目次
1.生長ということ
2.生長の条件
3.生長のための生活
5.日々の工夫
6.自己実現の構図
7.霊的無限供給
8.発展の構図
(1988年5月10日の霊示)
1.生長ということ
谷口雅春です。本日は、生長の家の「生長の家」と言われる、その名の由来、またその意味するもの、目指すもの、こうしたことを話しておきたいと思います。
生長ということが、いかなる意味を持っているのか。これは今風に言うならば、おそらく「発展」ということになるのであろうか。これについての私の考え、特に、こちらに還ってからの考えに変化があるかどうか。こうしたことについて、述べておきたいと思うのである。
まず、私が九十二年の生涯において説ききたったことを、一言で言いきるとするならば、それは生長という言葉であったと思う。生きるということと、長ずるということ。まさしくこれは、私自身の生涯をも意味していたのではないかと思う。生い茂り、そして長く繁栄していく。こうしたイメージが、生長というイメージの中にはあるであろうし、実は生長ということは、これは植物や人間のみを指すのではなくて、この大宇宙そのものが生長している、あるいは発展している、こういうふうに言うことができるであろう。
したがって、私は生長の家というのは、決して一宗教団体ではないと考えるのである。それは大宇宙そのものである。大宇宙そのものの中に、神はさまざまなものを養っておられるのである。星々や動植物、そうしたものを養っておられる。したがって、生長の家とは大宇宙のことである。まあこういうことを、生前私は、よく言っていたと思う。こうした考えは、私は非常に大事であろうと思います。
なぜかと言うと、結局その思想の中にどうした方向性があるかということが、それを信ずる人たちの未来を分ける、運命を分けるということになると思うからです。生長ということ、今様に言うならば、発展ということを基本理念として持っているならば、おそらくその思想を信奉している人たちは、輝かしい繁栄というものを体験していくであろう。生長ということを標榜(ひょうぼう)しておりながら、それで日々が停滞したり、堕落していくようではあっては、これは困る。
ここに、言葉の創化力の働く場面があるのである。生長、生長ということを毎日、毎日言っていることによって、なんだかすくすくと大きく育っていきそうだ、大きくなるしかないのである、まあこうした気持になってくる。よくなるしかないのである。こうした気持だ。特に子供というものをとって見た時に、良くなるしかない、伸びていくしかない、素晴らしくなるしかない、こうした言葉の創化力によって、どれほど子供が伸び伸びと生きていくか、そして素晴らしい大人になっていくかということを考える時に、これは、言葉を超えた力というものを私は発見するのです。
生長というこの二つの文字、これを知ったということ、これが生長の家の行動原理、また指導原理そのものになったし、生命の実相という言葉を悟ったということが私の悟りの核心になったように、生長という言葉に突きあたった時に、私は私の五十数年の伝道生活、すべてを貫く一つの行動指針を得たと思うのです。
したがって、言葉というものはどれほど大事であるか。特にその標語になる言葉、あるいはその本質を言い当てる言葉、その行動原理そのものを標榜(ひょうぼう)するような言葉というのは、とてもとても大事です。そのことを、特に言っておきたいと思います。
2.生長の条件
ものごとが発展していくためには、それだけの基盤がいる。地盤がいる。発展のための飛躍台がいる。こういうことが言われていると思います。生長ということにも、やはりそれなりの条件がいることは、これは否(いな)めないことであろうと私も考えるものです。
生長という言葉そのものは、元来植物の生長に合わせた言葉でありますが、植物が生長し、繁茂(はんも)していくためには、いくつかの条件がいります。まずなんらかの土壌、土がいります。次に水がいります。さらに太陽の熱、エネルギーというものがいるわけです。この三条件が必要です。もちろん水だけでも育たんわけではないけれども、それほど立派なものにはならんであろう。また土といっても、土そのものがいるわけではなくて、土の中に潜(ひそ)んでいる、隠されている、そうした養分、成分、こうしたものが本当は必要なのです。
したがって、これを人間に当てはめてみると、土壌に当たるのは何かと言うと、その人の家庭環境ということになるであろうと思う。どういう家庭であるか、ご両親の職業であるとか、家族の構造、構成、何人兄弟であるとか、また大きな家に生まれたり、小さな家に生まれたり、あるいは大金持ちに生まれた、貧乏人の家に生まれた、まあこうしたことが土の部分に当たる。養分の部分におそらく当たるであろうと思います。
では水の部分はいったい何か。水というのは、絶えずこれは供給し、吸収しなければいけないものです。この水に当たるものがいったい何かというと、これがおそらくは、私は毎日毎日の勤勉な努力だと思う。本人がどういうふうに、どういうふうな意志を持って日々努力しているか。これだね。これが大事だと思います。これが水の部分に近いでしょう。
そして太陽の光、これが必要です。この光とは何かと言うと、これは、私は愛であろうと思います。幼くしては両親の愛、親の愛、ともに育ってきた友だち、先生、こうしたものの愛、社会に出ては同僚たちの愛、上司の愛、こうしたものだ。こうした愛というもので育っていく。こういうところがあるのではないか。私はそういうふうに思います。
この愛という言葉を別の言葉で表現すれば、これは「愛語」ということでもあろうと思います。愛する言葉、愛(いと)しい言葉と、こういう語を書きますが、すなわちその人を良くしようとして発された言葉、発射された言葉、これが愛語だろう。
したがって、人間が生長していくためには良き家庭環境、本人の自助・努力、そして周りの人たちの愛、あるいは良き言葉、こうしたものが必要であろうと思います。私は、これが、良い人間が育っていくための基本条件だと思う。家庭が素晴らしいこと。本人が自助・努力する気持があること。そして素晴らしい言葉の雨が降っている。花びらを散らすような素晴らしい言葉が降り注いでいる。あるいは多くの人の具体的なさまざまな愛が、その子にかけられている。こうしたことだね。こうしたことが生長のための条件であるということを、知ってほしいと思います。
3.生長のための生活
さて、「生長のための生活」ということを、話をしていきたいと思います。さきほど家庭環境、本人の努力、他からの愛、あるいは素晴らしい言葉、こうしたものが生長の条件であると言いましたが、では生長のための生活というのはどうなのだろうか。もちろん基本的には、こうした条件、三条件を満たしているということは当然のことであろうと思いますが、生活というものを特に取り出して考えた場合に、そこになんらかの特筆すべきものがあるかどうか。これについて語っておきたいと思うのです。
私は、生長のための生活に大事なこととして、三点をあげておきたいと思います。
まず第一は、早起きです。朝早く起きるということ、これが大事であろうと思います。ある団体では早起き会というようなことをやっておりますが、宗数的信条として早起きをどうするかということは別として、人間としての生活というものを見た時に、やはりこれは太陽の周期と合わせた生活をするのがごくごく自然であり、大昔から人間はそうした生活に慣れていた。こういうことが言えると思います。
ところが文明が進むにつれて、夜型の生活が非常に流行(はや)ってきた。こうして人間の心が悩みの中の虜(とりこ)になったり、悩みに蝕(むしば)まれるようになってきた。私はそういうふうに思います。現代人のノイローゼの大部分の原因は、夜型生活にある。そう思うわけです。朝というものは人生の出発点であります。この出発点を疎(おろそ)かにした人の場合、それだけの収穫、実りがあるというふうには思えません。したがって、私は生長のための生活としては、まず早起きをするということが大事であろうと思います。
この私の霊示集も、実を言えば皆さんがまだ朝ごはんを食べるか、食べないかの頃、朝の七時頃から収録ということがなされています。私はやはり朝の澄みきった空気の中で、朝の静寂さの申で、こうした聖なる言葉を語りたいと思うのです。夜というものは波動も乱れております。一日の人間の活動によって空気も汚れ、そして想念波動が飛び交っていますが、朝というものは、そうしたものも静まって、清新な気持で満ち溢(あふ)れています。朝日が昇ってくるにつれて、夜のしじまが破られ、そして霊的な心よい振動というものが、どこからともなく伝わって来るようです。こうした朝の時間にいちばんよい仕事をするということが、生長のための生活の第一歩であると、私は深く深く信じるものであります。
生長のための生活の第二としまして、あるいは二番目として大事なことは、「継続」ということの意味、これをかみしめることだと私は思います。たいていの人間は行き当たりバッタリにものごとをやろうとします。ある時は山のような仕事を片づけて得意満面になったり、ある時はまったく仕事がなくてブラブラしたり、ある時はガムシャラに働いているかと思えば、ある時はまったく仕事もなく遊んでいる。こうしたことが多いように思います。
私は、生長の条件はこれであってはいかんと思います。草木であってもすくすくと伸びていくためには、毎日毎日、目に見えないぐらいの速度で伸びていくことが大事なのです。またいろんな植物の芽なども、夜私たちが寝ている間に、朝になったらムックリと頭をもたげているということがよくあります。
これは、山の中で松茸(まつたけ)を取りに行ってもそうですね。いつの間にか、松茸がムックリと頭をもたげていたり、あるいは竹やぶの中では、竹の子がいつの間にか頭をもたげてくる。また春の庭先ではふきのとうが頭をもたげてくる。こういうふうに、少しずつ少しずついろんなものが頭をもたげてくる。これらは実際、植物は植物というだけあって、動物のごとくは動きませんが、毎日の少し少しの生長が、やがて大きなものとなって、きます。
私は、生長していくための生活というのは、この植物的な生活だと思います。動物的にあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしているだけが本当ではない。やはり植物のようにけっして後退しない生き方、それが本当です。植物は、毎日毎日伸びていくだけですね。竹の子も少しずつ少しずつ地面から出てきて、やがて天を突くような竹になっていくのでしょう。違うかな、まあそうしたものです。私はむしろ、植物的な生き方の中に本当の生長の姿を見ます。すくすくすくすくと発展するしかない生き方、これが実際、人間の理想像のように思えるのです。
まあこのように言いました。一番目に朝の生活を大事にせよ。二番目に植物のような継続して向上していく努力を忘れるな。
そして三番目に私が言っておきたいことがあります。それはね、ひとつでも多くの愛を与えるような生活だね。これを大事にしてほしいなと思います。他の人のための愛になるような、愛の光になるような生活、これが大事ではないか。そういうふうに思います。
実際人間として生きてきて、いちばん立派なことは何かと言えば、どれだけ多くの人々を愛したかということだと思います。どれだけ多くの人々を愛したか。一日を終わった時に振り返ってみて、どれだけの人々を愛したかと言えば、なかなかそれが思い浮かばないで、人の悪口や、そうしたことばかりが脳裡(のうり)に浮かぶことが多いのではないかな。
したがって、生長のための生活の三番目としては多くの人々を喜ばせること。多くの人々を愛すること。多くの人々に気持よい人生を生きてもらうこと。そのために貢献すること。こうしたことだ。これを大事にしていただきたい。そのように思います。
4.神の子に発展はあるか
さて、生長ということについてさまざまに語ってまいりましたが、次に「神の子に発展はあるか」というテーマで、しばらく考えてみたいと思います。
私は、「人間は神の子である」という思想を明瞭に打ち出しています。「人間神の子である。本来神の子である。実相は完全である。円満である。」こうした話をしてまいりました。「もともとは完全無欠である」こういう考えですね。
ではひとつの考えとして、「もともと人間神の子であり、完全無欠であるならば、発展ということ自体が自己矛盾ではないのか」そうした考え方をする人もいるわけであります。「発展ということ自体が矛盾があるのではないか。完全なら発展はないのではないか。」そうした考えですね。「むしろ人間は罪の子であるからこそ、その罪をぬぐい去って、神の子になるべく努力発展してゆくのではないか」そうした考えを述べてくる人も、ままあることはあります。
ただ私は、このように思うのです。完全ということと発展ということは、決して相矛盾することではない。完全であり、かつ発展する。それこそが、実は神の本質ではないのか。このように考えるのです。完全無欠で、かつ発展する。
こうしたことは、なかなかこの地上のものごとの中では見出し難いものです。完全ということは、なんらかの完成された美を意味していることが多いと思います。それが発展するということは、まだ変化の余地があるということであり、変化の余地があるということは、まだまだ改良すべきところがあるということである。したがって完全ではないのだ。このように考えがちではないでしょうか。
たとえば完全な絵、あるいは完成された絵といえば、それに何も付け加えることは許されていないように思います。完成された絵といえば、それに絵の具を塗っては台なしになってしまいます。また完成された機械、これをどうこうすることもできません。
しかし私は思うのですが、神の世界というものは、実は念(おも)いの世界であり、念(ねん)のエネルギーの世界、想念のエネルギーの世界であるわけです。エネルギーの世界においては、完全とは必ずしも静止した状態のことをいうのではないということです。完成されているということは、必ずしも留まっているということを意味しないということです。これは非常に大事なことである。そのように私は感じます。
すなわち、完全なエネルギーとはいったい皆さん何でしょうか。完成されたエネルギーとはいったい何でしょうか。完成されたエネルギーということは、結局のところ、静止した状態、これにおいて完全なエネルギーというのはないということです。車のタンクいっぱいのガソリンということでもって、完全とか、完成というふうには言いません。ガスにしてもそうです。どれだけ詰め込んでも、完全とか完成という言葉は当たりません。電気エネルギーにしてもそうです。どれほど大きなダムで電気を蓄えたとしても、発電したとしても、それは完全とか、完成ということとはほど遠いように思います。
なぜそうなのでしょうか。どんな大きなダムを造って、そこから電力を供給できるとしても、なぜそれが完成された姿とは言わないのでしょうか。それは、たとえばどんな大きなダムであっても、国民全体の生活に必要な電気を供給するだけの量がないということです。これでもって完全ではない。完成されてはいないというふうに、私たちは見るのではないでしょうか。
こう考えてみると、エネルギーという観点からの完成、完全というのは、実は無限の供給があるということ、また無限のほとばしりがあるということ、無限の放出があるということ、こうしたことを、意味するのではないでしょうか。
電気で言えば、いくら使っても使っても減らないで次々次々と供給される電気、あるいは電力、こうしたものが完全であり、完成されたものなのではないでしょうか。そういうふうに思います。すなわち一つのダムで、そのダムによってできる発電量、これが限定されていないで無限の発電量が許されている。可能である。こうしたことです。ここにおいて完成ということがない。限定ということはない。このように言えると思います。
したがって、無限に供給できる電気エネルギーというのは、これはいったい何かというと、無限の使用に耐えるわけです。無限の使用に耐えるということは、どういうことかと言うと、無限の便利さを供給しているということ。すべての家庭で使っても使っても、尽きることがない電気エネルギーですから、これは無限の供給です。まさしくその通りです。
このようにエネルギーという面から見てみましたが、神の子というものも、やはり神のエネルギーの分かれてきたものです。さすればそこに無限の供給の姿があるのです。したがって、エネルギーが完成、完全であるということと同じ意味で使うとするならば、神の子は発展そのものの中に完成を見ると言えるのではないか。私はそのように考えるのです。
発展するからこそ留まることなく生長し、発展するからこそ神の子である。なぜなら神は無限のエネルギーであるということ。無尽蔵のエネルギーであるからこそ、神の子は発展するしかない。生長するしかないのである。このように考えるわけです。この考えは、非常に大切であろうと私は思います。
5.日々の工夫
さて、生長のための生活とか、神の子の発展という話をしてまいりましたが、もっと具体的で卑近な例をあげて、皆さんの覚醒(かくせい)を促(うなが)したいと思うのです。それは、「日々の工夫の大切さ」ということです。
工夫というものは、皆さんはおそらく小学校時代の図画や、あるいは図工と言いますかね、図画、工作でしょうか、そうしたことだけにあったとお思いかもしれませんが、実は必ずしもそうではない。工夫と言うことは、大工仕事だけを言うのではなくて、毎日毎日の中にあるのです。そして発明、発見ということも、決してそれは特許のためだけにあるのではなくて、日々の生活の中に発明、発見はあるのです。
主婦であっても、毎日の生活の中で、どれだけ発見をしていくか、どれだけ発明をしていくかということが、大いなる繁栄というものをもたらすことになるのです。毎日毎日、どうしたらより栄養のバランスがとれて、そして健康になるような食事、見た目も美しく、舌ざわりもよい、こうしたものがないかと、いつも勉強している主婦であれば、五年、十年、二十年経てば、見事な料理を作れるようになっていきます。
そうすると、奥さんの料理が大変上手であるので旦那さんもそれを喜びますし、お子さんも「うちのママは大変料理が上手だ」こうしたことを誇りに思います。ですから娘さんがいた場合には、お母さんを見習って、またよいお嫁さんになっていくわけですね。こうした料理ひとつということを取っても、無限の可能性が開けていきます。
また、奥さんの料理が上手だと、旦那さんは家に帰ってくる回数が多くなります。また帰る時間も早くなる。こうして家庭は円満、団らんができてくるようになっていきます。また料理が上手だと、日曜日に会社の部下などを自宅に呼んだりすることができるようになってきます。「うちの家内の手料理でも食べてみないか」ということで、会社の部下や若手社員などを家に呼んで、ご馳走をすることになります。
そうすると、今度は若手の人たち、部下たちは非常に喜びます。「部長さんは、いい奥さんを持っておられる。私たちも一日、部長邸で夕食をご馳走になった」、こうしたことになると、その部長の評判がぐっと上がってきますね。そして受けがよくなってくる。親しみが湧いてくるわけですね。
こうして会社の中での仕事もスムーズにいく。そうすると、ご主人は周りの人たちの受けがよいものだから仕事に熱が入る。そしてますます仕事ができるようになる。とんとん拍子に出世していく。出世することによって、また収入が増えてくる。収入が増えてくることによって、家庭が、生活が安定してくる。そして奥さんは、自由に使える範囲がまた広がっていく。また、家の中もこざっぱりしたものをますます使えるようになるし、料理の材料にもこと欠かない。子供たちの学費にもこと欠かない。
このように幸福ということが、繁栄ということが次々と自己展開していくわけです。原点は何かと言えば、奥さんが料理の工夫を怠らなかったという、ただその一事、それだけのことです。これだけでもって、すべてが発展、繁栄していくのです。
世の中では、もちろん料理だけを言うのはおかしいかもしれない。奥様で言うならば掃除や洗濯もそうでしょう。後片づけでもそうでしょう。いつもきちんとした部屋の片づけができる奥様であるならば、旦那様はいつも気持よく生活ができますし、仕事から疲れて帰ってきた時も、家が片づいているということは大変嬉しいことです。またやる気が出てきます。しかし、家に帰って来て部屋の中が乱雑になっていると、非常に不潔な感じを受け、そして活力がよみがえってこない。まあこういうことがあるわけですね。
すべてのものは循環しており、工夫ということをきっかけとして、よい循環、善循環とも言いますが、これが起きてくるのであります。
まあ旦那様もそうですね、家庭の中での工夫、また特に男性の場合は仕事の中での工夫が大事です。毎日毎日、ひとつの工夫を発見していこうとする人にとっては、社長になるのも夢ではないと思います。毎日毎日工夫するのであれば、一年で何百もの工夫があります。十年では何千もの工夫があります。こうした工夫をしている人を、人が放っておくわけがないのです。出世するしかない。こういうふうになってくるわけです。
したがって、生長し、発展していくためには日々の工夫ということが、これが大変大事であります。日々の工夫、これが結局、偉人をつくっていく道でもあるということなのです。
6.自己実現の構図
日々の工夫という話をいたしましたが、さらにこれは、「自己実現」への話となっていかねばいけないと私は思います。
すなわち、日々なぜ工夫をするかと言えば、結局は自己実現であります。自己を実現していく。自己実現というものは、自分という与えられた素材、与えられた肉体、与えられた性格、与えられた頭脳、こうしたものを元手(もとで)として、どれだけ理想的な生活を展開するか、また仕事をするか、未来を築くか、こうしたことを言っているわけです。
ですから自己実現をしていくためには、今言ったような日々の工夫ということが、まず前提となるということを私は言っておきました。これをする人は、やはり大きな自己実現につながっていくのではないか。このように言えると思います。
ただ、日々の工夫をするということだけでもっては、これはまだ宗教の世界までは来ていない。したがって、この自己実現の構図というものを、私は宗教の観点からもうひとつ考えてみたいと思います。
こうしてみると、結局、自己実現ができるかどうかということは、他の人との調和の中において、そうした実現が許容されるかどうかに関係するわけです。
人生というのは、碁盤の目の上に置かれた白石、黒石のようなところがあります。自分一人はひとつの白石であり、黒石であるわけです。あるいは将棋盤の上の将棋のコマですね。こうしたものなのです。皆さんは歩(ふ)であるかもしれない。あるいは桂馬(けいま)であるかもしれない。銀であるかも、金であるかも、あるいは王様であるかもしれない。しかし大事なことは、自分の陣地から前にコマを進めるに当たって、それをどう進めることが、いちばんそのコマが活(い)きるか、そして自分の戦さにおいて勝利となるかという観点だと思います。
この二つの点が大事です。まずそのコマがどうしたら活きるかという観点ですね。「桂馬の高飛び歩(ふ)の餌食(えじき)」と言いますが、桂馬が高飛びをして行く先がなくなって、歩に食べられるということもよくありますが、そうしたコマをどう活かすかという観点が大事です。それからもうひとつは、そのコマを活かすことによって、どのようにして全体の戦局を勝利に導くか。こうした考えです。これがやはり、自己実現と私は関係すると思うのです。
結局、コマ――自分というコマですね、これは会社の中にいたり、自営業をやっていたり、自由業をやっていたり、いろいろでしょうが、そのコマがどうしたらいちばん活きるかという観点と、そのコマをどう使うことによって、社会全体、人類全体が発展していくのかという観点、この両者が必要だということです。そういうことなのです。
すなわち、あるコマが敵陣に攻め入って、向こうのコマを一つ取ったけれども、その結果、自分のそのコマも取られてしまった。ところがそのコマは後で実は役に立つコマであった。もっと大事にすべきであった。こうしたことはいくらでもあるのです。目先のそのコマの動き、あるいは機能ということに目を奪われて、先のことを見失った。戦局を見失ったと、こういうことがよくあるわけであります。
このように、将棋のコマの話でいたしましたが、こうしたふうにコマとしての活き方、全体としての役割、この両者を知って自己実現というものはなされていくのだという、そうした観点を忘れないでほしいと思います。
7.霊的無限供給
さて、この自己実現の時に、大切な考えがあります。それは、人間、日々の工夫を怠ってはならんと申しましたが、ここに霊的なる無限供給の世界が展開しているということです。あの世の世界には、いわゆるお人好しの善霊がいくらでもいるのです。まあ谷ロ雅春もお大好しの善霊の一人かもしれん。地上に降りてきては朝いちばんから、こうした発展の構図とかいう霊示を送っているのだから、まあこれ以上お人好しの霊もおらんかもしれぬが、このように、天上界において地上の人を指導しようとして、いつも努力している、そうしたお人好しの霊はいくらでもおります。
こうしてみると、霊的無限供給を受けるということが、実はおおいなる成功の秘訣ではないのか。こうした観点があり得るわけであります。
この霊的無限供給とは、いったいなんでしょうか。それは、ひとつには本人の守護霊というものの力です。これをあげることができましょう。守護霊というのは、本人自身の魂に非常に縁のある魂です。すなわち、個性ある魂でありますが、本人自身の魂と非常に密接な関係があるのです。それを守護霊と言っています。役割があって、その人が地上において肉体生活を送る間、よく守る、いろんなインスピレーションを与える、その者をできれば悪の誘惑から守る。こうぃうことをしている守護霊というのがいます。
ただ、人生にはさまざまな苦難、困難があって、その守護霊の力が弱いと乗りきっていけない。守護霊が守りたいと思っても、本人の自由意志で急速にハンドルをきって、そして事故を起こしてしまうような人もいます。まあ守護霊というのは、そうした車で言えば添乗員(てんじょういん)みたいな者ですね。ハンドルを右にきりなさい。左にきりなさいということを暗に言うのだけれども、自らハンドルをとって運転するわけではない。したがって、あんまり運転がヘタな場合は、添乗員が震えあがるようなそうした車の運転もないわけではない。
こうした本人自身の魂に縁のある守護霊と、もうひとつは、本人とは直接関係がないけれども、その仕事に縁のある魂というのが出てくることがある。これが指導霊と言われる者です。その人が、たとえば世界的な音楽家になっていけばなっていくほど、立派な音楽家の指導霊がついていくということがあります。また作家などでも名前が売れてき始めると、だんだん、だんだん有力な過去の小説家、大作家のような者が指導をし始めるようになってきます。こうしたものです。
本人の工夫があればあるほど、その器に合わせた霊が指導していく。それも単数ではなくて、複数の霊たちが指導していくようになっていきます。宗教家などでもそうです。心清く、正しく生きている宗教家には、そうした霊的無限供給が与えられ、多くの指導霊団によって、その人への教えが支えられるということになってきます。これはひとつの発展ではないか。ひとつの生長の極限ではないか。そういうふうにも思えるわけです。
したがって、霊的無限供給を知らない自己実現ということは、本当の意味での自己実現にはなっていない。私はそう思います。こうした多くの霊たちを、どのようにして自分の味方に引き入れるか、これが大事です。谷口雅春も霊言を送りたいと思っても、今、私の霊言を受けられる人が一人しかいない。まあ他にも送れるものなら送ってみたいが、送れないでいる。こうしたこともありますが、こうした霊的無限供給を受けらんるだけの器づくりという努力、これが非常に大事だと私は思うのです。
8.発展の構図
さて、本章を締めくくるにあたって、「発展の構図」という話をしておきたいと思います。
生長の家を称して、まあなんかのご利益宗教のように言った方もいます。それは生長の家では、「良くなるしかないのである」ということをよく言うものだから、これはまやかしであるとか、金儲け宗教であるとか、まあいろんなことを言われたことがあります。特に無限供給も金銭の無限供給というふうにとられて、金儲け宗教であるとか、人集め宗教、病気治し宗教、まあこういうふうにいろいろ言われたこともあります。
ただ、私は皆さんにも、言っておきたいのだけれども、やはり、神の心はどこにあるか、神のお心はどこにあるかと言えば、人間が現状のままでよいとか、堕落してよいとか思うはずはないということです。神は親のようなものです。親であるならば、やはり自分の息子や娘たちがたくましく育っていくことを、願っているのではないか。たくましく生長していくことを、願っているのではないか。
こうしてみると、やはり神の心の中には、無限への発展というテーマがあると私は思います。それが、さまざまなこの世的な成功にもつながってゆくのだろうと思います。
もちろん釈迦の教えの中では、「執着をすべて捨てよ。欲望を捨てよ」という教えがありました。欲望が苦しみの原因であるという教えがありました。確かにそれもそうです。けれども、また別の観点もあることは事実です。悟りを開き、霊的に高い人、そういう人が、やはり要職をしめることによって、たとえば政府の要職をしめたり、あるいはいろんな大会社のそうした重役などをすることによって、世の中が良くなっていくということも事実なわけです。
一万人の会社があって、そこの社長は無神論者で唯物論者であるけれども、平社員で一生を終った人が非常に信仰深い方であった。こうしたことであるよりは、その一万人の会社の社長さんが非常に信仰深い方で、その社長の信仰深さにひかれて、多くの人が啓発を受けて信仰心を持っていく。こちらの方が、はるかに神様のお心にはかなっているのではないか。私はそうしたふうに受け止めるのです。
こうしてみると、やはり発展の構図としては、すなわち、こうした心清く、霊的に生きている人が、世間に影響力を持つようになっていく、そうした影響力でもって、風下(かざしも)にある、川下(かわしも)にある多くの人々を導いていく。こうしたことが大事ではないか。そういうふうに私は思う。
神や仏を論ずることが知識人の対極になるような、そういうふうに思われる風潮、こうしたものを一日も早く払拭(ふっしょく)し、信仰深く神の心を自分の心として生きているような人が、数多く指導者になっていくこと。そして多くの人々を導いていける。こうした世界をつくりたいものだと思います。こうした発展の構図が、実は神の子づくりのための大切な布石であると思います。
どうか、真理を学んでいる人がこの世的にも立派になっていくように。偉くなっていくように。そして多くの影響力を持てますように。それを祈って、本章を閉じるとしよう。