目次
2.使命の自覚
4.悟りの道程
9.心の原点回帰
10.中道からの発展
11.自己チェックと中道
13.愛の行為と真心
14.人生に光彩を放つ瞬間
16.夢は時間と空間を拡大する
17.勇気の原点
18.努力するという名の幸福
19.新しき世紀へ向かって
1.もう一人の自分に気づく
悟りの話をいろいろとしてまいりましたが、いちばんだいじなことは、まず目を開くということです。世の中にはあまりにも、目の開けていない方が多すぎるのです。その目を開くことによって、まず第一歩がはじまると言ってよいと思います。
では、目を開くということは、いったいどのようなことでしょうか。それは、もう一人の自分に気がつくということであります。すなわち私たちは、どうしてもこの目で見える肉体がイコール自分であると思っているのですが、実際はそうではなく、この肉体舟を支配しているもう一人の自分がいるということに気づくことが、まず出発点であるということなのです。これに気がつかずに一生を終わってしまう方が、いったいどれほどいるかと思うと私は残念でなりません。
幸いに気づくことができた人のなかにも、もっと早い時点で、もう一人の自分に気づいていたならば、その人の人生はおそらく変わっていたということもあるでしょう。みなさん方のなかにも神理に出会われてからと、出会う前とでは考え方がガラリと変わってしまったという人は数多くいらっしゃることと思います。私自身もまったく変わってしまった一人です。
もう一人の自分を知るということは、けっきょく、新たな視点を得るということと同じです。自分自身をみつめ、自分の人生を考える意味で新たな視点を得るということです。その新たな視点とは何かといえば、それを言い換えれば「霊的人生観」ということだと思うのです。
この「霊的人生観」の観点から自分をみつめたときに、まったく違った自己像というものが浮かんでくるのです。それまでみなさんは、少なくても肉体の我という視点で、ご自分をみつめて、あくせくしたり、悩んだり、苦しんだりされていたと思いますが、霊的自分、もう一人の自分と出会ったときに、その世界観はおそらく違ったものになるであろうと思います。
2.使命の自覚
私自身、前にも語りましたように、霊的世界があることを気持ちの上では一〇〇パーセント、実感としても九九パーセント信じていたわけであります。しかし、実際にそのような世界が、厳然としてあるということを知ったときには、やはり、これは容易なことではないという感じを受けました。
笑い話かなにかのようにいわれていた地獄や悪霊や悪魔という存在が、これはやはり現実のものであり、自分とかけ離れたところにあるものではないということです。そして、この地上に生きているみなさんが、もしかすれば、今後かれらのような運命をたどるかもしれないということに気づいたときに、私は、これは大変なことになったと思いました。
この事実を知っている自分はどうしなければならないのか。だれもが、この地上の人生だけを通ごせればよいと思っているけれども、その行く先がどのようになっているのか、それを知った人間として、自分がどうしなければならないのかを考えたときに、ひじょうに重い使命感を感じたのを覚えています。
それはちょうど、列車事故が起こりそうなことに気づいてそれを避けようとしている人のたとえにも似ているであろうと思います。少し先に行ったところで落石事故があって、線路の上に大きな石が落ちている、あるいは、レールがはずれている。このような危機を発見したときに、そばには赤旗もなければ、何もない。しかし向こうからやって来る列車をなんとか止めないと、これは大惨事になる。このような状況で、必死に手を振っている人の姿にひじょうに似ているように思います。
ところが、大部分のみなさんは、この列車の乗客のごとく、客車のなかではまったく安心しきっているわけなのです。そして談笑し、新聞を読んだり本を読んだりして過ごしているのです。目的地に間違いなく着くものだと信じています。ところが、その少し先に落石があって、線路がふさがれている。このときにどうやってそれを教えるのか。そして、そのことを知っている者が、自分以外にだれもいないとすれば、はたしてどうするのであろうか。大変な状況です。まさしくこのような感じにも似ているといえましょう。
もし、人生の早い時点でこの霊的人生観というものを持っており、そしてそれに基づいていかに人生を見、生きてゆけばよいのかということを悟っていたとするならば、大部分の方は将来ぶつかるであろう事故から身を守ることができ、大惨事といったような未来図はなくてすむのです。しかし、あにはからんや安閑としているうちにそのような道をたどっていくことになるわけです。そして、この事実に気がついたときに、じっとしていられないのは私だけではなく、おそらく読者のみなさんもそうであろうと思います。冗談や、あるいは創作でこのようなものを書いているわけではありません。これは真実、そうであるから、そうだと私は書いているにすぎないのです。
3.悟りとは「これが私だ。」と言いきれること
さてそこで、そのようにもう一人の自分に気づくこと、そこから、やがて悟りというものが近づいてくるわけです。私は、ほんとうの自分に出会うということを、『太陽の法』で次のように説明しております。
「自分で自分の心を探究しないで、いったいだれがこの真実を教えてくれるというのでしょうか。あなた自身が、あなたの真実の姿を語れずして、いったいだれがそれを語ってくれるのでしょうか。『悟り』とはほんとうの自分自身に出会うことです。ほんとうの自分の真実なる心を自分自身で語れることです。これが『私だ。』と言いきれることなのです。」これは、私なりの悟りを語ってみたものです。もちろん、悟りの定義にはいろいろあるでしょう。いろいろなアプローチ、切りロがあり、いろいろな説明ができるのは言うまでもありません。いろいろな説明ができますが、それなりに悟りというものをつかんでしまう必要があるのです。それをわかりやすく言ってみたものです。悟りとは、ほんとうの自分自身に出会うこと。そしてほんとうの自分自身の真実なる心を自分自身で語れること。つまり、「これが私だ。」と言いきれることである、と定義したわけなのです。
禅のなかでも、「悟り」とはなにか、ということは大きな問題であるのでしょうが、基本的に禅宗などで求められている悟りというものも実はこういったことであろうと私は思います。「これが私だ。これがほんとうの私だ。」と言いきれること。このあたりと禅宗などで言っている悟りとは、ほぼ同義であると言っても過言ではないでしょう。もちろん、それがすべてではありません。しかし、出発点なのであります。
みなさん自身、自分をふり返ってこれがほんとうの自分だと語れますか。ほかの人に対して、私はこういう人間です、これがほんとうの私です、真実の私の姿ですということを語れますか。すなわち、言葉を換えるとするならば、神の子としての自分を見出すことができたか、自分の内なる仏性をつかむことができたかどうか、ということなのです。これがだいじなわけです。
4.悟りの道程
また、悟りの道程としては、「自らを知るとは、自らが神の子であることを知ることです。神の御心(みこころ)を知るということなのです。そして、目をひらくとは自らの霊性に気づき、四次元以降の実在界の存在に対して心をひらくということなのです。」(『太陽の法』)と説明しています。したがって真実、目を開きたいならば、まず自らの心の探究をすることから始めるべきであり、神の国への手がかりは、そこにあるということなのです。
自らが神の子であることにまず気づくこと。では気づくためにはどうするか。それは、まず自らの霊性に気づくこと、霊的存在であることに気づくこと。そして、四次元以降の実在界の存在に対して心を開くことです。自らの内に宿る霊的なるものを知り、さらに四次元以降の世界の探究に進むわけです。ここへ進まなければなりません。
私たちが、いろいろなかたちで勉強しているものもやはり、このような手順を踏んでいるわけです。各人の心、この正しき心を探究していって、そして心の探究からやがて、目は四次元以降の世界に開かれていく、真実の世界への旅立ちとなっていくのです。ほんとうの世界を知りたいという思いです。そして、その思いは、おのずからそれを成就し、達成することを要請するものです。
5.自らを捨てるということ
ここで私は、「自らを知るためには、自らを捨てることです。」と提唱してみたいと思います。この「捨てる」ということは、いったい何かということですが、本物の自分を知るためには、偽物の自分を捨てなければならないということです。つまり、偽物の自分に気づくことが、偽物の自分を捨てる第一歩となります。
後生だいじに、これが自分であると、あるいはこれがいちばん大切なものであると思って握っているもの、これは各人各様にあるのです。これこそが自分であり、これが失われたならば、自分は大変なことになってしまう、と思っているものが実はたくさんあるのです。
ところが、それはたいていの場合、その人の人間性にとって、ほんとうは本質的でないことが、往々にしてあるのです。たとえば会社の社長さんであれば、その人にとっては社長であることがすなわち自分であり、これを捨てては自分の自己実現の場はない、自分にはもうこれしかないと思っていて、その地位を握りしめているけれども、ほんとうはそれを取り去ったときに、その人自身が出てくるということがあるのです。残念ながら人生はそうしたものなのです。それを握っているうちには、なかなか出てこないのです。捨てたときにはじめて現われてくるのです。これは、地位だけでなく金銭に対する考え方でもそうです。また、成功に対する考え方においてもそうです。
私自身もこの道に入るときは、いっさいを捨ててしまったのです。もうどうなってもよい、ということで自分を捨てたわけでありますが、その結果やはり、捨てれば逆に与えられるということを経験いたしました。不思議なことです。仲間を捨てれば仲間が与えられるのです。
「いままでの人間関係も、もう全部捨てよう。この道に入るために邪魔になるならすべてを捨て、清算する、今までのつきあいもいらない、お金もいらない、もう何もいらない。それでもかまわない。ただ、もうやるしかない。」ということでいっさいを捨て去ったときに、その結果、逆に仲間は増えてきたわけです。
ご存じのように、いま駆けつけてくださる人がどんどん増えてきて、ますます発展しています。不思議なくらいです。なぜこのようになるのか、私もよくわかりませんが、どんどん発展していきます。他の会社と違って資本金ゼロではじまって、儲けようという気などもさっぱり起きなかったのですが、どんどん人が増えてきて、ますます事業が大きくなり、客観的に成功していくのですから、まことに不思議です。特にそのようにしなければならないとは思っていないけれどもそうなるのです。捨てれば与えられるというのはほんとうのことなのです。また、人間関係においてもそうです。捨てたら与えられるのです。
6.執着を捨てる想念のトレーニング
お金などでも、儲けよう儲けようと思っている人がいると思いますが、あまり思っているとかえって儲からないということもあるのです。それはなぜかといいますと、執着の強い人は、まわりの人からみていると、いかにも金儲けをしようと必死にやっているな、という感じが漂ってきてだんだんいやになってくるのです。そして、その人の商売に協力したくなくなってくるということがあります。
なにか知らないけれども、この人から買うよりは、よそで買ったほうがいいとか、この人に売るよりは、安くてもいいからよそに売ってやろうとか、そのような感じにだんだんなってくるのです。こういった波動というものは微妙に出てくるのです。別に、ルンペンになることを勧めているわけではありませんが、どこかで一度思いきって捨ててみるという気侍ちも必要であると思います。少なくとも精神的に捨ててみるのはだいじなことです。
実際に貯金通帳をゴミ箱に捨てる必要もありませんし、家を捨てる必要もありませんが、精神的に自分が後生だいじに思っているもの、これを取り去ればどうなるかというところを、一度真剣に考えてみる必要があるのです。これは一つの賭と言えるかもしれませんが、意外に精神的に楽になるかもしれません。自分が、これだけは、とつかんでいるものが、意外に自分を苦しめている元凶であるのかもしれません。そういうことが、大いにありうるものなのです。
それはまことに不思議な感じなのです。会社の新入社員であれば、自分はこんな小さな会社のなかで一生通ごすなんてとんでもないこと、ほんの自己実現の足がかりの舞台ぐらいでしかない、と思っているわけです。そしていずれは世界を股にかけて大きな仕事を、などと普通思っているのですが、入って何年かたっていくうちに、給料の百円か二百円の差が気にかかってくるのです。
またボーナスともなれば同期と比べて十円、二十円の差が気にかかってくるというように、だんだん小さな自分になっていきます。いつかしらず、そういうようになっていくのです。そして、そこから逃れがたい自分というものを発見していくのです。
それをいっぺん全部とりはらってみれば、意外に大きな自分が出てくるのです。小さなもののなかに、ほんとうは押しこめているのです。アラジンの魔法のランプのように出てくれば巨人となるのだけれども、ランプのなかに入ってしまって、普段は小さくなっているのです。ほんとうはもっと大きなものであるはずが、小さくなっています。その自分を小さくしているもの、この偽物の自分を捨てるということを考えてみる必要があるのです。
いま自己実現のブームということもありますが、これとは逆に、「これこそが自分のすべてだ。」と思っているものをいったん捨ててみればどうなるか、この想念のトレーニングをやっていただきたいのです。
たとえば、主婦の方であれば、子供が自分の生きがいという方がたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。実際に、子供を捨てたりすれば問題はありますが、子供という生きがいを取られても、はたして、生きていくに足る自分であるのか、生きるに足る人生であるのか、こう考えたときに、はたと気づくことがあると思うのです。
この子こそは、この子だけはと思って、目のなかに入れても痛くないような感じを抱いている人もいるけれども、これを取ったときにどうなるのか。このこととは、いったんどこかで対決しなくてはいけないことなのです。
もし、真に捨てることに成功したならばそのときにはじめて自分というものがどれほど重いという感じで日々を生きていたのかがわかります。実際、肩やからだが重いのです。それはいろいろな精神的な執着を持っているからなのです。確かにこれは精神的なものから来ているのですけれども、ほんとうに重たいのです。
ですから、これを取り去ったときにどうなるかといえば、ほんとうに体が軽くなるわけです。その感じをたぶん得られると思います。人の心にはいつかしら、これがあって当然だというような執着がミノ虫の殼のようにたくさんついているのです。冬は寒いからこのようなミノ虫の殼のようなものがないと生きていけないと思って、葉っぱをまわりにいっぱいつけているのです。そして、これこそが自分であると一生懸命に思っている姿なのです。
7.偽物の自分との対決
①他人から愛を奪い取る自分
それでは、この自分を小さくする偽物の自分というものを、いくつかあげてみましょう。まず「他人から愛を奪い取る自分」というものがあります。これにあたる人はかなり多いのではないでしょうか。よく考えてみてください。このようなことは、教えられなくては意外にわからないのです。
「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物の自分といわれて、びっくりされないでしょうか。これこそが人生の目的だと思っていたのではないでしょうか。これがために生きていたのだと思ってはいませんか。一般の人はこのようなことをいわれると、びっくりするのが普通です。「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物と言われればいったい本物はどこにいるのだろうかと心配してしまいます。
「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物の自分といわれて、びっくりされないでしょうか。これこそが人生の目的だと思っていたのではないでしょうか。これがために生きていたのだと思ってはいませんか。一般の人はこのようなことをいわれると、びっくりするのが普通です。「他人から愛を奪い取る自分」、これを偽物と言われればいったい本物はどこにいるのだろうかと心配してしまいます。
より多くの愛を奪い取れる自分、これが欲しくていい学校も行くし、いい会社にも行くし、いい奥さんももらいたいし、いい子供も欲しいし、いろいろありますが、けっきょく、愛を奪いたいから、もっと愛が欲しいからこのようになっているのだと思うのです。
しかし、ここで待てよと思ってみると、意外な発見があるのです。それは私たちが生きている真の世界の発見であります。私たちは実際どのような世界に生きているのだろうかというと、第3章の「すずめと太郎」の話の章(『太陽のメッセージ』、『太陽の法』第3章)で説明いたしましたが、実は与えられっぱなしの世界のなかで私たちは生きているのです。
考えてみれば私たちは実にいろいろなものを与えられています。まことに不思議な感を覚えるかもしれませんが、すべて与えられているのです。よくよく考えてみれば、いちばん大切なものは、すでにただで与えられているのです。
ただで与えられないものは、それは人間がせかせかとしてつくったものであり、売り買いしているものなのです。ところがいちばん本質的な部分、水とか、空気とか、太陽の熱とか、このようなものは全部ただなのです。これは不思議です。与えられているのです。そうしたものがあればこそ、動・植物も存在し、人間も基本的には生きていけるようになっているのです。そんなに贅沢(ぜいたく)さえ言わなければ、ほんとうは死にはしないのです。
ところが人間は、そういうなかで自分たちでいろいろな価値観を築き、文化をつくって枠をはめ、そのなかでルールをきめて、こうでなければ生きていけないというものをたくさんこしらえてきているのです。もう一度これを原点に戻してみる必要があるのではないでしょうか。
このような与えきり、すべて与えられている世界にいながら、いったい何を欲しがっているのでしょうか。それでもまだ、もっともっと欲しいと言っているのが人間なのです。お金持ちであっても、まだまだお金が欲しいと言っているのです。感覚が麻卑(まひ)してくるのでしょうか。そしてますます自分の肩書きや地位がついてくると、だんだんと、もらうことのほうが当然だと思いがちになってきて、次第しだいにそれが、まったく当然のことと思うようになってくるのです。
昔から、地位・名誉をいけないものの代表のように、言いましたが、これは地位・名誉そのものが悪いわけではなくて、高いところに登ってしまうと与えられているということがわからなくなるということが、その理由となっているわけです。実際、大名仕事をやっている人などをみると、自分がどれだけ与えられているか、感謝が足らないかということが、わからなくなっているケースが多いのです。それで、よく地位や名誉が否定されることになるわけです。
しかし、高い地位についている方が悟っていれば、それだけ大きな影響力があるわけでありますから、ほんとうはそれ自体は悪いことではないのです。ところが、だいたい人は高く登れば登るほど、与えられていればいるほど、不思議なことに、もっともっと奪いたくなり、そこに「足ることを知らない心」が生まれてくるのです。しかも、本人はそれが地獄的な心であることにすら気づかずに自らの人生を終わっていくのです。ここに悲劇が生まれるのです。
②神を信じない自分
偽物の自分としての二番目には、「神を信じない自分」というものがあります。もっとも憐れむべきなのは神を信じず、神が創られた世界を信じていない人たちです。そして人間とは男女の性的結合の結果、偶然に生まれて、一人一人がばらばらの個人として生きているのだと思っている人たちなのです。ここに最も憐れむべき偽物の自分があるのです。「証明のできない神など信じられない。信じろというならば、証拠を出せ。」という人はもうすでに神を裁いていて、神を裁けるほど自分が偉いと思い上がっているのです。
人間は地球の誕生以前からいらっしゃる神の存在を証明することはできません。できるとするならばそれは、やはり二つの思い上がりにすぎないのです。悠久の昔からある神の存在、この地球の歴史そのものでも四五億年以上もあるのです。私たちの人生はわずか七、八十年です。この一億倍に近い時間のなかを、この地球は生きていて、そのなかでいろいろな生命を育んできているのです。この地球を四五億年間生かしてきた神の御心が、私たちに、はたしてわかるのか、と考えたときに、これをわかると断定するのは、かなり傲慢な考えであると言えるでしょう。
ですから、人間というものは次第に地位が上がって、そして自分が得意になってくると、自分が認めたくないもの、自分が納得のいかないもの、証明できないもの、このようなものは値打ちがない、意味がないと思いがちなのです。偉い人ほどそうなっていきます。私が見ていると、偽物の自分というものが仮面のようになっていて、それがガチガチにくっついていてもう取れないのです。自分の立場、たとえば大臣だから、博士だから、あるいは会社の社長、重役だからという仮面を通してしか判断できなくなってしまい、自分はこういう考えをする、判断するということを変えることができないようになってくるのです。これは、ひじょうに恐ろしいことなのです。
③精進しない自分
偽物の自分の三番目は、「精進をしない自分」です。これはほとんどの方が思いあたるのではないでしょうか。これを、さらに細かく分けるとすれば、第一は怠け心がある自分。第二に神理を学ぼうとしない自分。第三は他人を公平にみない自分。第四に素直でない自分。このようなものがあげられます。ここまで言われて、あたっていないという人はめずらしいのではないでしょうか。
怠け心、これはだれにでも、みなあります。私にも、まったくないとは言えないので、あるものはあると言わざるをえません。ですから、これは出ざるをえないものなので、そのつど点検をするしかないわけです。怠け心が出て、いけないと思えばそこで頑張ることです。時どき自分に対して意識的に引き締めをしないとだめです。そうしないと、いつの間にかだらだらとした人生になっていきます。
生活にいろいろな刺激と張り合いがなくなってきて、惰性で生きてゆくようになってしまうので、このようなときには、もう一回締め直しが必要です。その締め直しとは何かといいますと、やはり自分なりに目標をつくってみることです。あまり、先の長いことではなくてもよいのですから、少なくとも、三か月、六か月、一年くらい先の目標を一回立ててみることです。自分の生活が惰性になってきて、怠けてきたなと思ったときに、それなりの目標を立ててみること、これが大切です。
私もこの、人間が怠ける習慣があることを自己観察によって、よく知っているので、なるべくみなさんにはいろいろな目標を設けていただけるようにしているのです。それでいろいろな課題を与えたり、目標を与えたりしているわけです。人間は甘いもので、そうしていないとどうしても怠けていくのです。
二番目は「神理を学ぼうとしない自分」、これも同じような意味がありますが、学ぶというだけであっても、全然違うことを学んでいる人はたくさんいるからなのです。私はそれを見るにつけ、ひじょうに気の毒になることが多いのです。知識の世界においても、第一巻のほうでも少し触れましたが、学者の論文などを見ていますと、方法論だけに終始しているものが多いのです。たいへん残念です。いろいろな資料から断片を引っ張ってきて、注を付けることに生きがいを感じている人もいるのです。注をつけて、何とかいう本の何ページの何行目にはこう書いてある、ということの正確さを一生懸命に競っているのです。いかに人が見ていないような資料を引っ張ってくるかということに生きがいを感じているのです。そしてそれが知的なことだと思っているのです。
このようなことを霊的に見れば、ほんとうは全然価値がないのです。それどころか、もしかすると人間の魂を、もっともっと狭めているのかもわかりません。ものごとをいつも顕微鏡で見ているような、そんな頭になってしまって、その枠をはずせないのです。ほんとうのものがわからなくなっているのです。まことに残念であります。
真の創造の意味
また、将来、機会があれば創造に関する本、あるいは創造法であるとか、独創法というような本を書いてみたいと思っているのですが、これなども、現在ひじょうに有名な方々が書かれたものを見ていても、創造というのは、やはり異質なものの組み合わせであるとか、断片の組み合わせをすればよいであるとかということが多いのです。
彼らは地上的に、いろいろとあるものを組み合せて、そのブレンドのしかたで、創造性が出てくるのだということを言っています。三次元的な創造性では、確かにそのようなこともあるかもしれません。しかしながら、それは創造性というよりも、むしろ、仕事のしかた、仕事術ということであって、そこではそういうことはあるかもしれません。ところが、真の創造とは何かを知ってしまったならば、このようなものは、ほんとうはおかしくて読めないのです。
エジソンには申しわけないけれども、真の創造というのは九九パーセントのイスピレーション(霊感)と一パーセントのパースピレーション(汗)であるといったように、まったく逆のところがあるのです。組み合わせではないのです。
ほんとうにすばらしいアイディアというものは、実在界にものすごくあふれているのです。もういくらでもそこから引っ張っていってほしいというように、実在界はアイディアの宝庫なのです。そして、現にアイディアを与えたいと思っている人が、いくらでもいるのです。これを受け取ることをしないで、何を一生懸命に資料を集めているのでしょうか。そういう感じがします。ほんとうの創造とは、そうした実在界にあふれているアイディアをどのように引っ張ってくるかということなのです。
そのための方法はどうしたらよいのかというと、これは霊道を開けとは言いませんが、実は天上界にアンテナを向けて波長が合えば、実際上、引いてこれるのです。私などは、ぽーっとしていると、インスピレーションがどんどん降りてきて、アイディアもどんどん湧き出てきて、現実的には対応できなくなるほどなのです。それにすべて対応していると仕事がいっぱい増えてくるので、なるべくインスピレーションを受けないように、一生懸命に努力して囲いをつくっているくらいなのです。実際につぎからつぎへと新しいアイディアが降りてくると、かえって仕事ができなくなるので、降りてこないようにバリヤーを張っています。
神理に目覚めて、努力して、心が澄んできますと、インスピレーションはどんどん降りてきます。それは嘘のように降りてきます。ですから、これは仕事の世界でも同じことなのです。みなさん方も仕事の世界で、いろいろと悩むことはたくさんあると思いますが、そのようなときには、自分の心を正して、瞑想をしても、瞑想しなくても同じことでありますが、この守護霊や指導霊のインスピレーションを受けられるようになってきますと、すばらしいヒントや、まったく思いがけない新しい仕事上のアイディアが、いくらでも出てくるようになります。
それは、現在の時代の考え方としてはせいぜいこのようなものだとみな思っているけれども、過去の文明の時代においては、違った社会制度があり、違った会社のような組織があり、いろいろなやり方を工夫していたわけです。このときの知恵を引っ張ってくることができるようになれば、アイディアに限りがなくなってきます。この世的な工夫だけではすまなくて、いろいろなところに出てきます。
ですから、おそらく、こういうことが可能になってくれば、人の頭脳の力というものはものすごく増えていくことになります。生きている人間のIQは、計っても、せいぜい高くて二〇〇くらいでありますが、これがたとえば、実在界の天才の頭脳を五人分引っ張ってくるだけで、IQ二〇〇〇くらいの値打ちになってきます。あるいはそれ以上になります。
このように、実在界にあふれているアイディアを引っ張ってくるということ、これがだいじです。そうしますと、商売をしていても、事業をおこなっていても、つぎつぎと信じられないほど、いろいろなアイディアが出てきます。私はこのようなことをみなさんに、ぜひ知ってほしいと思います。
三番目に「他人を公平に見ない自分」。公平に見るということは、ひじょうに難しいことです。どうしても、自分というものが入ります。
また、四番目に、「素直でない自分」です。これも、うなずかれる方は多いと思います。人間はどうしても素直ではないのです。なぜ素直でないかといいますと、何十年も生きてきて、自分はこういうやり方でなければ生きてゆけないという、自分なりの癖ができているのです。このような人は、それなりの生き方をしますし、その生き方を人に押しつけるか、あるいは、その生き方を通して人を見ます。
素直になるという気持ち、これは常に自分を引き戻してみる努力をしていないと、なかなかなれないのです。社会に出てから、素直に生きる、などということを教えられたことがあるでしょうか、もう忘れ去って久しいのではないでしょうか。子供のときには、素直になりなさいと言われたことがあったとしても、大人になってからは、もう、一度も言われたことがない人が多いのではないかと思います。これを忘れているのです。そして、その素直さを忘れた心が、物事を正しく見えなくしているのです。
ですから、また反省法でもとりあげてみたいと思いますが、正見の一つの要素も、この素直さなのです。心が素直でない人は、正しく見るということはできないからです。素直でないということは必ず歪んだレンズで、歪んだ像を見ているのと同じです。それでも、自分は物事を正しく見ていると言う方もいるかもしれませんが、「貴方は素直な方ですか」と聞いてみたとき、「いや、やはりいろいろとひねくれた考えをするようです。」という答えであるなら、残念ながら、おそらくその人の目に映っている像もどこか歪んでいるはずです。素直でないと、百パーセントありのままの映像は映りません。
④執着だらけの自分
四番目は、「執着だらけの自分」というものをあげることができます。これも難しいことです。執着というのは、霊的に見れば、まるでトリモチのように見えます。執着のある人を見ていますと、その人の頭の上であるとか、肩の上や、手のなかであるとか、何かトリモチがついた棒きれを、いつもくっつけているような感じがするのです。
その人が動いていく、いろいろなところでくっつけているのです。それは、たとえばハエ取り紙と同じといってもよいのですが、そのようなものをぶらさげていれば、いろいろなところでゴミをくっつけていくのは当然のことなのです。しかし、実際上、心というものは、そのようなものなのです。ハエ取り紙のように、いろいろなところで、いろいろな事件にあうたびに、ペタペタといっぱいくっつけてゆくのです。そして、それが落ちていないのです。それを霊的な目から見れば、いろいろな人の言葉とか、事件とか、悩みとか、そのような想念が、毛玉のようにたくさんくっついているのがはっきりとわかります。
水晶玉のようなものもありますが、だいたいは毛糸の玉のようにいっぱい毛が出ているのです。そしていろいろな物がこれについているというのが実際であろうかと思います。ですから、トリモチのようにいろいろな物がつきやすいのが自分の心であるから、いま自分には何がついているのかという観点をぜひとも持ってほしいのです。
自分の心にいま何がついているか、今日一日で絶対何かつけているのは間違いないのです。何が今日ついたのか、一日の間に起きた出来事や、思ったことが原因で何かついているものがあるはずなのです。これをふり返ってみることです。何がついたかを考えて、それが適切なものかどうかを考えてみるのです。そして、それがそうでないものであると気づいたときには、やはりこれを取っていく作業が必要になってくるわけです。
ではなぜ執着を捨てなければいけないかと申しますと、別の言い方をすれば、人生は無常なものであり一日一生の思いで生きなければ、執着だらけのままでいつ何どき死に見舞われるかもしれない。ですからけっきょく、いつ死んでも、未練を残さないであの世に旅立てるような自分にしておきなさい、ということなのです。まだまだ先があると思ってあとでまとめて清算しようと思っても、そのときは意外に早く来ることがありますよ、ということなのです。
天国ではこのような執着を持っていては生きられないのです。ですからこのような事実を知って、いつも毎日毎日決算を終わっておきなさいということです。決算を終わっておきなさいということは、帳簿尻をちゃんと合わせておきなさい、今日一日の商売をみてどうなったかをガッチリと合わせておきなさいということなのです。あとで、まとめてやろうとはしないことです。