目次
1.悪霊の諸相
2.悪霊の本質
6.正しき信仰
(1987年8月16日の霊示)
1.悪霊の諸相
この章では悪霊について、話をしていきたいと思います。まあ悪霊については生前、私も『悪霊I』、『悪霊Ⅱ』ということで本を出したことがあります。「あなたの心も狙(ねら)われている」という恐ろしい副題で出しました。大変評判になりましたし、ものすごい反響でしたね。えー手紙がもうどんどん舞い込んで来て、すごい感じだったです。それで来る手紙、来る手紙がもう悪霊の相談ばっかりでね。私もほんと参っちゃいましたけどね。
もうあなた読めないですよ、手紙がね。もう代わって読んでもらわないとね、自分で読んでたらもうプンプンくるような悪霊さんばっかりでね。よーくこんなにおるなーってね。もう悪霊の山ですね。もう日本中から悪霊かき集めたら一体何匹おるんでしょうね。ものすごいです。
そしてこの私の本読んで「ウン、そうだ、そうだ」って言ってるあなたも悪霊になるかもしれないですよ、みなさんね。読者のみなさん、あなただって悪霊になるかもしれないんですよ。人ごとじゃないんですよ。よーく勉強しとかないと「人のことかと思ったら、おれが悪霊になるとは」なんてね。十分あり得るんですよ。
だいたい読者のうちの半分とは言わんけど、何割かは悪霊になるんですよ。いいですか。よーく勉強しとくんですよ、ね。「認められない。承服できない。そんなはずはない」って言うのは、だいたい悪霊の証拠なんですよ。悪霊はだいたい認めませんからね。「そんなはずない」って言うのが悪霊さんですよ。
まあ、そういうことで、悪霊については、もちろん、みなさんいろいろご存知でしょう。本や雑誌、あるいはテレビ局ね、テレビ。えーよくやってますね。夏になると、怪奇特集、もう悪霊篇ですね。どんなこと起きた。あるいはお昼のワイドショーで「あなたの知らない世界」こんなのやってますね。こういうので悪霊の話はこと欠かない。だからもう悪霊イコール霊になっちゃって、えーもう霊ちゅうたらもう「悪霊、うわーいやだ」ってね、こうなる。けど、手で顔隠しながら指のすき間から画面見たりしてね。怖いもの見たさっちゅうんですね。あるいは、怪奇心霊写真集とかね。こんなのがどんどん出回ってますね。怖いもの見たさです。これはあるんですね、みんな。
えーでもまあ、これがあの世への興味、もう悪霊のことで引きつけてるとこありますね。怖いもの見たさで。怖い。だけど知りたい。で、みんな自分がああなるならいや。ま、そういうことはあるでしょうね。だからあの世の怖さが手伝うんですね、悪霊があるから。しかし不思議な世界ですねえ。なんでこんなに人間として生きて悪霊にならないかんのかねえ。だから神様が創った世界なのになんで、そんなふうになっとんのかね。えーこれがまことに納得がいかない。もうちょっと美しい天国のようなね、牧歌的な生活が待っとっても、いいような気がするけど、現に悪霊というのがあって出て来る。これが問題ですね。
なーんで悪霊になって出て来るかということですが、基本的にはやっぱりあの世の世界、あるいは心の世界、これの法則についてね、知らない人たちが死んであの世へ行ったらだいたい悪霊になるということですねえ。こう思っときゃいいんですよ。
だってあの世の世界認めてないんだから、他(ほか)に行くとこないでしょ。地上に出て来るんですね。もう自分が住むとこは自分の家しかないと思っているから、そこへ出て来るし、仏壇に自分の名前書いてあったらそこへ入っちゃったり、ねえ。
「女房はおれのもんだ」って言って、女房の腰にとり憑いちゃったり、「子供だけは絶対に渡さん」なんて、子供の頭に憑いちゃったりね。こういうことするわけですね。
あるいは自分の家屋敷を売り払われてね、もう他の人の手に渡っとるのに、「これはおれの家だ、おれの財産だ」って言うんで、地縛霊(じばくれい)ですね。家や土地に地縛霊で執着が残って、そして他の人が住んだらたたりを起こして、一家を不幸にしたりね。えー、いろんなことができますね。
彼らは霊の本質は全然知らないくせに、結構病気にしたり、事故起こしたりやるんですね、平気で。「あらやっちゃったー」なんてやってるんですね。不思議にそうなるんですね。だから知らなくても、霊の力っていうのを彼らは、なんて言うか、実際に使えるんですね。こういうことになってます。
だから悪霊で、自覚的悪霊っていうのもおるんですよ。自分で「おれは悪霊だーっ」なんて威張ってる悪霊もおりますよ、こういうのもおるけれども、本当に悪霊って自覚してる人ってやっぱり二割程度でね、あとの八割のうちの、まあ半分以上は自分が悪霊であることを知らない。残りの半分ぐらいは、うすうずは感じているけれども、積極的には知ろうとしない。もしかしたらとは思っとるけども、まさかと思ってね。そういうことありますね。
で、悪霊の原因はね、結局あれですよ、執着でずね。この世に執着あるんですよ。この世に執着ない人は悪霊にならないね。この世の執着なんですね。だから地獄霊って言うけども、だいたいみな執着持ってるんですね。執着持っとるから地獄霊ちゅうんです。こういうものはみんな。
「高橋信次だって執着持っとんじゃねえか。おまえなんか霊言ばっかり出しとるじゃねえか」って、「これ、執着よっぽどあるんじゃねえか」ってねえ。「GLAに執着あるんじゃねえか」、あるいは「娘やかあちゃんに執着あるんじゃねえか」ってね。相当あるわね。それとも「名前売りたいんじゃねえか」とかね。
「どうもお前さん生前に本が十何冊しかなかったから、くやしくてくやしくて、谷ロ雅春さんが『生命の実相』全四十巻出しとるから、くやしくて四十巻出すまでは絶対あの世で成仏できないなんて執着持っとるんじゃねえか」、まあいろいろ執着もあるでしょう。「高電工業が世界的企業になるって言っとってならんから、あれで執着持っとるんじゃねえか」とかね。まあいろいろあるでしょうね。あるいは「弟子の出来が悪くて、あっちこっちで飛んだり跳ねたりしとるから、あれで執着持っとるんじゃねえか」とか、あるかもしれませんね。そら、無いとは言えませんがね。
まあ、僕の執着はどっちかと言うたら、世の中良くしたいと言う執着なんですよ。だから多少違う。物質への執着じゃないね。あるいは自分の肉体への執着、まあ無いとは言えないかもわかんないね。そら、肉体ありゃ便利だからね。僕だってそれありゃ仕事ができるから無いとは言えんが、まあいわゆる肉体への執着ではないわけですね。えー、異性への執着、まあこりゃ無いですね、もう、はっきり言ってね。無いです。
だから悪霊ちゅうのは執着持っとるわけですね。どういう悪霊がおるかって、悪霊だって、そらもう地獄本家本元で生活しておる、優雅な生活しておる悪霊もおるけれども、まあ悪霊と普通言うのは地上に出て来て人びとを迷わすのが悪霊ですなあ。まあ、これを指していいでしょう。だから出て来てはたたったり、呪ったりね、いろいろしている。まあ、こういう部分ですね。
霊になると、心に思ってることっていうのは、非常にストレートに出てくるんですね。だから心に思ってることはストレートに出てくるから、巣喰ってくるわけですねえ。もうほんと、そういう悪霊というのは巣喰うと言いますが、何匹も何匹も、いっぱい寄って来るんですね。だから、だいたい似たような人のとこへ寄って来るわけですね。
一番簡単なのはもちろん地縛霊っていう類(たぐい)ですがね。お墓の中におったり、あるいは家の中、土地、これに執着持っとるやつね。要するに還(かえ)るとこ知らんから、他にどこ行ったらいいかわかんないからおるんですね。で、通りがかりの人に、いろいろちょっかい出す。こういう地縛霊系統いますね。あと悪霊中でも動物霊、こういうのがいます。
私の生前、ずいぶん動物霊を相手にして、孤さん、ポン吉、「こらポン吉」とかね、やりましたけどね。「こら蛇さん」てね。ずいぶんやりましたが、そういうのもいっぱいありますね。動物霊もたとえば日本だと稲荷(いなり)信仰が非常に盛んなので、狐の霊っていうのが非常に多いんですね。
やっぱりあの世の霊も要するに思いが通じる世界ですから、稲荷信仰って言うふうに人間の念が集中してきて、稲荷信仰してくれると、その念を食って生きとるんですね。だから稲荷信仰あっても猫信仰ってあんまりないもんだから、お猫さんがそういう念を吸収できる時っていうのは、もう化け描ぐらいしかないんでね。それはめったにないんです。
稲荷信仰があって、全国の稲荷大明神のとこで信仰してるから、そういう来てる人たちの欲望の念ですね。稲荷大明神の前で、油揚げ三枚やるからね、受験合格しますように、ね。あるいは健康になりますように、お金儲かりますように、やってますね、手を合わせて。こういう欲望の想念が、この稲荷大明神の祠(ほこら)通じて、あの世の地獄界通るわけですね。通じるわけです。
そうするとその念が、彼らの糧(かて)になってね、エネルギー源になって地獄狐が暴(あば)れるわけですね、こういうことがあります。だから、蛇とか狐とかもちろん信仰が多いもんだから、そういうのが強いんですね、日本では。
えー蛇の方はね、いわゆるほんとに蛇神社って言うのはないですが、龍神(りゅうじん)さんですね。龍神さん、あるいは水神(すいじん)さんも多いですね。こういう滝に関係して、祀(まつ)ってるのはたいてい蛇なんですね。蛇祀っとるんですよ。だからそれで信仰したりすると、そういう欲望の念が、彼らの活動エネルギーになるんですね。
だから同じ動物霊であっても、モグラとかは虐待されてますよね。モグラの信仰なんてないもんだから。モグラが悪霊で暴れるということはないんですねえ。そういうことありませんね、残念ながら。だからそういう信仰が多いところはそういう想念エネルギーが溜って、活動源になっておる。だから地獄霊たちは地上の人間たちの欲望想念ね、このエネルギーが、彼らの糧になっとるんですね。だから蛇の霊と狐の霊が多いんですね。
それともちろん、動物界、畜生道(ちくしょうどう)に堕(お)ちた人間の地獄霊っていうのもいっぱいいますよ。こうした狐や蛇は何かって言うと、たいてい恨(うら)み、妬(ねた)み、欲望、もうこうしたもんですね。えーまあそうだねえ、狐と蛇の違いと言っても、いろいろあるけれども、狐が憑(つ)いたりすると、賭(か)け事が好きになったり、食べ物で特別な好みが出てきたりね。変なもん食べ始めたりね。なま物とか好きになってね、魚とかカプカプ食べ始めて、家の人帰って来たら、台所で何かゴソゴソ動いてるって、誰かって言ったら、なんか生(なま)の魚、カプッと食ってるとかね。まあ、こんなのになるかもしれませんが、あるいは油揚げが食べたいって言うかもしれない。
えー、それから色情系統は蛇と狐と両方ありますけどね。狐になると多少、なんでしょうかね、まあ、派手になりますねえ。女性でもお尻からしっぽがゆさゆさっというようなのもおりますね。こういうのになると、男が見ると、その目の力でコロコロコロッとやられる。
蛇になると嫉妬(しっと)ですね。失恋とか愛情関係のもつれね。三角関係、愛人関係ね、こんなの蛇が多いですね。その嫉妬の炎ね。嫉妬心が強いんですね、蛇っていうのは。ジェラシーですね、妬(ねた)み、これが強い。だから、三角関係、愛人関係のトラブル、こんなのは蛇がからんでることが多いです。
だから、夜遊びが盛んになると狐が多い。ネオン街でピョンピョンピョンピョン跳ねてんのは狐さんが多い。で、愛人関係、三角関係でいろいろ問題起こすのは蛇関係が多い。ま、こういうことありますね。そんな人に限って、またその吉野の脳天大神(のうてんおおかみ)なんて言ってねえ。蛇のとこ行って、祀(まつ)ったりするとこ行って拝むんですね。そんなことします。えーまあそういうことです。
だからたいてい憑依(ひょうい)されるのもね、自然にされることもありますが、こんな水神さんや龍神さんに行って憑かれたりね、稲荷大明神で伏見でやられたり、いろんなことやられてるんですね。だから「触(さわ)らぬ神にたたりなし」って、このこと言うんです。まあ、さわらん方がいいですね。
2.悪霊の本質
ではこうした悪霊っていうものは、本質、その本質は一体どこにあるんか。なんでこんなものが存在するんだろうか。ま、これ考えにゃいかんね。
だから高級神霊の言葉の中でも、善のみが実在で悪は実在しないとか、光のみ実在で闇は実在しないとか、まあいろいろ見方はあるし、現にそういうふうに言ってますが、ただ人間というのはいろんな思いを持つことができて、そうした悪霊があり得るってことは、そうした「悪」への思いもね、許されてるってことはこれは事実なんです。事実なんですよ。
妬(ねた)みっていうのはもちろん愛の欠如かもしれませんが、ただ妬みは妬みとして、一つの想念波動としては積極的作用はあるんですね。だから愛に飢えとるから妬んだり、嫉妬したりするんだって言う意見もあるだろうが、ただ妬みや嫉妬は愛の不在だけとは言えないね。愛がないから妬みや嫉妬がある。寛容がないから妬みや嫉妬があるとだけは言えない。やっぱり妬みというのも積極的なものがある。
ある人に対する妬みで、「なんとかしてあいつを失敗させたい。苦しめたい」ってありますね。嫉妬、もうギラギラ、モヤモヤしてきて、もう見るだけでもおぞましい。「なんとかしてあの女を遠ざけたい」とかね。「美人の顔に硫酸をかけてやりたい」とかね。こんなのおりますね。
だからそうしたマイナスの想念だって、単なるプラスの想念の欠如、欠如であることは事実であるけれども、それだけではとどまらん部分があるっていうことね。積極的な生み出す作用、攻撃的な作用もあるってことです。
僕はこれもやっぱり公平に見てね、あることも認めにゃいかんと思うんです。やっぱりあるんじゃないでしょうかね。そういうことを思うことも許されてる。そういうふうに思いますね。
あるいは嘘、ね。虚栄心。神様、なんでそんなもの人間に許しておるかって言うけれども、まあ、これは魂の学習の材料としてね、そうしたものも許しておると考えりゃいいんです。
嘘をつくことができる。嘘って言うのは要するに本当の反対ね、本当の不在である。だから真心と正直の不在である。それが嘘である。まあこういうことも言えるけども、嘘をつこうと思えばつけるわけです。だから人間を、嘘はつけないようなそういう真正直なものとして創ることは可能であったでしょう。
ただ真正直で、もう本当にみんな本音でしか話ができないっていう世界だと、ま、何かちょっと味わいが足りない部分があるわけだな。お互いに本音がわからんところで、何とも言えないこの地上の人間同士の感情のあやっていうのがある、ね。その本音が言えない部分が文学になったり、芸術になったり、いろんなものになってきとるんでしょう。違いますか。政治のやりとりがあったりね。商売になっとるんでしょう。あれみんな本音わかっちゃったら商売にならないですね。だからそういうとこありますね。
だから商売と正法なんて、よく僕も生前聴かれましたけどね。「じゃあ、うまくいって儲けたりするのはいかんのか」、「利益出しちゃいかんのか」、「商売がうまいっていうのは結局嘘つきか」と、こういうことがありますが、まあそれだけでもない部分もあるんだけどね。ここが非常に難しいとこですがね。まあ、こういうことがあります。
口が下手な人はやっぱり商売下手だわな。うまい人はよく売れるわね。だから僕なんかバナナの叩き売りやらしたら、結構売ると思いますよ。もちろんね。
だからこのへんがね、やはりこの世の微妙な味わいとあやね、この世界のあやを創り出すために、そうしたものも許容されとるんだよ。だから嘘があるから本当の意味がわかるし、そして嘘もつけるけど、そのために反省ということ、機会が与えられてるわけだな。そういう、なんと言うか、償(つぐな)いの方法としてね。
もし本当のこと、真実のこと言っていつも反省してたんじゃ、こら変な感じになっちゃいます。「あー僕は真実のことまた言ってきました。すいませんでした。神よ。なんて私は馬鹿正直なんでしょう。すみませんでした」こういう人もいるかもしれませんがね。だからこの世界をもうちょっとふかーく味わいのあるものにするためにね、こうした反対の思いや、感情も出そうと思えば出せるようには創られている。
ただそれに対してブレーキ、反省というブレーキを与えて、それを調整できるような原理は創ってあるということですね。まあ、こういうふうにしたってことです。そら、そうですね。
車だって交通事故起こすことはできますが、交通事故起こすために車つくったわけじゃないんだな。もちろん乗り物としてつくったけど、現実には事故が起きることもあるわけです。まあ、こうしたもんですね。決して事故が起きない車というのをつくった方がいいのかもしれませんがね。まあ面白味がないですな。だから本当で言うと、近くの車にニメートル以内に接近したら自動的に止まっちゃう車とかね。いっぱいありゃいいのかもしれないけど、突っ走る性質が、結局ぶつかることもできるんですね。ま、こんなことあります。
だから運転でもそうだね。運転技術のうまい、下手があるでしょ。そのへんに魂の学習の部分があるから、ま、そういうことがあるんじゃないでしょうかね。みんなレーサーのドライバーみたいにね、ああいうふうにA級レーサーで非常にうまい人ばっかりだったらいいんだろうけど、そうはいかないね。ま、そういうとこあるわけです。現実にはね。
ですから悪霊の本質っていうのは何かって言うとね、結局運転技術が下手なんですよ。まあこういうことなんだよ。みんなね、それぞれ肉体という車を一台ずつもらったんだ。神様からね。もらったんだけど運転の技術が下手なのがおるんだ。どうしてもね。それで事故起こすんだ。これ悪霊ですよ。
で、運転技術下手で、人をはね飛ばしちゃったり、傷つけちゃったりする。これ悪霊なんですね。運転技術のうまい人っていうのは、そういうふうにならない。だから悪霊っていうのは、まあ、そういう意味では運転技術が下手な人っていうことだな。事故ドライバーですね。事故起こすドライバーのことを言うんです。
じゃあ、なぜ事故が起きるかって言うと、結局それは学習の不足が第一ね。それと注意不足。人の意見を聴かない。公共精神がない。要するに自分のことしか考えていない。ま、こういうこと言えるんじゃないでしょうかね。これ悪霊の本質です。自分のことしか考えてないでしょう。自分がよけりやいいんでしょう。
自分がもうすっ飛ばしてね、車すっ飛ばしてブーンと行きや気持ちがいいからパーンとやったら「おーら、人五人ぐらいはねちゃったかなあ」なんてね。こういうことですな、やってますね。他の車、対向車のことがわからないね。出合いがしらの事故なんてね。対向車がわからない。青信号は進め、赤の時には進んじゃいけないちゅうのは無視する、まだいいと思って飛び出す、ね。そうでしょ。
結局交通事故っていうのも他の車とか、歩行者とか、こうしたものへの注意不足、公共道徳の不足、それから自分の運転技術の未熟さ、ね。車が欠陥車であること。いろいろあるはね。ま、こういうことですな。
だから交通事故の本質をよく見ると、悪霊の本質がよくわかるんですな。結局自分のこと中心に考えとる人は、だいたいそうなるわけですね。で、悪霊対悪霊ちゅうのもあってね。向こうは赤信号、黄色だの赤だのに信号を渡って来る人がおって、こっちは人渡っとるの知っとっても、なんだもう青になったんだからもういいんだって、ぶっ飛ばしてひいちゃうのもおる。こんなんもおるわけですな。まあ、いろいろです。
だから悪霊の本質っていうのはそういうもんで、一台一台みんな車もらってるけど、運転任されるのはいいけどね。それは自由にされとるんだけど、人をひいたり、事故を起こしていいとは言われてないが、結果そういうことを起こすことがある。それには、それなりの原因があるということです。
3.憑依(ひょうい)の原理
では、そうした悪霊がどうして生きている地上の人間に憑依(ひょうい)してくるか。ま、この話をしなきゃいかんと思いますね。えーまあ、心、人の心というのは、だいたい同類相通ずる、という法則があるんですね。似た者同士が引き合う、こういうものがあります。したがって、よく似たものがくっつくわけですね。
それはあの世だけじゃなくて、この世も一緒ですね。だいたい似たものがくっついてます。ヤクザはヤクザ、ね。不良は不良同士。ま、そういうふうに似たもの同士がくっつき合うわけですね、そういうことあります。
勉強の好きな者は好きな者同士がくっつくこともありますし、えーまあ映画俳優になりたいような人は、そんなもの同士でくっついていきますね。そういうことあります。そういうふうに通じ合うという原理が現にあるわけですね。
ですからみなさん、肉体持った人間でありますが、人間の中には心というのがありますね。その心は、この生きながらにしてあの世の世界に通じとるんですね、肉体が三次元的な存在であるけれども、この三次元的存在の中にある人間の心、つまり魂の本質部分ですね、これは四次元以降のあの世の世界に通じていっとるんですね。
そうすると、四次元以降の世界に通じてしまうっていうことは、四次元以降の住人たち、それの心の波長と通じてしまうんですね、念(おも)いが。こういうことなんです。
だから憑依されて苦しいとか、除霊してくれとか言うけれども、あんなのはっきり言ってナンセンスですよ。除霊なんていうのは、あり得んことです。あり得んて言っても、もちろん除霊ができんわけじゃありませんが、霊を取りゃあ幸福になるとかね、霊のせいで不幸になっとるちゅうわけでもないっていうことなんです。それをその霊を招き寄せておるのは、他ならぬ自分自身の心であるということなんです。これを知らねばいかん。
もちろん、行きずりにばったりと憑依されるということもあるけどね。霊体質の人はそういうこともありますが、ただそれでもね、心が通じ合わなきゃやがてその霊は離れていくんです。憑依されるには憑依されるだけの原因が、やはりあると思わねばいかん。こういうことなんですね。
そして除霊師巡ったり、霊能者回ったりして、悪霊を取ってまわってますが、取ったって取ったって来るっていうことなんですね。それはそうですね。蝿(はえ)と一緒ですね。食べ物に蝿がたかっとんの追ったって追ったって来るでしょ、ね。そういうことなんですよ。神社でおはらいなんてしたってね、おはらいであなたあれなんだか知らんが、白いのでパンパンパンパンとやって、その時だけ離れたような気になったってね、家帰ったらまた戻って来るんですよ。一緒なんですね。臭い物があると蝿が寄って来るんですね、たかって来るんです。
だから「人間はバカになったなー」ってね、悪霊に馬鹿にされてるぐらいなんですね、実際。「バカだねー、人間っていうのは」って、ね。だから新車なんて買ったって、神社行って今おはらいなんかしてもらってるでしょ、車を、ね。交通事故から守るための安全祈願なんてやって、パラパッて新車のお払いやってるけど、そら新車の悪霊はいなくなるかもしらんが、そんなもの乗っとる人が悪霊くっつけてるような人だったら、いくらでも乗って来るわね。そんなもの、関係ありませんね。
じゃあお札(ふだ)とかあんなものがきくかって言ったら、まあ単純な悪霊は自己催眠かかって怖がる人もおるけどね。まあやっぱり基本的にはそんなものじゃなくて、心の問題だと言うことですね。それを知らねばいかん。
したがって自分にある種の悪霊が来ておることを知ったということはね、そうしたものを招き寄せる自分の心があるということを知らねばならん。同類だということですね、まったく。動物霊が来るということは、自分に動物霊のような部分がどこかに必すあるんですね。
それは嫉妬心であったりね、やっかみであったり、良く見せたいという気持ちであったりね。あのーまあ食欲なんて言ったら大変なことになっちゃうけど、まあ食欲ぐらいみんなあるでしょうからね。まあいろいろあるんですね。だから悪霊に憑かれとる人はまず、その原因は他にあるんじゃなくて、自分自身に一応あると思って、反省しなきゃいけない。特に長期間憑依されとるような人は、だいたいそうですよ。
ところがね、憑依されとる人に限って反省っていうのができないんだなあ、これがまたできない。なんにも自分のことについて思い浮かばない。こういう人いるんですね。全然。そらもうね、そういう人はたいてい四体、五体憑いとるんですよ。読者のみなさんで自分のことなんにも反省できないって言う人いると思いますが、こういう人はだいたいもう四、五匹憑いとるの間違いないです。自分のことが見えないんです。反省しようとすると頭がボーッとするんですね。
生前払は講演会もやりました。私の講演会になるとやたら眠くなってね、コクコクと寝ちゃうんですね。いびきかいて寝ちゃうんです、鼻ちょうちんつくって。来なきゃいいと思うんだけどね、来るんだなそれが。来ては寝てるんだ、いつもね。そら講演の中でも退屈で寝てしまうというわけもあるんですが、ま、それもあるが、悪霊が憑いとるとそういうふうになることがあるんですね。まあ、そういうふうに反省ができないというのが、一つのあれですね。
だから面白いんですね。悪霊とるのに反省しなきゃいかんけど、憑いとったら反省ができないという非常に難しい状況があるんですね。だからそういうふうに反省ができないとか、悪霊とか悪魔が憑いとる人っていうのはね、一日のうちでね、悪霊もやっぱり、あの世で住居もあるから行ったり来たりしてるんでね、いつもいつも憑いとるわけじゃないんですね。だから一日のうちの周期見とってね、自分に一番気分のいい時っていうのがあるんですな。爽快(そうかい)な時、朝の時もあるし午後もあるし夜が爽快ちゅうのかよう知らんけど、よく帰るんですね。気分のええ時ねらって、神理の本を読んだり、あるいは反省をしてみたりすることですね。あるいは神理のテープ聴いたり、講演聴いたり、そういう時ね、あんまりひどくない時にやる。
だから、たとえば講演会なんか聴きに行こうとすると、悪霊憑いてると急に体悪くしたりするんですね、平気でそんなことを。行くな行くなという声が聞こえてくるんですね。こういうことあります。だからいつもいつもは憑いてないから、彼らも二十四時間完全密着というわけにはいかないんですね。だから離れてる時もあるから、そういう時ねらわなしょうがないね。比較的気分の穏やかな時とか、ねらって反省に入るんですね。そういう時に浄化しとかないといけないね。
だから神理の話聴く時も、そういう比較的気分のいい時にねらうと、こういうこと大事ですね。だから四匹も五匹もおるけど、たまにちょっと手薄になって一匹か二匹になった時やるとかね。とにかくその憑依の原理はね、自分にあって、除霊によっては根本的治療はできんということ、これをみなさんにちゃーんと知ってほしいんですね。
4.他力信仰の落とし穴
このね、悪霊の跳梁(ちょうりょう)を許しておる理由の一つはね、日本に他力信仰が多いこと、これが一つなんですね。私はこれ言っとかないかんと思うんですね。とにかく他力が多い。他力と言うのは、まあ他力なしの宗教というのはありませんが、結局、御利益(ごりやく)宗教ですね。これが多すぎるんです。
とにかく宗教っていうと、もうとにかく願いごとをかなえてくれる、ね。病気を治してくれる、ね。もうお金を儲けさせてくれる。成功させてくれる。結婚させてくれる。受験合格させてくれる。もうこればっかりですね。もうこればっかりです。こうしたとこに人間の欲望の欲念というのが溜まってくるんですね。そういう神社、仏閣にそうした人間の欲がね、念が渦巻いとるんです、賽銭箱(さいせんばこ)のあたりに渦巻いとってね。
そして人間の欲念、想念というのが集まるとね、一つの生き物みたいになってくるんですね。巨大な生き物になってくるんですよ。ガーッと集まってくるんですね。そして一つの生き物のように動き始めるんです。そしてそれがいろんなとこに影響与えるんですね。だから怖いですよ、生き物っていうのはね。生き物っていうか、念というのはね、生き物産んでくるんですよ。そういうみんなの念が集合し始めると、それで一つの生き物ができるんだ。あの世の生物が出来上がってくるんですよ。
だから神様だけが、そういうあの世の生き物創ったんじゃないよ、人間が創った生き物いっぱいあるんだよ。あの世の化け物なんて言ったってね、結局地上の人間が創ったの多いんですよ。地上の人間のその念が集まってね、そのエネルギー源でもって、あの世の魔物創ってる部分が多いんだ、結構。だから本当は普通の単なる人霊であったりするような霊が、そういう地上の欲想念、いろんなものを吸収してものすごく大きくなって化け物になって、魔王みたいになったりしとるんですなあ。こういうことがある。
とにかく他力の場合は欲念というか、欲想念が要するに集中するんでね、ここがいけない。そして地獄霊たちが、そこへ出て来るわけですねえ。自分たちも救われたいから。来て「神様どうかね、私の願いをかなえてくれたら、何でも言うことききます」なんて言うから「よし。言うこときかしてやろうか」ってね、そう言ってやるわけですね。だからもうほんと「触らぬ神にたたりなし」で他力信仰の怖さっていうのはね、もう身にしみて私は感じましたね。
だから変にもう神社や仏閣(ぶっかく)行かんでよろしい。お墓なんかにおるのはもうみんな悪霊しかおらんのですから、天国行った霊なんか一人もいません。で、神社、仏閣で調和されたとこなんてほとんどありません、今はもうね。どこもここも観光事業みたいになっちゃって、もうろくなことありません。だから宗教も他力の方へ深入りしてくるとだんだん間違いが進んできますよ。
だから他力信仰の中でももちろん、親鸞だとかね、最近だって谷口さんみたいな教えもあるんかもしれませんが、それは教組がいなくなってね、平凡な人が後を継ぎ始めるとおかしくなってきますよ。こういうのは必ずね、他力の方はね。その可能性が非常に多いですよ。
だからね、まあ人間ていうのは、思うがままになるっていうことも大事だけどね。僕はやっぱりね、足ることを知る方が中心でいいんじゃないかと思うんだなあ。この地上の生命っていうのはね、やっぱり一時期のもんですよ。わずか六十年、七十年、あるいは四十八年ですよ。そんなごく短期間でねえ、総理大臣になろうとかねえ、会社の社長になるうとか、美人女優になろうとかね、もうそんなのほどほどにしてね、ほんとなるべく借金つくらんようにね、ほどほどにして生きてね、他の人に、ま、多少は、貢献もしながら、善人として生きたらどうでしょうかね。
短いんですよ、みなさん、ほんのね、一瞬なんですよ。ほんの一コマなんですよ。ほんの学芸会の二時間なんですよね。その中であなた乞食の役やらされたから、門番やらされたから、王様やらされたからって、どおってことはないんだよ。ほんとにどうしても王さんになりたいってね、そんな血みどろでやるなというんだ。一幕の劇にしかすぎんのですよ、この世はね。このへんを知らんとね。
この世を中心にやるといろんな自己実現ばやりで、自己実現がもうちょっと行き過ぎると他力信仰まで行っちゃうんですね。やっぱりね、自己実現、僕は大事なことだと思うけども、視点がどうしてもこの世にあるんだよね。この世にある。そこに問題があるんだな。
だから、あの世の視点から見た自己実現ね。神様の自己実現みたいになるんならいいよ。ただそういう神の道説いとる人でもね、教団をもっと大きくしたい。もっと金集めたい。もっと新聞広告したい。もっとテレビに出たい。こうなってきますね。そりゃ神様のためだからなんて言って、だんだんだんだん出て来ますね。こういうことして、ある人はこうすれば金が儲かる、運がどんどんついてくるとかね、こういうこと言って本書いて、そして自分は、神様の道説いてるつもりでおるんだけども、だんだんだんだんそちらの方向に、行きますね。
有名人で人集めしたり、有名人売り物にしたりするの、たいていみんなこれですね、こっちの方向へ行っちゃう。だから神様の役に立つ場合としての自己実現て難しいんだよな。そのへんが非常に難しいとこなんですねー。
だから僕はね、他力も本当は素晴らしいものがあると思うけれども、一般論として見れば、難しさの方が多いんじゃないか。こういうふうに思うんですね。難しい面の方が多いんじゃないかね。他力が。
だから自力信仰ってことはありませんが、自己確立ですね。神様、神様って神様にすがらずに、自分の中にある神様の部分をね、つかみ出すこと、つかみ取ること、これ大事ですよ。悪霊はらってもらおうと思って神社、仏閣まわらないで、自分の中にある神の子の本質をつかみ取ってね、そして、やはり悪霊取っちゃうことですね。
人間関係で苦労しとるのはそれはね、あの世の霊の責任じゃありませんよ。ご自分の問題じゃございませんでしょうかね。自分に問題があるんじゃないですか。我が強かったり、人の意見聴かなかったり、そうじゃないですか。あるいは経営が下手だったり、ね。人間関係苦しくなった原因はとんど自分じゃないですか。
そら他人が一方的に悪いっていうこともありますよ。あるけれども、それを増幅させとるのも自分なわけだ。それなりの自分のあり方というのをね、もっともっとよくよく考えてみなきゃいけない。そういうふうに思いますね。だから他力信仰というのをね、非常に僕は気をつけにゃいかん。まあこういうふうに思います。