目次
(一九八七年十一月十三日の霊示)
1.ナザレのイエス
私が、二千年前に、ナザレの地に肉体を持ってより、すでに二千年の月日が流れました。この二千年を思うとき、長いという感慨もあるが、また、わずかな時間であったという思いもある。二千年の月日は、あるときは長く、あるときは短く、思われるけれども、いずれにしても、地上に肉体を持つということの意味を、深く、深く、感じさせるものがあります。
我らは、数千年に一度しか地上に肉体を持ちませんが、そのわずか数十年の人生が、自分の運命にとって重要であるのみならず、全人類の運命に大きな影響を与えているということ、これに対して、深い、深い、責任を感ずるものであります。ひとりの人間の生き方が、後(のち)の世の人びとの生き方を決定するという大きな任務を考えたときに、あなた方の人生も、また、大変な重荷を背負うているということを、知らねばならんと思います。
我はナザレに生まれ、三十三歳にてその人生を閉じたものでありますが、この三十三年の人生は、おそらく、一億人も、十億人もの人生分にも匹敵したものであろうと思います。当時は、まだ、現代のように、活字も発達しておらず、書物も出回っておらず、テープもなければ、ビデすもないというような、そうした時代でありましたが、それでも私の人生というものが、多くの人びとの心に、何程かのものを残し得たということは、我が心のなかの、ひとつの、安心立命(あんしんりつめい)と申しますか、心のなかの清涼感ともなっています。反面、自分の人生、この三十数年間の人生というものを、実在界に還って、二千年このかた考えてみるに、まだまだという気持は、多くあります。
私としてはまだまだの人生であっても、後の世の人から見れば、それを完全な人生であるかのごとく考えがちであります。私もまた、肉体を持って地上にあった一個の人間としての限界を感じつつ、生きておったものであります。
今から思い出すのに、二千年以上も前、いや三千年、そのぐらいの前になりましょうか、私が地上に肉体を持つ千年ぐらい前には、すでに私が地上に降りるということは予定されておりました。そして、エレミヤもそう、あるいはイザヤもそう、さまぎまな預言者たちが地に降りて、やがて私が生まれるということを預言していきました。そうした序曲というものを、いつの時代も奏(かな)でる人がいるわけであります。
光の指導霊というものは、いつの時代にも、自分の後に来る者の予言をして地上を去っていくのです。
最近においては、高橋信次という人間が、地上に肉体を持ちましたが、後にしても死ぬ間際(まぎわ)に、後に来る人のことを予言していったはずです。すなわち、その五年後に、彼が地上去った五年後に、法を継ぐ人が出るということを予言して、地上を去ったはずであります。
実を言うと、この予言こそが、彼の今回の人生において、最大の重要事であったということなのです。それがあわただしく、ほんの急ぎの時間の中になされた予言のようにも思われるけれども、その予言が、実は彼にとって一番大事なことであったということであります。
私たちの世界から、二人の指導霊が出て、そして、バトンタッチをしていくという予定になっておったのです。ナザレの当時において、私が法を説いたときに、さまざまな苦難、困難と相対峙せねばならなくなりました。
その理由のいくつかを考えてみたときに、一つには、私が救世主であることを自分で名乗りはいたしましたが、その、私が救世主であるということに対する予言というものが曖昧(あいまい)であった。こういうことがあろうと思います。後の世に、そうした救世主が出るということは子言はされておったけれども、それがイエスと言われた私であるということを、世の人びとがそれを認めることはできなかった。それがゆえに、我が十字架があったということが言えると思うし、また、その予言が不明確であったがために、私の命も縮(ちぢ)んだと同様、また、私もさまざまな迫害を招来せざるを得なくなったということがある。
それ以外にも、三十歳という年齢で、法を説き始めたということが、やはり、世の律法学者という大家他たちから見れば、何にもまして、妬(ねた)ましいことのように見えたのではないか。こうしたことが、彼らの憎悪と怒りを増幅させたのではないか。こうした感じがあるわけであります。
こうしてみると、私たちは、大いなる反省のもとに、新たな計画を練(ね)ったわけであります。それは、後(のち)に出てくる者の予言を、より明確にするということが一つ。それと、その者が大いなる迫害を受けないですむように、周到な準備をするということ。この二つであります。こういう二つの大きな用意をしたわけであります。
2.十字架の意味
さて、私は二千年前に、ナザレにある、まあ、ゴルゴダという丘、「しゃれこうべの丘」という意味でありますが、この小さな丘に、罪人たち二人と共に、十字架に架けられたわけであります。
やがては、この事件も、神話か何かのようになっていくのでありましょうが、しかし、現特点であなた方が感じるように、これはまだ、歴史的なる事実でありました。
この十字架の意味ということに関して、キリスト教会でも、この長年の間、さまざまに議論がなされてきました。何のための十字架であったのかということです。また私が救世主であるのに、なぜ救世主が、死という現象に見舞われねばならんのか。なぜ、罪人とともに磔(はりつけ)にあうという、この世的には一番最悪の死に方をせればならんのか、といことに関する疑問であります。
また、いま一つには、贖罪(しょくざい)説、これに関する疑問も数多くあると思います。神は、人類の罪を贖(あがな)わんがために、その一人子をこの世に遣わして、十字架に架けられたのである。こうした考えに関する、さまざまな議論があると思います。 この贖罪説、人類の罪を贖わんがためにということに関しては、二つの面からの検討ということがあり得ると思います。
第一の面は、これは、事実その通りという考え方であります、すなわち、私が地に遣わされたというとは、それ自身が、ほかならぬ人類のための肥やしであり、また人類のための肉であり、人類のためのワインであったということは、事実であります。引き裂かれたパンのように、私は人びとの口の中にほうリ込まれ、私の血は、絞られた葡萄酒(ぶどうしゅ)のように飲みほされたのであります。これは事実であり、私という人間が、その生命を捨てるということによって、多くの人びとの心の糧(かて)となったということ、彼らの精神の乾(かわ)きを癒(いや)したということ、これは真実であります。こういうことを言うことができると思います。
さすれば、この人類の罪を贖(あがな)わんがために、神がその一人子を地上に遣わしたということは、その意味においては当たっているわけであります。我が肉体は、人びとが食するための、小麦のパンであったのです。そして我が血は、我が流す血は、人びとを祝福するための葡萄酒でもあったということです。結局のところ、人びとは我が精神を食らい、我が命のしぶきを飲みほして、そして、精神の糧としたわけであります。
その意味においては、我は大いなる自己犠牲のもとに、人びとに奉仕をせんとしたわけであります。この点において、一つの生(い)け贄(にえ)の子羊的な考えも、なかったとは言いかねる面もあるかと思います。
しかし、もう一つの点、もう一つの面というものを、見落としてはいけない。その面とは一体何であるかというと、私が十字架に架かったことによって人類の罪が贖われたわけではないということ、これを知らねばいけないということです。
私が十字架に架かったということは、それ自体は、人類がそれだけ罪深い行為をしたという事実を、歴史の中に残すことになった。この事実自体を考える立場に、二者あり。一者は、それほど罪深いことをする人間であるからこそ、大いなる懺悔(ざんげ)をし、心を悔(く)い改めねばならんのだという考え方であります、この意味に立つならば、この見地に立つならば、贖罪説というのは、ある意味では当たっておるかもしれん。
ただ、もう一つの意味として、私が十字架に架かることによって、人類の罪がそのまま許されたのだ、何もしないで許されたのだという考え。すなわち、神という、大変凶暴な種類の方がいて、その方に人身御供(ひとみごくう)を捧げたら、その怒りが鎮(しず)まったというふうに捉(とら)えているとするならば、これは間違いであります。
私の死は、天上界においては、大いなる悲しみをもって迎えられたのであります。それは後の世に、モーツァルトという人が、レクイエムという曲を作曲したがごとく、そうした大いなる悲しみでもって、高級諸霊たちは私の死を眺(なが)めたのであります。それはある意味で、決まっておったことではあったけれども、やはりその通りになったということが大いなる悲しみでもって迎えられたということであります。
十字架ということは、私が地上に出る千年も前から、予定はされておったことであります。それに対しては、いろんな考えもあったでしょう。たとえば、ナザレの王イエス、ユダヤ人の王として、本当に支配者として君臨するという生き方もあったでありましょう。かつて私は、そうしたことを何度も経験したことがあります。地上に肉体を持ったときに、何度も、何度も、王として人びとを統治したことがあります。
しかし、今回は、私の身分としては、一番最下層の身分として出たわけであります。一文(いちもん)の資産もなく、その日の糧にも困り、ねぐらをとる所もなく、そして、多くの人に石を投げられ、茨(いばら)の冠(かんむり)をかぶらされて、そして十字架に架けられた。罪人と共に十字架に架けられた。そうした人生を選んだ。
幾度の転生輪廻の中には、そうした立場に立つ必要もあるということです、それはまた、大いなる謙遜(けんそん)の美徳を人びとに示さんがために、行なったことであるのです。
二千年たった今、私の出誕ということ自体が、処女降誕ということになり、さまざまな神話で彩(いろど)られてはいます。ただ、私の本当の生き方、人生というものは、そうした奇跡的なものではなくて、やはり、俗人に交じりながら、俗人とは違ったものを次第に発揮していったというのが、本当の人生であったと思います。
今、この三十三年の生涯というものを、振り返ったときに、自分ながら、こうしたことはもう二度とはあるまいと、よく、つくづくと思ったものであります。それは生きている人間として、自分が神理の法を説いておりながら、そうした悲劇的な最後を終えるいうこと、その悲劇的な最後を終えて、その後世界が一体どうなることかということに関しては、やはり未知数でもあったわけであります。
本当に、これが、自分が十字架に架かることによって、全世界がやがて変わっていくならば、それは良いことでありますが、いかんせん、肉を持った身としては、十字架に架かるということによって、自分の存在が否定され、自分の教えが否定さたがままになるならば、何の生涯であったかがわからないという、そうした不安はあったと言えましょう。私としての、人生の価値が、ある程度定まるには、私の死から、やはり百年の歳月がかかったということが、真実であったと思います。
今、みなさん方は、どうしても急ぎ過ぎるということがあって、同時代に、同時期に、自分たちが認められなければならないという考えを、持ちがちでありますが、しかし、本当はそうしたものではないということであります。
私にしても、その値打が固まるのに、やはり百年はかかったのであります。百年ぐらいかかって、多くの弟子たちの力によって、そして、次第に世に認められるようになったようなわけであって、生きていたときには、ほとんど認められなかった。
群衆たちも、数多く私を支持してくれたけれども、私が十宇架に架かるときに、私を守ってくれた群衆はいなかったのです。私が得意の絶頂にあったときに、私を支持し、応援してくれた人は、数多くいたけれども、私に王の権力の刃(やいば)が向けられたときに、身をもって私を守ってくれた人は、いなかったのであります。
3.師と弟子
さて、ここで、私の弟子たちについて、話をしておきたいと思います。聖書のなかでは、十二弟子といって、有名な弟子たちが数多くいることになっております。今、私の最後のときに、私を守ってくれた人はいなかったということを言いましたが、これ自体が、聖書の中に記(しる)されている通りであります。
あれほど私に忠誠を誓ったペテロでさえ、我が身の可愛(かわい)さのために、私を裏切ったということが、聖書に残されています、三度まで、私のことを「知らぬ」と言ったわけです。私はそれを予言しました。「ペテロよ、汝は、鶏が暁の時を二度告げる前に、我がことを、三度知らぬと言うであろう。イエスなど知らんということを、あなたは言うであろう」。私は予言した。
しかし、ペテロはそのときに、「いや、先生、そういうことは絶対にあり得ません」。こういうことを言ったのです。
しかし、私の予言通りになりました、そのペテロは、私が逮捕される前の晩、王の軍勢が私を襲いに来たときに、剣を抜いて私を守らんとして戦ったほどの、勇ましいペテロでありました。それほどのペテロが、私がもはや囚われの身となり、王宮の中に囲われたときに、侵入していって、我が姿を見んとして、番人に見つかったときに、自分はそうではないということを言ったのであります。
まあ、ここに、人間の弱さと、我がドラマのなかにある悲劇性というものが、あったであろうと思います。結局、私が捕らえられたときに、多くの弟子たちはクモの子を散らすように、散ったわけであります。
そして、私を裏切ったということになっている、ユダという人間がいます。後世の人びとから見れば、なぜイエスは、そうした自分を裏切るような者を弟子にしたのか。あるいは、自分が十字架に架けられることを予定しておって、そうしたユダという者を入れたのか。こうしたことが、いろいろと議論されているようです。ただ、 ユダという者も、私の可愛かった弟子の一人であったのです。それは事実であります。
今、私は、私自身の口から、こうしたことについて話をしなければいけないと思います。
ただ、この十二人の弟子たちのことを考えてみるときに、私は彼らに、多くの教えを説いたけれども、残念ながら、私自身が、彼らを強くし、彼らを本当の高みまで導くことができなかったという点が、残念に思いますし、私が地上を去ったあと、多くの弟子たちを、そのまま若い命を散らしてしまったということに関して、非常な悲しみを感ずるものであります。できるならば、彼らに多くの成功を与えたかったという気持があります。
キリスト教のなかには、どうしても悲しみというちのがあり、どうしても悲劇性というものがあるように思います。それは、人類の記憶に残るドラマとしては、そういう悲劇というものも、いつの時代にも用意はされているのです。悲劇のドラマというものは、人びとの口にのぼり、多く記憶のなかに残っていくのです。そういう意味において、悲劇ということも、伝道において、大事なことにもなりますが、ただ、私の流れを汲(く)んだ者のなかに、悲劇的なるものを好んだ者が多かったことも、事実です。
それは、後の世の人たちも、数多く十字架に架けられ、火あぶりに遭(あ)い、石にて殺されたという事実であります。この事実を、どう観ずるかということでありますが、結局、弟子というものは、師を真似(まね)るということであります。師がそれだけ激しい生き方をしたということが、結局、弟子たちの、そうした生きざまを決定したのではないかと思います。私自身の、妥協を許さない性格が、後の世の弟子たちの死に方を決めたように思います。
その意味では、師と弟子というものはいつも、一連の、ものの考えの中にあるということが言えましょう。私が、本当に平和をもってよしとするならば、そうした弟子も数多く出たかもしれませんが、私は、結局のところ、愛と調和は説きましたが、その実践として、その実行としては、やはり戦いの人であったということが言えると思います。それほど魔は競(きそ)い立ち、神理の火は消えんとしておったのです。
このときに、私は人びとに言いました。
「我が平和を持ち来たらさんとすると思うな。我がこの世に来たりたるは、汝らのなかに剣(つるぎ)を投ぜんがために来たるなり。我が投ずる剣(つるぎ)によりて、夫婦は別れ、親子は別れ、兄弟は引き裂かれるかもしれぬ。しかし、この剣を投ぜんがために、我は来たるなり」
こういうことを私は言いました。すなわち、神理ということを信ずることによって、大いなる危難、困難というものが来て、それと戦うときに、もはや人間としての絆(きずな)を断ち切らねばならんことがあるということを、予言しておったということであります。
まあ、これは、現代のあなた方に説明しても、必ずしも理解を得ることはできないであろうと思います。なぜならば、その時代環境というものが、あなた方にはわからないからであります。
当時は、いわば、権力による圧政というのが、敷かれていた頃であったわけです。こうしたものを打ち破る、ひとつのエネルギーというものは、彼らにとっては非常な脅威であったわけです。こうした脅威を押さえるために、国中が力をあげて、その権力を結集して、私を迫害しようとしておったのです。
私の味方たちは、一体誰でしょうか。それは貧しい人たちであったのです。漁師たちであったり、取税人(しゅぜいにん)であったり、あるいは娼婦(しょうふ)たちでありました。こうした、社会的に身分が低く、世の人びとから虐(しいた)げられた人びと、彼らが私を守っていたのです。
そうした、弱い者、この世的に迫害され、虐(しいた)げられた者のために、私は立ち上がり、彼らが私を助けてくれたのです。もし、彼らなくせば、私の人生もまた、実効のあるものとはならなかったでありましょう。
私は、そのなかに、愛というものの大切さを説いたつもりです。決して愛というものは、人の上に立って、金持ちが貧乏人に施すがごとく与えるものではない、ということを言いたかったのです。愛は、大いなる慎(つつ)ましやかさのなかにあり、大いなる謙虚さのなかにあるということを、私は教えたかったのです。
したがって、私が選んだ弟子たちも、この世的には、学問もなく、教養もなく、身分もなく、お金もなく、何もない弟子たちでありました。ただ、彼らの多くは、私を信じたということです。「主よ、あなたを信じます。あなたについていきます」それだけが、師と弟子とを結ぶ、一条のものであった。一筋のものであった。一筋の誓いであった。こういうふうに、言うことができると思います。
私は、彼らに、何の利することもできませんでした。彼らの心に、糧となる言葉をはくということが、私の仕事のすべてであったわけです。そのために彼らは、若い命を失っていったのです。
4.ユダについて
さて、この弟子の中で、ユダというのがおりました。私を裏切ったということで、有名になった人間であります。 このユダについての解釈も、さまざまに分かれてきておって、現在も定説がないように思います、そこで、このユダについて、私は、本当のことを、みなさんに話をしなければいけない。このように思います。
人間は、生まれつきの悪人というのは、基本的にはいないのです。すべて素晴らしい人として、生まれておるんです。それが、この世の中で生きていくうちに、さまざまな悪習に染(そ)まったり、さまざまな思想にとりつかれたり、さまざまな人の意見に惑(まど)わされたりするようになってきます。
このように、人間というちのは、本来素晴らしいものであるけれども、また、弱きものであることも事実であります。その弱きものである証拠に、心の中への誘惑に、打ち勝ち難いものがあるということです。それは、金銭に窮(きゅう)すれば、金のためなら何でもするというようなことは、人間にはあり得るし、食料に窮すれば、食料を手に入れるためには、何でもするということでもわかるように、結局のところ、追い詰められたときに人間というものは、一番大切なものでも捨てることがあるということです。
戦争の渦中(かちゅう)にあっては、一冊の哲学の書よりも、一握(ひとにぎり)りの米のはうが、ありがたいものです。今日、パンを買うお金がない人にとっては、聖書の一冊よりも、やはり、千円札の一枚のほうが、ありがたいものです。
こうした人間の弱さというものを、見たときに、知ったときに、私はこれを一概(いちがい)に否定はできんと思うのです。そうした人たちを、決して、それでもって、弱いということでもって、悪人であるとか、悪魔であるとか言うことはできないのであります。
ユダという人間は、これは弱い人間であったということです。そして、臆病(おくびょう)な人間でもあったと思います。今、ユダという人間について、話をするとするならば、彼はまあ、どちらかというと、非常に臆病な人間であったのです。そして、どちらかというと、日和見(ひよりみ)的なところがあったと思います。そういうことで、何よりも自らの生命の危険とか、自らの弱さというものを、十分に知っていた人間であるうと思います。
ただ、私が、あなた方に言っておきたいことは、あなた方であっても、たとえば、自分の財産と、自分の生命が危険にさらされてでも、自分の師のために生きるということができるかどうかという現実に立たされたときに、自分がユダにならないということは、確約はできないということです。
当時、もう、私の命が狙(ねら)われているということは、公然の秘密でありました。また、私が十字架に架かる、もう一年も前から、あるいは、もっとそれ以前から、イエスを殺せという声は、町のすみずみから溢(あふ)れていたのです。私は、ちょうど、指名手配人のごとく、仲間の家から仲間の家へと、隠れがから隠れがへと、隠れていて、逃げていて、そして、私を信ずる者たちが、集まっている会合に、どこからともなく現われては、法を説くというかたちであったのです。
誰の目から見ても、我が死はもう、すぐそこに来ているという状況であり、また、私の弟子たちも、数多くは、もう死を覚悟しているような状況であったのです。こうした限界状況にあって、果たして、世の人びとよ、今私のこの書物を読む人びとよ、あなた方もユダにならないということを言うことができるであろうか。
人間にはすべて、それぞれ自分の立場というものがあり、それに対する合理的な説明というものがあるのです。ユダという者が、小額のお金のために、私を裏切ったというふうに言われております。お金を貰(もら)ったということは、事実でありましょう。ただ、お金のためだけに、彼が我を、私を裏切ったわけではないのです。
彼が私を裏切った、その本当の事実は、こういうことであったのです。結局、私は、弟子たちに公平に接していたつもりではあったのだけれども、どうしても私にも、弟子たちに対する愛に差があったと思うのです。私は、ペテロという弟子を愛しました。また、『ヨハネ伝』を書いた、ヨハネという弟子を愛しました。また、十二弟子ではありませんが、マルコという青年を愛していました。
ユダという人間は、比較的最初の頃から、私の弟子になっておったのでありますが、私が、そうした、後進の弟子たちを、あまりにも愛するがために、その嫉妬に身を苦しめていたのです。結局はそういうことなんです。彼も、私に対する愛はあったんだけれども、その愛が昂(こう)じて憎しみへと変わっていったのです。
これは、男女の間でも、よくある話であります。あまりにも相手を愛していて、相手が自分のことを思ってくれないときに、その愛は、どこからか憎しみに変わることもあります。
ユダという人間の心の中にあったのは、結局は、この嫉妬心でありました。自分が一番弟子になりたかったのです。しかし、私が彼を一番弟子にすることをしなかった。
彼は、自分は利発な人間だと思っていた。利発であることは、わかっているけれども、心が澄んでいないということを、私はいつも彼に指摘をしていた。「あなたはもっともっと強くならなければ、信仰でもって正道の柱を打ち立てねば、本当に自分の使命を果たすことはできない」そういうことで、厳しく、私は彼を指導していたものであります。
しかし、私は私の心を理解するペテロ、多少単純なところもあって、強気にはやる人間でありましたが、このペテロと、また、忠実に私の心を見てくれるヨハネ、『ヨハネ伝』のヨハネ、こうした者たちを、大変愛していたのです。
ですから、このユダの、本当の裏切りの理由は、ペテロとヨハネに対する嫉妬心であったということが言えると思います。
また、ユダは、もう一つの不満を、私に対して持っておりました。それは、彼の心の中に、非常に貴族趣味的なものがあったのです。高貴なものへの憧(あこが)れがあって、そういうふうにしてほしいという気持があった。
したがって、ユダはかねがね、私が、取税人(しゅぜいにん)、貢取(みつぎと)りですね、取税人と寝食をともにしたり、あるいは、世の中では身分が低いと言われていた、そうした商売女ですか、娼婦(しょうふ)と共に話をしていた、こういうことに対して、どうしても我慢がならなかったのです。
「聖者は聖者としての生き方があるはずだ。そういう貢取(みつぎと)りとか、あるいは、娼婦とか、こうした者を近づけてはいけない。やはり、法を説く人は、それだけの人を周(まわ)りに集めなければいけない」
こういうことを、常々ユダは言っていたのです。それはそれで正論であったかもしれない。
彼は、結局、私に対する警告をしていたのです。こういう、娼婦であるとか、社会的身分の低い人とばかり付き合っていると、とにかく、そうした権力、お上の目というものは厳しいものがあって、それらの者を、朱(しゅ)に交(まじ)われば赤くなるではないけれども、付き合う者を見て判断される。だから、そういう者は遠ざけなさいと、いつも言っておったわけです。
しかし、私はそれをやめなかった。こうしたことが、ユダの私に対する不満の第二であった。他にもっと愛する弟子がいたこと。それと、私が、彼が言うような、そういう下層階級の者とも交(まじ)わったということですね。こういうことを、常々彼は不満に思っていたのです。
そして、最後の頃には、彼の心の中にもよく魔が入っていたので、私はそれを厳しく指摘した。私の弟子たちの多くは、すでに霊能者のようなかたちになっていて、善霊も悪霊も、時どき身体を支配するというような状況であったと言えましょう。ユダの中にもよく入っていたので、私は公然と、みなの前で彼を叱責(しっせき)したことが、何度かあります。そうしたことで、彼自身も、かなり感情的になったという面もあるでしょうか。
しかし、彼の心のなかには、もう一つあったのです。それは、私が、世にいう救世主であるならば、もっともっと大きな力を発揮せねばいかんのではないか。こういう気持があったのですね 。すなわち、私を試(ため)そうという気持が、彼のなかにあった。
四十日、四十夜、荒野(あらの)の試みで、サタンが私を試さんとしたように、「汝ひもじければ、この石を変じてパンとせよ」、あるいは「汝神の子ならば、この崖(がけ)より飛び降りても死すことあるまじ。飛び降りよ」、こういうふつにサタンが私を試しましたが、これと同じように、彼の心のなかには、私を試したいという気持があった。
「先生は、自分は救世主というのに、救世主のわりには、それだけのことができんではないか。世の中救われんではないか。救世主が、なぜ命を狙(ねら)われるのか。救世主なのに、なぜあれだけの軍勢に取り巻かれるのか。おかしいではないか。なぜ、世の人びとが、それを納得(なっとく)しないのか」
こういうことがあったのですね。そして、そのために彼の心の中には、私を試してみたいという気持があった。
「本当の救世主ならば、それだけの奇跡を起こすであろう。あのエリアが、地上を去るときには、火の車に乗って天に昇(のぼ)ったと言う。そうした奇跡が起こった。それであるならば、エリア以上の人であるならば、それだけの奇跡を起こすであろう。モーゼが、エジプトの地を逃(のが)れんとしたときに、神は、紅海をまっぷたつに割って、彼を逃(のが)したではないか。さすれば、王の軍勢が本格的にイエスに向かったときに、何らかの奇跡が起きるはずである」
こういうことで、彼は、それを試してみたいという気持があったのです。彼自身の信仰に、そこに曇(くも)りがあった。神を試すという気持があった。何らかの奇跡が起きなければ信じない、こういうところに弱さがあったわけです。
これは、今のあなた方にもあるでしょう。法のみを聞いて信ずるか。奇跡を見なければ信じられんか。こういうことですね。法のみを見て、聞いて、信じられる人は幸いである。しかし、奇跡を見なければ信じられない人は、残念ながら、その素質において、可能性において、かなりの見劣りがすると言わざるを得ない。
ユダは、その奇跡を見んとした。
「ヤーヴェの神、エホバの神の奇跡が起きるのではないか。モーゼを逃したように、紅海を割ったように、エリアに火の車を与えたように、神は何かを与えるのではないか」
そういうことで、迫っ手を私に仕向けたわけです。
しかし、奇跡は起きなかったわけであります。私は、自らの予言通り、十字架に架かって、罪人と共に死んでいったのであります。
その私の姿を見て、最後まで奇跡を期待しておったユダは、自分の愚かさに気がついたわけであります。
「私は神を計(はか)ろうとした」ということを、彼は気がついた。そして、悪の手先に自分がなったということを知った。わずか、今日でいうならば、わずか数千円のお金のために私を裏切ったことを知って、彼も私の死の翌日に、柿木(かきのき)に首を吊(つ)って死んだことは、みなさんご存じの通りであります。
まあ、そうした、哀(あわ)れな役割をした人間があった。
けれども、こうしたユダは、何時(いつ)の時代にちいるということを知らねばならん。これは弱い人の象徴であり、奇跡を見なければ納得しない人の象徴であるということ。神理を求める人の中にも、法のみでは満足せず、言葉のみでは満足せず、奇跡を、しるしを求める人たちは、これからもあとを断たんであろう。そういう人たちは、いつユダにならんとも限らんのです。それは、心弱い人なんです。信仰が弱いのです。まだまだ信仰か弱いのです。
他なる、外なるユダを責めず、内なるユダを責めなさい。自分の中にも、そうしたユダが住んでいることを知りなさい。それが、信仰を持って生きていく人間の、基本的な立場であり、考え方でもあろうかと思います。
私は、今、ユダを憎んではいません。彼は、まだ地獄にいるけれども、ただ私は憎んでいない、。彼が地獄にいる理由は、彼自身が自分を許せないということと、また後世の数千万、数億人の人たちがユダを憎み続けているということです。
また、イスラエルの国が、あれだけ多くの試練を受け、また、多くの迫害を受けてきた理由は、そのユダ、ユダヤ人であるユダヤ、私を裏切ったという事実、救世主を殺したという事実でもって、迫害を受けている。そうした歴史の悲劇性を見たときに、全責任を自分に背負って、地獄で苦しんでいるのです。まだ、出てくることはできない。
やがて、その罪が許されることもあるであろう。それは人類の記憶の中から、私が地上に生きたということが、もう神話の時代となったときに、記憶の底に、底の方にと沈澱し、過去世の記憶へと流れ去っていったときに、彼の罪もやがて許される時があるであろう。しかし、まだ、その時は来ていないのです。