目次
1.情熱と愛の力
2.やる気の源泉
3.人生を楽しむ気概
4.人間の器量
5.発展と自己確認
5.発展と自己確認
以上積極型人生の基礎について話してきたけれども、これからの応用・発展ということもだいじでしょう。積極型人生の応用展開、発展的展開というのは何であるか。まあこれはね、ぼくはひとつは馬力だと思いますね。馬力です、馬力、馬力です。やっぱり一馬力、二馬力、三馬力、五馬力、十馬力、馬力でもってやりぬかなきゃだめですね。このときにだいじなのは失敗を恐れないという気持ちですね。これが一つです。失敗を恐れない。失敗したらもうジクジクして、そして意気地(いくじ)なしになってしまうような人は、積極型人生というのは絶対拓けません。失敗してね、それを肥やしにして、さらに次への発展に結びつけていく、これはだいじなことだと思います。
私なんか高級霊としてははなはだ失敗は多いほうだと自分でも思っています。百発百中みたいな高級霊もおりますが、私はいかんせんまだ十年そこそこの霊でございまして、霊格は高いんですが、まだ人間的感覚が残っていて、零細企業のオヤジをやっていたもんですから、何でもかんでも自分でやってしまいたい気持ちがあって、それでそのつもりでやろうとすると、地上の人間が思うとおり動かなくてね、そして、自己実現できないことはよくありますけど、まあそんなんでいじけていないのが私のいいとこなんですよ。明るいところでね、カラッとして、よしもう一回やってやろかあー、なーにまだまだ次ぎ次ぎ、ね。ブルドーザーで山をくずしていても、ほんとうブルドーザーごと落ちてしまうこともあるけど、もう一回はい上がればそれまでよっていう感じですね。私はそういうところはあります。この馬力がね、けっきょく女性にもてる秘訣なんですね。バリバリグイグイといくところが、女性に、「ついていく、チョンボしても許してくださるところはここにあり、ね。きっと必ず道を拓いてくださる」ってこういう感じでしょうね。だからね、馬力だと思います。だから失敗してもくじけない、そして発展へ結びつけていく、何回失敗したところで「ナニオー」っと、七転八起だ、やっぱり成功したら、それみたことかってそれを踏み台にしてさらに駆け上がっていくね、この気持ち。
だから積極型人生の第二段階が馬力です。間違いないです。馬力を出すことです。出そうと思うことです。思えば出る、そのときの小さなことを気にしないこと。あるいは人のささいなね、批評だとか悪口だとか、こんなもの絶対に気にしちゃあいけない。それを聞く耳を持つこともだいじだけど、いざ信念を持ってやるときには、そういうものをいちいち聞いていたらだめです。自分はこれが正しいと思ったら、行き止まりまでやっぱり行ってみることね。ダーンと行ってみること、だいじです。これをやらなきゃね、真に道が拓けた人なんか一人もいません。これはだいじです。
そして、積極型人生の次は仕上げ期、反省期の問題として何があるかということなんですが、これはね、やっぱり馬力を出してやった結果に対してね、やっぱりこれを積み上げ方式でのこしていくっていうことはだいじだろうと思いますね。積み木みたいに積み上げたらくずし、積み上げたらくずしばっかりしていたらいけないんで、ある程度できたらそれを土台とし、さらに次に上がって行く。そしてまた土台をつくって次へ行く、こういうふうな馬力を出して切り拓いていったら、次は土台固めをする。そしてその土台に基づいて次なる仕事をする、そして土台をまた築く。そして次のステップを踏んでいく、こういうように常にガッチリ固めながらやっぱりやっていくんですね。そうしたら大きな仕事ができる、こういうようにぼくは思うんですよ。
だから、このへんがね、土台固めを怠るといま一つのとこなんだね。元総理大臣やっていて、高等小学校しか出ていない人でね、もう三十代で大臣になって、そしてアッという間に五十ぐらいで総理大臣になって金脈問題で失墜して袋叩きにあった人もいたけど、こういう人なんかもものすごい勉強家で、高級官僚たちをうならせるほどの勉強家だったんだけど、マイナスからのスタートっていう意識がずいぶんいつもあったんだろうね。勉強家は勉強家たったけど、それは基礎固めとなって次のステップヘ行くところまでなかなかいってなかったんじゃないかなという感じがぼくはしてるんですね。だからその反発心、劣等感の裏返し、バリバリ馬力かけてやっていたけど、馬力をかけて人間ブルドーザー、コンピュータつきブルドーザーでやったけど、そればっかりをやっていたんではやっぱりだめでね、コンピュータつきブルドーザーでやって地ならししたら、次はそれを固めなきゃいけないんですね。確たるもの、この領域については自分は自信があるということをガチッと固めてね、その上をやっぱり築いていかなきゃいけないんですね。
いつまでも自分の学歴やコンプレックスとかね、そんなことばっかり考えちゃあいけないんですね。そうじゃなくて実績を元にしてカッチリした自己信頼をつくって、さらに上のステップをつくっていく、こうしないといつまでたっても、金集めばかりに奔走してね、そしてけっきょくそれで身を持ちくずすことになる。かつて、そういう能力を持って、集金能力とかそういうのでもって道を拓いたかもしれないけど、ある程度の地位が来たらね、こうしたものはもう次の者に譲って、自分は現在の実績を踏まえて、さらに高度な成果を求めていかなきゃいかんのですね。
だから、発展の基礎理論であったいくつかのことを踏まえて、そして馬力をかけて発展していったら、次は完成期に入ってくるときにはね、一応いままでの収獲物は収穫物としてね、ブドウはブドウで刈り取ったらワインにしてしまうこと。ワインにしたら樽に詰めちゃうこと、これだいじですよ、いいですか。ブドウがいくらできたからといって、それを眺めとったんでは、やがて腐っていくんです。だからブドウがいっぱいできたら、これを刈り取ってね、摘み取ってそしてワインに加工すること、そして樽に詰めていくこと。一九八九年産のものということで、ワインにしちゃうんです。ワインにして樽詰めにしちゃうんです。そして、それは蔵のなかに溜めていくこと、カッチリしていくことですよ、いいですか。最後の刈り入れというのを忘れちゃだめですね。確たる成果としてそれを残すことです。自分の成果として残すことですね。ワインにして樽に詰めておくこと。だからこそ、次の九〇年ものにかかっていけるんですね。八九年ものをワインにできて、樽に詰めて、次にいく。だから発展期に入ったら、次は確実な収穫をして、それを自己確認しておくということです。そして、それを土台としてさらなる発展をしていくことですね。
この成果の確認という行為だけは決して忘れちゃいけません。この成果の確認を怠ると、積極型人生かバラバラの人生になってしまったり、収拾のつかない人生になります。確かに、成果・収穫というものを仰えて、そして刈り入れを終わって、そして次の段階に進んでいくということですね。これを忘れないでください。ここで、また次なる勇気が出てくるんですよ。積極型人生の勇気がね。ガーッとした勇気が出てくるんです。そういう自己確認をしていないと、毎回毎回、賽(さい)の河原で石を積んでいるようになってくるんですね。くずれては積む、くすれては積むで全然発展がないです。やっぱりカチッと積んだら固めること、そして次にまた上(うわ)のせしていくこと。まあこういう努力がだいじです。
これが私の績極型人生論です。