っていうのは、悪魔的な部分があってね、上着とったら下着も与えてくれるような人いたらね、そうか、命も取ってやろうかと、こんなことを平気ですることがあるんですね。このへんが難しいところだね。
愛においてもね、この挫折は、ひとつは慈悲魔というかたちで挫折が起きることがあるんです。かく言う私も慈悲魔でありました。生前、「GLA」というところで、主宰者というか、会長というか、そういう指導者やっておりましたが、自分の会社である高電工業であがった利益なんかも相当つぎ込んでおりましたし、日大講堂みたいなところを借りてやって、私が会場代払ってまで聞かしたり、入場料無料で全国で講演会やったこともあります。自分の身を犠牲にしてでも、人を救いたいという気持ちがひじょうに私は強かったです。
ただ、この私の慈悲魔の性格が裏目に出たことは、相当の数あったと思います。まあ、宗教で金儲けしちゃいけないなんて、私はいつも説いていましたが、その結果そういう無理な面が出てきましたし、結果的にあまり救世運動として広がらなかったなあと思う面があります。
「発展」という概念がなかったということですね。小さな愛にとらわれて、大きな愛を見失った点があったと思います。小さな愛というのはなにかっていうと、自分の身を犠牲にして、人びとを救いたいという気持ちですね。神理に生きる人は、あるいは宗教家は金儲けしちゃいけない、そして、金儲けしないで自分の時間と労力でもって奉仕するのが筋である。こういうのが小さな愛であったと思います。
ただ、結果的に見たらどうであったかというと、私の事業そのものは発展しなかった、という結果が、明らかに出ていると思います。やはり、ほんとうにより多くの人たちを幸せにしていくための方法は、それなりに構築すべきであったなと思っています。
弟子たちにも、宗教で飯を食ってはいけないということを言っていたので、仕事を持ちながら、私の運動を手伝うということをやっていたわけですが、いかんせん、彼らの勉強の時間がなかったし、教育の面で足りないところがありました。それゆえに、救世運動として、一本筋が通っていないところがあったと思いました。なにごとも片手間でやったらいけないという、ひとつの例になったんではないかと思います。
私はねえ、だから、この愛においても言っておきたいんですね。愛の思いを起こすなら、小さな慈悲魔となって、自分の身を捨てるということだけを考えるのではなくてね、一粒の麦が、やっぱり大きな実りとなるところまで見とどけなさい、そういう意味での欲は持ってていいよ、と言っておきたいと思いますね。
一人の人間の力というものは、限られたものであるけれども、その影響のしかたっていうのは無限の可能性があると思っています。自分の個人の才能、能力の限界を活動の限界とするのではなく、愛の限界とするのではなく、いろんな人の力を借りて、よりいっそう大きな成果を収めるべくがんばっていくのがいいのではないかと、私は現在考えています。ですから、たとえばこの私の『霊示集』であってもね、やはり長い期間にわたって、裾野(すその)を広げながら法を説いていくという方向が、いいんじやないかなあと思っています。
私自身は、決して自分が偉くなりたいとか、そんな気持ちはまったくありません。現在そういう気持ちはありません。こんなに本もいっぱい出しました。ちょっとめだちすぎて、いいかっこしていると思われるかもしれませんが、私自身の基本的な姿勢は一貫しているはずです。できるだけ多くの人に、訴えかけたいという姿勢です。
私は、女性にでも、年寄りにでも、若者にでも、子供にでもわかるやり方で、今まで法を説いてきました。この霊示集でいったい何冊目になるでしょうか。十数冊目になると思いますが、私の方針は徹底してそういうことでした。できるだけ多くの人に受け入れられるものでなければ、意味がないという立場をとりました。この立場において、私は神様的に法を説くと言う考え方を捨てました。いいカッコしないということに決めました。そして、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思いました。そういうことでやってきました。
結局ね、最後に勝利するものはいったいなにかということですが、私は、愛の行き着くところはなにかというとね、やはり、ほんとうは一人でも多くの人を救えなきゃ本物じゃないと思っています。理念としていくら高いものがあったとしてもね、実践の力として、人を救うことができなければ、その愛はやはり実ったとはいえないと思いますね。
だから、修行者は、そして宗教家はね、一人でも多くの人びとにめざめてもらうために、どうしたらいいのかということを、徹底的に考えて欲しいと思いますね。そのときに、自分自身の犠牲的な気持ちとか、少々のいいカッコをする気持ち、こういうものを捨ててね、一人でも多くの人にこの法が広がっていくためには、彼らの魂を救うためには、どういうことが可能であるかを考えて欲しいと思います。
私は、この高橋信次のこの霊示というものを、どういうかたちで多く広げていくかを考えています。そのためには、もうなりふりかまわず、いろんなかたちで浸透させていきたいと思い続けているわけですね。
だから、この本節のテーマである「愛と挫折」ということを取り上げてみるならね、愛には挫折はつきものです。けれども、この挫折を乗り切って、やはり大きなものにしていく必要がある。そこにいまひとつ、二枚腰、三枚腰が必要なことがあるよ。だから、愛にも二枚腰、三枚腰は必要ですよ。粘り強さはだいじですよ。粘り腰がだいじですよ。愛だって、がんばらなきゃいかんとこがあるんですよ。ま、こういうことを言っておきたいと思います。
4.悲しみと与える愛
愛と挫折に続いて話をすると、やはり、「悲しみ」という問題がどうしてもあるわね。愛というのは、成就し、成功したときには、とてつもなくうれしいものです。それは、幸福そのものになるでしょう。ところが、愛が挫折したときに、悲しみというものもまたたいへんなものですね。悲しみ、これは愛が挫折したときに大きく感じるものですね。
ついこの前まで、もう奇跡の結婚だと思っていたカップルが、別れていって、おたがい「あんなひどい相手だった」と言うようになったとしたら、これは悲しいですね。
愛ゆえの悲しみもある。その興奮の、その幸福の高まりにあったがために、その落下がまた激しく、深い悲しみになることもあります。
けれどもねえ、こんな悲しみもまた、これは愛の持つひとつの側面であることもあるでしょう。悲しみもまた、愛のなかには、どこかに内包されているように私は思います。それは、結局、愛というのはひとつの教育目的として、想定されているところがあるからだと思うんですね。愛について学ぶなかに、いろんな経験をするようにされているところがあると、私は思います。
ただ、ここでね、私がどうしてもみなさんに言っておきたいことは、愛は実らないこともありますが、しかし、悲しんでばかりいてはいけない。悲しんでいるときにこそ、笑顔でもって立ち上がり、与える愛を実践していくことです。
あなたが不幸であるからと言って、それを人に聞いてもらって、それでどうなるんでしょうか。あなたの不幸の話を聞いて、他の人は幸福になるんでしょうか。あなたは自分の不幸などケロッと忘れてね、そして、他の人を幸福にする方向で生きていったほうがいいんじゃないでしょうかね。
いつまでも、不幸は抱きしめてはいけない。悲しみは小さく、受け流していきなさい。忘却の川に流していくという方法があるでしょう。いつまでも、十年前、二十年前の不幸をつかまえていてはいけない。それは、やがて消え去ってゆくものです。橋の下の水のごとく、流れ去ってゆくものです。したがって、悲しみを小さく受け流していって、与える愛を実践していくことです。
この与える愛の実践においてだいじなことはね、やはり強い押しです。与える愛を実践しようとする人であっても、押しの弱い人、腰の弱い人はね、この与える愛かポッキリ折れちゃいます。そして、挫折になることがあります。人のためによかれと思ってやって、裏目に出るっていうことが多い人は、押しが弱いことがあると思います。ちょっと与えて、そして、相手が喜んでくれればいいなというような気持ちでやるから、そういうことになるんですね。
やっぱり、相撲取りかなにかのようにね、横綱相撲でいくべきです。横綱相撲で四つに組んでね、がっぷり四つに組んで、電車道って言うんですか、ドーンと突いて、まっすぐ突いていくぐらいのね、こういう愛の実践を私は望むね。小手先の愛じゃダメだよ。ちょっとあげたら、相手が喜んで食いついてきたら、ああよかったよかったと言って出てくるような、そんな愛じゃダメでね、もうドーンと向かっていかなきゃダメだよ。ちょっと撒(ま)き餌(え)かなんかみたいにエサ撒いて、魚がきたらいいけど、魚がこなけりゃあきらめるっていうような、こんな弱い愛じゃダメだよ。愛にも強さがいるよ。
悲しみに打ち勝ち、挫折からくる悲しみに打ち勝って、そして豊かな人生を築いていくためにはね、強い愛が必要です。愛に強さがいるということを、みなさんはまだ知らないんじゃないか。愛というのをやさしさ、あるいは、弱い人の典型のように思っているんじゃないか。愛深き人は、真に強くなくてはいけない。強い愛、押し強い愛、腰の強い愛、こういう愛が必要なんですよ。いいですか。圧倒的信念でもってね、人を愛し続けるというあの太陽のごとき愛がだいじです。無限の泉となり、無限の光となるような、そうした愛を持って生きて行かねばいかんのですよ。
5.されど歌え、愛の讃歌を
とうとう最終節にまできました。さあ、私も感慨深いです。この私の本を読んで、どれだけの男女が救われたか、解答が見出せたか、解答のためのヒントが与えられたか、言い足りないところがずいぶんあるんじゃないか。いろんなことを考えます。
できたら、一人ひとりの主婦に対して、ご主人に対して、カップルに対して、私はアドバイスをしてあげたい。「君たちは、こういうふうに生きたら幸福になれるんだよ」ということを言ってあげたい。それがわからないで、苦しんでいる姿を見て、天上界から見ていて、ひじょうに私はつらい。ほんとうにつらいです。こういうかたちでしかみなさんに語りかけられないことを、ほんとうにつらく思います。
けれどもねえ、僕はね、こう言っておく。前にも言ったことがもしかしたらあるかもしれないけどもね、世の中には経済原理みたいなのは、いろんな局面で働いています。愛の世界だって、その経済原理のようなものは働いているんです。「愛の経済学」と言ってもよい。需要と供給がつりあうようになっているんですね。
いいですか。地上にあるみなさんがね、人から愛されることばっかりを願って、愛することをしなければ、いったいどうなりますか。地上はどうなっちゃいますか。愛に飢えたそんな餓鬼地獄みたいな、そういう地獄が展開しているんじゃないでしょうかね。肋骨が出て、ガリガリにやせて、おなかだけが栄養失調でふくれているような、そんな人がさ迷っている、そういう世界になってしまうんじゃないでしょうかね。だから、愛の経済学は、需要と供給のバランスをやはりとっていかねばならない。
ところが、世の中を見てみると、需要は多いんだけど供給が少ないんだ。じゃあ供給がすくなかったらどうする。お百姓さんだったら、お米一生懸命つくるだろう。あるいは野菜一生懸命つくるだろう。どうだ。そして、小麦が足りなかったら、外国から輸入してくるだろう。肉が足りなくても、輸入してくるよね。そうだろう、ね。作物みんなが食べたいのに、足りなかったら、一生懸命つくるか輸入するしかないよね。そういうふうにして供給します。
同じです。世の中は、愛に飢えている人がいっぱいいるんです。あなたも愛に飢えた人の一人となって、あれが欲しい、これが欲しいというのではなく、まずみずからね、愛を供給していく、愛の供給者たれと、私は言っておきたいんですね。
夫婦問題で悩んでいる人にも言いたい。奥さんの過ちを責めたり、旦那さんの過ちを責めることばっかりして、それでいったいなんになるんだ。もう止めなさい。相手の罪を責め、相手の非を責め、相手の欠点を責めること、もうそんなこと止めなさい。
私があなた方に問いたいことは、「じゃあ、あなたはなにをしたのか。あなたはどれだけの愛を供給したのか」これだけだ。相手がどんなに悪いか、どんな欠点があるか、もうそんなこと私は聞きたくない。聞かなくてもわかっているけど、聞きたくもない、見たくもない。あなたは、その相手に対していったいどうしたのかということだ。
理想的な相手に対してだけ、愛を実践することはかんたんなことだ。すばらしい人に対してだけ、あなたはすばらしいと言うことはかんたんなことだ。しかし、理想的でもなく、それほどすばらしくもない人のなかに、どれだけすばらしい輝きを発見し、彼らに愛を注ぎ込むか、これがだいじなことだよ。
子供だってね、やっぱりかわいがらなきゃかわいくならないんですよ。同じように、人間もね、他の人をかわいく思わなければ、すばらしいと思わなきゃほんとにすばらしくなってこないんです。いいかな。だから私はね、「されど歌え、愛の讃歌を」と書いたけども、やはり愛というのはすばらしいものです。
でね、僕はみなさんがあの世に還ってくるときに、またできるだけ会って話をしたいと思っているけども、そのときに、僕がみなさんに聞くことはね、「君のそういう環境はわかった。苦しい環境にあったことはわかった。挫折があったことはわかった。ところで、じゃあ、君はどれだけその愛を供給したのか。実践したのか」これを聞きたいよ。
他人がしてくれなかったことはわかったよ。では、あなたはじゃあ、他人がしてくれなかったから、それだけ多くのことをしてきたのかというと、考えていない。夫が愛してくれなかったとか、親が愛してくれなかったとか、兄弟が自分を不幸にしたとか、こんなことばっかり、愛の需要ばっかりしていて、供給してない人ばっかりがいると思う。
だから、日本国中に今、食料が不足していると思ったら、みなさんどうするか。サラリーマンやめてでも、百姓やろうと言う人だって出てくるだろう。これだけ愛が不足しているなら、また世界に愛が不足しているなら、なぜ積極的な愛の供給者とならんとせんか、ね。あなた一人だけでも、ホタルのごとく輝こうとせんか。私はみなさんにね、こうした力強い自覚をもって、立ち上がって欲しいと思います。
その具体的な愛の実践としては、私は一つあげておきたいけど、私は今、はるかなる高次元から、こうした霊示集でもって地上のみなさんに、真実の世界のことについてメッセージを送っています。みなさんへの私の愛です。愛のメッセージです。これを受け止めて欲しい。受け止めて、世の人びとに広げて欲しい。これは、私の情熱です。どうか、この真実の声を一日でも早く、多くの人に広げて欲しい。それだって愛の実践だと思います。
どうかね、愛の讃歌を高らかにみんなで歌おうじゃないか。そしてね、神さまが喜んでくれるような、そんなすばらしい世の中にしようじゃないか。この世もあの世もみんなすばらしい、バラの園(その)のようにしようじゃないか。すばらしい花壇にしようじゃないか。そう強く願って、本書を終えたいと思います。