目次
1.現代の職業倫理
11.環境に感謝する姿勢
1.現代の職業倫理
「正業」ということは、現代においてひじょうに難しい課題として我々に提示されている問題であります。というのも、現代の社会の複雑化、また産業の進展というものを目の当たりにして、私たちは今、「正しい仕事とは何か」という基準がわからなくなってきているからであります。
ひと時代前であるならば、もっと簡単な基準があったであろうと思われるし、それなりの職業倫理が確立されていたと思えるのですが、現代においてはこの正しい仕事とは何かということが、きわめて難しい問題となってきております。
またもうひとつ、どうしても考えておかねばならないことは、なにゆえにこの正しき仕事ということが要請されるのか、この正しい仕事という課題、霊的に見てどういう意味合いがあるのか、これを知らねばならないわけであります。
ともすれば私たちは瞑想的生活に入っていきやすい、そういう魂の傾向を持っておりますし、宗教的魂の方であるならば、どうしてもその生活がなつかしいものであって、その世界に入っていきたい、という憧れを持っていることも否めません。
そうすると、私たちが魂のなかで感じるこの郷愁、魂の郷愁ともいうべき瞑想的生活と、現代において私たちがおかれている、この仕事環境、職場環境の問題をどう考え、解決していかねばならないのか。これはまさしく、私たちが知恵をしぼるべき場であるわけです。ここで知恵をしぼらなければ、現代に出て宗教家である資格はないのであります。
かつては瞑想的生活のなかに、正しき心の探究を説けばよかった、それはひじょうに簡単な面があったと思います。しかし、この現実社会をどう見るべきでしょうか。まったく無視し去るべきでしょうか。虚業であると突き放すことができるものなのでしょうか。空しい仕事であって何らの霊的意味合いもないと切って捨てられるものなのでしょうか。あるいは現代に魂を宿して生きている以上、このなかにも何らかの意味合いがあると考えるべきなのでしょうか。この時代背景を霊的進化の法則に照らして見たときに、どのように考えるべきなのでしょうか。これは避けて通ってはならない課題であると、私は思うのです。
そして、この現代的仕事についてどう考えるかということは、まだ明確な結論が出ていないと思えるのです。宗数的には、出世、肩書き、金銭、こうしたものはともすれば罪悪的に言われていることのほうが多く、そうしてみるとビジネス社会のなかにおいて、宗教論理のはたらく余地はなくなるわけであります。しかし、それでよいのかどうか、ということです。
2.キリスト教の流れにある繁栄の法則
そして天上界の計画をながめてみるとどうであるかといえば、あきらかにこの部分について修正が入ってきていると考えざるをえないのです。
たとえばイエスの時代の職業倫理はどうであったか。職業というものにそれほどの重きが置かれていなかったことは、聖書を読めばよくわかります。イエスの時代にしてイエスが、千数百年のちにくる産業社会の到来、ここまで考えて教えを説いていたとは思えないのです。そうした社会が出現しておればそれなりの教えをたぶん説いたであろう、と推定されるのですが、当時の社会環境からいえば、そうしたことを念頭において法を説くという考えはなかったのだと思われます。
それゆえに、宗教改革の流れのなかで、とくにルター、カルビン以来の宗教改革の流れのなかで、宗数的神理と現実生活の問題が課題とされ、そして改革されてきたのではないかと思うのです。とくにこの宗教改革の流れのなかにおけるプロテスタンティズム、これと資本主義精神とのかかわり、これは大いに影響しあったと思われるのであります。
たとえばイギリスからメイ・フラワー号に乗ってアメリカに清教徒たちが渡っていき、そしてその後アメリカが奇跡の発展を遂げていくわけですが、ここに何か、国の繁栄というものと、宗数的神理とを一致させんとする神の願いがあると考えられます。
また、その後、十九世紀、二十世紀のキリスト教の流れを見たときに、どうなっているかというと、ひとつの繁栄の法則を科学的に説明するという側面を持ったキリスト教が台頭し、そして発展してきております。いわゆるニューソート系統のキリスト教です。これがひじょうに力を持っています。ノーマン・ビンセント・ピールにしても、またロバート・シュラーにしても、いまだに現役でがんばっておりますが、彼らの説いた教えは、従来のキリスト教会から見れば当初は異端に思えていたのであります。
N・V・ピールの『積極的考え方の力』という本を、お読みになった方も多いでしょう。全世界で一千万部突破した本でありますが、あのピールにしてもこれが発表された当時は非難囂々(ごうごう)であったのであります。四面楚歌(しめんそか)という状況であって、キリストの教えを、こんなふうに現代的に、仕事の役にたち、ビジネスに使えるようなものにしたということ自体が、ひとつの法をねじ曲げた行為であるということで、多くの牧師たちからの攻撃の声は鳴り止まなかったのであります。
しかしそのなかで着実にその本が全世界に広がっていった、この背景はどこにあったかと考えてみると、このビジネス社会のなかに宗教的な考え方を取り入れてゆかねば、人びとの需要、ニーズに応えていくことができない、過去の聖書を読んだだけでは人びとの心を満たしえないということだったのです。やはりそれも、天上界からひとつの計画があって行なわれてきたことであります。
3.正法のなかの繁栄・発展
日本は今、アメリカという国に、追いつき、そして追い越そうとしておりますが、現象的にはアメリカに起こったことを五年から十年たってから追いかけていることになっております。そういう現状でありますが、やがて二千年を境にして、これは明らかに逆転していくことになります。しかし、現時点では、あちらに先に起きたことが、数年後に日本に起きてくる、という流れであります。
そうすると今後の日本のビジネス界、宗教界を取り巻く環境としてどういう環境が出てくるかと考えてみると、この両者をリンク(連結)させる理論は必ず出てこなければならないのであり、また当然出てくるはずなのであります。
それゆえに、今私たちも幸福の原理のなかのひとつとして「発展」という概念を明らかに打ち出しました。これを入れておかねば、今後の社会の要請に応えることができないのであります。
釈迦仏教のなかには、この発展の概念はどちらかといえば欠けていたでありましょう。それは内的世界の発展ということに留まっていたかもしれません。しかしながら環境自体がこれだけのダイナミクスを含んでいる現今において、内的世界の発展だけでは止まらない部分があるということであります。
それは私たちがよく、「この世とあの世を貫く幸福」という言葉でもいっておりますが、かつて実在界のみに存在した世界を、この現実世界にも同時に連動的に現わすという、そういう時期が来ているということであります。
特に日本神道系にあっても、この点については、そうとう努力をされてきたという感じがあるのであります。戦後の日本の復興というものを見たときに、これは日本神道系の高級神霊たちのそうとうの力があったと思われるのです。という以上に、むしろ精神世界のなかにおいては、この日本神道系の力が一部、ヨーロッパやアメリカのなかにも入っていったというのが霊的世界の真相であります。そのようなことが現実にあったのであります。
ただ、これを単に日本神道系の考えとのみするのではなくて、もっと本質的な部分、根源的な部分から、この職業と神理という問題を前面に打ち出す時期がきたのではないかと思われるのであります。
私は今、『愛は風の如く』という物語は、ヘルメスの生涯の物語であります。この物語を読み続けていけば、実はこうした神理もあるのだなということがわかってゆくと思います。みなさんが今まで神理と思っていた、あの瞑想的生活だけではないという部分が明らかに出てきます。神理のなかにはこの世の発展・繁栄の原理となるべきものが、明確に含まれているのであります。
私はこの物語のなかにおいて、四千数百年前、ギリシャのヘルメスがやってきたことを克明にたどっていきますが、それは現在の、十七、十八、十九世紀、二十世紀、この近現代の世界で起きてきたことを、四千年前にすでに先取りしているのです。そうした原理が明らかに出ております。『愛は風の如く』をお読みになるならば、それがよくわかることでしょう。貨幣経済も、これをつくったのはヘルメスであります。また現在の為替に近いものまで、すでに発明しています。三国間貿易、こういうものも始めていましたし、E・Cのような経済連合体に近いものまで当時すでにつくっていたのです。
そういう発想が出ていて、軍事的に、ギリシャおよび地中海世界を支配するというのではなく、経済的な問題としてそういう関係をつくり、そして平和を生み出すという努力をしていたのであります。
ヘルメスは国連の原型にあたるようなものも考え出しています。そういうものの原型が、四千年以上昔にすでにあったのです。こういうことを、やがてみなさんは知っていかれます。そして神理の根底には、そうとうしっかりした軸が埋まっているということを知るに至るでありましょう。
こういう事実を知ったときに、現実のこの社会、あるいはビジネスの世界というものを無視できないと感じるように、たぶんなるでありましょう。それは、そうした社会を規律する法則、これを神理のほうに向けていくことによって、より大きな力で世の中を変革していける、そういう場面が出てくるからであります。単なる逃避だけでは済まない部分があるのです。
4.仏陀の反省、ヘルメスの繁栄 ―― これを両輪として
そこで、現時点でのこの射程、あるいは方向がいったいどこにあるのか、一昨年(一九八七年)の第一回講演会でも述べましたが、これをもう一度記しておきたいのです。現時点でめざしており、進んでいる方向は、仏陀の反省的・瞑想的生活と、ヘルメスの繁栄・発展の法則、これを両輪に据えて走っているのだということを、まずしっかりつかんでおいていただきたいのです。片面だけではなく、この両面をしっかりと据えつけ、そして融合させていこうとしているのであります。
この基本認識を忘れないでいただきたいのです。片方だけでは現代という時代を変えていくには不十分なのです。仏陀の法とヘルメスの法、この両方がどうしても必要で、この両者の統合をせねばなりません。この両者を統合したうえで、さらにその上なる概念、上位概念というものがやがて出てくるのであります。
仏陀の法もヘルメスの法もやがてかすんでいく時代がくるでありましょう。それはさほど先のことではないでしょう。一年目、二年目で、たとえば反省法についていえば、仏陀の八十年の生涯というものが総決算されつつあるわけです。また、ヘルメスの生涯も総決算が始まりつつあるのです。このあとにくるものがいったい何であるのか、これをみなさんは考えねばならないのであります。
私たちは今、過去の遺産というものを学び、そして統合し、さらにそれを超えて進んでいこうとしているのであります。したがって、私たちの行く手には、未来が見えるのであります。
5.ジャパニーズ・ドリームは神理の世界から
また、この日本でのひとつの神理の運動は、これは新たな意味でのジャパニーズ・ドリームになるであろう、そう予言しておきたいと思います。アメリカにはアメリカン・ドリームというのがありました。そして二十世紀は、そのアメリカン・ドリームのもとにいろいろな人が夢を求めて、アメリカという国の舞台でさまざまなロマンを描いてきました。そのアメリカが翳(かげ)りを見せてきております。次に来るものは何であるか。これがいわゆるジャパニーズ・ドリームの世界なのです。
このジャパニーズ・ドリームは神理の世界から始まるのです。神理の世界を起点として、始まり、やがてこれが浸透していくのです。いったん経済のほうから始まったように見えたものが、神理のほうからの、この発祥によって、すべての世界の色合いが変わってゆくのです。
今みなさんは、その源流にいるのであります。その流れはまだ小さいかもしれません。しかし、やがてこれは大きな流れとなって、そしてどうやら未来社会のほうへも流れていく大河であることがわかってくるようになると思います。一年半前に出した『太陽の法』のなかで説いている、この大きさが、まだ世の中の人びとにはわかっていませんが、やがてそれをはっきりと知る時代が来るのであります。
したがって私たちは、この「正業」のなかに、現代社会を見、未来社会を見ていくことも可能なのであります。それは、いったい何のためにこの仕事というものがあるのかということを、もう一度とらえ直す機会なのです。
6.魂の進化に資する「正業」
そこで、私なりの結論を記すとするならば、この職業における訓練・鍛練・努力というものが、はたして魂に影響があるのかといえば、これは「大いにある」と言わざるをえないのです。
高級霊界の人たちを見ていても、魂的に進化している人ほど、この仕事ということに関しては幅広い活動が可能であります。実際は、ひじょうに広範な仕事をやっているのです。それはなぜかというと、魂修行に九次元まで行っても残るものとして「指導力」という面があるからです。魂の修行の目標として指導力という面が残っています。六次元以降はだんだんと指導者になっていく歴史で、指導力という魂修行の課題が残っています。この指導力を増していくためには、どうしても仕事というものができなければだめなのです。
高次元霊であっても、この意味において、指導力をつけるためには、やはり時おり地上に生まれて地上経験を身につけなければ指導力が低下していくのであります。それは、高次元の霊界にいると、地上の環境についての理解、社会についての理解が欠け始めること、また霊的世界の感覚と地上の感覚とに差があること、また、地上経験をした多数の霊人たちが実在界に還ってくるにあたって、彼らを指導するさいに困難を感じるからであります。
したがって高次元霊であっても、単に救世のためだけに生まれ変わっているかといえばそうではなく、仕事能力をつける意味でも出ていることがあるのです。仕事能力をつけることによって、実在界に還ってもさらに大きな仕事ができるのです。これは魂にとって、ひじょうに貴重な体験であると言ってよいでしょう。
この正業という考え方は、『太陽の法』のなかにも、「生かす愛」という役階にも分類できるであろうと述べてあります。正業のなかにも一番上の魂領域まで貫くものがあるということです。神におかれても仕事ということに関しては、そうとうな実力者であり、そうとうの仕事をされているということだけは間違いがないのです。
今、九次元の法というものを統合するという使命を担って、私はやっておりますが、この九次元の法の統合概念として、その上にある方、上にある意識の指導を受けています。この大日意識ともいわれる方の指導を受け始めております。これは人格なき意識であるというように言っておりますが、大日意識のなかには九次元霊、この十体の意識を統合するために人格的に現われる部分もあるのです。
そして、九次元の十人の意見を統合しております。私たちが父と呼んできたほんとうの存在です。その方の前では私も子供の一人です。そういう意識があって、その意識が今年から仕事を始めました。次の段階に入ってきつつあるということなのです。
それはもっと大いなる業(わざ)、仕事というのが始まっていくということであり、私たちの救世の仕事も、これは大きな枠から見たならば、一種の仕事能力で計られる面もあるということなのです。
7.職業はユートピアの原点
私は以前から、会社であれ、他の事業であれ、いろいろなところで仕事をしていて、そこでユートピアを築けない方、そこで仕事ができない方が神理の世界へ来たら幸福が得られるかと思ったら、そうではない、ということを明らかに言っています。神理の世界というところは桃源郷ではないのです。やはり他のところで役に立てるような人がこの会のなかで活動することによって、さらなる力が出てくるという、そういうものです。この点はどうか勘違いしないでいただきたいと思います。
この世的にはどこでも成功しない、幸福も享受できない、ユートピアはできたことがないが、神理の世界だけではできると思ったら、それはたいへんな誤解です。『現代成功哲学』のなかにあるように、成功者の町に入るためには、それだけの下準備がいるのであります。
したがって、神理の運動に値打ちがあると思われる方なら、ただそのなかだけに生きていてよいわけではありません。それ以外のところで足腰をしっかりと鍛えておく必要があるということです。
これは女性においてもそうであります。女性のなかには職業婦人も多かろうと思いますが、主婦として家庭を守っておられる方は、主婦業も正業であるという観点を忘れてはなりません。主婦業を満足にできないで、神理の世界では活躍できると思ったら甘いのです。そのようなものではありません。主婦業を満足にできないということは、家庭のなかでユートピアを築けないということであり、夫に尽くすことができない、あるいは子供の教育も十分にできないということであります。
少なくとも、ユートピア創りの原点は、他の人の役に立ちたいという願いです。この願いによって、身近なところでユートピア創りのスタートがきれない場合に、これを一挙に飛び越して理想の実現する世界が出てくるとは考えられないのです。まず足元を見直していただきたいのです。主婦は主婦、またサラリーマンはサラリーマンとして、OLはOLとして、現在の自分の立場をもう一度ふり返ってみてください。
このなかにおいて、たしかに環境的要因というものはあるでしょう。環境的要因によって自己実現ができないことはあるでしょう。しかしながら、そのなかで最善を尽くしているという、その現実があってはじめて他のところでも生きてくるのです。これは真理であります。今の立場、今自分が置かれている立場、この世界のなかにおいて学ぶということを放棄して、それ以外のところだけでは自分は水を得た魚のように活動できると思ったら、これは甘いのであります。そういう甘い幻想はやがて消えていくしかないのであるという、このことをよくよく考えていただきたいと思います。
私自身、今こういう仕事をしていて痛切に感じます。この仕事に入る前にいろいろなことをやっておりました。また、霊道を開いてもう八年たちましたでしょうか。準備期間をそうとうおいたつもりでありますが、活動を開始して感じることは、今までやってきたことの、どれひとつとして無駄がなかったということであります。それ以前の段階において、私がもし手を抜いた生き方をしておれば、やはり現在の仕事のなかにおいてもそうとうのマイナスが出たであろうと推定されるのです。
その感はますます、一年一年、あるいは一か月一か月、一日一日深くなってきています。むしろ、もっと密度の濃い魂修行ができなかったかと反省されるところであります。たんに霊とか神とかいうものを追いかけるのではなくて、それ以前の人間的修行において、まだまだ学ぶべきことが多かったのではないか。学び尽くしていなかったのではないか。もしタイム・マシーンに乗って引き返すことができるならば、もっと徹底的にやっておきたかった、学んでおきたかったという気持ちはひじょうに強くあります。
無駄なものはないのであります。無駄なものが出るのは、それを活かし切らないからであります。活かす心がないから、活かそうと考えないからであります。この世において与えられる仕事のなかに無駄なものは一つとしてないのです。それはすべて魂の糧となり、いや、魂の糧となるだけではなくて、ユートピア創りのための積極的道具となるはずなのであります。このことを深く知らねばなりません。
8.仕事(ワーク)と労働(レイバー)
そこで、この正業の反省に入るならば、まずその前提として考えねばならないことは、自分に今、与えられている仕事です。仕事とは何かということをまず考えてみることです。自分にはどういう仕事が与えられているのだろうか。仕事とは役割の代名詞と考えてもよいでしょう。自分に与えられている仕事、すなわち役割、これはいったい何であろうか。これを考えたときに、自分の役割というものを一枚の紙のなかにおそらく書けるでしょう。書ききれないほどの仕事をしておられる方もいるかもしれませんが、たぶん一枚の紙のなかに自分の役割とは何なのかということが書けるでありましょう。そしてそのなかにいくつかの役割のどの部分をどういうふうに実践しているか、これについて考えをめぐらすことができるはずです。
たとえば、会社で社長をやっておられる方もいるでしょう。その方の仕事はもちろんいくつかに分類されるでしょう。それ以外にも仕事としてやっている立場はあるはずです。家庭のなかでも父親という一つの仕事をやっています。父親業というものもやはりあるわけです。それ以外にも他のいろいろなところで人間関係をもっているはずであり、そのなかにそれなりの役割はあるはずです。何らかの社会に、何らかのかたちで参画しているのが私たちなのです。
そうしてみると、これを一つひとつ取り出して、自分はそこで十分な役割を果たしているかどうか、考えていただきたいのです。そしてこのときに、さらに考え方を深めてゆくとするならば、二段に分けてもよいかもしれません。この役割の概念を、より高次な意味での仕事と、労働というものの二つに分解して考えてもよいでしょう。
労働という概念は、これは単純再生産のために必要とされる仕事です。みなさんが人間として生きていくために、どうしても必要とされる仕事です。毎日毎日しなければならない、生きていくための仕事、これが労働でしょう。この上位概念として仕事というものを、もし取り出すとするならば、この仕事のなかに含まれるべきものは何かというと、これは生産的なものという考え方になります。自分のその働きによって、どれだけプラスアルファを生み出せたかということです。
こういう考え方でやってみると、あらゆる役割において、この二段階が出てくることになります。主婦であっても朝食をつくり、昼食をつくり、夕食をつくるということ、この仕事のなかにも大きく分ければ「労働」的に考えられる部分と、労働の上の概念としての「仕事」に分けられる部分とがあります。英語で言うとwork(ワーク)とlabor(レイバー)の違いです。
9.仕事としての母親業
それは料理をつくるさいにも、たとえば「心をこめて」という言葉もありますが、子供たちやご主人の健康のことを十分に考えて、そして今の健康状態、それから仕事の内容から考えた栄養バランス、そういうものを意図してつくる料理は、これはワーク、仕事にあたるわけです。もし、何の気なく材料を集めてただつくっているだけであれば、これはレイバー、労働にあたるわけです。
こうした心の価値の含み方によって、外見的には同じことであっても二つに分かれます。また母親であるならば、子供の教育というのは、これは天職にも近いものでありましょう。この子供の教育においても、ただ単に子供を叱っているだけ、自分のいろいろな不満、不平、それから愚痴、こうしたもののはけ口として「とにかくあなたはああしなさい、こうしなさい。」と言うだけで母親としての役割を果たしているつもりならば、この役割は生産性をもっていないと考えられます。これは仕事ではない、労働にすぎないというふうにも考えられるわけです。
母親としては当然、子供のいろいろなことを見て小言をいうでしょうが、それが生産性に結びつかないときには労働です。しかし、その子供への注意がその子を伸ばし、将来優位な人材としていくために不可欠のものがあるならば、これは仕事といってよいわけです。
今、この家庭における仕事、母親の仕事がなおざりにされているがために、社会問題が数多く起きているわけです。職場に出て仕事のできる、できないということがいろいろあるわけですが、この原点は家庭にあることがひじょうに多いのです。家庭における教育の足りていない人は、この家庭教育を職場に持ち込むことになり、これが職場でのいろいろな問題を起こすようになってきます。本来家庭で終わっているべき教育が職場で行なわれることになればどうなるか。その人はマイナスからのスタートということになるわけです。
社会に出て、マイナスからのスタートにならなくてよいような状態までもってくるのが家庭教育の仕事です。それが人間関係を教えることであるし、人間としての生き方を教えることでありましょう。この根本部分が、終わっていないとひじょうに実社会に出ての試行錯誤が増えてきます。いろいろなところで上司に叱られたり、あるいは仕事のなかでの不調和を起こすことになってきます。家庭教育という根本の部分が終わっていないからです。原点をたどれば、母親が十分な仕事をしていないのです。
今、職場環境のなかでは仕事に関して、どこでも勤務評定をやっています。給料あるいはボーナス、こうしたものに点数化した勤務評定を、たいていのところではやっております。ただ、これを主婦業、あるいは母親業にもってきたらどうでしょうか。ここにも実力の差は必ずあるはずです。職場にだけあって家庭にないと思ったら、これは大間違いです。母親業としての実力の違いは必ずあるはずです。平均を超えている人、はるかに優れた人、平均以下の人と、いろいろあるのです。そうして、母親として平均以下の仕事でもって育てられた子供たちはどうなるか、スタート点においてかなり遅れをとることになります。
この仕事の評価は結局、長い意味での自分の将来の幸・不幸というかたちで返ってくることになります。また、これ以外でも、主婦として、家庭の管理能力という問題があります。これは単に職場で、あるいはスーパー・マーケットヘ行って伝票をきっているだけの仕事と比べて値打ちが落ちるかといったら、けっして落ちはしないのです。むしろひじょうに大切な仕事の一つです。家庭のなかにおいて、どれだけ優れた環境を創り出すか、創意工夫によって創り出すかということは、ひじょうに貴重なことなのです。
みなさんはお金になればそれがいいと思うかもしれないけれども、お金になったとしても、それが単なる労働、レイバーになることもあれば、お金にはならなくとも生産性をもった仕事、ワークになっていることもあるのです。家庭のなかにおいてもワークになることがあるのです。これを放棄しているということは、神理社会のなかにおいても自己実現はおぼつかないということなのです。
男性においては、この職業上の問題点は多岐にわたります。それはみなさんも自覚しておられるとおりです。そうとうの幅広い職業があります。また、そのなかで要請される職務態度、これもきわめて多様です。
ただいえることは、少なくとも正業をやっているといえるためには、その仕事のなかにおいて自己発揮がまずできなければなりません。自己発揮というのは、あなたがこの世に生命(いのち)を持ったという意味をその仕事のなかに見出す必要があるということです。あなたがこの世に生を受けたということの意味が発揮されねばならないということです。自分の魂を仕事のなかに生かそうとする努力が必要です。そうでなく漫然と終わるのであれば、これはたいへん残念なことです。後の「正命」にも関わることですが、これはたいへん残念なことであります。真の意味において自己発揮ができるということ、これが正業のための重要なことの一つです。
10.仕事のなかにおける常勝思考
もう一つは、この仕事の場において無限に学ぶという立場、これを忘れてはならないということです。仕事の場で思いのままにならないことはいくらでもあるでしょう。それはみなさんにとって不本意なことであるかもしれません。自分としてはベストの仕事をしているつもりであるのに評価を受けられない、あるいは邪魔が入る、こういうことはあるでしょう。
ただ、ここが一つの考えどころであると思うのです。つねに、いろいろな挫折や妨害や、失意の環境が現われたときに、そこで自分は何を学ぶかということを考えねばなりません。そこには必ず学ぶべきことがあります。これは見落としてはならない重要な点なのです。この世に無駄なものはひとつもないと思って、そうしたうまくいかないときにおいても、必ず「これは何かを自分に教えようとしているのだ。」という観点から見たときに納得するものが必ずあるはずです。そして、そこから得られたものは、次なるチャンスに必ず生かされることになっていくのです。このことをけっして忘れてはなりません。
さらにもう一つ、正業で気をつけねばならないことは、仕事において成功の段階にあるとき、発展の段階にあるときの考え方です。これについても、私はすでに何度も語っておりますが、むしろ失意のとき、挫折のときよりも、成功のときのほうが難しいということです。これについては何度も何度もくり返して言っております。それは、人間はどうしても自分がかわいいがために、安易なところで満足をしてしまいがちだからです。安易に出来上がってしまうというところがあるのです。
したがって、上向きだと思うときに、もう一度足場を固めていく。人からほめられればほめられるほど、謙虚な姿勢を強めていく。こういう考え方がだいじです。そして、成功したと思ったら、その瞬間から次なる努力の場面が始まるのだ、これからが新しいスタートなのだという考え方を、けっして忘れないことです。
こういう考え方が「常勝思考」といわれる考え方なのです。失意、挫折のときに必ず教訓を学ぶ、そして得意のときにはさらに努力を積んでいく、これは絶対に誤らない生き方です。自分が神のご加護を得、守護・指導霊たちの力を得てこれほど成功していると思うなら、この期待に応えて、よりいっそうがんばってみようと思うべきであります。逆に、「これは自分の力なのだ、当然のこと。」と思い始めたら、そこであなたの魂の向上は止まると思ってください。
チャンスが与えられれば与えられるほどに、次なるステップをめざしてがんばらなければいけないのです。そこが踏んばりどころです。このときに踏んばらなければ、小成にすぎません。小人物で終わりです。次のステップへ必ず行かねばならないのです。そうした有利な環境が出てきたら、「よし、これに応えなければいけない。これに応えてもう一段大きな仕事をしてみよう。みんなの役に立ってみよう。」と決意すべきです。こういう気持ちを持つことなく、そこで出来上がってしまったら、もうそれまでです。
一年間をふり返ってみても、仕事の面において自分の不遇な部分、不幸な部分、挫折部分というのはおそらくあったでしょう。そのときにあなたはどう思ったでしょうか。教訓を学び得て、次なる準備ができたでしょうか。また得意のとき、あなたはどうだったでしょうか。得意のときに「まだまだ、こんなものであってはいけない。これはほんとうの自分の力ではない。多くの人の光によって、力によって、現在の自分があるのだ。もっともっとお返ししていかねばならない。」と考えられたでしょうか。それとも、そうした立場が与えられたことを当然だと思ったでしょうか。
11.環境に感謝する姿勢
私たちは、ともすれば誤解をすることがあるのです。自分自身が光っているわけではないのに、他の光を当てられることによって、その反射光で光っているにすぎないのに、すなわち月のような存在であるのにもかかわらず、自らを太陽だと勘違いしてしまうことがよくあるのです。それはみなさん一人ひとりにいえることです。月のように、実際は反射光で光っていることが多いのに、太陽だと思ってしまう、自分で光っていると思うようになってくる、こういう瞬間があります。これがいちばん危険なときです。
大企業に勤めている方は、特にそういう危険があると思います。すべて自分の力だと思ってしまいやすいのです。仕事が進む、対外的に交渉する、そしてうまくいくと、自分の力だと思ってしまう、自分の器量だと思ってしまうのです。会社の看板がそこに効いていることが多いのです。官庁に勤めておられる方もそうです。その官庁のバックがあってはじめて仕事ができるのであって、これを取られたときにどうなるかと考えたら、けっこう無力な自分を見出すのです。自分の個人的信用でできた仕事ではなかったのです。その組織の背景なり、看板なりによって仕事ができていたのを自分個人の信用だと思ったり、実力だと思ったら、この次の段階で苦しみが始まります。
役所などで昇りつめた方などに、天下りということがよくあります。天下りでも成功する方はいます。それ相応の実力がある人は成功を修めていますが、逆もまた多いのです。私もずいぶん見てきましたが、役所である程度以上の立場にあった人が転職して天下っても、なかなか成功できないのです。天下って、給料だけをもらう立場に甘んじている人はいくらでもいます。便利屋的に使われているだけなのです。それは、自分の実力と、バックあっての実力とを誤解して生きてきた方たちの姿です。ほんとうに仕事ができたわけではなく、机がものをいい、椅子がものをいったということが多いのです。
これは普通の会社の部長や、あるいは役員でも同じです。自分がいなければこの会社はもたないと思っていても、その方が退職しても会社は動いていきます。そういうものなのです。「自分がいなければこの部はまわらない。」と思っていても、新しい人に変わってもすぐ動いていきます。ここにやはり、大きな考え違いがあることが多いのです。
八割ぐらいはその組織の力、あるいは法人の力、みんなの力であって、残りの二割ぐらいが自分の個性によって味付けをしている部分であることが多いのです。それを勘違いしてはいけないのです。よくよく考えねばならないところです。現在成功している方も、どうかそれを自分一人の力だと思わずに、その成功を支えている要因に対してじっくりと分析をし、そして自分を支えてくれた方に対しての感謝の思いをもつことがだいじなのです。
『現代成功哲学』にも書いてありますが、少なくとも他の人の引きなくして成功する人はいないのです。そういうチャンスはゼロと思ってください。それは人間社会というものは、そういうふうに成り立っているからです。自分ひとりだけで生きているロビンソン・クルーソーのような世界もあるかもしれない。彼の場合でもフライデーという召し使いが出てきて発展したわけですが、自分一人ではなかなか発展というのはないのです。
それともうひとつは、宗教的人格のなかには考え違いをする人が多いのですが、強きをくじく性格の方、みなさんのなかにもそうとうおられると思います。神理を学んでいるような人のなかには、どうしてもこの世的権力、あるいは成功者へ背を向ける部分があるのです。どうしてもそうしたものに背を向けて、自分はそういう世界の人間ではなくて、別の世界の人間なのだと考えやすいのです。そして上司を批判したり、あるいは自分を本来引き立ててくれている立場の人を批判するようになることが出てきます。
これは、やはり成功の原理を知らぬ行為といわねばなりません。いくら下の者をかわいがっても出世できないのです。それは、そういう力学があるからなのです。いちばん出世するタイプは、上にかわいがられ、下に愛される人です。ですから転職するさいにも、やはりどれだけ多くの人に自分が愛されていたかどうかは、よくわかるはずです。自分が去っていってもだれもまったく困らず、だれも残念だとも言ってくれないというのは、さびしい限りであります。時おりこうした人間になっていることもあります。
ですから、私たちは、成功していると思うときによくよく自分のまわりを見なければなりません。ある人たちの力によって現在の自分があるのではないか、それに対する感謝ができたか、報恩ができたか、また、その報恩はさらなる自己改革と自助努力というステップを踏み出しているかどうか、こうしたことを考えねばなりません。
太陽と月の比喩を、ここで思い出していただきたいのです。