目次
2.男女の違い
3.女子教育のあり方
4.娘らしさとは何か
5.結婚の準備
6.妻としての生き方
7.母としての生き方
8.女性の幸福とは
(1988年5月9日の霊示)
1.女性なるものの本質
谷口雅春です。さて、第三章では、女性について考えてみたいと思います。と言いますのも、世に宗教書は数多くあるわけですが、女性の生き方、女性の幸福に触れたものは、そう多くはありません。その理由は、法を説く方、宗教を興(おこ)す方というのはたいていの場合男性であって、女性についての法があまり得意ではない。女性とは何かを、あまりご存知ではない。まあそうしたことによって、女性のことをあまり書けなかった、話せなかった、というのが真相であろうと思う。
私は長い人生において、さまざまな女性というものの生き方、それを見てきました。もちろん私自身も家庭生活を送っておりましたが、それ以外に、会員、信徒諸君の生き方、家庭生活、また女性の方々の相談に接するにつけていろいろと、思い巡らしたのであります。そうすることによって、女性なるものの本質とは何かということが、おぼろげながら見えてきたわけであります。
それをいろんな形で世に問うたこともあります。書物にしたことも、話をしたこともありますが、今、こうしてあの世の世界に還ってから、私が考えていた女性論、これに対する再構成、再度の考え、これを世に問うてみたいと、このように思うのです。
まあ結局のところ、女性というものをどういうふうに位置づけて、男性とのその存在の意味を対比させるか、ここが問題だと思います。しかし私は根本において、女性なるものは、男性なるものとは違った面を含んでいる、ということを指摘しておきたいと思います。男女がもともと同じものであるならば、そうした二つの違ったものとして現れる理由がないのです。違ったものとして現れたということは、違った存在として地上にある理由がある。そういうことを言い得るのではないか。そのように私は思います。
すなわち、女性なるものの本質の中には、神の隠された意図が何かあるはずである。私はそれを探ってみたいと思うのです。
結局それは、男性にない優美なる面、あるいは繁栄という面、それは産(う)めよ、増(ふ)やせよという意味ですが、その繁栄という面、あるいは世の中を落ち着かせ、調和に導く面、何らかのこうしたものがあるのではないか。そのように感じられるのであります。
これが主として女性なるもののひとつの特徴、ひとつの方向ではないのか。そういうふうに考えられるわけですが、もうひとつだけ言っておいてよいものとして、やはり女性というものは、体の構造からして男性とは違う。ここにひとつのものの見方、女性なるものの見方、これを考える余地があるということです。この点について、さらに話を続けていきたいと思います。
2.男女の違い
さて、旧約聖書の中では、アダムとイヴの話がよく出てきています。神は塵(ちり)と言いますか、粘土と言ってもよいが、粘土のようなものをこね合わせて、男性の肉体の形をつくり、それに息を吹き込んで、それをアダムとされた。そうして、アダムの肋骨(ろっこつ)の一部をもとにしてイヴをつくった。まあこのようになっていますね。
こうしてみると、男女の発生原因を、こうした旧約聖書のレベルでとらえるとするならば、男性ができて、しかる後に女性というものが発生した。まあこのようになっていると思います。
さて、この話を聞くとするならば、女性の大部分は不満に思われるかもしれぬ。アダムの肋骨でできた。それでは女性というものは、まるで男性に隷属するようなものではないのか。そうしたことが果たして耐えられるか。私たち女性は、女性としての毅然(きぜん)とした態度、尊厳というものがある。なのに男性の隷属物、付属物のように言われて、黙っておれるわけがない。こういうふうに言われる方もいらっしゃるでしょう。もちろんお説ごもっともであります。
ただこれは、霊界の世界、我らが世界というところから見ると、確かにイデア、イデーと言ってもよい、理念と言ってもよいが、そうしたものとしてはまず男性の理念があったということは事実のようです。動きやすい人間として男性の理念がまずあって、それが地上に降りた。しかるべき後に、この補助をさせんとして女性のイデアが地上に降りた。こうしたことを物語っているのだろうと思う。
ただ、霊界通信の中でも高橋信次などが最近よく言っているように、私たちが地球に来るには他の星から円盤に乗ってきた、異星人として渡ってきた、こういう説を言っているようであるが、そうしたことも一部にあったことは事実です。まあ他の星から来たという事実もありました。
もちろんこれは、現在の日本人あるいは地球人であっても、他の星から見れば宇宙人であるから、地球人が他の星に飛び立てば、これは宇宙人がやってくるのと同じ、まあそういう論理展開であって、この全宇宙の中では進化速度はもちろん何億年もずれていますから、そうした他の星から地球に来るということもありました。
ただ、地球というところを磁場として、ここを生活圏として、新たな人間の創造がされたことも事実です。その人間の創造がなされるにあたって、まず男の理念というものがあって、神はこれを地上に顕現されようとした。その後に、女性の理念というもの、これが地上に降りた。こういうことを言っているのです。
これは、根本的なところに遡(さかのぼ)るのであって、結局、神は仕事というものだけを観点として考えた時に、男性だけであっても十分であると思われたわけだけれども、しかしその男性が地上に住んでいるうちに、男性同士で、仕事だけという生活をしていると、どこか心に虚(むな)しさが漂う。淋しさが漂う。大いなる豊かさがない。発展、繁栄がない。こうしたことに気づかれて、ここに女性なるものを投入された。このように解釈されるのであります。
まあこう言えば女性闘士たちは文句を言うかも知れぬが、女性の目的の中には、どうしても補助者としての目的があることは事実であり、これは人類の歴史、あるいは現在の男女のあり方を見ても、そうした面があることは事実であろうと思う。ただこれが、単に補助者として隷属的地位にあるのではなくて、共に育み合いながら家庭をつくり、そして人類に対して子孫維持という、ひとつの義務を負い、こうして新たなる繁栄をつくっていく。そうした目的があると言えましょう。
そして、その目的が違うということは、男女の肉体の違いにも現れていると思う。男女の肉体の違いは、いかんともしがたいものがある。女性の肉体には、あらかじめ子供というものを産み育てるということを目的としているということが、はっきりと刻印されていると思う。それは、女性の肉体そのものに子供を育てるという役割が、その外見として現れているということだ。
こうしたことは非常に生物学的なものであるけれども、生物学的なるものは、その根本において神の意志を宿していると考えるならば、この男女の違いというものを一概に無視することはできない。私はそのように思います。それは、神の意志を無視することになると思うからです。
3.女子教育のあり方
私は、男女は本質的に違うものである、その目的において異なる面があるということを強調いたしました。そうであるならば、有り得(う)べき女子教育とはいかなるものでしょうか。女性をどのように教育していけばよいのでしょうか。この点について、明確な見解を出しておく必要があると思うのです。
昔から「男女七才にして席を同じゅうせず」という言葉があります。男女、異性というものを意識することによって、打ち込めない、学業に打ち込めない。そうしたことを避けたということでもありましょう。大人の知恵と言いましょうか。十分成熟してから異性というものは見つめればよいのであって、あまりに幼い時、若いうちに異性を知るということの危険性を、この教訓は物語っているのではないかと思います。これは確かにその通りであります。
現在、男女共学ということでやっています。これは男性が男性のみ、女性が女性のみを知るということではなくて、異性を知るということで人生観が広がることも事実。ただこうした男女混合の学校教育において、ませた生徒たちが数多くできてきて、そして学業に専念できないような状況が発生しているということも、事実かと思います。
さてこれをどうするか。単に男子、女子というものを分ければよいのか。まあこれは、戦前への復帰というような言葉で言われることもあるでしょう。それとも、男女混合のままで有り得べき姿があるのかどうか。そうしたことでしょう。
また、大学教育のあり方というものもあるでしょう。戦前は女性で大学へ行くというようなことは、ほとんど皆無に近かったけれども、戦後は女性で大学へ行く者も増えてきた。今後の見通しとして考えるならば、アメリカの女性がそうであるように、女性でもどんどんと大学を卒業して、そして社会的エリートになっていく道が、これがふさわしいのか。やはり女性は女性であって、そうした道を選ばない方がよいのか、こうした考えですね。
昔の日本人から見れば、学のある女性というものは縁遠かった。なぜ縁遠いかというと、その才気走ったものの考え方が家庭生活の円滑さを生まない。すなわち舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)と対立する。そして自分の権利を主張する。我(が)を押し出す。こうしたところがあります。まあこれが、昔家の中に嫁に来るという意味で、非常に障害になったということですね。
現在でももちろん、女性に学があるということは大変難しい問題であろうと思います。現代でも女性に学があるということは、たいていの場合は職業婦人への道を歩むということとなり、学があって職業婦人の道を歩んだ女性の大半が独身生活を送るという、そういう現象が出ていると思います。これはひとつの社会現象であると思います。女性であるということで、それでもって自己実現していくためには、独身を通さねばなかなかうまくゆかん。こうしたことがあるわけです。
さてこの問題をどう考えるかということですね。ただ私は思うのですが、体力の測定をして男性に優っている女性が少ないように、やはり学力ないし知力で測っても、男性に優っている女性というものは数少ないということは、データーとして明らかに出ていると思います。
したがって、極度に優れた知性を持つ女性というものは、それ自体、第二の性という女性ではなくて、第三の性であるという面があると思います。すなわち女性なるものから多少離れている。こうしたことは事実として言えると思うし、この第三の性は、人類の大勢(たいせい)にはおそらくならないと思います。
ずば抜けた知性を持ち、学のある女性というのは、やはり一部の例外に留まるであろうし、今後も多くは出てこないであろう。すなわち、知的に優れた集団があるとするならば、男性が九なら、女性は一ぐらいに留まるであろう。そしてその比率は、男女同数ということにはおそらくなっていかないであろう。このように思います。
それはね、結局、こういうことなんです。やはり女性という理念の中に補助者としての理念があり、補助者であるという理念の上に、肉体も男性よりやや小さくなり、力もおち、そして知力も少しおちる。これが種族が保存されていくための方便として、あるいは知恵としてあるんです。
したがって、筋肉的にも男性より優れ、知力的にも男性より優れる女性というものの存在は、やはり異質であると言わざるを得ません。したがって、そうした異質な女性、第三の性としての異質な女性の存在は、この別なる生き方というものを、さらに探究しなければいけないでしょう。それは非常に厳しい試練であるということも、事実であろうと思います。
ただ私は思うのですが、こうした異質な女性、女子教育を受けて、そして傑出した人であっても、やはり地上に降りた人間として見たならば、女性としての面が多いことは事実であるから、この面を、この部分を完全に押し殺していく方向で歩んだ時に、それはひとつの悲劇になるということは事実だと思う。才能のみ伸びて、他の者と不調和な生き方をしていては、やはり女性なるものがどこかで死んでいく。こうしたことはあると思う。
したがって、女子教育のあり方という題に対する私の考えをあげるとするならば、やはり男女共通の部分もあってもよいが、やはり別なところがあってよいのではないか。女性は女性として、別な教えを受ける必要があるのではないかということが、私の結論であります。
すなわち、もう少し情操(じょうそう)教育というものに力を注ぐべきではないか。このように思います。情操教育、その心のあり方、これの教育ですね。女性というものは、特に優しい心を持つということが非常に大事です。大切です。この部分を鍛えておくということは、将来にとって大変な投資になるわけです。
またもうひとつ考えておきたいことは、宗教心ですね、これの養成ということです。女性は特に、宗教心というものを学んでおく必要がある。できれば女子教育の中に、宗教教育を取り入れたい。私はそのように思います。
なぜならば、男性よりも女性の方が信ずる力が強いからなのです。男性はどちらかというと、知性的、理性的にものごとを考えていきますが、女性というものは、悟性的、感性的にとらえていく傾向が多いようです。すなわち女性のものごとの認識の方法は、必ずしも理詰めではないのです。理詰めで考える女性もいますが、これはあくまでも例外の女性であって、たいていの女性は感性でものごとを考えていきます。
あるいは信ずるというような行為、信ずるという行為は何かというと、これは一躍跳入(いちやくちょうにゅう)で実相を把握するという考えです。一躍、実相に参入する。これが信ずるという行為です。女性はこの部分が非常にやりやすいのです。なぜやりやすいかと言うと、まあその本質においてやや単純なところがあるということは事実でありますが、論理を無視して結論に飛ぶというのは、これは女性の特徴でもあります。
これはなぜかというと、自分自身の思考力でもって筋道を辿っていくという過程が、どうしても女性になじまないのです。やはり、女性は寄りかかるもを欲している。その寄りかかるものが夫であったり、あるいは神であったりするのです。理屈を抜きにして寄りかかるものが欲しい。これが、女性の信仰心が強いことの根本の理由です。
信ずるということが非常に強い女性。ならば、やはり、女子教育の中に信仰というものを打ち出していくべきではないのか。そして家庭というものは、ひとつの信仰を生むための寺院であり、神社、仏閣でもある。そのような考え方から見れば、女性がその家庭における宗教の核になっていくのがよいのでないのか。そのための基礎として、女子教育の中に宗教教育を入れていくべきではないのか。まあ私はそのように思うわけです。
4.娘らしさとは何か
女子教育のあり方を話しましたが、「娘らしさとは何か」ということについても、考えておきたいと思います。
私は、女性というものは本質的に恥じらいというものを持っていなければ、嘘だと思っています。何もかも外に打ち出していく、見せていくということがよいのではなくて、隠すもの、この慎(つつま)しやかな部分、こうしたところに女性なるものの本質が、実はあるのではないのか。このように思います。
古来より女性というのは、控え目であるということ、これが美徳とされてきました。これは女性でも男性でもそうですが、肉体というものを見ればよいのです。男性というものは、肉体を外に露(あらわ)にすることにそれはどの羞恥(しゅうち)を感じない。しかし女性というものは、それを恥ずかしいと感じるというふうに言われています。
なぜかというと、この恥ずかしいという感情が、実は女性なる美しさ、女性的なる美しさに相通じているからです。人間心理というものは実に微妙であり、実によくできていると思いますが、隠したがるものは見たがる、こういう心理があるのであります。すなわち、真理というものは非常に女性的なるもので、隠れているものですが、隠れているとそれを掘り起こしたくなる、こうしたことが真実であるのです。
このように、女性の本質の中にはどうやら密(ひそ)やかなるもの、公(おおやけ)にできないもの、陰(いん)なるもの、これがあるということ。これは否めないと思います。
こうしてみると娘として生きた時、娘というのはまあ十六才以降でしょうが、十六才から二十代前半ぐらいが娘時代とすると、娘らしさというものを考えた時に、私は、このやはり密(ひそ)やかなる部分、秘めやかなる部分というものを無視することはできない。これは、神の与えられたるおおいなる英知である。男性というものに対し自分を守ると同時に、自分を美しく見せ、魅力的に見せるということが、この密やかなる部分に出てくるのだと思います。
したがって、恥じらいということのない娘というものは、これは女性という定義から外(はず)れているということになりましょう。現代女性の乱れの多くは、この恥じらいというものを忘れたというところにあると思います。恥じらいというものを忘れて、唯物的になり、そして中学生あたりから男女の交わりを覚えたり、いろんなことをしておりますが、これはいちばん大切な女性の女性的なるもの、恥じらいという感情、密(みつ)なるものを愛する感情、こうした密(ひそ)やかなる感情の優位というものが、失われたということを意味していると思います。
したがって、私は情操教育ということを先ほど述べましたが、その娘を持つ両親は、恥じらいということ、慎(つつま)しやかさということの大切さをやはり教えていく必要があると思います。それを失った時に、これは女性なるものからの転落であるということを、知らなくてはなりません。
単なる性欲のままに十代の前半や十代の後半に、深くものごとを考えずに男性との接触だけを望み、そしてそれに喜びを感じるような女性となっていっては、これは女性的なるものから、獣的(じゅうてき)なるもの、動物的なるものへの転落を意味しているのです。これは魂において、確かなことであります。
したがって、これからの女性の躾(しつけ)、娘の躾という観点から言えば、恥じらいということの大切さ、恥ずかしいという感情があなた方が地獄に堕(お)ちるのを畜生道に堕ちるのを防いでいるのだという、そうした教育を十分にしていく必要があると思います。
5.結婚の準備
さて、「結婚の準備」ということについて、話をしていきたいと思います。結婚前の女性の心がけということでもありましょう。私はこれを主に三点に要約して、話をしておきたいと思います。
第一は、肉体的、外面的な部分でありますが、結婚の準備期にある娘たちは、やはり、清潔な身体を保つという心がけを大事にして下さい。不潔な女性というものは非常に男性をがっかりさせますし、男性の夢を奪ってしまうことになります。
男性は女性に対して一種の夢を持っています。憧(あこが)れを持っています。この憧れを、そう簡単に失わせるのではなくて、できるだけ長く持たせるということが、実は結婚の秘訣となります。
その準備としての考えは、女性はやはりいつもきれい好きでなければいけない、清潔好きでなければいけない、ということです。着る物、身に付ける物から始まって、やはり入浴、シャワー、こうしたものをよく浴びて、いつも小ざっぱりとした感じでいるということ。こういう清潔好きであるということが、まず嫁入り準備の最初の心がけであると、私は思います。
二番目の準備として大事なことは、これは、尽くすという考え方の再確認であります。宝にされ、大事にされてきた娘というものは、えてして結婚でつまずくことになります。それは今までは親から、ちやほやされたり、兄弟や親戚からちやほやされてきたものが、今後は一人になり、そして自分は一人の男性に尽くしていく。こういう人生を送るからです。ちやほやされるということから、今度は人に対して尽くしていくということを女性は学んでいくことになります。したがって献身ということの大切さ、尽くすということの大切さ、これを心構えとして知っていく必要があると思います。
三番目の結婚の準備としては、やはりこれは、常に感謝ということを忘れない、こういう考え方ですね。感謝という気持を忘れない。親に対して、近所の人に対して、あるいは夫に対して、また夫の両親に対して感謝の気持を忘れない。これが大事であろうと思います。
この感謝の気持を忘れると大変なことになります。自分はたとえば次男さんと結婚したのであって、その両親と結婚したわけではないと、まあこういうことが最近の若い女性の間では、非常によく言われていると思いますが、確かにそれはその通りであって、親と結婚したわけではないけれども、ただここにひとつの間違い、陥りやすい間違いがあると思います。
それはね、人間というものは、自分一人だけで大きくなることはできないということですし、自分一人だけの仕事で世の中を渡っていくこともできないということです。人間が生きていくというのは、その中で、いろんな人の目に見えない力を受けて現在があるということなのです。だから自分の伴侶が素晴らしい人であるならば、その両親もやはり素晴らしい方であったのです。自分の伴侶がよくない人であれば、両親の中にも、よくないものがおそらくあったのです。
したがって本質的にいうならば、自分の伴侶だけを愛して両親を愛さないというのは、これはおかしいのであります。自分の伴侶の中に見出(みいだ)した良き性格、良き性質というものは、実は両親から遺伝的に受け継ぎ、環境的にも受け継ぎ、またその教育の中でも受け継いできたものであるはずなのです。したがって本当に自分の伴侶を愛しているならば、その両親、兄弟、こうした者をも、愛する気持が出なければ嘘ですし、出なければ、これは何かに間違いがあると考えてよいと思います。
それは、ひとつには感謝ということですね。感謝ということが大事だということです。畑で野菜を作っても、それを自分の力で作ったと思う方もいらっしやるかもしれません。そういう方もいらっしゃいますが、真実は、そうではないと思います。それは土地の栄養分から来ているのであり、また雨が降ったということが、それが幸いになっているのであり、太陽の光が燦々(さんさん)と降り注いだということが、幸いになっているのです。自分のしたことは、もちろん畑を耕したり、あるいは雑草を抜いたりというようなことは、あったかもしれませんが、根本的なところは自分以外の力によるのです。
したがって自分の伴侶のみを愛して、伴侶の親戚、家族、こうしたものを愛さない方というのは、畑で作物を作った時に、自分の力で作ったというふうに思っているのではないのか。太陽や、雨とか土壌というものに対する、感謝を忘れているのではないのか。まあこうした観点で、もう一度振り返っていただきたいと思います。
私が言っていることは非常に大きな知恵であるので、どうか、現代女性の多くにこれを学んでいただきたいと思う。不思議なアメリカ的なものの考え方の中に真理はないということ。本当に自分の伴侶を愛するならば、その伴侶をつくり、育ててきた人たちへの感謝の念が起きなければ嘘だということ。これを私は言っておきたいと思います。
6.妻としての生き方
さて、いよいよ結婚の準備が終わり、妻となるわけです。結婚をするわけですが、この妻としての生き方の中でも、私はいくつか注意事項を言っておきたいと思います。
それは第一には、夫婦で意見が分かれた時には、まず原則として男性の意見、夫の意見を立てなさい。夫は立てなければ一家の中心とはならないのです。男性を立たせるというのは、これは女性の非常に大きな義務なのです。したがって、男性を立てる女性、それが賢い妻であります。
どのようにして男性を立てるか。つまり仕事のやる気を起こさせるか。一家の大黒柱としてやる気を起こさせるか。これが大事です。ところが現代の女性を見ると、夫を腐(くさ)してばかりいるのが、あっちにもこっちにもいます。給料の稼ぎが少ないとか、家庭サービスが少ないとか、まあさまざまなことを言っておりますが、どうも立てるということを知らんようです。これは知恵であるということを、知らねばならん。
夫は経済生活の中心であります。機嫌(きげん)よく働いてもらうということが、これが夫の財布を握っている女性の知恵であります。まず男性は立てなさい。妻としてやるべきことは男性を立てること。その方法を考えることです。
妻としての第二番目は、やはり家庭生活の中での夫婦の生活、性生活というものがあるでしょう。これに対しても、知恵を巡らさねばならんということであります。やはり魅力的な女性であり続けるように努力をする。これは大事だと思います。夫は何がくたびれると言っても、会社で遅くまで働いて家に帰って来て見る、妻のふしだらな姿、これにはいちばんがっかりさせられるのです。
自分が遅く帰って来ても、起きて待っている妻というのを見ると非常に嬉しいものですが、自分が帰って来ると、もう家の中は荒れ放題、後片づけもせず、食べちらかして、そしてグーグーと寝ている妻、こういうのを見ると非常にがっかりとしてしまいます。やはりふしだらであるということはいけません。いつも身だしなみを整え、そして隙(すき)をつくらないように、ふしだらな姿を夫に決して見せないように。朝は早く起き、夜も夫が寝るのを待って寝るような、そうした妻でなければいけない。この辺を十分心がけなさい。
夫を立てるということ、ふしだらなところを決して見せないということ。言葉を換えれば魅力的であり続けるということ。これが大事です。
三番目に言うとするならば、妻というものは経済観念が発達していなければいけないと思います。経済観念が発達している妻というのは、それだけで非常に魅力的であります。金使いが荒い人はいけない。少ない収入の中でどうやってやりくりをするか。このやりくりをする能力というものも、ひとつの能力であります。
こうしたやりくり上手の妻をもった夫というものは、たいてい、出世していきます。ところがやりくりが下手な妻をもらうと、夫は大変苦しい人生を送っていくことになります。したがって、やりくり上手であるということ、経済観念が発達しているということ、これは大変大事であります。
まあこれが妻としての心構えであるので、よく学んでおいてほしいと思います。
7.母としての生き方
さてでは、やがて子供ができてくるわけですが、「母としての生き方」、この要諦(ようてい)と言いますか、大事な点は、いったいどこにあるのでしょうか。私は、三つほど、これもあげておきたいと思う。
第一点は、子供というものの教育に関しては、できるだけ、その自助・努力を促(うなが)すという方針を持っておくことが大事です。何もかもかかりきりにするのではなくて、自助・努力、自分で何かができる、やっていけるような、そうした子供にしていくということが大事だと思います。この自助・努力の精神というものを、根本的に植えつけていくということが大事であろうと思います。
二番目は、まあ母として子育てに精力をとられるようになっていくと、どうしても夫の世話というのが見失われがちになっていきますね。子供ができて、夫が非常にしょんぼりとした淋しい顔をすることが多くなってきます。こうした夫は非常に家庭生活へ不満がたまり、やがて家に帰ってこなくなります。妻が子供の世話に追われて自分のことを構(かま)ってくれないというので、だいたい会社帰りに酒を飲みに行くようになり、また夜の女性らと歓談している方が楽しくなっていきます。それはお世辞を言ってくれるし、適当に相手にしてくれる、構ってくれるという、そういう点があるからですね。
したがって、母となってもできるだけ夫に関する注意というものを、忘れないようにしなければいけない。これが利口な女性の生き方です。
三番目としては、まあ子育ては、できるならば、やはり自分の手でやった方がいいということです。職業婦人なんかには人任せの人が非常に多いけれども、やはり自分の手で育てないと、子供というものはなかなか可愛くならんということだ。これは言っておこう。人任せでやった子供は可愛くない。これは真実だと思う。自分の手でやはり育てる。これが大事だ。なんとかして、大変でも自分の手で子供を育てるということを大事にして下さい。
これを忘れると、やがて子供が成人してきた時に、親の愛を省みない、そうした子供ができていきます。どこかに、幼少の時に十分に育ててくれなかった、ということが憎しみとなって返ってくることがあります。小さい時から、やはり親の愛というものを現実に受け入れるということが、子供がすくすくと育っていくための栄養分となるのです。人は、他人は面倒は見てくれるかもしれないけれど、愛を注いではくれません。この意味において、自分の手で育てるということが大事であろうと思います。
8.女性の幸福とは
以上、さまざまな形で女性論を展開してきましたが、最後に「女性の幸福」とはいったい何なのかということを、総括的に話をしておきたいと思います。
それは、私は思うのですが、やはり男性と競い合うというところに根本的に女性の幸福はない、ということだと思います。男性とは別に女性がつくられたということの中に、やはり女性は女性であることを楽しめ、女性であることの中に幸福を見出していけという、神の尊い知恵が光っているように思います。そして女性は女性としての幸福のみを追求するのではなく、女性としての役割を演じる中に、男性を伸ばし家庭を育む、おおいなる創造ということの喜びというものが与えられているように思います。
また家庭の中で、女性は全員、教育者としての使命を持っています。天才児をつくるということ。これは女性のおおいなる使命です。どんな子供であっても、成人するまで二十年かかります。これが人間として生まれたことのハンディです。天才児をつくっていく、家庭教育によって天才児をつくっていく。こうしたおおいなる創造の喜びを、私は一人でも多くの女性に味わっていただきたいと思います。
この天才児をつくる方法は、ひとつはやはり、言葉の創化力であろうと思います。良き褒(ほ)め言葉を使う。花びらのごとき褒め言葉を使って、その子を良い方向へ伸ばしていく。悪いところを責めるだけでなく。良いところをどんどんどんどん伸ばしていく。そして、その子が素晴らしい人間になるということを信じてやる。これが大事です。こうした方向において、女性の幸福は無限です。育てるということ。水をやり、肥やしをやり、光を与えてやるということ。これが女性の本質にあります。これが女性の幸福です。
こうした育むという素質。そして人類の子孫、繁栄ということに貢献している。また楽しい家庭をつくっていく。そして家庭の中に、信仰心というものを持っていく。宗教的な環境をつくっていく。これは、女性の大切な大切な仕事だと思います。でき得るならば、宗教的環境の中で子供たちに天才教育をやってほしい。私はそのように思います。
人を信じあう。世の中を善だと思う。善人の世界だと思う。そういう女性が増えてきたならば、子供たちもまたそう思うでしょう。親がいつも世の人たちが悪い、世の中が悪いと言っていれば、そうした子供が育つようになってくるでしょう。
どうか、そうした大いなる創造の場に生きているということを、また信仰の場に生き ているということを、こうしたことを忘れず、そしてうまずたゆまず努力していってほしい。そのように思います。私はそれを、女性に対する期待の言葉として、本章を終えたいと思います。