目次
1.人生と希望
1.人生と希望
第四章「希望の光」という話をしていきたいと思います。
ほかの人の霊訓集を読まなくとも、高橋信次の霊訓集ばかり読んでおるひとびとにとっても、もうあるていどの神理はわかってきたと思うんですね。
そして生前の私の教えだけではなく、死んで十年あまり、こちらの世界で考えたこと、また思想的に変化したこと、発展したこと、こうしたことを学んでおられると思います。
まあ私の霊訓集読んでね、いろいろ感じるかたもいらっしゃるだろうけれども、まあ著書とちょっと感じがちがうんじゃないかという人も多いと思うんですね。
そりゃあみなさんちがいますよ。しゃべるのと著書では、だいぶちがいますよ。著書はもちろん一生懸命考えて書きますからね。一生懸命内容を引きしめて書いてあるのです。
しゃべることばになると私は自由自在ですから、こういうふうになるわけですね。
しゃべりことばでも講演会でしゃべるのと、こういうふうに、まあ収録用にね、しゃべるのとじゃ、またちがってきます。そりゃそうですよ、千人前にしたら、あなた力はいりますよ。右腕振り上げてしゃべらないとどうしますか。
それとね、私も生前の講演会のときには、ずいぶんいろんな指導霊たちがいてね、私のなかにはいってしゃべってくれました、かわりにね。
私もやっぱり喉の調子が悪いだとかね、風邪ひいただとか、ちょっとお昼ご飯食べるの忘れただとかね、いろいろあってね、力はいらんことありましたから。
そういうときには、いろんな諸霊がね、高級諸霊がなかにはいってかわりにしゃべってくれたことがあります。
そういうことで講演中に私の顔つきが変化したなんてね、霊視ができる人は、言ったりします。そういうこともありましたね。
さていよいよ本論にはいりますけれども、きょうは希望の光ということですから、読者のみなさんに希望が湧くような話をしていきたいと思ってます。
およそ人間として生まれて生きていく上には、いくつかの希望というものがなければ、やっぱりやっていけんのです。この人間稼業ね、やめたくなります。生きていく上に、やはりなんらかの希望というものがなきゃあいけない。
そういうことで生前、私は、ずいぶん「反省」ということを、それから「中道に入る」ということを説きましたけれども、「反省」、「中道」が中心で「希望」のほうはあまり言わなかったのですね。この点、若干ものたりないと思う人も多いと思いますね。
2.ブレーキが必要な性格と、そうでない性格
まあ高級諸霊の教えというのもけっきょくその人の性格にずいぶん影響されるということもあるんですね。
たとえば私っていう人間は、ほっといてもどんどんどんどん、もう先に進んじゃう人間なんですね。もう目を離せばどこまで行くかわかんない。
もう昼も夜もなく働き続けて、ある日突然パッタリいくようなタイプでした。
ですから、こういう性格の人間にとってはね、ブレーキがひじょうに必要なのですね。そういうことでブレーキとしての「反省」、こういうことが重視されます。
そういうわけで、生前、私もちょっと自分自身ね、自分で目を離せばどんどんどんどんいろんなものを広げてしまって、やってしまう自分というものをよく知っていましたから、これではいけない。ときどき自分にブレーキをかけて立ち止って反省せねばならぬ。こういうことを心に言い聞かせる必要があったわけですね。
ところが、逆の性格の人がいます。ほっとけば、もういじいじして、まったく前に進まない人ね。なんでもかんでもすぐ後悔して、ああでもない、こうでもないってね、言っている人がいます。
よく電車のなかなんかに乗っていると、「ああしまった。」なんて頭をかかえてね、独り言を言っている人いますね。笑っちゃうんですけれどもまわりが見ていたら。
そしてまわりから笑われて初めて、またキョロキョロとしてね、はずかしそうに、あわてて、ドアから出ていく人いますね。
独り言言う人、だいたいこういう人は一日中自分のことばかり、ああでもない、こうでもないと考えておるのですね。
こういう人にとっては反省というよりはどちらかというと、もうちょっと明るい方向を見ていく、そういう必要があるんですね。
どうもグルグル自分をまわっている。こういう人に、なまはんかな反省を教えると、もっともっと切り刻んじゃうんですね。ナマスみたいにね。切って切って切りまくっちゃうんです、自分を。
あるいは薄く切っておいしいのはナマコぐらいなもんで、ナマコぐらいに薄く切って酢醤油につけて食べたら、そりゃあおいしいけれどもね。
ふつうの人間の心なんて、そんなに切り刻んだって、うまくもなんともないんです。
3.やる気満々の人と八正道の実践
まあGLAのときにも私の八正道の教えに帰依してやっとってもね、どうも今ひとつ力が湧いてこないという人もいたわけです。
とくに会社のなかでもバリバリやるエリート社員。あるいは実業家ね。自分一代でのしてきたような実業家というのは、反省して中道に入れといわれても、どうもしっくりこない。
せっかくいままでバリバリとやることがいいと考えてきたのに、これはいけないことなのだろうか、どうなんだろうか、これがわかんないね。
それで毎日、毎日、反省していると、なにか自分が変な感じなんですね。宙に浮いちゃってどうも力がはいらない。
もういっそのことなら、こんな教えに触れなければ、もっともっとバリバリやれたのに高橋信次の教えに触れたばっかりになにかやる気がなくて、なにかやればすぐ悪いことをしたんじゃないかと思って自己反省にはいる。
ブレーキばかりかけてるとぜんぜんもう自信がなくなっちゃって、もう朝からご飯を食べる元気がない。
朝ご飯三杯食べとった人間がもう一杯も食べられない。それで冷奴定食かなんか食べて、そちらのほうに押しやられていきます。
そうするとまわりの社員から「社長どうしたんですか、最近ちょっと元気がないじゃないですか。」ってね、肩をポンポンとたたかれますね。
「社長どうしたんですか、顔色も悪いし、元気がないし、あれだけステーキばかり食べていた社長がなんかもう、おろした大根に、まあ、あなたお豆腐なんてね。まあかわいそうな精進料理なんか始めちゃって、社長さん、なにか親戚にご不幸かなにかあったんですか。あるいは嬢さんでも、ちょっと出戻りでもされたんですか。それとも急にあの世づいちゃって宗教でも始めたんですか。」ってね。
社長なんかは「うるさい、ほっとけ。」なんてね。「おまえらになにがわかるか。私はいま、八正道やっとるんじゃ。」ってね。
「生臭いもの食べるとムラムラムラムラやる気が出てきて部下を叱りつけたくなるし、女性見たら、やたら目線が動いていくし、こりゃあどうにもいかん。やはりもうタンパク質は避けてなるべく、もう菜食にかえねばいかん。わしの気持ちがわかっとるか。大好きな朝飯三杯やめてね、一杯にした。」と。こういうことをやっています。
大工の棟梁(とうりょう)さんなんかもそうだね。もう飯いっぱい食べて柱の上に上がって「いよっ」と「おおきょうはいい天気だなあ。さて屋根葺(ふ)くか。」なんてやっとったのが急に八正道なんかやり始めると、「いやこのままでは自分は転落するかもしれない。柱の幅が二十センチしかない。この上をまっすぐ歩けるように中道を心がけにゃいかん。どうやったら心のなかの中道ができるだろうか。色心不二だから心が中道に入らなければ、わしの肉体もここから転落して大工の棟梁やめねばいかんかもわからん。たいへんな問題だ。」と、こうなるわけですね。
まあそういうふうにやる気満々だった人が、急に八正道、中道をやるとね、どうもついていけないってことがあるのですね。
4.反省行をいったん離れるべき時期
あるいは、生前私はGLAで『心行』という経文作って、これでみなさん、これを読みながら、よく一日の心と行ないをふり返りなさい、ということを教えました。
ところが『心行』読んでいろいろと反省しているけれども、どうもいかんと。どうもなんかポロポロと涙がでるんだけれども惨(みじ)めになってくる。
気持ちがね、惨めになってきてね、「悪い私でござんしたね。みなさんごめんなさいね。父ちゃん、母ちゃんごめんなさい。田舎の父ちゃんごめんなさい。」ってね。
「あれだけ仕送りしてもらったのに私はなにひとつお返ししませんでした。」と、まあやっとるのはいいけど、なんだかしらんけどもね、十八ぐらいの、なんか女学生に還ったような気分で、どうもいまひとつ乗りが悪い。まあこういう人がいます。
あるいは自分で勝手に反省的瞑想をやって『心行』読んだりしていると、霊道現象が起きて体がいろいろゆれたり、さまざまな霊の現象にとり憑かれて、これでもやっぱり『心行』を読み続けるべきか、やめるべきかと、まあこういうことでね、悩んでいる人もいます。
『心行』を読んでいると体がゆれてくる。また霊道現象が始まってきた。ではやめたらいいだろうか。しかしこれは魔が暴れとるんだからがんばって読み続けるべきかどうか、こういうことを悩むんですね、人間は。
まあ、こういうときにも、どうしたらいいのかわかんないけれども。
まあみなさんね、私はここでひとつの考えるヒントを与えておきたいと思うんですね。
反省をやってもどうも空回りをやってうまくいかない人、あるいは『心行』を一生懸命あげとってもね、お経なんか一生懸命読んでおっても、どうもね、ようするに悪霊が寄ってくるような気分がしてね、どうもよくない。なんか霊的になってくるのはわかるけれども、どうも気分がいまひとつ乗らない。
こういう人というのはね、しばらくね、また反省行から離れる時期っていうのが必要なのですね。しばらく。しばらく反省行から離れて自分の心が浮上してくるのを待つ時期っていうのがだいじなんですよ。
5.反省のうまくいかない人は、いったん水面から顔を出せ
人生には海面下に沈んでいるときと海面の上に出ているときと両方あるんですね。そしてまあプールでも飛び込み台から飛び込んでいったんゴボッともぐってね、それから浮いてきます。こういうときといっしょです。
ですからいったん水面に出てきて顔がポコッと浮いてくるとね、じゅうぶん反省ができるんだけれども、水のなかにもぐっとるとき、反省できんのですよ、みなさんわかりますかね。水のなかで『心行』を唱えてたら、口のなかに水がはいっちゃって溺れちゃうんです。
ところが水中から出てきて首をボコッと出して、一息ホッと入れると、まわりの景色を見渡してね、自分が溺れていないことがわかって、これから反省ができるのですね。
そういうことでね、反省のどうもうまくいかない人というのは、自分がいま、水面下にあるか、水面から首が出ているかどうか、これをね、もう一ペん考えてほしいんです。
それでね、これは人によるんだけれども、どうも反省行が空回りしている人というのは、いわゆる浮力が足りんのですね。
水中にようするにドボッと飛び込んだのはいいんだけれども、水が冷たくてね、思ったよりも水が冷たくて、そして浅く落ちると思ったら、ずいぶん深いところまではいっちゃってね、出てこんのですよ。
そして水の底でね、反省を一生懸命しとってもね、魚チョロチョロ泳いできたりね、ワカメが鼻の頭をなでたりね、いろいろしてね、どうも落ち着かんのですね。
まあ乙姫様の世界ではありませんが、そんな竜宮界のなかではなかなか反省ができんのですよ。竜宮の人は反省できんでしょう。まあそんなもんです。
ですからどうも飛び込んで出てきてないなと、水面下で自分はいま、苦しんでおるな、あがいておるなと思う人はね、いったん水面から顔を出すことを考えることですね。
そして水面下から顔が出てきて一息ついてからでもね、反省はいくらでもできるのです。そういう時期があります。
6.浮上の原理に四つある
じゃあ、水面に顔を出す方法というのはいったいなんだろうか。つぎにはこれを考えにゃあいけません。水面から顔を出すためには「浮力」がだいじです。
つまり浮力というのは浮いていく力ですから、どうすれば自分が浮いていくか、浮いてくるのかというのは、つまりね、ある意味では心がうきうきするか、あるいは明るい気持ちになれるかということですね。これを考えねばいかんのです。
ですから先はどの飛び込み台から飛び込んだのといっしょですから、水面下のときと水面上のときと両方ありますから、水面下にいるときには、やはりいちおう、一息入れるために浮上する、この工夫です。
クジラだって一時間に一回出てくるのです。人間はもちろん五分間ももちませんから出ざるをえんのです。そして酸素を吸う必要があるのです。
ではこの浮上の原理、これはいったいなにか。
私はいま、こういうあるていど、法というものに触れた人にとっての浮上の原理をね、四つぐらい上げることができると思うのですね。
7.浮上の原理① ― 称賛
第一の原理はね、まあこれはね、「称賛」なんです。称賛といってわかりますかね、勝目の勝算じゃありませんよ。
あるいはなんとかナトリウムじゃありませんよ。硝酸塩の硝酸ではありませんよ。称賛というのは誉めことばです。これがひとつなんですね。
ジメジメ、ウジウジして水面上に出てこれん人というのは、どうも称賛、誉めことばというのを経験しとらんですね。
誉めことばにふたつあります。ひとつは人からの誉めことば、いまひとつは自分自身の誉めことばですね。この両方があります。
しかし心が水面下にあるとき、ウジウジ、ジメジメしておるときというのは、人から誉められても素直に喜べんのですね。きっとこれは裏がある。そう思っちゃいます。
あるいは、この人というのは二枚舌で、だれにでもこう言っとるのじゃないか。そして後ろを向いたらベッと舌をだしておるのじゃないか。まあこういうように考えちゃうのですね。
心が荒れると、どうしても人のことばも素直に受け取ることができません。
そこでね、まずその称賛の原理だけれども、まず自分自身のね、いいところを見つけていくところから始めていきなさい。
惨めで惨めでどうしようもない自分っていうのがあるけれども、自分だっていいところがあるんじゃないかっていうところをね、もう一度点検してほしいんです。
そしてたんに反省するだけじゃなくてね、自分のいままでの二十年、三十年、あるいは四十年、五十年の人生のなかで、どんなときに人に誉められたかね、これをひとつ考えてみる必要があるのですね。
人に誉められたとき、それは少なくとも第三者からみてすばらしいと思われた、あなたがあったということですね。
どういうときにすばらしいと自分が言われたんだろうか。これをね、もう一度点検してみるんですね。
「反省ノート」だけじゃなくて「称賛ノート」ね、誉められたことを、もう一回考えてみる。
そうすると、自分の性格のなかの、こういうところがどうもいいんだな、これに気がついてきます。
「ははあ、人に笑顔を向けたときに、その笑顔がすてきね、と言われたことがある。」とか、あるいは人前であがってあがってどうしようもないと思っていたのに、「ずいぶん控え目な美しい心の持ち主だ。」と言われたこともあった。まあそんなこともあったな。
あるいは自分が頭が悪くて悪くて、どうしてこう能率が悪いんだろうと、いつも自分をさいなんでおったけれども、よく考えてみたら小学校のときに先生に言われたなあ。
「ああおまえはほんとうに努力家だ。」って。「大器晩成の人だ。」って。「倦(う)まず、弛(たゆ)まず歩いていく亀のような人間だ。」と。
「ああおまえはほんとうに努力家だ。」って。「大器晩成の人だ。」って。「倦(う)まず、弛(たゆ)まず歩いていく亀のような人間だ。」と。
「こういう人間はいつか大成するんだ。」と言われたことがあるなあ。そうだなあ、自分はウサギ型じゃないけれども亀型でも大成というのがあったんだなあ。こんなこともあります。
あるいは、自分は結婚できなくて、できなくて、どの女性を追いかけても、みんないまひとつのところで逃げられてしまう。もう自分はなんの魅力もない男だ。もうセックスアピールもなにもない男だと、こういうふうに自分をいじめている男性がいます。
しかしよく考えたらそうでもないんですね。小学校、中学校、高校、あるいは大学、あるいは社会人、このときにね、まわりの女性があなたをどう見てたか、もう一度ね、よーく見てごらんなさい。
必ずしも、あなたのセックスアピールばかり見てはいないですよ。そんなことありませんよ。あなたが誠実であるとかね。あるいは親切であったとか、いろんなとこ見ているはずですよ。ちがいますかね。
あるいはある男性はね、自分は蓄膿(ちくのう)だなんてね、そればっかり気にしています。
蓄膿だから頭のめぐりは悪いし、蓄膿だから口開けたらなにか臭いが出てくるし、劣等感でさいなまれているけれども、まあそれでもね、みんなが嫌っておるかといえば、そうでもありませんよ。
それが証拠に、お友達だっていたでしょう。そして誉められたことがある。まあ蓄膿を誉められたことはないでしょうけれども、ほかのところでね、誉められたことがあるはずですよ。
女性だってそうです。もう人前に出ると、もうあがってしまってどうしようもないっていう女性がいますね。
もう絶対ダメ、お見合い行ってね、自分の実力出そうと思ったら、どうしても出せなくってね、あがってしまってなにもできない。「ああしまった、私は人前で自分を出せないから、いつも断わられる。」ってね。
実力を出したりすればね、一発で認められるのにね、どうしても出すことができない。だんだん自縄自縛(じじょうじばく)のにわとりみたいになって動けなくなってきますね。
ところが、世の中にはいろんな男性がいるんですよね。お見合いのときに下をうつむいて「の」の字ばかり書いている女性がいいっていうのもいるんですよ。「の」の字「の」の字書いているのがいいってね。
そう考えてみるとね、人前で男性の前でしゃべりすぎて失敗した女性だっているんです。
「これはそうとうの女性だ。こんなのもらったらもう毎日、毎日、お説教くらってたいへんなことになる。たいへんなカカア天下だ。」そんなのでまた懲(こ)りてる男性がいるんですね。
そういう男性の前で「の」の字書いてる女性が出てきたら、「ほう、これは大和撫子(やまとなでしこ)、これはすごいじゃないか。」と。
まあこんな人がいるから人の見かたは相対的なんです。
ですからまず「称賛の原理」でね、そういうように心が傷ついているときには、自分を人がどう見たのかというなかでね、よく見てくれたときのことを思いだしてみなさい。
そうできたと思うと、じゃあね、自分というものは、まあ人から誉められたんだから、そのいいところの自分をまず出すように努力してごらんなさい。
悪いところ出すよりもいいところを出していくと、こういう勉強をしていきなさい。
またね、人から誉められたときに素直に喜ぶ、裏を疑うのじゃなくてね、素直に喜ぶ、こういうタイプにしていきなさい。
そして人の誉めことばを素直に受け取れるようになったときに、自分もまた人を誉めることができます。称賛が称賛を呼ぶわけですね。
こうして明るい人生が開けてきます。これが第一点です。
8.浮上の原理② ― 複眼的人生観
まあ「浮上の原理」まあこれは希望の光でもありますけれども、この「浮上の原理」のね、第二はね、「複眼的人生観」です。
複眼的ってわかるかな。複眼的ってわかんないかな。バッタの目です、バッタの目。バッタの目っていうのはね、目は二個だけれども、その目のなかにいろんな眼細胞があって、いろんな方面が見えるのね。通常の人間とちがって。まあおそらく二百七十度ぐらいの角度まで見えるんですね。これを複眼といいます。
前も見えれば後ろも見える。上も見えれば下も見えるっていう目なんですね。これを複眼といいます。複数の眼と書きますね。
ところがね、そういうふうに、先ほど言ったように、自分をいじめて水面に浮上して来ない人間というのは、単眼の人が多いのです。単眼、目が一個しかない。ひとつの方向にしか目が向かんのです。
ようするに会社の給料が少ないと、もう給料のことしか目がいかんのです。病気をすると、病気のことしか目がいかんのです。失恋すると失恋しか目がいかんのです。子供が女性ばっかりだったらね、女の子ばっかりできると、もうそれしか目がいかんのです。あるいは娘が嫁に行かんと思ったら、それしか考えんのですね。
毎日、毎日、「娘が嫁に行かん、嫁に行かん。」と、こればっかり言っている母親や父親がおります。もっとほかに言うことがないのかと言い返している娘さんがいるはずです、どっかに。そういう人もいます。
あるいは毎日、毎日、「金がない、金がない。」ばっかり言っておる人もいます。ほかにあるものがあるでしょう。
こういうふうに水面下に沈んで上ってこない人というのは単眼です。目が一個しかない。ひとつのことしか見ていないっていう性格が多いんですね。
こういう人は早く複眼思考にかえて目をもっといっぱいつけることですね。
お金はないけれどもね、自分は人から評判がいいとかね。出世ができないけれどもね、多くの人から好かれるとかね。女子社員の評判は悪いけれども上司の受けがいいとか。会社ではひじょうに人気者だとかね。
人間はいくらでもね、取り柄はあるのです。その取り柄をひとつに限らないでいっぱい作っておくことです。これがダメなら、この道があるさ、まあこういうのでやってみたらどうでしょうかね。
ようするに、どうも下向きの人生を歩んでいる人は、自分の目が一個しかないかどうかをよーくふり返ってほしい。複眼思考にかえていきなさい。そうじゃないとバッタにも劣っちゃいますよ。これが二番目です。
9.浮上の原理③ ― 祈り
希望の光、「浮上の原理」の第三番です。
これはね、生前、私は自力、自力って言ってきましたけれども、ある意味での他力です。
まあ教義を修正するわけじゃありませんが、まあ他力というのもね、あるのはたしかなんですよ。他力がなければ高橋信次が出てきてしゃべることもないんですよ。
これ自力でいいんなら高橋信次先生なら、こんなこと考えるだろうと一生懸命想像してね、大川さんが原稿書きゃあいいんですよ。
ところがそんなことをしている暇がない。高橋信次がクルッと降りてきてね、で、しゃべっています。これ他力です。
他力の原理があることはあります。また他力なしの宗教っていうのはありえないのですね。宗教というのは自力っていうてもね、あの世の霊たちの影響なしの宗教ってないのですね。
自力だけなら学問研究といっしょです。学問研究とちがうところは、あの世の霊のインスピレーションを受けるということですね。これが他力です。
こういう世界が現にあることは事実なのですから、そしてあの世の霊たちも、この世の人たちを救済したいと思っておる人たちがいっぱいおるのです。
ただこの世の人が救いを求めないと、なかなか救済の光、霊波を投げ与えることができんことも事実なのですね。
救済したい、手伝いたいと思っている霊たちがいっぱいおるんだけれども、この世の人が、そんなの受けつけない、ぜんぜん。そういう人がいっぱいいます。
こういう人はどうすることもできないのですね、自分でもう、どんどんどんどん穴掘っちやってね、モグラみたいに土のなかにもぐり込んでいるのがいるんだね。
「おいそっちダメだよ。」と私が言っているのだけれどもぜんぜん聞く耳を持たない、こんな人もいます。
ですから希望の原理の第三としては、あの世の高級霊たちが現におるんだから、やはり「祈り」ということを忘れんということですね、祈りです。
祈りっていうのはかならずだれかが聞いておるのです。どんな人間にもかならず守護霊がおるんですね。守護霊がかならず聞いております。
ただ、その祈りの内容を現時点で実現したほうがいいのか、あるいはしないほうがいいのか、先に伸ばしたほうがいいのか、こういう結論があるから守護霊は即答しませんけれども、かならず祈りは聞いています。
そして守護霊が自分が判断つきかねることは、指導霊に判断を仰いでおるのです。ですから祈りということを忘れちゃいかん。
10.浮上の原理④ ― 自己信頼
そして四番目、希望の光の四番目はね、なにかというとね、これは「自己信頼」ということです。
自己信頼ってわかりますか。神の子人間の本質というものを信じることです。自分が神の子だということを信じること。その自分の心の奥底には、如来としてのね、神性が光っておるということ、これを信じることです。これが自己信頼です。
自己信頼がないところに希望がないんです。
自己信頼というのは、ようするに自分の本質を善きものだと思うことですね。悪いもんだと思うといけない。もう芯(しん)まで腐っていると思えば、もうどうしようもありません。
玉ネギだって芯まで腐ったら使うところないんですね。ところが表面だけ腐っとるから一枚、二枚むけば食べられるんですね。芯まで腐った玉ネギは食べられません。
しかし芯まで腐った人間っておらんのです。どんな悪人でも玉ネギの皮一枚、二枚が腐っとるのと同じです。それを取れば、なかからきれいなにネギが出てくるのです。
そういうふうに自分の芯、真中にはね、美しい、まあ食べられる部分があるということね、これを忘れんこと。これが自己信頼です。
まあ、そういうように考えるのですよ。外側の皮が腐っとるんですよ、それが一枚腐っとる人、二枚腐っとる人、いろいろいるんです。しかし真芯まで腐っとる人はいません、ひとりも。
だから自分の玉ネギの真中がすばらしい、個性が光っとるということね、これを忘れんこと。これが自己信頼です。
まあ以上の四つが私のきょうのね、希望の光の話です。
ですから反省行がうまくいかん人は、こうした希望の原理をね、もう一度取り入れて、ちょっと勉強してみてください。
そして首が水面上に出たときにもう一度ね、反省ということにとりかかってください。水面の下でなかなか反省できんのです。一息ついてやってみてください。まあ以上です。