目次
(一九八六年十二月二十一日の霊示)
1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである
内村鑑三です。今日は第八回、いよいよ最終回となりました。未来への福音ということについてお話したいと思います。地上の皆さんは、福音という言葉を聞くと、聖書、あるいは、キリスト教というイメージを持っているのではないでしょうか。
しかし、福音という言葉の本当の意味は何でしょう。福音とは、幸福の調べという意味です。英語ではゴスペルとも言いますが、よりわかりやすく言えば、グッド・ニュースということです。つまり、福音とは、良き知らせという意味なのです。
では、良い知らせとは、一体何でしょう。何をもって良い知らせというのでしょうか。地上に生きているあなたたちにとっては、たとえばお金が入ってくることが良い知らせかもしれません。出世することが良い知らせである人もいるでしょう。子供を生むことが良い知らせであるとか、あるいは、いい学校の入学試験に受かることが良い知らせだとかね。それぞれの人が、いろんな良い知らせを持っていることと思います。
しかし、本当によい知らせとは何かと言うと、それは、神の国からの通信なのです。地上にいるあなた方のほとんどは、霊の存在も不確かであり、また、霊というものを認めるにしても、聖霊とか、天使とかいうものが本当にいるのだろうかと不思議な気持ちだと思います。本当に天使からの言葉があるのだろうかという疑いの気持ちがあってもおかしくないでしょう。
しかし、そういう不確かな気持ちを振り払ってもらうためにも、私たちは、こういう形で、天上界から霊界通信を送っているのです。皆さん、これが、福音なのです。私たちは、正真正銘の天使なのです。そして、その天使が、あなた方に、今、書物という形を通して述べ伝えているのです。生きているときに私たちの言葉を聞けるということ。これが最大の良き知らせでなくて、一体何でありましょうか。
2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音
良き知らせのなかには、三つの内容が含まれております。第一にそれは、神の国の訪れを告げる鐘の音です。イエスは、こう言いました。
「汝ら悔い改めよ。神の国は近づけり。神の国は汝らの手近かにあり。今ここに出現せり。神の国は心のなかにあり。汝らが心を入れ替えたときに、神の国は現われる。我は、神の国の出現を諸君に伝えんがために、現われたる聖者なり」
良き知らせ、すなわち、福音とは、まず第一に、神の国の到来を告げる調べなのです。鐘の音なのです。言葉なのです。
3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉
第二に、良き知らせとは、神理の言葉です。人間は、地上で数十年の人生を生きていく途上において、本当に真実の生き方が何であるかということに関して盲目だと言えます。盲目のままに生きているのです。何が価値あることで、何が価値のないことかということがわからないままに、六十年、七十年の人生を過ごしてゆくのです。
ですから、この世を去って、私たちの住むあの世に来てはじめて後悔をする人の数は、数えきれません。そして、彼らのなかの多くの人は思うのです。「なぜもっと早くこの神理に気がつかなかったのだろうか。このことを知っていれば、私はこんなに迷わずにすんだのに」と。
また、宗教にしても同じことが言えます。死んであの世に還ってはじめて、気がつくのです。
「ああ、地上にこんなに真実の教えがあるのならば、なぜ神様はもっと早く、それを教えてくれなかったのか。私が接した宗教は、みんなまちがった教え、邪宗ばかりだった。それにこりて、宗教は、もう金輪際(こんりんざい)ごめんだ、二度と近づきたくないと思ってしまった。こんなまちがった教えが神の教えであるのならば、神などいないほうがましだと思っていた」
神は存在しないのではないかと、多くの人たちは思っていたのです。ところが、あの世に還って、真実の教えが地上にもあったことに気づく。だから、それを学はなかったことに関して、非常に後悔をするのです。ですから、死ぬ前に、生きているうちに、肉体を持った身のままに、神理の言葉に接するということが良き知らせであると言えるのです。
神理の言葉に接する。人生において、これほど意義のあることはないと思います。これほど素晴らしいことはありません。しかし、この良き知らせを受け取ることができる人とできない人との間には、非常に大きな差があり、谷間があるのです。
4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい
人生の途上において、神理の言葉ではなく、まちがって、偽りの言葉を真に受ける人もおります。すなわち、これは良き知らせに対する悪しき知らせです。まちがったサタンたちの教えを奉じている宗教に属し、盲信、狂信のままにそれらを鵜呑(うの)みにして、まちがったままに人生を送った人たち、こういうあわれな人たちもいます。
こういう人たちは、良い知らせに接しなかったというそれだけの人よりも、もっともっと苦しい人生があの世で待ちかまえているのです。つまり、彼らは、マイナスからの出発だからです。神のほうへ向かう道を登り道だとするならば、彼らは、まちがって道を下っているのです。谷間まで下りてしまっている。ですから、ここからまた頂上まで登らなくてはならないということは、大変な苦労がいります。
しかし、たいていの人は、山道をしっかりと登っているのです。正しき教えに接した人は、一歩一歩着実に山道を登りながら、その頂上をめざしている。ただ、その途中で、近道があると思ってまちがった道に迷い込んでしまって、麓(ふもと)まで下りて来た人もいるのです。谷間のなかに下りて行き、沢のなかで迷ってしまう。彼らは、近道だと思って入った道が、大変な迷い道だったことに、あの世で気がつきます。しかし、その迷い道から抜け出して、また頂上をめざすのはなかなか至難の業です。
あなた方は、地獄という存在について、さまざまな疑問を持っているのではないでしょうか。神がなぜ地獄をつくったのか。なぜ地獄霊がいるのか。こういうことについて、疑問を持つと思います。
それは、すなわち、こういうことなのです。説明しましょう。神というのは、山の頂(いただき)なのです。神は、山の頂にいらっしゃるのです。そして、山を登って来ようとする登山者たちに対して、「頂上をめざせ。頂上こそ、あなたたちの来るところである。我が懐(ふところ)へ至れ」と、こう言っているのです。だから、何万、何十万、あるいは、何千万、何億、何十億の人たちが、頂上をめざして山を登っているのです。
ところが、なかには、けわしい山道を歩くのに疲れ果てて、もっといい道があるのではないか、もっと近道があるのではないかと、かってに地図を出していろんなことを調べはじめる人が出て来る。この道を行けば、きっと近道にちがいないと、脇道に入って行く人たちが出て来る。その結果、彼らは、山のなかに迷い込んで、頂上に登る道がわからなくなってしまうのです。
いったんは、道が下りはじめたことに気づいても、いや、これはひとまず下っているだけで、どこかできっと平坦な道に出て、頂上に通ずるにちがいない、と。そう思いながらも、いつのまにか下り道を下りはじめて行くわけですが、そうするうちに、もと来た道もわからなくなってしまう。帰るに帰れなくなり、孤立して、孤独になり、迷っていく。これが地獄なのです。
5.神のつくられた世界は山だと思いなさい
ですから、神のつくられた世界は、山だと思えばいいのです。すなわち、神理の道とは、その山を登るための山道なのです。
それでも、途中で脇道に入って、獣道(けものみち)とかね、そういうところに入ってしまって、迷う人が出て来る。そういうところに迷うというのは、迷わすのがおかしいのではないかという人がいるかもしれません。しかし、道を踏みはすしたのはだれですか。それは、その人たち自身ではないですか。頂上をめざすのに、どの方向を選ぶ。それは、登山者の自由です。正規のルートをはずれて、かってにちがう道に入って行ったのは、自分自身に他なりません。そして、山に迷ってしまっているのです。
また、神様というのは、山をすべて禿山(はげやま)にして、山道を頂上まで登れるように舗装して、きっちりしておくべきだという人もいるかもしれません。ただ、山登りの醍醐味(だいごみ)というのは、大自然のなかを歩んでいくからこそ素晴らしいのです。頂上までのまちがいない道ということで、アスファルトで舗装してしまったからといって、それでいいわけ
てはないのです。
てはないのです。
また、今の時代にはケーブルカーというものがあって、それに乗れば、もちろん、頂上まで早く着けるでしょう。しかし、ケーブルカーに乗ってしまったのでは、山登りの本当の素晴らしさがわかるでしょうか。大自然の本当の素晴らしさはわからないはずです。第一、そういうことでは、あなた方の足腰は強くなりません。
山道を歩く。歩きながら足腰を鍛える。汗を流して、峠、峠でひと息つく。弁当を広げ、お茶を飲む。そして、皆んなと語りあいながら、また登って行く。こうであってこそ、素晴らしい人生だと言えるのです。それを、ケーブルカーに乗って、横着(おうちゃく)にも山を登って行こうなどとすると、頂上まで登ったと思っても、そこで扉が開かないでしょう。なぜならば、まだ、何の修行もしていないからです。
「あなたは、もう一回麓まで行って、他の人たちと一緒に登って来なさい。他の人は一生懸命山登りをしようとしているのに、そなたひとりが楽をして、ケーブルカーに乗って来ようとは何ごとであるか。もう一回、麓まで降りて、そこから登って来なさい」と神に言われてしまうでしょう。
そういうことであって、悟りには、決して近道はないのです。これが、良き知らせの第二番目の意味です。良き知らせの一番目の意味は、先ほども言いましたように、神の国の到来を告げる鐘の音です。そして、第二番目として、神理の言葉、真実の言葉、これが良き知らせです。では、良き知らせの三番目とは何でしょう。三番目の意味は、希望です。
6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ
人間の数十年の人生において、苦しみのない人生というのはありません。どんな人間にも苦しみがあり、悩みがあるのです。あなた方は、内村鑑三には、苦しみ、悩みがなかったと思いますか。
私の過去世のエレミヤには、悩み、苦しみがなかったでしょうか。エレミヤは、神理が廃(すた)れると国が滅びる、バビロンの勢力が攻めて来て、国が滅びるとの警告をつねづね発していた神の預言者です。エレミヤは、何度も捕まって、迫害を受け、瀕死の重傷をおったこともあります。命からがらでした。その命をかけて、神理の伝道をしたのです。その苦しみ、悲しみたるや、余人の理解できるところではありませんでした。
では、内村鑑三の人生はどうだったのでしょうか。私が、刻苦勉励(こっくべんれい)、努力の人生を生きたことは、もちろん、確かです。一九〇〇年代後半のあなた方の目から見れば、内村鑑三は、歴史に名前が残っていないじゃないかと思うかもしれません。あるいは、教科書にも名前が載っているとはうらやましいとも思うかもしれない。しかし、内村鑑三の人生は、それほどなまやさしいものではなかったのです。
神理を守らんとするほど、世の風あたりは強くなります。あなた方は、世の中が平和で、人びとはやさしく、常に理解があると思っているかもしれませんが、平和なときには草を食んでいたような羊たちが、困難なときが来ると狼にならないとはかぎらないのです。いや、実際、過去にいくたびも、羊が狼に変わってきた。皆んな、自分が満ち足りて生きているときには、それぞれを尊重して生きているように見えても、いったん、危機のときになると、彼らはまちがった方向へと進んでいくのです。
あるいは、羊たちがまちがって谷底へ落ちて行くような方向へと群れをなして行こうとする。そこで、羊飼があわてて、「そちらへ行ってはいけない。こちらへ来なさい」と大声をあげる。ところが、羊飼が一生懸命叫んでも、羊たちは、羊飼を狼だと誤解して、メェーメェーと罵倒しながら、彼に足で砂を掛けてね、ドドッと谷底へと転がり落ちていく。そういう時代なのです。
私のときも同じでした。羊たちが谷底へ向かって進んで行くから、私はその方向へ行ってはダメだと言うのですが、彼らはみすみす谷底へと突き進んで行くのもいる。私は、声を大にして叫びました。「そちらへ行けば狼がいる。狼のほうへ行ってはならぬ。あなた方は、命を失うであろう」と。しかし、羊たちは私の言葉に耳をかさない。「狼はやさしいお兄さんです。きっと私たちを食べものの多いところへ導いてくれるにちがいありません。私たちを敵から守ってくれるはずです。なぜならば、狼は強いからです」とこういうことを言う。こうして、私の言葉を信じずに、狼のいる方向へと逃げていった羊たちがたくさんおりました。愚かといえば愚かです。
しかし、この羊飼と羊たちのたとえ話をよくあてはめてほしいのです。羊の数は多い。どの時代においても、羊たちはたくさんおります。現代にも、羊はたくさんいる。ただし、羊飼は多くはないのです。羊飼はひとりで何百頭もの羊を飼っているからです。ですから、羊が散り散りばらばらに別れたり、羊がかってな方向に向かって行くと、羊飼は大変な努力、労力を要することになってしまう。こういうことなのです。
7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった
私が声を大にして叫んだのも、私の羊が散らされるのを恐れたからなのです。しかし、羊たちは、私の声を理解しようとはしませんでした。その羊たちのなかには、もちろん、無神論者の羊もいたし、戦争論者の羊もいた。あるいは、キリスト教会という仮面をかぶった羊もおり、クリスチャンという名の羊もたくさんおりました。
そのなかで、私をもっとも迫害したのはだれだったのでしょうか。それは他ならぬクリスチャンたちでした。「内村の言うことはおかしい。あれは国賊だ」と。しかし、彼らは真実のキリストの教えに触れていたのでしょうか。真実のイエスの言葉に接していたのでしょうか。
かつて、私が不敬事件を起こし、教育勅語に礼をしなかったということでもって、国中が私を国賊扱いをしたことがありました。そのときに、こともあろうに、クリスチャンまでもが、私を同じように扱ったのです。
彼らの主は、イエス・キリストだけのはずです。彼らの主は、生きている人間天皇ではないはずです。それにもかかわらず、キリスト教会の多くの者が、クリスチャンたちの多くが、内村鑑三をなじったのです。「彼は国賊なり」「我ら教会は関知せぬなり」「彼は国賊でかってなことをやって、不埒(ふらち)千万な奴である。輩である」と。こういうことを言ったのです。
「じゃあ、あなたたちの主は、一体だれか。明治天皇なのか、それともイエス・キリストなのか、答えられるか」
「いや、明治天皇は明治天皇で、いわば、カイザルであろう。カイザルのものはカイザルに返せ、神のものは神に。だから、私たちの信仰は、イエス・キリストにあるけれども、現世的には明治天皇が現人神(あらひとがみ)みたいになっているのだから、それはそれで尊重せねばならぬ」
一見、合理的に見えます。イエスも税金は収めなさいと言っています。ですから、同じように聞えるわけです。しかし、実際には、ちがうのです。
天皇制って何ですか。天皇制というのは、一種の神です。伝統的な宗教であり、神なのです。しかし、私たちは、唯一の主イエス・キリストを主として仰(あお)いだ以上、二主に見(まみ)えることはできないのです。下僕の主人はひとりです。先生はひとりでいいのです。先生が何人もいたら困ります。
もちろん、だからといって、他の先生がまちがっているわけではありません。他の先生には、その先生のよさがあり、他の先生にはその弟子たちがいるでしょう。しかし、我が主はひとりです。イエスが我が師であるのならば、主を二人持つことはできません。また、妻にしても同じです。二夫に見(まみ)えずと言います。夫はひとりでいいのです。何人もの夫に仕える必要はないのです。
同じことです。ですから、あなた方の師はひとりでいいのです。ひとりの師に一生懸命、真剣にその身そのままを投げ入れていったならば、なかなか他のことなどにまで気が廻らないはずです。
8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命
明治期において、本当にキリスト教というものを布教し、人びとの間に広めようとするならば、安易にあちらの神様、こちらの神様もと奉っていいことではなかったわけです。これは、あなた方が行なおうとしている万教帰一の教え、あるいは、すべては神の教えから来ているということを、もちろん否定するものではありません。あなた方のやろうとしていることは、そういう時期が来ているから、だからこそ、そういうことは大事なのです。
ただ、私が言っているのは、その前の段階としてのことです。すなわち、正しいキリスト教を日本に根づかす段階においては、まず主キリストに対する信仰というものを確立することが、何にもまして大切なことだったということです。それなくして、現人神みたいな生けるキリストみたいのを崇めてしまうのは、これはまちがっていた。その人そのものを尊敬するのはけっこうだったのですが、その人そのものではなく、その人が書いたと称される教育勅語のようなものに頭を下げなければ国賊扱いにされるような世の中だったわけです。そういうのは、いくら何でも、どこかおかしかった。それも、そのはずです。私たちが頭を垂れるのは、イエスの教えだけなのです。聖書だけなのです。私はそう思います。
9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失
私は、日清、日露の戦争にもずいぶん反対してきました。しかし、国中がそれに酔いしれていたのです。というのは、日露戦争、それから第一次大戦、こうしたものに参加して、国中が戦勝ムードに酔っていた。その結果、どうだったのでしょうか。日本の傲(おご)りが第二次大戦に突入する契機となり、その結果、かつて戦勝で殺した人よりはるかに多くの人たちが、日本の国のために虐殺されたはずです。
第二次大戦のなかでどれだけ優秀な方が亡くなったと思いますか。あのときに亡くならなかった人材がいたならば、日本の繁栄はもっと素晴らしかったかもしれない。優秀な方から順番に死んでいってしまったのです。当時二十代、三十代という青年が亡くなっている。戦争中に二十代だった人は、現在四十年たって、ちょうど六十代。社会のなかで、今や最高部を占めている方々です。ですから、彼らが生きていれば、日本の現在の経営者、政治家、官僚たちのなかに、そうした超一流の人材がいたはずなのです。ところが、彼らのほとんどは、戦争で死んでしまった。この惜しむべき損失というのは、何ものにも変えがたいものです。
現在、会社の社長だとか、政治家だとか言っていばっているけれども、一流の人材が皆死に果てたあとでいばっているのです。本来ならば二流の人材に甘んずべきところが、一流の人材が皆死んでしまったために、現在日本を牛耳(ぎゅうじ)っているのです。その結果、日本は衆愚政治となり、日本の経営のなかに素晴らしい精神が失われてしまったのではないでしょうか。事業経営者にしても、産業界の人びとにしても、金儲けばかりに走っている。世の中の精神的支柱になれる人は、一体どれだけいるのだろうか。その点をよく考える必要があります。
いつの時代にも、精神的な支柱となれるような人というのは、一定の数はいるのです。しかしそういう人たちのほとんどが、第二次大戦で亡くなってしまった。だから、現在六十代、七十代で、日本のいろいろな産業界、あるいは、政界、学界で牛耳っている人たちは、一流の人材が死んだ後の人たちなのです。大きな顔をしているけれども、現在の日本が停滞している原因は、あなた方のなかに、国の精神的支柱になるための心思(しんし)の力、すなわち、心と思いの力がないからです。その点をよくよく反省しなくてはなりません。
そして、日露戦争、第一次大戦で戦勝国のムードを味わったという思いあがりがどれだけ大きな代償を生んだかということを、よく考えてごらんなさい。その損失は、非常に変えがたいものだと言えます。
10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか
では、私か警告した戦争反対論というのは、単なる理想論であったのでしょうか。当時、私は言いました。戦争してはならん。イエスの教えのもとに愛さねばならん。敵を愛せよとイエスは言った。右の頬を打たれれば左の頬を出せと言った。このイエスの教えから見て、こんなことは許されない。戦争などということはあり得ない。敵と戦うなどということは許されんことだ、と。こういうことを私は言いました。
しかし、世間は、私を理想論者だと嘲笑(あざわら)いました。そして、外国に攻めて行って朝鮮を奪い取ったり、台湾を奪い取ったり、あるいは、満洲を奪い取ったりして、勢力拡大したと、皆んなが喜んでいたのです。
ところが一方では、ソ連に千島列島を奪い取られたと言って、北方領土返還を一生懸命やっている。何の産物を生まないような島でさえ、取られて悔しいのです。それなのに、彼らの苦しみが、わかっているのだろうか。台湾を取られ、韓国を取られ、満洲の大きなところを取られた彼らの悔しさが、わかっているのだろうか。それは、正(まさ)しく侵略軍が来て、住んでいるようなものなのです。沖縄の返還もあったけれども、彼らの気持ちからすれば、九州を占領されたり、北海道を占領されたり、四国を占領されたのと同じ気持ちだと言えます。韓国人や中国人の彼らの気持ちに立てば同じことです。
たとえば、現在、あなた方は、ソ連に四国を占領され、アメリカに九州を占領されていい気持ちがしますか。アメリカの人たちが、九州を占領して、そのお陰で日本の国産の食べものが安く手に入ると喜んでいるのを見て、それでよしと思いますか。その点をよく考えてごらんなさい。つまりは、人の立場に立ってわからない人間ばかりがいたということです。そして、それが世論でもあり、論調でもあったということです。植民地を増やすということは、国の栄光であり、繁栄であると思っていたのです。
相手の立場に立つことをわからない人間、愚かな人間は、やがて狼に食べられるようになるのです。そして、第二次大戦という徹底的な敗北が来ました。このように、世論というものは、必ずしも正しいものではないということです。
従って、あなた方が生きていくなかにおいても、世論とあわないことがけっこうあるでしょう。しかし、それに迎合してはいけないのです。真実というものは、いつも孤立するように見えることがあるけれども、時代を越えて、やがて必ず認められるのです。そのことがあるということです。ですから、そういう苦しい面もあるけれども、それをしっかりと乗り越えていかなくてはならないということです。
11.良き知らせの第三 ― 希望
今日は、「未来への福音」という題での話ですから、福音の話をしてきたわけですが、未来の福音ということで残りの時間、お話をしていきたいと思います。まあ、八日間しゃべってきて、地上の皆さんには、ずいぶん厳しいことも申し上げました。しかし、未来に関してのやはり素晴らしい福音、良き知らせや、希望の原理がなかったとしたら、そのなかで、やはり元気を出して生きていくことができないでしょう。福音とは、希望の原理でもありますから、それを聞いて人びとが奮い立ち、希望を持つようでなければ意味がありません。
そういうことで、三番目の希望の原理ということを中心にして、今後、これから未来への福音という話に入っていきたいと思います。先日も話をしましたけれども、ノストラダムスか何かの例を出して、これからエホバが大地を打つときが来るという話をしました。そして、災難のなかで、人びとが逃げ惑うときが来るということを私は警告しました。しかし、それだけであってはいけないでしょう。ですから、ここで、私は、希望の原理を述べ伝えましょう。
皆さん、これからこの世的には、どのような不幸なできごとが起きたとしても、それを非常に冷静に受け止めてほしいのです。たとえば、火山の爆発があろうとも、大地震があろうとも、津波が襲ってこようとも、あるいは、日照りや旱魃(かんばつ)が続こうとも、また、ある地域で核戦争が起きようとも、ただそれでもって、この世の終わりだと言って、極楽往生だけを願うようなあなた方であってはなりません。
あなた方は、この地上に生きているなかにおいて、やはり希望の光というものを見い出していかなくてはならないと思うのです。さて、その希望の光、希望の原理、未来への福音は、一体どこにあるのでしょうか。私は、この未来への福音のよりどころを、未来への希望の原理のよりどころを、また三点に求めたいと思います。
12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている
未来への福音の根拠、よりどころの第一点は、今、歴史上かつてなかったような、偉大な人たちが地上に生まれているということをまず知りなさい、信じなさいということです。たとえば、インドには、何回、何十回と転生した方がおります。しかし、インドに釈迦が生まれたときに弟子として生きられた人たちは、本当に恵まれた、運のいい人たちだったはずです。そういう時代に生まれあわせようとしても、なかなかそういうことができるものではありません。
また、ユダヤの地に歴史上生まれた方はいくらでもいるでしょう。しかし、そのなかにおいて、イエスの声を聞くときに生きられた人びとの数は少ないのです。私がエレミヤとして生きていたときもそうでしたが、預言者の肉声を聞くという機会に接した人も数少ないはずです。その前には、ゼウスやアポロンの時代もあったでしょう。そうした時代に生きられた人も、数少なかった。
しかし、あなたたちは、今、神の栄光のある時代に、地上に生きているのです。ですから、自分たちが生きているということを知らなければなりません。そうしたおおいなるときに、偉大なるときに、自分たちが生まれあわせているということを信じなければいけないのです。これが、まず第一の希望の原理です。
過去に、どれだけ転生を繰り返してきたとしても、こうした機会に恵まれることは、めったにありません。しかし、今、モーゼのときよりも、ゼウスのときよりも、ブッダのときよりも、また、イエスのときよりも、大きな奇蹟が、おおいなる法が、説かれる時代が来ているのです。ですから、この時代に生まれあわせたこと自体が、ひとつの福音ではないでしょうか。そしてまた、ひとつの希望の原理ではないでしょうか。私はそう思います。
今、おおいなる人びとがたくさん出ています。数多くの光の天使たちが、今、地上に出ているのです。とくに日本にはそうです。数多くの如来や菩薩が肉体を持って、今、出ています。ですから、こういう素晴らしい時代に、現在、生きているということを、あなた方は、嬉しいと思わなければいけません。まず、これが希望の原理の第一です。
13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる
希望の原理の第二は、これからまた、愛の時代がはじまるということです。つまり、互いに愛し、愛される、愛の時代がはじまっていきます。愛というものが何よりも価値のある時代が、これからはじまるということなのです。
今の時代は、試験だとか、コネだとか、財産だとか、名誉だとか、あるいは、地位とか、うわべだけのいろいろなものに人びとが惑わされております。しかし、これからの時代は、愛の時代であり、愛の多さが人びとの偉さを測る時代となっていくのです。愛多き人が、愛深き人が尊敬され、人びとの上に立ち、人びとを導く時代となって来ます。これからは愛の時代です。そして、愛の時代に生まれあわせたということが、またひとつの希望の原理ではないでしょうか。
では、愛とはどういうものでしょう。愛とは、すなわち、相手のなかに自分を見い出し、自分のなかに相手を見い出していく道なのです。共に兄弟であるということを発見する道なのです。あなた方は、とくに親しい人だけが、お友だちであり、兄弟であるかのようにつきあっているのでしょうが、すべての人が手を携えて生きていける時代がもうすぐそこまで来ております。はじめて会った人とも、百年の知己(ちき)のように楽しく、安心して語りあえる時代が、もうすぐ来るということです。愛の時代です。共に神の子として、喜びあう時代が、もうすぐそこまで来ているということです。共に神理を学んでいるものとして、喜びあう時代が、もうすぐそこに来ているということです。そういう時代が確実に来ることが、すでに予定されているのです。
こうした時代が来るということ。愛の時代に生き、お互いに高めあう時代に生きられるということを、あなた方は喜ぶべきです。それは、ひとつの希望の原理です。ひとつの希望の光であり、地上の光なのです。そして、こうした愛の時代がこれから来るということを、私は、今、繰り返し述べ伝えているのです。
あなた方は、未来の方向で、一体何を努力すればいいのか。つまりは、より多くの人を愛する方向で努力してゆきなさいということです。より多くの人びとのなかに自分の分身を見い出し、自分のなかにより多くの人びとの心を見い出していく。心と心が共感しあい、共振しあう。共に悲しみ、共に苦しむ。共に喜びあい、共に励ましあうような、そして、共に労(いた)わりあい、共に親切にしあい、また、共に慰めあうような、そうした時代がもうすぐやって来ます。この愛の時代の到来ということを信じなさい。そのなかに、あなた方にとっての真の救いがあります。
14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる
希望の原理の第三は、これからは、新たな霊文明が訪れるということです。ここ百年の歩みを見ると、どうも唯物的に時代が流れ、霊を否定するような動きがありました。しかし、これからの時代は、霊を知ることこそが知識人の仕事であり、それが最先端になる仕事になってゆきます。
霊を知り、あの世の世界を知り、実在界を科学することこそが、学問の最先端であり、科学の最先端であり、また、人びとの心の勉強の最先端である時代がやって来ます。これから、霊性の時代が来ます。おおいなる霊性の時代が来るのです。かつて、イエスの時代や釈迦の時代にあったような、霊的に大きく目覚めた人びとが、真に霊的に目覚めた人びとの出る時代が来ます。
科学は、もちろん、ますます発達していくでしょう。しかし、それ以上に、霊的知識と、その霊的知識の伝幡ということが、日本を、世界を覆っていくでしょう。そして、霊性の復権、霊性の発展、霊的生き方の素晴らしさというものが、人びとの間にだんだん浸透していくでしょう。これからは、霊性の時代へ入っていきます。これを喜びなさい。これもまたひとつの福音なのです。
15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい
未来への福音として、私は三つのことをあげました。偉大な人物が、今、出ているということ、偉大な光の指導霊たちが出ているということをまず知リなさい。これが第一でした。第二番目の福音は、愛の時代がこれから到来するということです。そして、三番目は、これからは霊性に目覚めた人びとが出て来る霊的時代、精神的時代へと入って行く、すなわち、心の時代へと入って行くということです。これが、より多くの人たちにとって、おおいなる福音となるでしょう。偉大な光の子が生まれ、愛の時代が到来し、霊性の時代に入って行く。精神の世界に入って行く、精神世界へと人びとが踏み分けて行くということです。そういう時代が来るということです。
その到来を告げることができた私は、かつてのエレミヤのように、あなた方に預言者として、あの世にありながら、この言葉を伝えることを本当に嬉しく思っております。地上の皆さん、どうか努力して下さい。そうした時代、新しい時代の到来を信じて、一歩一歩を進んでいきなさい。そのなかに、希望の光が見えてきます。そして、そこにあなた方の本当の幸福があるはすです。