目次
1.科学の存在意義
(一九八九年一月二日の霊示)
1.科学の存在意義
アイザック・ニュートンです。このたび、私の霊示集を世に問う運びとなりました。
私が、イギリスの著名な科学者であったことは、読者のみなさまもご存じのことでしょう。私は、近代科学の祖としてイギリスに生まれ、数々の科学的業績をあげ、まさしく近代の火ぶたを切ったのです。
私の使命は、ひじょうに多岐にわたっておりますが、主として科学という光線、神の七色光線のなかの銀色の光線を担当しております。
この銀色の光線の構成員としては、私であるとか、エジソンであるとか、アインシュタインであるとか、ボーアであるとか、マックスウェルであるとか、ノーベルであるとか、このような科学的業績をあげた者たちが集っています。
現文明においては、特に近代で活躍いたしましたが、過去の文明においては、何度も何度も科学の時代はあって、そういう時代には、私たちはその文明独自の技術を高めるために、活躍をしていたのです。
今、人類は一つの大きな岐路に立っていると言えましょう。ここ、四百年ほどの間に急発展した科学技術が、人類の前途を幸福にするか、不幸にするか、そのどちらかを決めるような、そのような瀬戸際に人類を追い込んでいると言えると思います。人類は、その事実になかば気づき、なかば気づいておりません。気づいているというのは、たとえば戦争の面では気づいていると言えましょう。もし、巨大大国が本気で戦わば、いったいどのようになるか、これがわかりかねていますが、ただ決定的な事態となったときには、もはや地球的惨状となると言えるでしょう。
もう一つ、人類は科学の未来についてわかっていないと思われる点は、これは未来の見取り図です。未来の見取り図が十分にわかっていない。二十一世紀に、また、二十五世紀に、三十世紀に、人類がどのような科学技術水準に達して、そしてどのような生き方をしているであろうか、ということが十分にわかっていないのです。
科学というものは上手に使いこなせば、これ以上人類に福音をもたらすものはありません。それは、ある種の哲学や宗教以上に人類を幸福に導くものであります。
宗教では心の世界が数多く説かれてきたでしょう。そして、人間の幸・不幸は思いのままであり、また思いのなかに人生の幸・不幸を分ける要素がある。そのように言われているはずです。確かにそれはそれで、一つの真実ではありましょう。ただ、科学はこうした偶然性や蓋然(がいぜん)性によって幸・不幸が左右されることを極力滅らし、思いの意によってという主観的基準ではなくて、現実の力として、客観的事実として、だれもが体験できるものとしての幸福というものを生み出していると思えるのです。
この事実に関しては、深く認めなければならないと思います。たとえば、漁船が漁に出たとして、魚が獲れるかどうかは、神の恩賜によると考える方もいるでしょう。豊漁であれば、神のお恵みがあったと考え、不漁であれば、神の厳しい裁きがあったと考える方もいるでしょう。しかし、漁船が発達し、漁網が発達し、漁法が発達し、レーダーが発達し、いろいろな抜術がレベルアップした結果、漁師は、天候やあるいは神のご機嫌によって漁が左右されるのではなく、技術的に一定の収穫を確保できるようになってきました。
これは、とても大きなことではないかと思います。今まで幸・不幸を決する超越的存在がはるかなる彼方にあって、人間をどうするかはその存在の意図次第であったと思われていたことが、人間の努力によって掌中に招き寄せることができるようになったということです。
漁師の漁でもそうですし、病気も同じでしょう。ある種の宗教的行為によって、病気が治るということもありますが、それはあくまでも個人個人に備わった特殊能力によるものであり、そのための限界があります。しかし、医学によって、どれだけ多くの命が現実的に救われているか、これは宗教によって治る病人の数をはるかに上回っていると思います。
また、機械の進歩もそうです。かつては何週間も徒歩で行かなければならなかった距離が、電車によって、飛行機によって、ひじょうに時間が短縮された結果、人類はより行動半径を広くし、より活動の中身を濃くすることが可能となってきたのです。
たとえば、音楽の設備でもそうでしょう。家庭で、すばらしい音楽を楽しめるようになったということは、一部貴族だけに許された演奏会の楽しみを、個人レベルに降ろしてきたということになるでしょう。幸福が手近なところにやってきたと言えるでしょう。
また、電気が開発されていなかったときには、夜というものは寝る以外に手がなかったのに、電気の発明によって電燈が灯り、夜でも仕事ができ、読書ができ、家族の団欒を持てるようになった。これはまことに幸福なことであろうと思います。
科学のいちばんの恩恵は、それらのなかでいったい何であるかというと、やはり交通機関の発達だと言えるのではないでしょうか。飛行機、船、汽車、こうしたものの発達は、地球を小さくし、人びとの視野を大きくしました。また、ロケットの発明は、人類をして宇宙に行かしめ、宇宙の視点で地球の生活を見ることを可能といたしました。
2.幸福を地上に具体化する手段としての科学
こうしてみると、従来、神秘的に信仰の対象とされていたもののベールが、一枚一枚はがされてきたことは事実であります。しかし私は、従来の科学観、また今、私自身が述べた科学観も同じでしょうが、こうした科学観でもって、必ずしも宗教の世界、霊の世界を批判・批評しようと考えているわけではありません。
それというのも、私自身がすでに霊となって存在しているからであります。そうして、私が住んでいるこの実在世界においては、科学はもはや何の役割をも果たしえなくなっております。地上において発明・発見された多くのものごとは、私たちの霊の世界においては、ほとんど無用のものとなってしまいました。高等数学もこちらの世界では不要です。物理学も不要、天文学も不要、機械も不要です。そのようなものが必要であったのは、地上という有限の世界において、肉体を持った人間という有限のキャパシティーを持ったものが生きるがゆえに必要であったのです。
私は、今、こちらに還ってさまざまな物事に思いを巡らしておりますが、しかし、これだけははっきりとしておかなければならないと思うことがあるのです。それは、科学とは、幸福の具体化のために役に立つことではあるが、幸福そのものではないということなのです。あくまでも、地上に生きている人間を、哀れと思ってそうした手段が許されていると考えたらよいでしょう。
本来、暖かい世界に住んでいる人間にとっては、犬ゾリは不要です。しかし、今、現時点において、雪の世界に生きている人たちにとっては、犬ゾリは必要でしょう。霊の世界とはこの比喩で言うならば、暖かい世界、常夏(とこなつ)の世界であり、そうして地上の世界というものは、犬ゾリを必要とする世界であるということなのです。
私は、ここで現代の科学者たちにどうしても言っておきたいことがあるのです。私やあるいはデカルト、カント、こうした学者が近代の合理主義をつくり出したかもしれませんが、その合理主義には裏の面があって、真実の世界観をくもらせた点があることは、否めないと思うのです。私たちは、幸福のための手段を幸福の目的そのものと履(は)き違えてはならないということなのです。
地上のあなたがたは大気圏から脱出し、宇宙船によって地球のまわりを回ってみることは可能でしょうが、すでに霊となった私には宇宙船は必要ではなく、念(おも)いによって地上を見下ろすことが可能ですし、他の星に飛行することも可能ですし、念いによって過去を見、未来を見ることも可能です。
私が地上にあったときに、あれほどまでに発明に、発見に、創造に明け暮れ、それを焦っていた理由は、こうした実在世界の記憶があって、その記憶に基づいて、何とかそれに近づいたものを、それに近いものを考え出そうとしていたのだと思いいたることになりました。
3.科学本来の使命 ― 神の創られた世界を証拠だてること
ニュートンとして、私が業績を遺(のこ)したことは数多くあります。まず、光について光学的な発見をしましたし、また天文学においても功績を遺しましたし、数学上の発見もいたしました。それらは、近代科学の祖といわれるのに十分なだけの業積であったと思います。もちろん、私が考えついた時空間のあり方は、古典力学空間といわれるような、古典的なものであって、やがてアインシュタインによって、私の空間論は変更を余儀なくされていったわけですが、アインシュタインがそのように、私の理論を変えていった背景には、実在界において私自身が彼を指導していたということもあります。
ものごとは、発展においては、いつも基礎がいるのであり、その基礎が固まることによって、これに手を加え、さらに発展させていくことがだいじです。私たちの目には、宇宙の法則と言われても、何も映りませんが、それを数式化し、そして検証できるかたちでの法則とすることは、たいへん難しいことであります。この宇宙を見、この世界を見て、それを定式化するという行為自体が、ひじょうに霊的な仕事であるといっても過言ではないでしょう。
現に私自身、神というものは生前からずいぶん信じていました。これは、私以外のアインシュタインやエジソンたちも同様であったと思います。真に科学というものに目覚めたときに、神というものをなしにして語ることはできないのです。この宇宙を見れば見るほど、研究すればするほど、この世界が被造物、すなわち造られた存在であるということに気づくようになるのです。どう見ても造られた存在であるのです。
人間の体一つとってみてもそうです。人間の体の機能を知れば知るほど、これが偶然にできるだろうか、ということです。未来においては、さまざまなロボットが開発されていくでしょうが、それに先立って、人間というものが、いかに高度な機械となっているか、これに驚かざるをえません。これは、はるかなる昔に、まるでロボットでも組み立てるように、人体というものを設計した人がいたに違いないと思わせるのに十分であります。それは、人間の体があまりにも機能的にできすぎているということなのです。あまりにも合理的にできすぎているということなのです。
本来であれば、人間は自分の体の内側を覗(のぞ)くことはできません。ちょうど車の内部構造に似て、車の運転手は車を買って運転はできても、車の機械そのものを組み立てることはできません。同じように、人体としての自分の体を使うことはできても、それを組み立てることはできないでいるのが人間です。
自分でさえ、自分の体がどのようにでき上がり、どのようにコントロールされているのかをわからず、しかして、自分のまたコピー版を子孫として遺すことができる。これはまことに不思議なことであり、人類というものが高度な意味でのロボットでもあることが明らかなのであります。
それは、人類というものは神の目的実現のための肉体を持ったロボットである、というふうに言ってもよいのではないかと思います。この肉体を持ったロボットは自分自身で自分の体をどう造り変えることもできないにもかかわらず、自分の存在を天下唯我独尊と考え、そして他の存在同様に造られたものであるということを、無視しているのです。
今、私はこちらの世界において、科学の裏にあるもの、科学の奥にあるものを研究しておりますが、考えれば考えるほどそれは複雑で難しいものを含んでいると言えましょう。ただ本来の科学の目的とは何であるかというと、それは私が『プリンキピア』という書物にも書いたように、大自然のなかに、あるいは大宇宙のなかに隠された神の法則を発見することであったと思うのです。神の隠された法則を、どのようにして日のもとに置くか、これが科学の使命であったのです。
したがって、科学の使命とは、そもそも神を裁くことではなく、神の創られた世界を証拠だてること、この世界が神によって創られたということを証明すること、これが科学の本来の任務であったのです。
4.科学と宗教の対立を超えて
ところが、この本来の任務は、なぜかすり替えられていくようになったと思います。どのように、すり替えられたか。そのすり替えは、実験的な考え方から出ているように思います。経験できるものこそがすべてであるという考え、それと理性によって確信できるもののみを学問の対象とし、理性によって確信できないものは、これは学問の対象外にするという姿勢です。
特に、この理性によって世界を二つに分けて考える考え方は、カントによって推奨されたことでした。カント自身は超自然的な事象、霊的な世界の存在そのものを否定するには至りませんでしたが、少なくとも学問的対象にするには忍びない世界であるということを考え、あくまでも学問的・哲学的探究のプロセスは、これは考えて、考え抜かれて、とことん抽出された理論、あるいは理念でもって構成された世界であるべきであって、これが世人の理解を超えたもので成り立ってはならないと考えてのことのようです。
このカントの思想は、後に大きく影響を残し、哲学のみならず自然科学においても、強烈なインパクトを残したと言えましょう。この意味において、宗教を死に追いやったのは、このカントであると言っても過言ではないでしょう。
このカント的考え方、不可知論を学問の対象のかなたに置いた考え方が、やがて宗教の没落を生んでいったと言えましょう。それはカント自身の責任ではなかったかもしれませんが、彼の個人的認識の範囲に限界があったという事実は、後の多くの人びとをして、あのカントでさえそうしたのだから、我らもそれに学ばねばならないとさせたのだと思います。
この点、私は自然科学の目的のなかに、神の探究ということを明確に考えていたのでありますが、やがて科学者の運命も同じ道筋をたどるようになりました。
これは、一種の反動であると言ってよいでしょう。中世ヨーロッパにおいては、キリスト教神学が全盛期であって、そして猛威と権力とを振るっておりました。ガリレオの事件を見てもそう、コペルニクスの事件を見てもそう、ケプラーを見てもそうですが、教会の決めた教義、ドグマこそがすべてであって、これに反するようないかなる学問的発見も許容されない。また、それをあえて発表するさいには死を覚悟せねばならない。こう考えられていたわけです。
あのガリレオをして、死の恐怖に震えさせたこの教会の力、ケプラーをして震え上がらせた教会の力。たとえば、地動説という学説一つをとってもそうです。地動説を見抜いていた人は紀元前何千年の昔にもおりました。太陽が動いているのではなく、明らかに地球が動いていると考えていた人たちは、教千年の昔からいたのです。しかし、それが科学史において認められるには、たいへんな犠牲を払うことになりました。太陽が地球のまわりを、また星が地球のまわりを廻っているのではなく、地球が回転しているという考えは、中世的教義からまったく無視され、そしてそうした見解を発表した学者は、嘲笑を浴び、また死の危険にさらされました。
しかし結果はどうであったか。地球が丸いことも証明され、また地球が太陽のまわりを回転しているということ、また地球自体が自転しているということも発見されました。これは大きな事実であったと思います。これによって、神学的ドグマが一気に権威を失墜し、科学万能に弾みがついたのだと言えましょう。
このときの中世的圧力を跳ね返したという実績が、その後の流れのなかで宗教を裏側に追いやっていく力となったのであり、これはある意味で大きな作用・反作用の法則のもとにあったと言わねばなりません。
したがって、宗教人たちも、今、ただその存在の不幸を嘆くではなく、その環境の悪しきを嘆くではなく、自分たちの過去の無知な行為が、科学によって報復を受けているのだと思わなければなりません。それは、科学を侮辱した罪でありましょう。
そもそも、イエス・キリストは地球は自転していないとも、地球は公転していないとも何も語っていないわけですが、後世のスコラ哲学者たちが勝手なことを考え出しているわけであって、それは神の権威とは何のかかわりもないことであったわけなのです。それゆえに、人間が空想や想像によってつくりあげてしまった学問体系が、どれほど人間の目を覆(おお)い、その前途を狂わすかということを十分知らなければなりません。
遂に科学は科学で驕(おご)ってしまって、宗数的真理に目をつぶっているというのが現実であろうと思います。
5.今後、神の創られた多次元世界の究明に向かう科学
私はこの第1章における総論として、是が非とも語っておかなければならないと思うことは、今後、神という概念を、また神の創った霊界という世界を、これを念頭に置かない科学というものは存在することができなくなっていくということです。
今後は、科学の対象は霊界に向かうべきであり、霊界の奥にある神そのものに向かうべきであると思います。今、物理学においては素粒子理論で持ち切りのようでありますが、素粒子の奥をきわめていくと、物質とはそもそも何であるのか、物質の誕生とは何であるのか、ということに思いをいたさないわけにはいかなくなります。
それは有って無きがごとしというようなものです。まったく面積も体積もないものが、突如、三次元世界にその位置を得る、そうして存在感をアピールするにいたる。これはまさしく、創造です。創り出されたという観がします。この素粒子の世界を探究すれば、探究するほど、やがて多くの科学者は神というものの存在に行き当たるようになってくるでしょう。
また数学的にも、異次元世界の存在が証明されていくでしょう。それは、私にはごくごく当然のことのように思われます。というのも、私自身そうしたことを証明するために、実在世界からのインスピレーションの供給を仕事としているからであります。
どうしても、どうしても言っておかなければならないことは、創造の秘密ということです。科学者たちは創造ということを誤解し始めたように思えるのです。この地上にある、いろいろな知識の異質な組み合わせを、創造だと思う人がたいへん増えてきました。嘆(なげ)かわしいことです。創造の本質とは、この世的なものではない、異次元世界から天降ってくる啓示です。異次元世界から天降ってくるインスピレーションです。
このインスピレーションを受けるためには、自分自身の知性や理性だけで考え方を縛ってはならないのであって、どこかで宗教家の説くような、幼な子のような心を持っていなければなりません。幼な子のごとき純粋で、そして無理のない考えを持ち続けることによってはじめて次つぎと着想が湧いてくるのです。私自身の発明、発見も二十代の三年ほどの間ですが、ペスト流行の折に田舎に疎開していたときに得たアイデアによっています。私はそうした結論をまず最初に得て、あとはそれを証明するために努力しただけのことです。その結論そのものは、すでに天上界からインスピレーションとして与えられていました。
今後の科学は、このインスピレーション、霊天上界の啓示による創造という観点を忘れては、一歩も前進することはないでしょう。それは科学の探究する世界そのものが、そうした異次元的世界となってきているからなのです。宇宙船技術についても、異次元世界の解明なくして、進むことはないでしょう。地上に数多く飛来しているUFOの存在、その機能も、異次元世界というものを知らずして解明されることはないでしょう。
科学者よ、心を空しくして新たな方途につけ。そこにニュートンが用意した科学の発祥の精神が横たわっているということを知ってほしい。