目次
7.地獄界の入口
12.地獄界探訪⑤――畜生道
(1987年2月6日の霊示)
1.神は光なり、太陽の如く燦々(さんさん)と光を降り注ぐ
きょうの題名は「神は光なり。」という題名を選んでみました。今回はね、いろんなことを言ってきましたけれども、まあ永遠の生命のことを言ってみたり、仏教の話をしてみたり、心の法則の話をしてみたりね。
あるいはノストラダムスに触れてみたりということで、いろんな話をしてみましたけれども、いよいよ私もこちらの世界にいますから、こちらの世界の実相についてね、さらに話を進めていかねばならんと思っています。
きょうは標題にもありますように「神は光なり。」ということでね、じっさいそのとおりなのですね。地上にいるみなさんは、「神は光なり。」といっても、そうかんたんにはわがらんと思うのですね。それでそれをわからしめるために比喩としてね、空にあるあのお日様のようなもんですよということを私たちはよく言うわけですね。
神様っていうのは、あの空に出ている太陽のように、燦々(さんさん)と光を降り注がしてね、そして草木、あるいは生物あるいは人間も含めてね、万象万物を育(はぐく)んでいるもんなんだと。そういうふうにね、説明します。
あの太陽の愛と慈悲そのものが、やはり神の姿そのものなんだということを私たちは言っています。
2.スウェーデンボルグのいう霊太陽の存在
さてみなさんがたも、たとえばスウェーデンボルグという人が霊界物語をいろいろ書いてあるのをご存じでしょうか。霊界探訪記がいろいろ出ているので、そういうのを読んだことがあるかたもいらっしゃると思います。
そのなかでスウェーデンボルグという北欧の偉大な霊能者はね、霊界に太陽があるということを言っていますね。霊界の霊太陽というのがあって、それが霊界のひとびとを照らしとると、こういうふうな話をしとります。
じっさいに霊太陽というのがあるのです。地上のみなさんが太陽の光のもとで生活しておるように、霊界にもちゃんとした霊太陽というものがあります。
そしてその霊太陽がね、四次元の人たち、五次元の人たち、あるいは六次元の人たち、いろんなところを照らしておるのですね。
ちょうどそれが高い次元になるほど太陽の光を強く浴びるというかたちといっしょでね、上の次元にいくと光が強くなってくるんです、だんだんね。
それで霊界物語を読むとよくわかるのですが、たとえば、地上にいる人たちが幽体離脱してあの世の世界に行ったとしても、あるところの世界までは行けるけれど、それから上のほうは行けなくなるのですね。
なぜ行けないかっていうと、光が強いからです。光が強すぎて行けないのですね。まぶしくて目がつぶれそうになるんですね。クラクラしちゃうんです。
みなさんだって昼間から太陽をその目でたぶん見つめることができないでありましょう。それは光が強いからです。ひじょうにね。ひじょうに強い光だからです。
まあ同じようにあの世でも、だんだん上の世界に行くと光の量が強くなっていきますから、まぶしくなってくるんです。
それであの世の霊人もね、地上の人の感覚からいえば、もちろん上の世界へ行きゃいいと思うでしょうけれどもね、四次元の幽界よりは五次元の霊界のほうがいいだろうし、五次元の霊界よりは六次元神界、六次元神界よりは七次元菩薩界、七次元菩薩界よりは八次元如来界、こちらのほうに行ったほうがいいだろうし、この世の立身出世みたいに考えている人も多いでしょう。
3.神近き高級霊界に近づくほど光のまぶしさに耐えられなくなる
けれどもね、かならずしもそうではないのですよ。じゃ四次元幽界の人が菩薩界につれていかれるとどうなるかというと、それは光が強くて生きられないのですね。
ちょうどモグラがね、土のなかに生活しているのが、地上にひっぱり出されたら困っちゃいますね。目があるかないか知らんけど、私はモグラに目があるのかないのかよく知りませんけども、太陽の先を浴びては生きていけないはずです。そうですね。日光浴されちゃ、イチコロでまいっちゃいます。そういうものであります。
あるいは、たとえば洞窟のなかの生物のように、薄暗いところでは生きていられるけど光に弱いっていうところがあります。
また別なことを言うと、人類でも白人とそうでない人とで多少違いますね。白人の目というのは青いです。なぜ青いかっていうと、緯度が高いところに住んでいます。高緯度のところに住んでいます。そうすると光がやわらかいわけですね。やわらかい光を受けているもんだから、青い目でもいいわけですね。
ところが、こういう人が光の強いところに行くと、目を痛めちゃいます。目が痛くなってきます。それで赤道直下なんか住むと、えらいことになりますね。サングラスをかけないと目がやられちゃうんです。
まあこういうふうに光の強さに慣れる、慣れないというのがあるわけですね。
まあ天照大神様みたいにいつもピカピカ光っておられたら、そりゃ光の世界におられてもいっこうにかまわないけれども、通常の人間はね、天照大神様がいらっしゃるような光の世界に住めるかっていったら、やはり住めないですよ。やはり光が強すぎるんです。
たとえばあなたがたの部屋には、百ワットとか六十ワットとか、私はよく知りませんけれども、そのていどの蛍光灯をたとえばともしていますね。それでじゅうぶんなんです。
ところが六畳一間の部屋に一万燭光(しょっこう)の光を放ったら、そこに住めるかどうかですね。住めないのです。まぶしすぎるのです。こうしたものなんです。
ですからあの世の世界では、その人の心の段階に合わした光の強さのなかで生きとるわけですね。
そして私はいま九次元世界におるけれども、私たちの世界でも、まあ根源の神様の世界ではないわけですね。私もこういうふうに話をしておりますように、九次元にも上位の人たちがいますけれども、彼らもやはりまだ人間としての個性、人格は持っておるわけです。
ただひじょうに偉大な人たちです。人格神としての性格が強いですけども、まあ神様と言われてもやはり人格を待った神様であります。
したがってほんとうの神様というのは、もちろん十次元以降の世界にあるわけですね。
ですから、まあ私たちは根源の神、宇宙の根源の神と直接会って話してね、さして向って「いやー久しぶりですね。コーヒー一杯飲みませんか。」なんてね。「いやー私はコーヒーだめなんですよ。」いうふうに私ども言えないのです。
それというのも神というのが、まあおそらく人間的な判断、あるていど人格を持ったような要素も持っておられるでしょうけれども、それにしても偉大な宇宙を統べる意識、宇宙に遍満(へんまん)するエネルギーですから、そういうふうにはっきりした人格のあるものではたぶんないはずですね。
手足があってあなたコーヒー飲んだり、タバコ吸ったり、椅子に腰を掛けたり、地球儀クルクルまわしたりしているような神様ではないわけです。
そういうことで、最終の神の姿というのは、もちろん私たちは、はっきりとそれを描写することができないのでありますけれども、少なくともね、いまの四次元から九次元までの話を思い出していただきたいのです。上に行くほど光が強くなってくるのですね。これがはっきりしているのです。
4.逆に九次元の高級霊が下の次元へ降りてゆくとどうなるか
七次元、八次元、八次元より九次元と光が強くなっています。
ですから私たちの世界から行くとね、まあ八次元なんかもちろんまだ明るい世界ですけれども、七次元行くとちょっとね、昼間の蛍光灯のなかにいる感じがするわけですね。
菩薩界でもようするに昼間のね、部屋のなかにいて、蛍光灯つけたり電灯つけていて、なんとなく薄暗いでしょう、外が明るいから。ところが蛍光灯とかは夜部屋のなかにつけたら明るいね、ひじょうに。
しかし昼間だったら、なんとなくぼんやりしちゃう。こういうふうな感じなのです。
ところが菩薩界にいるとね、菩薩界の人というのは、それでもけっこう明るくてね、今夜の蛍光灯の光を見ながら生活しているのと、同じような感じになるわけなんです。
しかし私たちが行くと、ようするに昼間にね、部屋のなかにいて蛍光灯をつけているような感じでまだはっきりしない、ちょっと薄暗くした感じに感じます。
さらにその下の神界っていうところへ行くともうちょっと弱くなっていくんですね、光がね。
私たちの感じからいくと、どうでしょうかね、神界の感じっていうと、まあ朝でいうと、七時ごろの感じでしょうかね。あるいは午後でいうと、日がちょっと傾き始めた三時半から四時ごろの感じでしょうかね。そのていどの感じに感じます。
そして五次元霊界というとどういう感じかというと、まあ五次元霊界の日というのはもうちょっと朝の六時ぐらいか夕方の五時ごろの感じがしますね。
四次元幽界へ行くと、もっとちがってきます。もちろん幽界にも二段階があります。二段階にわかれていますね、幽界でもまあいちおう悟った人たちのいる世界というのは、精霊界といいますけれども、精霊界というのはいちおうまあ光の世界なんです。
そういうことで、日没前のギリギリのね、六時ごろあるいは朝の日の出、ギリギリぐらいの朝ぼらけの五時ぐらいの、まあそんな感じなのですね。私たちの感じは。
そして幽界でも下のほうにいったら、地獄界っていうのがあります。この地獄界っていうのは、もちろん真黒けですね。
でもその闇の濃さもやはり地獄の深さによってちがいます。上のほうはまだぼんやりしていますね。うすぼんやりしています。まだ日没後でもなんとか見える。まわりが見えるけれども、六時半、七時ごろの感じ、これが上層界の上部ですね。
これがだんだん闇が濃くなっていって、いちばん底に行くと真夜中になります。そんな暗さなんですね。
5.あの世の光の強さの相対性について
こういうふうに私たちの世界も、やはり光の量によって区別された世界であり、光の強さがちがっている世界なんです。
ところがおもしろいことには、それぞれの世界の住人は自分のところをたとえば暗いとか思っていないのですね。これがあの世の相対性なのです。
地獄にいる人が自分たちの世界を暗いとみているかというと、そんなにじっさいは思っていないのですね。まあもちろん、そんな明るいとは思っていないんだけどね。
お世辞でも明るいとは感じられませんけれども、でもだんだん目が慣れてきてね、最初のころは暗いと思ったけれども、この世界はこんなもんかなと、だんだん思ってくるんですね。
それはちょうど、洞窟のなかで生活しているとね、洞窟のなかがいろいろ見えてきますね。そして長年そこに住み慣れてくると、それがふつうの明るさに感じてくるのといっしょです。
ところが真昼の世界を歩いてきて、いきなり洞窟のなかへはいっていくと、目が見えませんね。真黒けで目が見えない。こういう感じがするわけです。
あるいは洞窟のなかで生活している人がいきなり外へ出ると、目がくらむわけですね。場合によっては脳震盪(のうしんとう)起こしたりします。こういうことがありますね。
こういうことで慣れということがあって、地獄に住んでいる人は、その明るさのていどそのとおりだと思っています。
また六次元神界にいる人は、たいへん自分たちの世界が明るい世界だと思っています。菩薩界の人はこれを当然だと思っているし、如来界の人というのは明るいもんだという感じで思っています。そういうことがあるわけですね。
それでたとえば私たちが地獄界へ行くときには、ひじょうにまあ苦労するわけです。そのままの姿でやはり行けないのですね。
こういうように光の量のちがう世界だから、九次元世界にいれば高橋信次というのもたとえばネクタイしめて、ワイシャツ着て、背広着てね、まあバンドをピシッとしめてね、ふつうの人間みたいな姿にたとえば見えるとしても、八次元ぐらいに降りていくと、ちょっと神々(こうごう)しい感じになってくるんですね。ちょっとまぶしいなあっていう感じになってきます。
八次元の人は同じ世界の人といっしょに話していたら、お茶飲んでいて別に気にならないけれども、私たちが行くちょっとまぶしいなあとちょっとだけ居心地が悪い感じがするのですね。
そんなら私らが菩薩界に行くと、もっと光が強く感じるわけですね。後光量が大きくなったように見えてきます。
そうするとお盆みたいな金色の後光をパカーッとうしろにつけてあるからそれを見るとね、まるで料亭か、あるいは割烹屋の前で、狸かなんかのありますね、彫刻かなにかの感じでね。あんなのが出てきたような感じになっちゃってなんか、狸さんが背中に蓑(みの)かなんかつけちゃって立っているような感じになっちゃって、ひじょうに目立つわけですね。目立って行動の自由がないんです。
ちょうどプロ野球の選手か芸能人みたいな感じでね、「あらまあ。」って感じでね、なにか偉い人が来たよって感じで、ちょっとみんなそわそわしちゃってたいへんなんですね。
だから如来界へ行ったら、そんなに私が行ったからってみな、そんなにそわそわするようなことはありませんけれども、菩薩界ぐらい行くとやっぱりそわそわして人が集まってきます。まわりをとり巻いて、あっという間に五百人、千人が寄ってきて、すぐ講演会へとなるわけですよね。
講演会っていったってあなた入場料千円払わなければ私はしゃべりませんよ。あいにくいま、持ち合わせがないのであとでまたまとめて送るから、とりあえず講演会やってくれ、ってね。あとで郵便為替でまとめて送るからね、まあやってくれなんてね、まあこういう感じになってきますね。
六次元神界あたりに行くともうそうとう巨大な光みたいな感じになってくるわけですね。六次元神界の人は、私たちの姿を見ると、もうかなりまばゆくて、目がはっきり開けられない感じです。
ちょうど太陽を背にして立っているようなもんでね、目がシバシバしちゃってはっきり見えないんですね。そのぐらいの感じになってただ人間のかたちのような感じはうけるのです。
じゃ五次元霊界へ行ったらどうかというと、もう姿が見えないのですね。この辺になってくると、もう大きな光としか見えなくなってくるんです。人間というふうには思わないのですね。
なにか巨大な、UFOでも飛んできたのかなと思うんですね。
とくに高橋信次の大型の円盤というのはもう葉巻型の円盤みたいな感じでなんかね、ちょっと胴が大くて、なんか細長いなんてね、こういう円盤かもしれませんけれども、そういうふうに宇宙の航空母艦でも降りてくるような感じで、たいへんな感じです。
四次元幽界、まあこのなかでもとくに地獄なんか行くとたいへんですね。そのままで行くともう、たいへんです。敵機来襲ですね。
B29かあるいは、宇宙の大軍が攻めてきたような感じでね、「巨大な宇宙戦艦現わる。全員配置につけ。」っていうんでね、高角砲でも設けてドンドンドン打ち落とさなければいかんようなね、そのていどの感じなんですね。
6.通常は一段階上の霊人が下次元の霊人を指導する
そういうことでそのまま私たちは行けないんで、下の世界へ行くときには多少光度を落として行かねばいかんのです。
まあこういうしくみについて、あなたがたに語ることはほとんど不可能に近いのですけれども、光の量を調整する装置というのがあるんですね。これによって、行く次元にあるていど合わしていくんです。
それでまあ地獄に行くにしても、それなりの人間らしいかっこうにいちおうしていくんだけれども、普通だったらそれでいいんだけれども、そこでやっぱり話をしたり、説法したりすると、蛍みたいにピカピカピカピカと後光が出始めるんですね。
後光が出始めるもんだから、地獄の人間たちは怖がり始めます。とって食われるんじゃないかというような感じを持つようです。まあこういう感じなのです。
まあこういうことがあってふつうは自分がいる次元からの移動ということはあんまりしないのです、必要なことがある以外は。
で、たいていの八次元の人を指導するのは九次元の人だし、七次元の人を指導するのは八次元の人、六次元の人は七次元の人が指導する。五次元は六次元の人、四次元は五次元の人と、まあこういうように手順を踏んでほんとうは指導するのですね。
それで二段階以上雲居が違う場合は、やはりときたまの大きな指導というかたちでしか行かないのです。こういうふうになっています。
7.地獄界の入口
上から下に降りてこれたという話をいましたけれども、逆にじゃあ下から上へ上がれるかということですね。
じゃ地獄霊がどこまで来れるかちゅうと、これはまあちょうど四次元でもね、わかりやすく言えばまあ地面みたいのがあると思いなさい。そして四次元の幽界のなかで、精霊界の人は地面から上に住むんですね。
ところが地獄の人というのは、そういう地面があれば、四次元の地面があれば、地面のなかにいっぱい穴掘っとるわけです。穴掘って、その穴開けるとパターンと下に落ちたり。あるいは山があってね、岩陰に洞窟がある。その洞窟のなかにドンドンドンドン降りていくと地獄にはいっていく。こういう感じなのですね。ちょうど世界観を提示するとすれば。
だからそういうふうに洞窟があるとか、洞穴だとかね、そういう感じで四次元地獄界への通路があるんだけれど、彼らは暗いところで一生懸命住んでおるから、なかなか出てこないわけですね。で、ときどき出てこようとするんだけど、光が強くて、怖くて、出れない。まあこういう感じです。
けれどもそういう地面あたりを境にしてね、やっぱりいろんな活動が起きているのですね。地獄霊どうしでやっぱり集団となってね、なんとか上にいる人をひきずり込んでやろうとしているんですね。
ちょうどモグラみたいなもんでね、地面の下ムクムク歩いておって、上に四次元の精霊界の人がおったらね、なんとか足捕まえてひっぱってやろうと、思っているんですね。
だからときどき足すくわれて引きずり込まれるんです。まるで河童みたいなものですね。河原のほとり歩いていると引きずり込まれちゃうんでしょう。馬でもなんでも。ああいうふうに河童みたいなもんでひじょうに力が強いですからね。
逆に四次元の人、あるいは五次元の人が、あるいは六次元の人が行ってね、地獄霊救おうというときにはいちおう、悲愴な覚悟です。ヘルメットかぶって頭にカンテラ照らしてね、これからこの岩陰の洞窟からはいっていく。
「者どもよいか。ぬかるなよ。帰ってくる道は険しいぞ。もしかしたらむこうで捕まってしまって、生きながら天婦羅(てんぷら)にして食べられるかもしれない。それだけの覚悟していかねばならぬぞ。よいか。」っていうんでね。「ハッ、わかりました。」 っていう感じでやるわけです。
それで指導団を組んでね、岩陰の洞窟からドンドンドンドン階段を降りていくわけです。そうするといろんな世界がだんだん展開してくるわけですね。
8.地獄界探訪①――阿修羅地獄
そこにたとえば、まあ最初の地獄が阿修羅地獄(あしゅらじごく)だとしましょうか。阿修羅界っていうと、そこは闘争と破壊の世界です。
まあいえば暴力団の世界ですね。殺し合い、殴り合い、蹴飛ばし合い、そんなことが日常茶飯事です。町の辻々でやっぱり人がね、袋叩きにあったり、お金を巻き上げられたり、そんなこといっぱいしています。
そういう不良の世界、暴力団の世界みたいなところがあります。
まあこんな世界もたいへんですね。
あるいはちょっとちがう町のほうへ行くと、また有名な水商売みたいな世界がありますね。そこに行くと誘惑が待っとるわけですね。それで私なんかあの世のお酒の匂いが好きなもんだから、ちょっといい感じだな、なんてね、お酒――気分だけですけれどね――お酒の匂いがするとなにかいいような気分がするわけです。こちらでもね。
そうするといい、よさそうなバーがあるなんてね、オープン・パブとか書いてあるから、これはちょっと、なんてね、ドアを押して入っていきます。
「これはお客さんいらっしゃい。」なんてね。「なかなか血色のいいお客さんですなあ。」なんてね。
「ほう、地獄では珍しいですなあ。」なんてね。
「地獄ではたいてい青白いのが多いのになんかお客さん、ずいぶん血色がよくて肉づきがよくてまあ元気そうですなあ。」なんてね。「あとでペロッと食べてやろうかなあ。」なんて思いながら言うとるわけです、支配人が。
「旦那どうぞどうぞカウンターあいてますから、どうぞ。」って。「お客さんなんにしますか。」なんてね、「そーら有名な酒ってありますよ。地獄酒っていっぱいありますよ。地酒ですよ。これがほんとうの地酒。地獄の酒だから地酒っていうんです。おいしいですよ。日本酒もあれば、そりゃあ洋酒もあるし、ワインもあるし、なんでもありますよ。」ってね。
「まあそこらへんの赤いの一発いってみようか。」ってね、私が言います。
「わかりましたカクテルにしますか、どうですか。」「ああいいですよ。」「わっかりました。」ってね。
そしたらなんか、バーテンみたいな人が、こうシャツシャツシャツシャツと混ぜて振ってます。でカクテル作って、「ハイできあがりました。赤色のができました。」なんてね。で、飲むとたしかにアルコールの味がするけど、なんか生臭いね。
「これなんですか。」って言ったら、「そりゃああなたね、最近とりたての人間の血で、割ったやつですから、これはおいしいです。」
そしたらあんた吐き出しちゃいますね。「ウエーツ。」っていうんでね、気持ち悪い、まあこんな世界もあります。
9.地獄界探訪②――すり鉢地獄
あるいはまあちょっと横に行くとね、まあすり鉢みたいなところがあるんですね。すり鉢地獄みたい。まあアリ地獄みたいところでね、こんな町もありますよ。
たとえていえばちょっと旅して疲れたなあなんてね水戸黄門さんになって疲れたなあと思って、はいっていくと、前にサボテンかなんか立っていて、アッこの世界はなんていうところかね。下に眼下に遙(はる)かにこう大きな世界が広がっている。
そしてあなたグランド・キャニオンですよ。アメリカの。凄(すご)いですね。自分が立っているのは高台で、下はなんとあなたものすごいすり鉢ですよ。ほんとよく見ると、なんか下のほうで人がいっぱいうごめいています。砂漠のなかにね。
なにしているかっていうと、まあそこから逃れようとして一生懸命あなた崖(がけ)上がっとるんですよ。崖上がっとるんだけども、前の人が上がろうとするとうしろの人が足引っぱって落とす。そしてつぎの人が上がろうとしてまたそれを落とす。
こういうかたちで、エゴイストの世界でね、人が落ちるのはいいけど、自分が落ちるのはいやだっちゅうんで、ようするに人を踏みつけても上に上がろうとする。そしてひとりも上がれないんですね。
そんなことばっかり永遠やっとるんです。彼らは。
協力するということがわかればそのすり鉢から上がれるんだけれども、自分のことしか考えてないのでぜんぜん上がれないんですね。こういう世界があります。
10.地獄界探訪③――妖怪の世界
また旅をしていくと、どういうところがあるかっていうと、ひじょうに怖い魔界みたいなところがありますね。
そこではいろんな魔物が住んでいます。もちろん水木しげるさんの世界もありますよ。『ゲゲゲの鬼太郎』の世界。提灯(ちょうちん)があったり、傘(かさ)があったりするんではありませんけれども、いろんなあの世の魔界の生物、妖怪たちが住んでいます。まあこれは妖怪漫画を読んでいただければよいです。
彼ら漫画家はじつに的確につかまえていますね。ああいう世界です。いろんな妖怪がほんとうにいます。
やっぱりああいう漫画家なんかでも、そうした世界からのやはり指導というのか知りませんがね、受けとるでしょうね。だからわかるんでしょう。私はそう思いますよ。
まあそういうことで、そういう妖怪の世界にはいったら気持ち悪いですよ。
森のなかにはいるとね、まわりが木だと思っていたのに、「ハッ」と気がつくと、いつのまにか木に顔が見えてくるのですよ。
そうして「アッこれは人間かな。」と思うと、木の枝がグニューと曲がってきてね、シュシュシュシュと伸びて私の体をしぼり上げてね、ヒューと持ち上げていくわけです。それでどうするかなっていったら、あなたなんと木のてっぺんに口がついていて、そんなかにほおり込むんだね。ポンポンポンポンとね。
まあなんかこんなのありましたよね。食虫植物、ハエかなんかを食べる、それですよ。そんな木もあります。こんなのはもともと人間みたいなもんなのでしょうけれども、そんなもんになっちゃってるんですね。霊を取って食べるような木もあります。
あるいはもちろん動物のようなかっこうした妖怪いっぱいいますしね。吸血鬼ドラキュラなんてこの世界にいっぱいいます。ほんとうにいるんですね。
もちろん妖怪の世界にも、日本風妖怪の世界と、あるいは中国風妖怪世界。インド風妖怪世界。あるいはイラン・イラク風妖怪世界。西洋風妖怪世界。
西洋でもドラキュラの出没するルーマニアのほうですかね。あちらのほうの出身ですから、あちらのほうの妖怪世界もあります。そこに行くともうドラキュラさんなんかががんばっていますよ。
そこにまた可愛い美女ちゃんなんかが、美女が可愛いのはわかっていますけれども、「フフーン。」って鼻歌歌って歩いていると、教会みたいなのがあって、「お嬢様、お嬢様。」と声かけるのですね、牧師さんみたいな人が。
「ハイなんですか。」ってね。「あなたは、いろいろ心に悩みがあるようですね。」 「そうでしたっけ。私悩みないんですけれども。」「イヤそうじゃない。悩みがないっていうのがすでに悩みなのです。そりゃああなたが悩んでいる証拠です。はいりなさい。私が説教してあげますので。」
そしてこの怪しげな物騒な教会にはいっていきますね。そしてなんかガランとしています。日曜日だったらいっぱいなのに、普段の日だからはいっていないんでしょうか。
そして牧師さんが前に立って十字架をぶら下げながら、説教していますね。説教しているとだんだん眠くなっていくから、美女がよだれたらして鼻提灯作ってウトウトとしていますね。
そしたら「シメシメ、どうやら私の説法の効果がでてきたな。」って。
で、「そーれ。」ちゅうんで手を伸ばして美女を抱きかかえます。そして別室に連れていって、寝かします。
美女は勉強があまりむずかしかったんで、スヤスヤと眠っています。「ドーレドレドレ。」っていうんで、ハイ、ドラキュラが「ガァー。」と「ニィー。」と笑いますとそれは凄(すご)いですね。牙が二本ニョキニョキって。
そして、目はテレビ映画で見るようなもんです。あの青か赤か知らんけど、ギラギラ光って、カプッといくわけですね。そしたら、「ギャー」ですね。
それはご存じのとおりです。まあこんな妖怪地獄みたいのもあります。
11.地獄界探訪④――血の池地獄
これはまあみんな可愛いもんなんですね。可愛い世界ですが、もっと下の世界もありますね。これはいまの世界はまだ満月の夜みたいでね、月夜みたいな光がかすかに射しています。もっと下にいくと、もっとたいへんになっていきますね。
まあ血の池地獄なんかはもっと下のほうでしょうかね。そこに行ったら秋吉台の鐘乳洞じゃありませんけど、なんかそんなとこ、ストーンと落ち込んだような感じでね。
落ち込むと下には庭に大きな池があって、沼があって、鐘乳洞のなかに落ち込んだと思ったのになんか意外にここは沼で、大きな沼でなにかと思ったら、ネバネバしている。見てみると人間の血でできた海です。
そのなかにあなた、最初腰ぐらいだと思ったらだんだん深みにはいっちゃって、もう喉(のど)まできます。
そしてアップアップいって血を飲んでいるような感じですね。こんな苦しいところもありますね。生前情欲に苦しんだ人たちです。
このへんになったら光がほとんどないですね、もう。これが地獄の中段階ぐらいの人たちのいる世界。こういう世界があります。
12.地獄界探訪⑤――畜生道
あるいは、同じく地獄の中段階ぐらいでも、畜生道がありますね。動物界。まあそういうところがあります。そこに行くと、生前あくどいことをやっていた人間はね、やはり動物のような体をしとってね、生きてます。
まあライオンみたいになってみたり、蛇みたいになってみたり、狐みたいになってみたりしてやっていますね。たいてい稲荷大明神なんていってお祀りしてそしてそこにお参りにくると人間に憑依したりするのがこのへんの動物霊に化けた人間ですね。畜生道の人間たちに憑依されています。
だから彼らはもちろんお腹が空(す)いてしょうがないから、動物たちでも感情があるしお腹が空きますから、なんとか油揚げ三枚奉(まつ)っているところへ行ったらね、食べられるんじゃないかと思って出てくるんです。
そして心が地獄へ向いている人を見たら、パツとそれに憑依しちゃうのですね。こういうことがあります。
13.地獄界探訪⑥――無間地獄(むけんじごく)
それでもっと深いところがありますね。地獄の三丁目かなんか知りませんけれども、三股目ぐらい深いところへ行くともうほとんど光が射さないで、ちょうどマリアナ海溝みたいなね、一万メートルの海溝じゃないけれど、光がぜんぜん射さない世界です。
そしてその世界でもいろいろあるんですけれども、まあ深いところのひとつは無間地獄(むけんじごく)。生きていたときに地上の人たちを狂わした人たちが行く世界です。まちがった政治指導者。あるいはまちがった宗教指導者、こういう人たちが行くところなんですね。
とくに宗教家たちが多いです。なぜ宗教家が多いかというと、宗教家のまちがった教えは生きている人間の心までも狂わしてしまうからですね。
こういうことでまちがった宗教を説いた人というのはまちがいなくこの地獄界の最下段、無間地獄というところに落ちてます。
ここは厳しいです。非常に厳しい世界でね、まあここにもいろいろなところがありますけれども、たいていみな孤独です。ひとりでね生活しています。深い深い闇のなかで深い霧のなかでね、なにも見えない世界です。
そして自分の生きていたときのことを思い出さざるをえないような世界になっているんです。
そこで、いろんな人のことを顔を思い浮かべては反省するんですね。自分の説いていた教えのどこがちがっていたのか。
あの人をこう迷わしたのではないか、なんてことをいろいろ反省するんですけども、いかんせん宗教の場合は、その伝播性(でんぱんせい)、広がっていく速さもあるし、それからのちの世に対する影響がありますから、なかなかそれが反省し切れないのですね。
普通の人が反省するのはかんたんだけれども、宗教家の反省って厳しいんです、それだけ。というのは、他の人を狂わしてしまっていますから、大量の人、彼らのその心が晴れるまで罪が消えないんでね、自分だけがまちがっていましたと反省しただけですまんのです。生きている人たち、あるいは死んであの世へ行った人たちの心のまちがいがぜんぶ救われるまで、罪を晴らせないのです。
したがって、まちがっか宗教指導者たちは二代目が地上でいつまでもやってまちがった教えをやられると、ますます苦しいのですね。
そのまちがった教えをようするに止めさすわけにいかんから、自分が教祖がね、地獄に堕ちて、自分がまちがったことを知っている。知っているけれども二代目、三代目はようするにそのまちがった教えをドンドンドンドン広げておる。そうすると苦しいんですね。ひじょうに苦しいです。
14.謙虚さを忘れたとき、宗教指導者は転落する
こういうかたちで現在の新興宗教の教祖でも、苦しんでいる人いっぱいいますよ。広げれば広げるほど苦しいんです。
ところが後継者たちは広げにゃあいかんので一生懸命がんばっとるんですね。広げられるほど苦しいのです。そういうことがあります。
まあそういうことで宗教家はひじょうに厳しいから、地上にいる人はほんとうに宗教の道だけはなるべくはいらんほうがいいです。
とくに宗教指導者やってメシを食うんだけはね、よっぽどのことがない限りやめておいたほうがいいです。私はお勧めしません。
普通の経営者としてね、会社がつぶれて従業員といっしょにね、路頭に迷うぐらいならまだ可愛いです。従業員何人かがね許してくれたらそれですみます。
ところが、宗教指導者の場合は罪を許してくれないのです。まちがっていた場合にね。
そういうことがありますから、まあ私なんかでもね、もう一回地上に出て職業をやるんだったら、なるべく宗教家はやめたいですね。もっと楽しい職業やりたいなと思ってます。それだけ厳しいんでね、地上にいるときに宗教をやっている人たちは、心しなさい。
ほんとう、宗教の世界っていうのは、ほんとうのこれが魂の世界であるだけに厳しいんです。ひじょうにね。
とくに教祖なんかやっている人は、まあそれで生活成り立っておるのだろうけど、いくら生きておるときに金儲けがうまくいってもね、死んであの世に還って、ぜんぜん割に合わんです。まったく割に合わないです。この苦しみ、この淋しさ、この空しさからいくと、割に合わんです。
だからよくよく自分の足元を見つめて、一点の誤りもないかどうか、よーく反省しなさい。そしてその反省のときにいちばんだいじな要(かなめ)はなにかというとね、増上慢(ぞうじょうまん)になってないかどうか。尊大になっていないかどうか。自惚(うぬぼ)れになってないかどうか。
自分を本来偉大な人物だと思ってね、実践がともなっていないのにそんな勘違いしていないかどうかね。
まあ謙虚さということを忘れたときに宗教のつまずきが始まるんです。まあとくに謙虚さということかだいじですね。
15.神の世界は光一元、しかしその強度に段階がある
まあきょうはそういうふうにあの世の世界のことを光になぞらえて話をしましたが、こういうふうに光の違いがあります。そしてあの世の世界をはっきり知れば知るほどね、神は光なりってことが、わかるんです。
そういうことで、ある光明思想家団体でね、光一元の説を説いていますけれども合っていますね。神の世界は光一元です。
それもただ光一元ですけれども、一元というのではいい尽くせないのであってね、その光力強度、強さというのがだんだんちがっているのです。そういうことです。まあそういう世界になっています。