目次
1.霊格とは何か
4.継続の意志
5.時間管理術
6.幸福の女神
7.笑顔の生活
(1988年4月29日の霊示)
1.霊格とは何か
谷口雅春です。昨日にひき続き、また私の書物を書いていくことが許されることを、大変嬉しく思っております。
地上を去って、こちらに還った霊の数は数多いのですが、このような形で地上に再びメッセージを送ることが許されている方というのは、そう多くはいないのです。私はこのような形で、また再び書物を世に問うことができ、私のこちらに還ってからの考えを皆様に読んでいただけるということを、この上なく幸福なことであると思います。
私が、地上にこうした話をするに当たって、まったくなんの邪心もなく、心に一点の曇りもなく、ただただ真理を述べ伝えたいという、そうした熱意でもって語っているということを、どうか、どうか、多くの皆さんに知っていただきたいと思います。
すでに地上にて自分の法を説き終え、帰天しで三年にならんとしている私が、もう地上に対しては、なんらの心配もなく、なんらの執着もないのはもとよりであるけれども、ただ霊界に還って、その様相を、またその思想を地上に伝えるということは、これは稀有(けう)なことであって、この機会を逃しては次回、こうした機会があるか否かはわかりかねているので、私はこうした機会、こうした厚意に甘えて、私の思想を世に問いたいと思っているのです。
つい三、四日前であろうか、数日前に私の妻である谷口輝子も地上を去って、こちらの世界に還ってまいりました。まだ数日ということでもあり、まだこちらの生活にも慣れてはおらぬが、こうした私の霊示を送る他の時間は、私の妻に対して、こちらの生活の手解(てほど)きをしたりしています。まあ間もなく十分に悟って、また日本神道系の神々の世界に還って来るものと思います。
さて、こうした地上生活を去るに当たって大事なことは、「霊格」ということであります。地上を去った人間が、その霊格に応じた世界に行くということを、読者の皆様は、いろんな形で目にし、耳にしていることと思います。その霊格相応の世界に還っていくということ。これが明らかなる、こちらの法則となっているのです。
では、その霊格とはいったい何かと言うと生きていた時に、その人が考えたこと、行なってきたこと、また業績として残してきたこと、こうしたことを全体的な目で見て、その人の心の程度というものが決まって来るのです。これを霊格と言います。この霊格は言わば波長に翻訳し直したならば、その人が高周波であるか、低周波であるかというような、この違いでもあります。また何ヘルツから何ヘルツと言うような、この音の幅がありますが、そうした違いと考えてもよいかもしれぬ。
皆さんが一生を生きてきて奏(かな)でてきた心の調べには、一定のリズムがあって、それが高い霊域に通じているリズムを奏でている場合と、そうでない場合とがあるということです。皆さんがさまざまな音楽を聴いても、それぞれの曲相応の調べの、格調の高さがあるように、霊格というものも心の調べの格調、格の高さを言うのです。
これは厳然としてあるのであって、その人がどのような生活をし、どのような宗教を信じ、どのような思想を持ち、どのような職業を持とうとも、それをまた統一した基準で秤(はかり)にかけるということ、篩(ふるい)にかけるということがなされているのです。いやそれはむしろ、篩にかけるというよりは、己(おの)が心の波長に応じた世界に引かれていくということになりましょうか。
私のように一生をかけて真理を探究し、その法を説き続けた者にとっては、神々の世界に還ることは当然のことでもあろうが、またそうした神に対して心巡らさなかった者にとっては、神々の世界に還って来るということは、途轍(とてつ)もなく遠い遠い距離であるかに思われるであろう。
私の妻、谷口輝子も、また女神の一人です。そうして本来、予定されている世界に、やがて還っていくことになるでしょう。こちらでの生活が落ち着いたら、またそれなりの報告をさせたいとも思っています。
このように、心で奏でてきたそうしたメロディーが、結局は霊格であるということ。そのメロディーが、もの悲しい世界に通じている人もいれば、非常に楽しい常楽の世界に通じている人もいる。まあこういうふうに違いがあるということをまず知ってほしいと思う。
2.霊格を形成する要因
さて、こうしたメロディーであり、波長でもあるものを霊格と呼んでいるわけだけれども、この霊格を形成する要因は、いったいどのようなものだと諸君は考えられるだろうか。諸君の頭脳で考えてみて、霊格の高い方とはいったいどのような方であるとお考えであろうか。そのことをまず、諸君に問うてもみたい気持がある。さあどうであろうか。
まず諸君は、歴史上の偉人たちのことを心に思い浮かべることであろう。まあそうしたことはたいていの方が考えつくことであり、またそれも正しいことであるが、結局、名が残ったということのみではなく、その名が残った理由がどこにあるか、偉人たちが偉人として名が残った理由が、果たしてどのようなところにあるのか。これを知らねばならない。
そうしてみると、ここにいくつかの要因があるのではないかと思う。
それは、まず第一点としてあげられることは、自分というものを最高度に完成した、ということであろうと思う。偉人の理由は自分を最高度に完成した。こうしたことが言えるのではないかと思う。その道はさまざまであろうけれども、その人が歩むべき道、それを歩むにあたって最高度に自己鍛練を終えた人、こういうことがまず第一点としてあげられるであろう。
偉人の条件として第二点はどうかというと、その自己鍛練の結果が、同胞、社会、人類のために使われたということ。多くの人々のために生かされたということ。これが第二であろうと思う。第一の自己鍛練、第二の他人への奉仕、人類救済への奉仕、こうしたことだ。
第三点は何かというと、これはやはりなんらかの模範になるもの、手引きとなるもの。そうした生き方であり、人格であったということだと思う。いわゆる先生たる資格ということであろうと思う。
自己鍛練をすると言っても、山の中で肉体を鍛えているだけであっては、それでは先生たる資格はないと言えよう。やはりそうしたものではなくて、自己鍛練の結果がひとつの完成した徳となって、そして多くの人々を導けるような風貌と、また名声を得たり、徳望を得たりするようなこと、これが大事であろう。このように第三点として、手本となるべき性格、人格の形成がなされたということが言えるであろう。あるいは、人々を教え導くということができたということでもあろうか。
このように、まず自己鍛練をし、その自己鍛練の結果が社会人類の奉仕につながり、その結果として先生たる資格を得る。あるいは人を導くに足る、そうした立場を得る。また名声を得る。こうしたことだ。こうしたことが、やはり霊格が高いと言われている人たちの特徴ではないかと私は思う。
こうしてみると、程度の差はあっても霊格というもののバラつきは、この三つについてどの程度にまで努力したかということに、当たるのではないだろうか。まず自己鍛練がどの程度できているかによって、霊格は違ってくるであろうし、その自己鍛練の方向性が、どれだけ社会、人類を押し上げるために使われているかということ。これが第二になるであろうし、その鍛練をし社会、人類に奉仕した人が、その結果、教師として、人々の教師役として、認められる認知されるに到るだけの結果としての人格を築き得ているか。これが問題となって、これが程度の差になるであろう。
すなわち、その人の霊格がどのようなものであるかということは、その人に学ぶ人たちがどういう人であるかによっても変わっていく。どういう人と交わっているか。またどういう人が、その人を師としているか。どういう人たちが教えを請うているか。これによって、内容がかなり変わってくるということであろうと思う。
第三の部分をあげてみるならば、聖者あるいは宗教家と言われた者たちであっても、どういう弟子たちが周(まわ)りにいるかということによって、その人の格も変わってくるということになるであろう。
釈迦教団では、釈迦の弟子たちのレベルが釈迦のレベルを規定したであろうし、イエスの弟子たちのレベルがイエスを規定したであろうし、また孔子の弟子たちのレベルが孔子を規定したであろう。また生長の家にて総裁として生きてきた私にとっても、生長の家、信徒たちあるいは幹部諸君、講師諸君たちのレベルが私のレベルを規定していたかも知れぬ。
まあこうしたことがあって、どのような方がその人を師と仰ぐかということは重要な問題であろうと思う。ヤクザの中でもヤクザを慕う人はいるのであって、そうした人たちに師と仰がれたとしても、私たちはそれほど有り難いとは感じぬ。やはり自分たちがどのように感じるか。どのような世界における師であるのか。そうしたことが大事であるのではないか。そのように感じる次第です。
3.努力について考える
さて、霊格というものを考えるに際して、どうしても「努力」ということに関して、無視するわけにはいかない。努力の効果。あるいは努力というものの値打ち。それを無視しては、この霊格は語れないと思う。
結局霊格とは、その人の努力の質でもあるということだ。人間は生きていく途中で、いろんな努力をもちろんしているわけであるが、どういう努力をしているかということが、結局その人の霊格となるのだ。努力の質が、その人の霊格となるのだ。 なんのために努力をしているのか。相撲を取るために努力をしているのか。野球のバットを振るために努力をしているのか。料理を作るために努力をしているのか。それとも、自分を美しく見せるために努力をしているのか。学問をするために努力をしているのか。あるいは聖者のごとく、人々の心の救済のために努力をしているのか。こうした努力の質が、結局その人の霊格というものを、規定するということになっていくであろう。
こうしてみると、問題への鍵は、まさしくここにあるということとなる。すなわち、いかなる努力をあなたはしているか。日々にあるいは一年で、あるいは一生を通じて、いかなる努力をあなたがしているかということが、すなわちあなたの霊格とは何かということを、規定するのである。
私は諸君に問う。諸君は今、どのような努力をしているのか、それを語ってみてくれ。今、諸君がしている努力、努力と思われるむもを紙の上に書き出してみなさい。いったいどのような努力が出てくるであろうか。その努力の内容が、結局、諸君の霊格とは何かということを教えているのである。
すなわち私たちは、いろんな方向性に向いて努力をすることが可能なのであるけれども、その努力をしている過程において、自分が何に向かってしているかということをまず知らないし、どの程度努力をしたのかということを、また認識できないでいる。それゆえに、自分というものの立場が確定できないでいるのである。
また努力ということに関して、私がさらに据り下げた議論をするとするならば、努力の条件の中から次の三つは決して忘れてはならない、外(はず)してはならないと思う。 まず、努力の内容の第一としては、勤勉さだ。「働かざる者、食うべからず」という言葉があるけれども、努力というものは結局、勤勉さにつながる。勤勉に生きるということ。勤勉を信条としていること。これが大事だ。
まず中味よりも、最初は外側から始まっていく。つまり器だ。入れ物、外形、これが大事だ。この外側からの努力、勤勉さによって、まずその中味が次第につくられていくのだ。したがって、すべからく努力について考え、実践しようと思うものは勤勉でなくてはならん。勤勉でなければ、なんらの創造的な人生を送ることはできないのである。
努力についての第二の内容は、これは、目標を有しているということだ。目標がない努力は、これはまあ水車が回っているがごとき努力であって、それ以上のものではない。水車が回ることによって穀物を挽(ひ)くことはできるが、それ以上の物ではない。それによっては、穀物を挽いただけではパンはできぬ。パンを作るためには水で練り、また鋳型をつくってパン焼き器で焼くというような作業がいるであろう。
こういうふうに、努力において大事なことは、次は目的ということだ。これを大事にしなさい。勤勉さの次は目的である。
努力の第三は、やはり成果というものの確認ということだと思う。この成果とは何かと言うと、一人でも多くの人のためになるということ。一人でも多くの人々に、なんらかの還元ができたということ。これが努力の成果であると私は言えると思う。こうしたことを忘れないでいただきたい。これが、努力をする場合の大事な大事な考え方のひとつだと思う。
4.継続の意志
努力の話をしてきたが、次に大事なことは「継続の意志」ということだ。一日だけの努力とか、三日坊主という言葉があるが、どうしても困難なことをやっていく途中においては、挫折しやすいということが、人間の経験からそう言われているのであろう。継続ということは非常に難しいことだ。
一夜漬けということはあるが、これは継続に比して非常に易しいこととなる。学生時代に、試験の前日に一夜漬けで勉強したことが多いであろう。そして冷や汗を流しながら、やったことが多かったであろう。そうしたことを、社会人となって学校を卒業して何十年も経っても、時折り夢に見て、寝汗をかいているような方も中にはいらっしゃることであろうと思う。
一夜漬けというようなものは、これは追い込まれた場合に、そうしたこともできないことはないけれども、長い人生においては結局、勝利する道ではないと私は思う。長い人生において勝利する道は、やはり一歩一歩、うまずたゆまず向上の道を歩むことであり、亀のごとく、一歩一歩道を歩いていくことであると思う。
多くの才能に恵まれた方々が、兎(うさぎ)のごとくピョンピョンと跳んでいった後、どこかで昼寝をして目的地まで到達できなかったことを、私は数多く見てきた。若い時代に才能が溢(あふ)れていた友人たちを数多く見てきた。こんな才能のある人たちは、いったいどうした人生を生きるであろうか。どうした成果を残すことができるであろうか。私は友人たちの才能をずいぶんと羨(うらや)んだものだ。しかし、そうした才能溢れた、才気溢れた友人たちの名前がいつの間にか消えていき、ある者は若死し、ある者は不遇のうちに人生を終わり、ある者は病弱のうちに一生を終えていった。
こうしたことを見るにつけて、私はやはりとてつもなく大切なものを失ったかに思う。若き時、若き日に、あれだけの才能が煌(きらめ)いていた人たちが、その後、大成することなく人生を閉じていくということは、限りなく悲しいことでもある。そういうふうに思える。とても残念なことだった。
しかし、彼らの多くを観察して私が感じたことは、その自らの才能に酔い過ぎているということだ。自らの才能に酔い、才覚に酔い、自分はできるんだ、自分は他の人とは違うんだ、他の人とは違って、一夜漬けでもなんでも才能が開化するのだ。インスピレーションによって詩を書き、インスピレーションによって哲学を構築し、インスピレーションによって絵を描くといった方々は、やがていつの日にか、そのインスピレーションが枯渇し、何も出て来ない日々が続き、やがて平凡なる人生へと転落していくことが多かったように思う。
私はむしろ、そうした才知溢れる人間ではないことを、インスピレーションやの人間ではないことを、むしろ人間にとっての成功の条件ではないかと思うのだ。そうではないからこそ、コツコツとうまずたゆまず努力をしていくことができるのではないだろうか。
谷口雅春の人生もまた、そうしたものであった。私の肉体は、標準的日本人から見てもはるかに貧弱なものであった。小柄であり、やせており、そして若い時には病気がちであった。そうした私が精神力でもって道を切り拓き、そしてコツコツコツコツと書物を書き続け、人々の前で講演をし続けたのである。
私がした講演がいったいどれだけあっただろうか。何百回、何千回、何万回したかもしれぬ。また私が書き綴(つづ)った書物がいったい何百冊あるであろうか。三百冊をゆうに越えているのではないか。また生前、六つの月刊誌を発行し、それらに毎月毎月の文を掲載していた。そうした結果その無尽蔵の力、無限の力は海外の人からも礼賛(らいさん)されたほどであった。「毎月、何種類もの月刊誌を発行できるといった、そうした無尽蔵の創造力、その英知はいったいどこから来るのか」多くの海外の識者からも問い合わせがあったほどだ。
そうしたことができたのは、決して無限の知恵が湧き出たわけでもなく、インスピレーションが湧き出たわけでもなく、まず私自身の勤勉さという努力のお蔭であったと思う。勤勉に毎日毎日を積み重ねていく者にとっては、道は開けていかざるを得ないのである。それゆえ、道を開くためには、努力を積み重ねていかざるを得ないのである。
諸君らのうちで、天才的にインスピレーションによって小説を書く方もいるかもしれぬ。ただ、数日のうちで一冊の書物を書き上げる人と、うまずたゆまず毎日、五枚、十枚の原稿を積み重ねていく人と、長い将来においては、必ず後者の方が数多くの書物を世に残すであろうと私は思う。それが人生の秘訣でもあるということを、どうか知ってほしいと思う。
5.時間管理術
さて、ここで私は宗教ということも離れて、人間全般、あるいは地上で生きている皆さん全員、あるいは職業の中に生きている皆さん全員を対象として、「時間の管理術」ということを話しておきたいと思う。
どうも地上の人たちは、時間管理ということが億劫(おっくう)なようである。また苦手なようである。地上で九十二年の生涯を終えて、こちらに還って来て私が思うことは、自分の九十二年の人生を燃焼し尽くしたという悦びであったと思う。同じく九十二年の人生を生きたとしても、その内容はさまざまであろうと思う。自分の人生を燃焼し尽くしたということの悦びは、これは計りしれない悦びであり、こちらに来て、なんとも言えない満足感というのがある。
地上を去ってこちらの実在界に還ってきた時は、ちょうどあの苦しいマラソンを完走してきた時の感じにも似ているであろうか。うまずたゆまず走り続け、そしてゴールにたどり着いたという、そうした感慨であろうと思う。途中で放棄してしまったり、途中で倒れ込んでしまった人たちにとっては、このゴールヘ駆け込んだ時のあの感激というものは、到底わからんであろうと思うが、しかし一生を通じてマラソンをし続けた者にとっては、たとえようもなく嬉しいことである。
そうした時に、やはり私は、人生というマラソンにとっていちばん大切なことは何かというと、「時間の活用」ということであろうと思う。一日の時間をどのように活用するかということであろうと思う。
私は第二集の『谷ロ雅春霊示集』の中でも語ったけれども、特にサラリーマンたちの多くに言っておきたいこと、それは朝の時間をどうしても生かせ、いちばんいいことを朝にせよ、そういうことです。これは努力によって、この習慣を築いていく以外にないのです。ところが毎朝出勤ギリギリに起き上がって飛び出している者にとっては、朝の一時間、二時間を早めるということは、到底無理な苦しいこと、そういうことになっていくのです。そして習慣の奴隷となっていきます。
ただ私は言う、皆さんは睡眠ということの意味を知らねばならん。睡眠ということは一日の肉体の疲れを取り去り、そして霊界のエネルギーを十分に吸収する、そうした状態であるということだ。したがって、眠りから醒めてすぐ仕事ができるような、いちばん貴重なことができるような、そうした習慣を築いておくということ、これが人生の秘訣であり、人生を黄金にしていくための本当のルールだということだ。
朝というものは、本当に金貨をたくわえているといってもいい。朝になった時に、ポケットの中にはキラキラに輝く金貨が二十四枚人っているのだ。これを大事にしなければならん。やはり夜の時間であるとか、昼の時間であるとか、そうした時間にではなく、自分にとっていちばんいいこと、自分の霊性をいちばん高めると思えること、それを朝にやっていくことだ。特に朝の時間の活用ということを、私は諸君に言っておきたい。
もうひとつは、コマ切れの時間をを大切にするということだと思う。生活が単調になり過ぎている人にとっては、おそらく仕事が単調なのであろうと思う。そうした人にとっては、自分がやらねばならんということをいくつか用意しておくことだ。複線型の人生ということでもある。
書物を読むにしても、大冊(たいさつ)をとにかく読み抜くということで、一ヵ月もかかって読むことばかりをしているのではなくて、その大冊を読んでいく間に、他のものを少しずつ平行して読んでいくとか、あるいは大小説を書く間に小さな短篇を挟(はさ)み込んでいくだとか、こうしたことをすることによって、仕事の能率はとてもとても上がっていくようになっていくのだ。
こうした多面的な活動をすることによって、コマ切れの時間を生かしていくということ。これを考えていただきたい。これが人生を何倍にも引き伸ばす秘訣であり、またこの努力の結果が霊格を高めていくことにもなるのだ。
6.幸福の女神
さて、継続の意志であるとか、努力であるとか、時間であるとか、そうしたことについて数多く話をしてまいりましたが、ここで「幸福の女神とは」ということを、話しておきたいと思う。あるいはチャンスの女神と言ってもよい。運命の女神と言ってもよい。
昔から、運命の女神には前髪だけあって、後髪がないという。すなわち運命の女神がやってきた時に、その前髪をとらえなければ、通り過ぎた後つかもうとしても頭がツルツルであって、はげた頭であって、髪の毛をつかむことができないと言われている。これはどういうことかと言うと、運命というものをいつも前向きにとらえていけ、チャンスが来たら逃すなということが、そうした言葉で語られていることと思う。
「幸福の女神」ということを語る時に、私はやはりこの話をいつも思い出さざるを得ないのだ。やはりそうしたことはあるであろう。幸福の女神というものは、いつもいつもやって来るわけではない。しかしやって来る時には、新幹線のように通り抜けていくことが多い。その時にどうしてそれを気づくか、それをつかむか。これが大事であろうと思う。
どんな人間であっても、六十年、七十年の人生を生きて自分の過去を振り返った時に、「ああ、あの時に、ああしたチャンスがあった」ということは、必ずあるのだ。数多くのチャンスが人生の節目、節目には用意されているのだ。少なくとも小さな意味で言えば、毎年、毎年、一年に一回ぐらいは何かのチャンスはあるし、もっと大きな目で見ても三年か五年に一つはチャンスの芽はある。さらに大きなサイクルで見るならば、十年、二十年に一回はチャンスということは必ず巡(めぐ)ってくる。
まあこうしたふうに、小さなチャンス、中クラスのチャンス、大きなチャンスというのが必ず人生には用意されている。その時に、そのチャンスをどうつかみきるか、これが大事だと思う。いい話が来た時に、それを即座に受け入れるか、それとも何日も考えてから返事をするか、こういうことがよくある。
これは、年頃の娘さんで実に多いことであって、良縁が申し込まれてきても、自分自身優柔不断であって決めかねている。そしてああでもない、こうでもないと言って考えてみたり、もっといい人が居るかもしれないとか思っているうちに、先方がその気をなくしていって断られるというようなことがある。一旦そういう経験をすると、また次の時にも、どうしていいかわからない。まあこうしたことがあるが、人生には決める時には決め、決断する時には決断し、行動すべき時には行動するということも大事だ。
したがって、今がどういう時なのかということを、常々あなた方は心に問うておかねばならん。今、自分のある立場、自分が人生の川を流れてきて、どの地点にさしかかっているのか、こうしたことを常々知っておかねばならんと思う。そうした時に、今現れてきたもの、これは本物かどうか。
たとえば会社生活で飽き飽きしてどうしようもない。上司ともうまくいかん。仕事も面白くない。どうも浮き上がっている。こうした時に転職の話が来たとする。さあどうするか。そうした時が、たいてい人生で迷う瞬間であろうと思う。
転職の話が来るけれども、たいていの場合そうした時には、多少なりのリスクを負っているものだ。その会社は、今いる会社より小さいこともあるであろう。また収入の見通しがたたないこともあるだろう。こうしたことでもって、いたすらにズルズルと現状に浸(ひた)っていると、やがてそのチャンスを逃すようなこともある。
だから私はここで皆さんに、こうしたことを言いたいのだ。努力をし、それを継続し、また時間を活用して生きていても、幸福の女神が来た時に、それを見抜いてサッとつかまえてしまうだけの度量はいる。
先ほどの年頃の娘さんの話にしても、本当にいい相手だと思ったら「お嫁に行きます」と、すぐ答える。これが相手を喜ばせ、自分たちの将来を築いていくための、幸福にしていくための方法なのだ。いろいろと考え考えした結果、やむなく結婚したということであっては相手も喜ばんであろう。
これは転職に際してもそうだ。いい話と思ったら、すぐ引き受けるということも大事であろうと思う。また書物の出版なんかについてもそうである。いい話が来たと思ったら、すぐ引き受ける。まあこうしたことも大事ではないのか。私はそのように考えます。
これが幸福の女神をめとる方法であり、妻に迎える方法であろうと思う。どうか諸君も、この女神を妻に迎えてほしいものだと思う。
7.笑顔の生活
さて、霊格のことを話してきたわけだけれども、その中で私は、人生の幸福の鍵ということを話をしてきたつもりだ。努力とか、継続とか、時間の管理、そしてチャンスを逃すなという、まあ通俗哲学的な内容であるかもしれぬが、そうしたことを話をしてきた。
そして、もうひとつダメ押しともいうべきことを言っておきたいと思う。それは何かというと、「笑顔の生活」ということだと思う。幸福の女神をいくら呼び込もうと思っていても、笑顔というものを忘れた人間であっては、その女神はやがて浮気をしていったり、あるいは家出をしていくことになる。笑顔の生活を忘れ、そうした渋面(じゅんめん)を作って、渋(しぶ)い顔をして生きている人、額にたてじわを寄せて生きている人を見た時に、そうした女神はだんだん嫌気がさして家の中から出ていくことになる。
また、女神が玄関を訪れようとしたとしても、苦しそうな顔をしたり、青い顔をしたり、または面白くなさそうな顔をして玄関で応対していると、女神は、「これはきっと私は訪問する家を間違えたに違いない」と思って、「失礼いたしました」といって戸口を去っていく。まあこうしたことがあるのだ。つまり笑顔の生活ということが、幸福をもたらすために、どうしても必要なことであるということを、私は言っているのだ。
諸君はどうか、このことを忘れてはいけない。自分が一所懸命、努力をしているのに、こんなに働いているのに、こんなに勉強しているのに、なぜ自分に運が回って来ないのか、自分の霊格が向上しないのか、自分が成功しないのか、こうしたことを悩んでいる人は、一度、鏡というものを見られたらよい。そして自分の顔というものを、つくづくと点検してみなさい。
そこに人相の悪い人の姿が映っているのではないのか。自分はその人の顔を見て、こういう人と商売をしたいと思うか。こういう人のところに嫁に行きたいと思うか。あるいは、こういう人のところに婿に行きたいと思うか。よくよく考えてみよ。商売が成功しそうな顔をしているか。勉強が成功しそうな顔をしているか。貧相な顔をしているのではないのか。神経質そうな顔をしているのではないのか。それを考えなさい。
神経質で毎日ピリピリピリピリしているような人で、人生に成功したような人はそう多くはいない。もともとそうした繊細な方であっても、どこかでその神経質を克服して、やがて大成功をしていったのではないのか。円満な顔付、恵比寿(えびす)様のような、大黒(だいこく)様のような顔をしていれば、商売は繁盛するしかないのだ。それだけでも人が寄ってくるであろう。そうしたものだ。
それは決して商売だけではない。学問というような領域でもそうだ。大学に残って研究をしていても、なかなか助教授にはなれない、なかなか教授にはなれないという人は、もう一度、鏡を見て自分の顔を点検すればよい。俺はこんなに勉強しているのにと思っているのかもしれぬが、その鏡に映った自分の顔は、なんとも憎たらしそうな顔をしているのではないか。なんとも貧相な顔をしているのではないか。それを思ってほしい。
人からどのような印象を受けるかということを思ってほしい。人間が成功をするためには、どうしても他人の引き、他人からの受けということが必要なのだ。人間を偉くしていくのは自分だけの力ではなくて、他人の力なのだ。他の人々が引いてくれてこそ、出世もあり得るのだ。それを知らねばならん。
少なくとも無愛想な、不景気な顔をしてはならん。毎日鏡を見て笑顔をつくれ。これが人生の基本だ。そして笑顔の生活を続けていううちに、次第次第に諸君の精神生活も向上していくに違いない。私はそのように思う。
8.霊格の向上を目指せ
以上、いろんな形で話をしてきたけれども、要点はこういうことだと思う。すなわち、自分の努力ということはどうしても大事だ。私も全託の精神であるとか、よいことというのは他人の手を通じて実現されるとかいうようなことを、生前ずいぶん語ったつもりであるけれども、しかしこれは、二つの面からもう一度検討しなければならんということを言っているのだ。
それはあくまでも、まず本人の継続する努力ということ。努力の継続ということが、第一前提としてあるということ。そしてもう一つは、他の人からの受け入れということが必要だということだ。いくら努力をしても、他の人の受け入れがなければ人生に成功ということはない。また自らが努力をしないのに、棚ぼた式に成功するということもおそらくないであろう。棚ぼた式に成功だけがころがり込んできたり、あるいは棚ぼた式に霊格が向上したりすることはない。
やはり、自力と他力のこの両面は、どうしても人間の向上のためには必要なこととして用意されているのだ。自力と他力を合わせたこの力のことを「絶対力(ぜったいりき)」という。自力も他力も包摂(ほうせつ)しつつ、両方を統合した神の力、神の子の力、これを「絶対力」という。この絶対力をつかむことが人生の向上の秘訣であり、また成功の秘訣でもあるのだ。
どうか諸君は、これが永遠の真実であるということを知ってほしい。まず自分というものを高めていく。自分の努力ということが肝要だ。これが出発点であって、その途中において、多くの人たちに喜んで受け入れられるような人格を、つくっていかねばならぬ。春の陽気のような、そうした素晴らしい人格をつくっていかねばならん。
諸君もそうではないか。春の陽気のようなそうしたポカポカした人に会ったら、思わず顔がほころんできはしないか。そうした人に会ったら思わず心の窓が開きはしないか。胸襟(きょうきん)をひらいて語り合ってみたいと思わないか。そういう人には商売の相手になってほしいと思わないか。そうした人と一緒に勉強してみたいと思わないか。仕事をしてみたいと思わないか。そうしたことだ、そういうふうに一緒に仕事をしてみたいと思うこと、これが何にもまして大事だと思う。
諸君にはどうか、春の陽気のようなポカポカとした人格を築いてほしい。そして常にコツコツと努力をしながら、多くの人たちの引きを受け、そして多くの人たちに評価され、成功を極(きわ)めていく中に、また社会に、人類にお返しをしていく。こういう人生を歩んでほしいと思う。
この自力も他力も両方真理であり、どちらかが欠けたらそれは片手落ちである。自力、他力を超えた「絶対(ぜったい)力」、その中に永遠の真理があり、霊格の向上の道があるということ。これを知ってほしいと思う。「自分が、自分が」ということで、自分一人が努力すればいいと思っているうちには、本当の永遠の成功はない。他人の協力ということを考えざるを得ないのだ。それを無視してはいけない。自分がすべてできればいいということではない。
こうした絶対力の考え方の中にこそ、本当の宇宙の真理、宇宙の神に通じる道があるということを、これを忘れないでほしい。これはどのような方にも通じる道である。平凡なあなたにも、非凡なあなたにも、天才のあなたにも、秀才のあなたにも通じる言葉である。どうか、そうした道をうまずたゆまず歩んでいってほしい。